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土木工事の見積り依頼

 目覚めるとそこには豊かな胸がふたつ盛り上がっている。

 それは硬く引き締まった筋肉の上に乗せられた柔らかな乳房。

 一瞬目の前で視界をふさぐ光景にビビったエリスであったが、ふと思いだした。


「ああ、昨晩はフラウのベッドで眠ったんだっけ」


 自らの状況を思い出したエリスは、まだ隣で安らかに寝息を立てているフラウを目覚まし代わりに軽くなぶってから、伸びをしてリビングに出ていった。

 すると玄関からか細い声が聞こえてくる。

 

「おはようございます……」


 ん?


「おはようございます……」


 あ!


 エリス-エージは事態に気付いた。

 慌ててエリスはフラウとレーヴェを叩き起こしにそれぞれの部屋に走る。


 朝っぱらから余韻に浸ってんじゃねーよフラウ!

 朝っぱらから物欲しそうな眼をしてんじゃねーよレーヴェ!


「ほら二人とも、お客さんよ!」


 その一言に二人も何かを思い出したように慌てだしたのである。

 

「おはよう! よく来てくれたね!」

 エリスが玄関で迎えたのは、大きな荷物を背負ったクレアであった。


 彼女は真っ直ぐな黒髪を後ろでひっつめにし、漆黒の瞳を物珍しそうにきょろきょろと泳がせている。

 その表情は男の子と女の子の両方を思わせる。

 着ている服は、生成りのシャツにカーペンターパンツ。

 そこに色気も何もない。

 普通に見れば。


 しかしそこはアラサーヒキニートである。

 エリス-エージはこのボーイッシュながらも内気な子の可愛さを見抜いた。

 

「おはよう、よく来てくれた」

「クレア、わざわざありがとう」

 レーヴェとフラウもすっかりと目が覚めた様子で、各々がクレアを出迎えている。


 今日の朝食は昨夜の野菜シチューを仕上げる途中で取り分けていたブイヨンで軽く煮たオートミール。

 フラウはいつものようにエリスとエリスの向かい、エリスの左に皿を置き、さらにもうひと皿をテーブルに置いた。

 

「クレアもどうぞ召し上がれ」

 まるでこの家を取り仕切っているかのように、フラウはクレアの前で振る舞っている。


 こいつ、クレア相手に刷り込み(インプリンティング)を始めてるな。

 と、エリスは勘付くも、しばらくはフラウのやりたいように放っておくことにする。

 

 エリスの向かいはレーヴェが座り、エリスの左隣にはフラウが腰かけた。

 クレアは用意された皿を目印にするかのように、フラウの向かいに誘われるがままに腰かけた。

 

「朝ごはんまでごちそうになっちゃっていいのかな……」

 か細い声とおどおどとした仕草がアラサーヒキニートのスイッチをオンにする。

 

 やべえ、朝からそそるなあ。

 これはエリス-エージによる心の叫びである。


 か細い声でそう尋ねてきたクレアに、フラウは笑顔で対応する。

「気にしないで、全てはエリスからのお願いからですから」


 ん?

 エリス?

 呼び捨て?

 あ、こいつ、俺の保護者をきどりやがったな。


 どうしよっかな。

 ここでエリス-エージはその下衆な頭脳をフル回転させていく。


 この場はクレアを安心させるためにも、フラウやレーヴェにかりそめのイニシアチブを渡しておいた方がいいかな。

 よし、今日の俺は弱者で行ってみるとするか。


 

 試しにクレアに可愛らしくお礼を言ってみる。

「クレアさん、本当に来てくれてありがとう」

 するとクレアは予想通りの反応を見せてくれる。

「そんな!昨日聞かせてもらったエリスさんのアイデアが素晴らしかったからだよ!」

 クレアはエリスに対しては半分敬語、半分タメ口である。


 年下で謙虚な見た目少女の俺にはクレアも話しかけやすいだろうな。

 よっしゃ、クモの巣の方向性を確認。

 ということで今後の方針は決まった。


 アラサーヒキニートは心の中でそうつぶやくと、目の前の皿にスプーンを伸ばしたのである。

 

 野菜ブイヨンの優しい味が朝の胃袋に染み込んでいく。

 フラウを中心にたわいもない会話で朝食の場が満たされていく。


 こうして朝食も無事終了。


 フラウとレーヴェが後片付けを始めたところでエリスは二人に対して何の気なしに声を掛けた。

「フラウ、レーヴェ、私はクレアを案内してくるね」


「ちょっと待ったあ!」

 エリスの言葉に二人は危機感を持って声を揃えた。


「私も行きますわ!」

「私も行くぞ!」


 が、こうなるとエリス-エージの心には嗜虐しぎゃくの炎が燃え上がってくる。

 要するにアラサーヒキニートは基本がサディストなのだ。


「フラウは昼食の準備をお願い、レーヴェは足りなくなったタオルを市場に出向いて買ってきて」

 ここであえてエリスは二人に別の指示を出した。

 指示を出しながらフラウ、レーヴェと、さらにはクレアの表情をそっと見比べる。

 クレアが敏感なのか鈍いのかを確かめるために。

 彼女がフラウとレーヴェの変貌に気付いたかどうかを確認するために。

 

