ダウンヒルズ
この物語を次の方々に捧げます
この作品を世の中に露出する環境を用意してくださった
ウメ研究所の皆さんに
この物語を可能にしてくださった
富士見パノラマさんVeLoさんに
人生の戦友であった今は亡き
阿部夏洋
飯尾太
の両名に
感謝を込めて
序
マウンテンバイク競技には、この物語の中心となる、クローズド・フラット・ダウンヒルと言うカテゴリーは現実には存在しない。
もともとダウンヒルは、山の上から自分の好きなルートで駆け下りるスポーツだからだ。
しかしながら、ジャンプもドロップオフもない、整備されたコースを高速で駆け抜けるのは魅力的だ。長野県富士見町にある、富士見パノラマの初心者用Cコースは、ゆっくり走れば簡単だがスピードが上がれば難易度はグングン上がってゆく。ウェットになれば、上級コースに変貌する。さらに掘れてくれば、小さなドロップオフさえあらわれる。
2003年のシーズン。作者は一年間このコースに通って、1日4回ないし5回Cコースを走っていた。
ゆっくり走る初心者が、後ろから追われて、止まらなくてもいいのに止まろうとして転倒する事故が増え、Cコースはタイムを削る走りは禁止された。しかし。ダウンヒルの未来は、このCコースにあるように思えてならない。AコースやBコースでは、Cコースのように速度とラインどりに専念して走る事ができないからだ。荒れたAコースBコースは、下るトライアルコースになってしまう。
バニーポップやマニュアル、ホッピングができない人びとは、山から去ってしまう。
去った方が良いと言う人もいるだろう。
事実、作者も2003年以降富士見パノラマを走っていない。
そんな鬱屈した気分の時、自分の理想のダウンヒルコースを思い描いてみた。その時まだ名前はなかったが白鳥ダウンヒルズが誕生した瞬間だった。白鳥ダウンヒルズのコースは、富士見パノラマのCコースがモデルになっている。現在コースがどうなっているか不明だが、白鳥ダウンヒルズを下ってみたい方は、富士見パノラマに行かれる事をおすすめする。
ただし。くれぐれもタイムを削る走りをしないように。怪我を負う人が出ているのは事実だからだ。
2007年6月19日
武上 渓
ー2004年4月白鳥ダウンヒルズ
岐阜県郡上郡白鳥町石徹白権言山に、そのコースはある。
近くの峠山にはウイングヒルズ白鳥リゾートがあり、ダウンヒルのジャパンシリーズが開催されたりしている。
入口には、白鳥ダウンヒルズと書かれた立看板はあるものの駐車場は20台分しかなく、ネットの試算では世界で5万人程度の認知度しかない。日本では一部のマニアの世界だ。なぜなら、クローズド・フラット・ダウンヒルと言うカテゴリーは、マウンテンバイク界では競技として認められていないからだ。大会もなく、バイク雑誌で取り上げられることもない。A,B,C,とコースが有りAは7Km440m、Bは10Km、Cは14Km。最高速度は50Kmを超えるが、骨折者や死者は出ていない。よく考えられたコースレイアウトのせいだと言われるが、このカテゴリーにやってくる人びとは、普通のダウンヒルをやり込んだ上で、移ってくるベテランが多いせいかもしれない。もともとは、矢内沢悟志と云うプロ選手が個人的な趣味で山を買って、廃道になった林道を、休みに仲間と整備したのが始まりで、5年目にして、年間4万人強の利用者があるコースになってしまった。それだけの競技人口をもつ競技が、なぜ競技として認められないのか?。それは、矢内沢悟志と言う人物の性格にある。彼はバイクメーカーや業者スポンサーを無視して、サンソルと言うアラブの石油会社をスポンサーに付け、タイトルを総ざらいした。しかも。日曜大工センターで売られていた、2万8千円のマウンテンバイクに自作のパーツを付けてだ。この2万8千円のマウンテンバイクは、ネット上で世界中から注文が殺到し、このバイク工場を買収した矢内沢は、今や世界で一番多くマウンテンバイクを売る男になった。
こうした、少々込み入った事情を知る事もなく、買ったばかりのマウンテンバイクで、杉下あやねはやってきた。長良川鉄道ほくのう駅まで輪行し、坂を登ってきた。普通は、自動車に積んでやってくるのがオシャレだが、あいにく彼女は車を持っていない。2Km近く坂を登ってゆくのは、普通の女性では不可能だ。あやねのDHコンプと云う名のダウンヒルバイクは前後輪にサスペンションが付いており、ペダルを踏み込むとサスペンションが縮んで力を吸収してしまう。では、どうやってるのか?。踏み込む瞬間に、腕でハンドルを引いてサスを伸ばしているのだ。
背中のザックにはプロテクター一式と、モトパンが入っており。白いオフロード用のフルフェイスがぶら下がっている。そして。あやねは道を間違えた。ウイングヒルズではなく、世界中のクローズド・フラット・ダウンヒルバイカーか目指している、その取り付け道路の入口を曲がり、いつもと違う貧相な駐車場に出た。あやねは一度うしろを振り返ってから、駐車場を進んでいった。バンの後ろを開けてメンテをしていたバイカー達は、ア然とした顔で、あやねを見送った。
「下から登ってきたの?」
思わず真治は声に出した。あやねは、それには答えず、しばらく間を置いて言った。
「ここは、ダウンヒルできるんですか?」
「できるけど。場所間違えたんじゃない?」
「タブン。でも、ここでもやれますよね?」
「もちろんやれるけど、ちょっとコースは長いよ。」
「初心者用は?」
「Cの14Kmだけど」
あやねは、青いトタン屋根の建物を指差して言った。
「事務所とかは、あれですか?」
「そう。リフトのチケットとか更衣室や食堂も全部あそこ」
「そうですか。ありがとうございます」
少し微笑みながら、そう云うあやねの健康的な美しさに、真治は少したじろいだ。あやねはあやねで、真治に誠実さを感じていた。行こうとするあやねを引き留めたくて、真治は一言付け加えた。
「あ〜。リフトは気をつけて。むずかしいから。」
ハイッと答えて、あやねはどういう意味だろうと思いながら、青いトタン屋根の建物にバイクを引いて歩いていった。
向かい側の車にいたトシが真治に向かいあきれ顔で言った
「大丈夫かよ。リフト無理なんじゃない。」
「ここまで坂登ってきたんだから、不可能なんてないんじゃない。」
二人は宇宙人でも見たような気分になっていた。ある意味、それは当たっていた。あやねは伝説が語る所のナチュラルだったが、本人も、そして、この時誰も、それに気づいていなかった。
事の始まりは、名古屋 栄の丸善ブックメイツで、ジェットコースターのオンボード映像DVDと一緒に、同種のものだと思って買った、激走ダウンヒルズと言うDVDを見たことだった。
マウンテンバイクには他にクロスカントリー、トライアル、フリーライドなどがあり、ダウンヒルは基本的に登りが無いものと考えればいい。長野の富士見パノラマを矢内沢がオンボードカメラを載せて、解説しながら下るDVDで、それはジェットコースターよりも危険な映像だった。アッとかウッとか、すべったとか言う叫びが飛び交う間に、矢内沢はコーナーの曲がり方や、この先どうなってなど、冷ややかなまでに解説を加えるのだ。そして平地で、いきなりジャンプしたりする。
あやねは、その時スイッチが入り、ダウンヒルバイカーになった。そして、たいていは怪我をして、スイッチが切れたりする。彼女は遅かったが怪我とは無縁だった。2年目のシーズンは、別のコースに迷い込んだものの、何かしら良い事が有りそうな予感がした。
バイクを自転車立てに載せて、青いトタン屋根のプレハブに入っていった。
スチール製の長机にスタッフの女性が座っていた。
「更衣室とか、どこですか?」
「この後ろが女性用です。すごい汗ですね。駅から登ってきたみたい...。」
「登ってきたんです。」
あやねは、呆然とする彼女を笑顔で流してスチール机を周り込み更衣室に入った。
着るものはTシャツの上に、ブレスガードと呼ばれる物を着る。これは胸のプロテクターに背中を保護する脊椎パット、両腕のプロテクター、内臓を揺れから守るサッシュベルトが一体になった物だ。ダイネーゼと言うイタリアブランドの物が欲しかったが、完売でゴールドウィン製の物だ。その上に、メッシュのジャージーを着る。レンジャーズのロゴが入った、青い野球のレプリカジャージだ。下はゴアテックスのモトパン。シューズもゴアテックスのオートバイ用ライティングシューズ。ひざから下はダイネーゼのニーシンガード。そして、オフロードバイクのヘルメットにゴーグルで終了だ。財布と携帯、タオルに小型のモンキー、六角レンチがスイスアーミーナイフのようになった工具類などなどを入れたウエストバックを腰につけ、ロッカーにザックと服を入れ、300円入れてカギを回して、さっきのスチール机の女性の前に立った。
「1日券は、いくらです。」
「4000円です。…ほんとに登ってきたんですか…。」
「ウォーミングアップになりますから。一本目から攻められるでしょ。」
「……。超えてますよ。あの坂を自転車で登る人はいませんよ。……お釣りです……ここは初めてですか?。」