 クレアがものごとに敏感タイプならば、それはそれで次の手を考えてある。

 しかしクレアは期待通り鈍かった。

 そうやら人の話を基本聞いていないタイプらしい。

 

「クレア、それじゃあ案内するわ」

 エリスは愛用のショルダーバッグを肩に掛けると、レーヴェとフラウの不満げな表情をあざ笑うかのようにしながら、クレアの手を取ったのである。


 まずはクレアを北の小川に案内していく。

「ここから屋敷までの勾配なら、1メテル四方の水路程度なら設置可能だよね?」

 エリスの問いに、8歳で勾配だの水路だのそんなこと言うかという素朴な疑問を持つこともなく、クレアは素直に頷いた。

「角度にもよるけど、紛れ込んだ魚が小川に戻れるくらいの緩やかさで水を引くことは可能だね」


 次は南に向かい、屋敷を通り越して街道の反対側にある湿地にクレアを案内する。


「小川からここまで200メテル。水路は北の小川からこの湿地までをルートとするのはどうかしら」

「これはいいね。湿地には生物がたくさんいるから、汚れた水の分解も早いよ」


 ここまでの話は、小川から水を引き、水浴場と水洗トイレを設置する話である。

 小川の真上に小屋を張り出しトイレを設置するのは、この世界でもよくやられていること。

 というか、結構な割合で人は小川の中で用を足している。

 

「ただ、この規模なら1メテル四方の水路は大きすぎると思うよ」

 さすがクレア。

 当初エリスが説明した水場とトイレの規模ならば、そんな大規模な水路は不要である。

 

 そこでエリスはクレアに耳打ちした。

 

「途中で何らかの熱源を用意できれば、公衆浴場を設置することもできるよね」

 エリスの言葉にクレアは顔をしかめた。

「無理だよエリス、水は用意出来ても、薪代がとてもかさんでしまうよ」


 熱源と言われて、薪だと思い込むのは、クレアもまだまだね。


「それに、この水路を作るだけでも、かなり費用がかかるよ」

「レンガと漆喰での造作だとだめかしら」

「理想はタイル張りかな。500ミルメテル四方のタイルを水路で2万4千枚。他の加工で1万2千枚くらい必要だけれど」

 タイルかあ。


「タイルって高価なものなの?」

「タイル自体は1枚100リルくらいさ。でも、運ぶのにお金がかかるんだ。タイル代は360万リルくらいだけど、産地からこれだけ運ぶには、100枚あたり10万リルの運送料が必要だから、結局合計費用は倍の720万リルくらいになっちゃう」

 ふむふむ。

 

「水路の工事費はいくらくらい?」

「200メテルの水路を掘削するのに基礎工事で50万リル。水路の木枠を作るのに材料費込みで200万リル。木枠の内側にタイルを張る作業に材料費別で50万リル。合計300万リルの工事費が必要だよ」


 材料込みで総工費1020万リルか。

 問題ないな。

 

 エリス-エージには隣家を売っぱらった蓄え3千万リルがある。

「わかった、ありがとう」

 エリスはクレアにお礼を言うと、そのまま彼女の手を引いて家に戻ったのである。


「エリスお帰りなさい。お昼はエリスが好きなリゾットよ」

 あくまでもクレアの前では優位性を保とうとするフラウ。

 いつ俺がリゾットを好きになったのかとエリス-エージは思う。

 まあ好きだけれどさ。

 

「お嬢、指示通りの買い物を済ませてきたぞ。品を確認してみてくれ」

 こっちは忠誠心で勝負かよ。

 エリスはレーヴェが自慢げに並べたタオルを確認すると、返事の代わりに笑顔で答えた。


 そうして四人は朝と同じ席についた。

 

 フラウお手製のリゾットをふうふういいながら四人は口に運んでいく。

 

「うわ、フラウ、これ美味しい!」

 リゾットから伝わる豊かな旨味に素直に感嘆するエリス。

 これはマジで美味いのだ。

 

「これはまいった」

 さすがのレーヴェもフラウの料理の腕前に対し白旗を掲げている。

 

 するとクレアが口を開いた。

「皆さんは三人でこの屋敷に住んでいるの?」


 その質問にはレーヴェが即答する。

「ここに住んでいるのはお嬢と私の二人だけ。そこの料理人は隣家の住人だ」

 また余計な挑発を……。


 ……。


 あれ?フラウが言い返さないぞ?