「はい。去年はウイングヒルズに行ってたんですけど。今日は迷って、ここに来ちゃいました。」
「じゃあですね。コースは夜間照明があるので22時まで走れますが、女性用の更衣室は、事務所の営業時間終了の21時に施錠しますので、申し訳ないですけれども、それまでに着替えは済ませて下さい。あとは、ゴンドラはありませんので、リフトで上がっていただくんですが。バイクの引っ掛け方と、外し方をリフトの係りの者が説明しますので、初めてですと言う事を言って下さい。基本的に、ここは私有地ですので事故等の責任は負いませんが、よろしければ、こちらの用紙に住所と名前、連絡先、走行終了予定などを記入していただければ、戻られなかった場合には、捜索の手配など、させていただきます。」
「あー。それは書きます。」
あやねが記入していると、入口が開いて誰か入ってきた。
「ナミちゃん。リフトのフックさー、溶接がとれかけてるのがあるよ。赤テープつけといたから。いま春さんに言ったけどさ。」
「またですか……。やっぱりブロに頼んだ方が、いいんじゃないですか?。」
「でも、多分。違法かもしれないから、あのやり方。アメリカあたりなら問題ないんだろうけど……おやー、女の子?」男は、あやねの顔を覗き込んだ。
「こんにちは。」
あやねは、そう言って男を覗き返した。細面で髪は長く伸ばしている。柔らかい目をしているが、なにを考えているのかわからないような雰囲気もある。
背は190Cmくらいだろうか。160Cmのあやねからすると大男だ。
「こんにちは。ウイングヒルズで走ってなかった、去年。」
「走ってました。」
「よく、ここがわかったね。」
「道を間違えて…」
「…入ってきちゃったか。ここはね…おもしろいよ…きっと気にいってくれると思うな…。楽しんでってよ。アッ、ナミちゃん例の書類見たいんだけど。」
男は、そのまま右手の部屋に行ってしまった。ナミちゃんと呼ばれたスタッフは離れ際に、あやねにささやいた。
「今のが矢内沢代表。このコースを造った人よ…じゃあ気をつけてね」
DVDの矢内沢に比べると、なんだか印象が違うなーと、あやねは思ってつぶやいた。
「わかんなかった」
リフトは、かなり危うい代物だった。スキー場によくある年代物のリフト。座席の左側上部に溶接されたフックにバイクの前輪を引っ掛けて、何人もが上にあがってゆく。乗る側にバイクを掛けるわけだから、まともとはいえない。係員の春山健夫こと50才になる春さんは、このリフトと一緒にやってきたような人だった。
「こんにちは。初めてなんですが。」
「そうかい。よく来たね。向こうで説明しよう。」
春さんはブランコのように吊されているリフトの所に、あやねを促した。
「これは同じ物だ…ここに前輪を掛ける。降りる時は、外す。リフトは動いているが、焦らないのがコツだ。バイクを掛けてみて。」
あやねは軽々とバイクを持ち上げフックに掛けた。
「お姉ちゃん、力持ちなんだねえ。これなら心配ない。はずしてみて。」
あやねは、また軽々とバイクを外した。「降りる所は長くとってあるから焦らないで…もしはずせなかったら、待ってれば、また戻ってくるから。…1日券は落とすから、かしてごらん。」
春さんはセロハンテープを取り出して、1日券をヘルメットに貼ってくれた。
「あそこに水道がある。リフトに乗る時にバイクに泥がついていたら、水で落としてから乗る事。服も、手で落とせるものは落とすのがマナーだ。以上。なにか質問は?。」
「Aのコースレコードは、どれだけですか?。」
「7分1秒フラット。ジェイミス・オコーナーが2年前に叩き出した。5mある途中の谷を飛び越えて、ショートカットしたって云う疑惑つきのタイムさ。ジェイミス・ストップ・イットって云う標識の立ってる所が、その場所だから。行った時に見てくると良い。ちなみに、Bは8分40秒21。Cは9分52秒88。この2つは矢内沢悟志が同じく3年前に、つくった記録だ。」
「3年前のレースですか?。」
「レースと言うか、賭け試合だな。ジェイミスと矢内沢が、そこの事務所に居る南海子ちゃんをめぐって戦ったわけさ。3コース中2本を落として、ジェイミスはアメリカにしょぼくれて帰って行ったよ。もっとも南海子ちゃんは、自分が賭け試合の賞品になった事に腹を立てて、矢内沢は半年、口をきいてもらえなかったがね。」
春さんは、その時の事を思い出して嬉しそうに笑った。つられて、あやねも笑った。ここには、温かい人達の集まりがあると、あやねは思った。
「矢内沢さんと南海子さんは恋人どうしなんですか?」
「まあ、そんなところかな。南海子ちゃんに言わせると、戦友の方が近いそうだが。」
「戦友…?。」
「矢内沢は、マウンテンバイクの世界では味方も少なくないが敵も多い。ここが、のどかなのは、あの2人が戦ってくれてるからさ。こんな爺さんにも生活していける仕事があるのもね。」
そう言って、春さんは遠くを見た。
あやねは話題を変えた。
「春さんは、バイクに乗るんですか?」
「若い時は乗ったさ。当時はマウンテンバイクなんてなかったから、オートバイだがな。カミカゼハルって言えば、アメリカじゃあ、ちょとは知られたもんさ」ゴンっと音がして、リフトが突然止まった。
「こりゃあ、いかん。仕事だ。」
春さんは、慌て階段を駆け上がり、リフトの操作室に戻って行った。その身のこなし体のキレは、かつてのカミカゼハルを彷彿とさせるに充分だった。
ーファーストダウン
リフトにバイクを引っ掛けて座席にすわるのは、さほど難しくなかった。あやねは、去年のウイングヒルズ通いで、腕の筋力をかなり鍛える結果になっていたからだ。
だだし、恐い。風に揺られると、バイクが落ちそうに見える。そして、リフトは長かった。時計を見ていなかったが、30分は乗っていたようだ。支柱にはカメラとスピーカーが取り付けてあり、BGMが止まると春さんの声が流れ出る。
ーバイク落ちても、拾ってあげるから。心配ないから。ー
「なにー。よけいに不安だよ。」
と言いながらも、スタートにたどり着いた。澄んだ風が、柔らかくあやねを包んでくれた。
山頂駅にも、青いトタン屋根の事務所があり、年配の男性が中からスタートしてゆくバイカーを見ていた。
天気は良い。スキー場ではないので、見晴らしは森で遮られてしまっている。
一番右にAの立て札。真ん中がBで、Cは左手の森の中に入って行くようになっている。
あやねは、バイク立てにバイクを載せて、アキレス腱を右足左足と伸ばしてゆく。スキージャンプのテレマーク姿勢の格好だ。シートに右手を置き、腰を左にひねる。逆をやる。今度は、シートの上にかかとを載せて、伸ばす。頭の後ろで手を組み、前に倒すようにして、首の後ろを伸ばす。シューズを締め直し、体中を見回して点検する。ヘルメットをかぶり、ゴーグルをするとバイクに乗り、Cの立て札に向かってペダルを踏み込んだ。初めてのコースでは、と言うより、コースを覚えるまではスピードを上げない。ブレーキは前後輪とも止まらない程度に、掛けっぱなしで降りてゆく。時計も計らない。コースを覚える為の一本目だ。右から左の傾斜を横に走ってゆく。20m程で左に360度旋回する。ー念のために確認しておくと、すべて下り坂で舗装されてないことをイメージしていただきたい。ー斜面が急なために、ジグザグにコースが作られている。シングルトラック…つまり、轍一本分の幅で、かなり石が出ている。コーナーは、外側から外側をまわる。インをつくと、コーナーが小さくなり、横にスリップしやすい。視線はコーナーの内側の出口に向ける。
恐がって前輪を見ると、バイクは見た方向に…つまり、コーナーの外に行ってしまう。ジグザグコースを抜けると、ダブルトラック幅で森の中をアップダウンしながらの直線に出た。中央はウオッシュボード…洗濯板状になっており、あやねは右側の部分を狙ってバイクを誘導する。ここは平らで、バイクは加速してゆく。100mぐらいで左カーブが見える。その先はブラインドになっていて見えない。あやねは握った手を少し強くして、スピードを落とす。その先が急坂だった場合、下る前に減速しておかないと、下り始めてからでは減速でできない。無理にブレーキングすれば車輪をロックしてグリップを失い転倒する。
カーブの手前右側は、かなり路面が荒れてウオッシュボードになっている。あやねは右側からカーブにアプローチして、ギャップの上を左に進路変更し、カーブの外側にバイクを持っていった。カーブの頂点を過ぎると先が見えた…かなりの急坂だ。視線をカーブの出口内側にもってゆく。姿勢は自然に内側に傾き、加重は左のペダルに載る。バイクはまだ旋回中だが、ペダリングを開始する。ギアは内側から3番目で重くも軽くもない。加速することで、バイクは安定して立ち上がる。進入速度が早すぎて、ブレーキングしたら、バイクは安定性を失う。コーナーは加速して抜けなければ…と言うのが、あやねの持論だった。あやねは、路面とブレーキングとラインどりに集中しはじめた。このコースはおもしろい。攻めれば、どれだけでも攻められそうだ…あやねは夢中になっていった。後ろを矢内沢が走っている事など気づきもしなかった。そして、矢内沢が保っていた距離を離されはじめて、あわてていた事も…。さらに、リフト乗り場したのゴール小屋で、あやねとのタイム差を1分と聞かされて、考えこんでいた事も。