 拍子抜けしたのか、レーヴェがフラウに目をやった。

 が、その視線を無視するかのように、フラウはゆっくりと胸を張った。

 

「ええ、この屋敷には私たちだけで住んでいるのよ」

 あくまでもレーヴェの言うことはガン無視するつもりのようである。

 だが、それだけでなない。

 フラウからクレアへのもの言いには何かが含まれている。

 そう。クレアを気遣う何かが。

 それはエリスとレーヴェにも伝わった。

 

 フラウは何か知っているな。

 多分クレアの事情を。

 エリス-エージがそう気づくと同時に、クレアはそっと口を開いた。


「楽しそうだね」


 クレアが浮かべた、せい一杯明るくしたであろう表情によって空気は変わってしまう。

 そのぎくしゃくとした表情に。

 なんとなく部屋の空気が重くなる。

 するとフラウはクレアをかばうかのように、別の話題を懸命に振ってきた。

 

 エリス-エージはそうしたフラウの反応で理解した。

 クレアは過去に何かの傷を負っている。

 ただ、それが何かまでわからない。


 エリス-エージは考える。


 この娘は、押さえつけられてるんじゃないか?


 その事情はフラウが知っていそうだ。

 ならば動こう。


「レーヴェ、クレアを客室に案内してあげてよ!」

 突然のエリスからの指示をレーヴェはいぶかしむも、しかし射抜くような目線のエリスにたじろぎ反射的に従った。

「そうだな、案内しよう」

 レーヴェはクレアの手を取ると、空いた手でクレアの荷物を持ち、屋敷の客間に案内していった。


「さて」

 二人がいなくなったところでエリスはフラウに向き直った。

「あの子の傷、多分DVでしょ?」

 エリスの問いにフラウは一瞬目線を切る。も、再びエリスに向かった。

「わかりますか……」

 フラウは観念したように語り始めたのである。


 クレアはワーラン魔術師ギルドに所属する夫妻の間に生まれた。

 夫妻はクレアを大事に育てながら、当然のようにクレアに対し魔術の教育をしていった。

 ところが、クレアが10歳になった時、突然王城都市の魔術師ギルド本部から、導師以上の魔術師全員に緊急召集がかかったのである。

 

 クレアの両親は王城都市に向かわなければならない。

 でも、危険を伴うであろう王城都市に最愛の娘を連れていく訳にもいかない。

 なのでクレアの父は、彼の弟にクレアを預けた。

 

 これが失敗だった。

 

 クレアは叔父に襲われた。

 が、クレアの身体は無事だった。

 

 なぜならクレアは叔父を吹き飛ばしたから。

 父母から学んだ魔術を行使して。

 

 翌日発見されたのは、脳漿の桃色で染まったクレアと、元が何なのかもわからない、腐臭を伴ったたくさんの肉片である。

 当然のことながら、クレアの精神は無事では済まなかった。

 

 クレアの両親は戻らない。

 生きているとも死んでいるともわからない。

 ワーランの魔術師ギルドに残っていたのは小物の魔術師ばかりで、この事態を収拾できるはずもない。


 そこでフラウの父である冒険者ギルドマスターが止むなく動いた。

 彼はクレアを既知の職人に預け、彼女に対し殺戮ではなく生活を優先させるような教育を依頼した。


「クレアは魔術師なの?」

 エリスの問いにフラウは悲しげな表情で首を左右に振る。

「クレアは魔術は使えるけど、魔術師を嫌悪しているわ。確か魔術師ギルドにも属していないはずよ」


 ふーん。

 

 エリスはフラウに意見を求めた。

「例えばクレアに私の能力を教えてあげたら、どうなるかな」

 フラウは確証を持てない。

 でも1つだけ可能性を思いつく。


 だけどそうしてほしくない。

 その表情を見て、エリスは理解した。


「ありがとう、フラウ」

 勝負は夕食と水浴びね。


「クレア、今日はこの部屋を使ってくれ」

 レーヴェが客間にクレアを案内してやる。

「あ、ありがとう、レーヴェさま」

 クレアがぎこちなくお礼を伝えた。

 そんな風情にレーヴェの頬もつい緩んでしまう。

「レーヴェでいいよ」

 と、クレアに笑顔を返してやる。

 

「あの、レーヴェさま」

「どうした?クレア」

「この家の主って、エリスさまですよね」

「主というのが何だかはわからんが、私はエリスの盾のつもりだ」

 そうエリスと自身の関係を堂々と表現するレーヴェに対しクレアは頬を赤らめた。


 クレアは想う。

 「ここには気持ち悪い人がいない。ここには私を責める人がいない」

 不意にクレアの表情も安堵に緩む。


 そのあどけない姿に、レーヴェは諦めたのである。

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