腕時計のストップウオッチは10分55秒を表示していた。矢内沢は、あやねがスタートしてから、1分後にスタートした。9分52秒88がコースレコードのコースで、1分が縮まらなかったと言う事は、この2年目の初心者は9分55秒でCコースを下りてきた事になる。しかし、前半はゆっくり走っていた。もし、全コースを後半のペースで走ったとしたら…いやいや、どこか見落としがあるはずだ…と矢内沢は、ひとりつぶやいていた。
ー出現
白鳥ダウンヒルズには、行方不明者の為のシステムがある。スタートとゴールをリフト券につけたチップで、自動計測している。ゴールしていなければ判る仕組みだ。さらにGPSで位置も特定できる。個人を特定できないが、ゴールしてすぐに端末を見に行けばスタートとゴール時間が24時間時計で、表示されているので判別可能だ。
矢内沢は、ゴール小屋の端末で、もう一度時間を確認しながら、あやねの2本目を待った。
約40分後。小屋の外を通り過ぎてゆく、あやねを見て、端末を見た。14時30分40秒にスタートし、14時40分32秒ゴールと表示されていた。
「9分52秒?」
矢内沢は、コンピューターの管理を任せている、島本の携帯を鳴らした。
「矢内沢だけども。スタートゴールの、自動計測の数字の精度ってのは、どのくらいになるのかな?。」
ープラスマイナス100分の1秒ってとこー
「このシステムが1秒以上の間違った数字を表示する確率は?。」
ーシステムクラッシュするかハッキングされないかぎりは、ゼロですー
「悪いけど、そのどちらかになってないかどうか確認してくれないかな?。」
ーやりましょう。10分待ってくださいー「あー頼むよ。」
15分後に矢内沢の携帯が鳴った。
ー5分遅れました。システムに異常は見られません。ハッキングの痕跡も無し。計測装置の誤動作も確認しましたが正常です。Cコースのコースレコードが9分52秒に更新された事に不審な点は発見できません。がっ、誰なんです。ジェイミスは日本に居ないはずですがー
「杉下あやねさんだ。」
ー……もう一度、チェックしてみましょう。そちらも、個人特定をやり直してみてくださいー
「わかったが、この数字は公式なものにはならない。レース用の計測ではないから…だが、数字が確かなら公式計測をやらなければならない。」
ー旧レコード保持者が立ち会って、公式計測を行い、認めれば、レコードは更新される。でしたかね?ー
「立ち会わない場合の規定もあるが…それを、するべきだと思うか?。」
ーこれが間違いなら、するべきではないと思いますが。間違いではないのに握り潰した場合は、とんでもないことになるでしょうね。ー
「ナチュラルの言い伝えか?。」
ーレッドパスには、そんな言い伝えはないそうですがー
「出どころはフランスだとも言うし、日本だとも言われてるが…。」
ー矢内沢のデマってのも有るそうですが?ー
「だったら心配しないよ。…そうじゃないから心配している。」
あやねは、4時40分に切り上げて戻ってきた。Cを4本下りて、あっという間に時間が過ぎ去っていた。山の水を利用した洗車場でバイクを洗っていると、南海子さんがやってきた。
「どうでした。白鳥ダウンヒルズの感想は。」
「…いいコースです。夢中になっちゃいました。速度とラインどりと路面に集中できます。コースを完全に覚えれば、いいタイムが出そうです。次は計ってみます。」
「今日は計らなかったの?。」
「いつも、初日は計らないんです。」
「一度、計ってみようか。」
「えっ?…でも時計もってますから。」「公式計測してみない?。公式タイムとして残るのよ。」
「まぁ…やってもらえるなら、かまいませんけど。早くもないのに意味あるんですか?。」
「早い遅いは関係ないわ。でも、草レースに出るんだって公式タイムは必要よ。ここではね。」
「レースだなんて…。人と競うより、コースを極めてみたいんです。これ以上は、どうやっても早くならないくらい。中間のスプーンカーブは、もっと良い抜け方があると思うんです。でも、うまくいきません。イン側は、大きな石が多くて、スピードが殺されるし、アウト側は外に流されて出口より下がってしまって、登らなければなりません。センターは路面が良くないんです。」
「インからセンターに抜けるのが、あそこのセオリーよ。どこからセンターに抜けるかは、自分で見つけるしか無いけど。ジェイミスは、ザ・ラインと呼んでたわ。そこを抜けられた人が、Cを制するんだそうよ。」
「なるほど。そうなんですか……インからセンターに…。」「来週。公式計測の準備して待ってるけど。…こられる。」「はい、来ます。いまのザ・ラインを試してみたいし。」
「そう。じゃあね」南海子は、洗車場を離れて事務所に戻ってきた。矢内沢は、どうだった?という顔で待っていた。
「公式計測するそうよ…来週。あの子、ザ・ラインを抜けてないみたい。スプーンをうまく抜けられないんだって。」
「まだ、タイムは上がるってわけか。」「あの話…ナチュラルの話。コースレコードを教えると、ナチュラルに戻れなくなるって…。」
矢内沢が続けた。
「再び、真にナチュラルに戻れた時。死の瞬間まで、ナチュラルの走りをするバイカーになる…か」「誰か、ナチュラルと呼ばれたバイカーなんていたの?。」「知らない。俺もジェイミスもナチュラルではなかったし」「嫌ね。根拠の無い話に振りまわされるの。」
矢内沢は、南海子の右側の髪をそっとかきあげて、頬に手を置いた。
「来週、タイムが出れば根拠の有る話になるかもしれない」南海子は、矢内沢の胸に顔を寄せながら、理由のない不安にとらわれていた。この根拠のない話に、コース存続の運命を委ねなければならなくなる事を予感したのかもしれない。
ーマクナマラズ・トラップ
ダウンヒル発祥の地。アメリカ レッドパス。2人のバイカーが頂上で、バイクを横に置いて座り込んでいた。
「マイク。ヤナイサワハ、ヤリスギマシタ。アラブジント、テヲクムノモ、マァ、イイデショウ。カップヲ、ヒトリジメニスルノモ、イイデショウ。シカシ、アノ、ヤスモノノバイクデ、ワレワレヲ、クチクシヨウトシテイル。」
マイクと呼ばれたイギリス系アメリカ人は、興奮している男をなだめるように言った。
「カレハ、マチガッテハイナイ。クローズド・フラット・ダウンヒルトイウ カテゴリーモ、ナカナカノ アイデアダ。モンダイハ、ヤナイサワガ ニホンジンダト イウコトダ。カレヲ ツブサナケレバ ナラナイ。」
「ドウヤッテ。ヤツハ キツネダ。ミゴトニ スリヌケテユク。」
「イヤ。オイツメラレル ホウホウヲ オモイツキマシタ。」
マイクは、立ち上がるとバイクを立てた。男はいぶかしげにマイクを見上げた。
「ナンダネ。ソノ ホウホウトハ?」
「アス ニホンニ イキマス。イッシュウカン マッテ イタダケレバ ワカリマス。」
「ヘイ。オシエロ」
その声に答えるように、マイクは斜面にバイクを押し出した。男の携帯が鳴った。
「ワシハ オラントイエ。カイチョウハ バカンス チュウダトナ。」
6日後の土曜。静岡県浜松 矢内沢自転車工業。事務員の幸子は、何気なくエアメールの封書に目を落とした。帰国子女の彼女は、それが裁判所からの通知てある事に気づいた。封を切って、中の英文を2回読んでから、彼女は叫んだ。
「たいへん。工場長、たいへんですっ!!。」
矢内沢は、Cコースのゴール小屋で、公式計測の準備とチェックを島本と行っていた。南海子が、入ってくるのに気づいたものの、矢内沢は作業を続けていた。いつまでたっても、南海子が黙っているので、矢内沢はけげんに思って振り返った。
「ナミちゃん…どうした?。」
「多分。マイク パーキンソンだと思う。ニューヨークの裁判所が、アメリカでのうちの自転車の販売を差し止める仮処分の通知を送ってきたって。浜松に。」
「理由は?。」
「幸子さんの翻訳によると。うちのバイクで事故が起きて、重傷者が出た為、それがバイクの構造上の欠陥ではないと確認されるまで、アメリカでの販売を差し止めるという事ね」
「誰が確認するんだ。?」
「うちが証明しなきゃいけないんじゃない。」
「ニューヨークまで行ってか?。」
「でしょうね。」
「狙いはなんだ…」
「確か、新しくオープンするマクナマラダウンヒルコースに入れるレンタルバイク50台の搬入納期は、あさってじゃなかった?。」
「時間ぎりぎり、税関でストップをかけるつもりか…欠陥は見つからないが、オープンには間に合わない。契約違反の賠償金で潰しにきたか。マクナマラのコースにうちの自転車ってのも危ないとは思ったがな。」
「他のメーカーが間に合わせられないって話だったけど。」
「そこまでは事実さ。実際、市場に自転車はなかった。マクナマラにいれられる在庫は。」
「マクナマラダウンヒルコースの出資者のひとりは、マイク パーキンソンよ」
「手加減はしてくれんわけだな。その手の損害賠償は、俺の有り金を全部巻き上げるにはわけない。しかも、他の国でも仮処分を発生させられる。」
「イーオ マッカートニーに頼んだ方がいい?。」
「弁護士か。奴は腕利きだが、この手の仕事はしないだろう…。とりあえず、吉松工場長をニューヨークの裁判所に行かせて、仮処分を止めよう。」
「矢内沢くんの決定が入りしだい、出発できるそうよ。」
「オーライ。」
矢内沢は、携帯で工場に電話をかけた。「…頼みます。これは、わなですから。途中、何があるかわかりません。前回とは危険度が違います…。向こうではジェイミスの父親を頼って下さい。オコーナー一族以外、信用しないでください。じゃあ、気をつけて、お願いします。」
矢内沢は、自分を見つめている南海子と島本を見て、顔の緊張を緩めてみせた。
「心配ない。いつもの事さ。イーオがAを下りてくる頃だから、行ってみるよ」矢内沢は、笑顔とは裏腹に緊張した背中を見せて出て行った。
イーオ マッカートニーは日系3世で、アラブ系イギリス人の血も混じっているという人種のフルーツパフェのような人物だった。アメリカの弁護士免許を持ち、矢内沢とは富士見パノラマで知り合った。腕は折り紙つきだが、仕事を選ぶと言う点で変わり者あつかいされている。勝てないと踏んだ仕事は、どれだけ金を積まれても断ってしまう。ー負ける裁判は、他の奴にやらせればいいーと言う彼の言葉を弁護士で知らない者はいない。逆に、誰も勝てないだろうと言う裁判をひっくり返した事例は50件あまりもある。イーオはAコースのゴールで矢内沢を見た時には、すでに事件を知っていた。
「普通なら、この依頼は受けない。しかし、このコースが無くなるとなれば話は別だ。日本の血が僕にも少し流れている。その血がーあきらめるなーと騒ぐんだな。馬鹿な血だが、僕は誇りに思っている。公判の準備をしよう。しばらくバイクに乗れなくなる。荒れるぞ。ニューヨークは。僕の初黒星の負けっぷりを見せてやろうじゃない」
「やっぱり無理か…。」
「いや、本社と工場は確保できる。コースは、また働いて買い戻せばいい。」
「気休めは、言ってくれないか。」
「本当の事を言っておけば依頼者から文句は出ない。」
「違いない。」
「元気だせ。状況は動いてる。前へ前へさ。」
イーオは矢内沢の肩をドンと叩くと山を下りていった。
ー敗退
岐阜県岐阜市長良川ホテル203号室
「マイク パーキンソンだ。…どうかな、矢内沢陣営は…仮処分の停止手続きを始めたか…バイクは保税倉庫に入ったまま…今日中に書類は提出できるな…フン……マッカートニーが矢内沢についた…縁起が悪いな…がっ、どうにもできるわけがない…しっかり監視してくれ…。」
しっかりした日本語で、このアメリカ人は誰かと携帯で話した後、フェルメルに火をつけた。カート ボネガットと言う作家が吸っている煙草で、彼のこんな言葉が気に入って吸っている。ー最近は、主にフェルメルで自殺を図ってますー
職場では止めるように言われているが、やめられない。
ー失礼しますーと声がして、仲居が入ってきた。
「お客様。日本語は、おわかりになりますか?。」
「わかります。日本でのビジネスは10年になります。」
「そうですか、今日はお仕事で。」
「はい。アメリカの自転車を販売しているんです。」
「自転車を。そうですか、そういうのはよくわかりませんで、すいません。」
「いえいえ。でも、日本人は、お得意様なんですよ。」
実のところ、マイクは日本が大好きだった。特に矢内沢には尊敬の念すら抱いてしまう事もある。しかし、彼は潰さなければならない敵だった。彼の息の根が止まったのを確認するのが、マイクの役目だった。しかし。反面、矢内沢がいままでのように、ミラクルを起こしてくれる事も密かに願ってもいた。
「…でなければば、それまでの男だ…」
階段や非常口の説明をしていた仲居が、えっ?と言って聞き返した。
「何か?。」
「いえ、すいません。独り言です。」
「そうですか。では、ごゆっくり。」
仲居は出ていった。フェルメルが灰皿の中で、灰になっていた。
翌週 月曜日。白鳥ダウンヒルズ Cコース。
矢内沢は居なかった。が、公式計測の準備を自分で行い、あやねのヘルメットにビデオカメラをつける事で、不在でもタイムは公認される状態だった。クローズド フラット ダウンヒルでは、コース上から出たら失格になる。Cコースのゴール小屋には島本や南海子、その他10人程がモニターを囲んでいた。当のあやねは、これだけの機材を使っている事など知る風でもなく、いつものストレッチをスタート前で繰り返していた。すでに、2本の試走を終えて3本目を迎えていたが、タイムはコースレコードを出していた。あやねは、3本目をスタートした。
「これは、テクニックとかの話じゃないな。」
島本に、真治がうめいた。
「あんなコーナーリングは、ほぼ魔法だよ。レールがついてるみたいだ。」
「ブレないだろ…真治。この視線は勉強になる。矢内沢が、このビデオ見たら、なんて言うと思う?。」
島本の問いに南海子が答えた。
「このバイカーが悪魔になるか天使になるか、私達しだいだって言うわね。どんなコースでも究極のタイムをマークしてしまう。クローズド フラット ダウンヒルの世界では…。白鳥ダウンヒルズが、彼女の聖地になるでしょうけど。そこに集まってくるのは…どんな人達になるのかしら…。」
「俺達のような連中か。ここを潰しにきてるような連中のどっちかだな。」
島本は目を閉じたままつぶやいた。
ニューヨークの裁判は一方的に終わるはずだった。が、イーオ マッカートニーが見せたゲリラ戦法が吹き荒れ、公判は荒れに荒れた。途中、裁判長の交代劇まで巻き起こって、3ヶ月目に結審した。結果的には、矢内沢自転車工業本社 工場を除く、矢内沢の資産は、すべてマクナマラダウンヒルコースを所有するマクナマラグループに権利が移った。本社 工場以外、世界中の販売拠点を失って、事実上販売は停止した。彼らはネットの販売権利さえも押さえたのだ。イーオ マッカートニーは5度も銃弾を撃ち込まれたが、かすり傷ひとつ負わずに、日本に帰ってきた。アメリカの世論は、矢内沢を侵略者と見なしていたのだが、あまりにも手段を選ばないマクナマラグループに嫌気がさして、矢内沢を応援しはじめた為、本社と工場を押さえられなかったのだ。これは、マクナマラグループにとって負けに等しいと全米の新聞は報じた。矢内沢自転車工業は復活可能な道を確保したのだ。イーオ マッカートニーは個人輸入で矢内沢を買おうと言う運動を起こし、こののち妨害工作に打って出るマクナマラグループと法廷闘争を繰り広げる事となるが…それは、まだ先の話しである。
話しを戻そう。
こうした結果。白鳥ダウンヒルズは、マクナマラグループに権利が移った。しかしながら、ほとんどのマクナマラグループの幹部は、それに興味を示さなかった。矢内沢のプライベートコースぐらい「くれてやれ」と言う幹部も少なからずいたのだが…。ひとつのニュースが、この流れを一変させた。
矢内沢達が、ひた隠しにしてきた「ナチュラル」実在の事実が、ひとりの男によってアメリカにもたらされたからだ。
ー占領
7月 白鳥ダウンヒルズ
マイク パーキンソンは、マクナマラグループの代表として駐車場に入ってきた。しかし、ワンボックスカーにバイクを積んでいる、その姿は他のバイカー達と見分けがつかなかった。
「何を考えてやがる…。」
ジェイミス オコーナーは、フロントガラス越しにマイク パーキンソンを見つけてうめいた。
マイクはスペースに車を停めると「ヘイッ」と言ってジェイミスに手をあげて見せた。2人は英語で話しはじめた。
「ここが、有名なシラトリ ダウンヒルズですか。すばらしい…。」
ジェイミスは怒りを抑えて、かみついた。
「マイクッ。遊びにきたのか?。」
マイクは、しらっとした顔で受けて見せた。
「ジェイミス。我々は勝者で占領軍さ。しかも、情け深いね。」
「バイク仲間として言っておく。ここを潰したら、もう友達でもなんでもないぞ。」
「それは、ここにナチュラルが本当にいるかどうかにかかっている。」
「…なんで、それを知ってる?。」
ジェイミスは驚いて聞き返した。あの公式計測の件は裁判の判決を待たずに秘密にされていた。あやね本人にもタイムは知らされていなかった。コンピューターソフトの不具合で計測できなかった事になっていた。
マイクの返答は、ジェイミスの想像力を遥かに超えていた。
「ビデオが出回ってる。ヘルメットのオンボード映像が…知らないのか?。」
「ぬぁんだって!?。」
マイクは少し同情するような顔をした。
「ランディを知ってるだろ?。」
「ランディ?。ランディ スミスか?」
「最近、姿を見ないだろう…。?」
「…ランディが漏らしたのか…。」
「彼は、公式計測にも立ち合っていた。あのビデオで、彼は今や億万長者だ。」
「スパイだったのか。」
「いや。ランディはスパイじゃなくて、金に目が眩んだだけさ。私が送り込んだスパイは、公式計測に立ち合えなかったし、ビデオも入手できなかった役立たずの越知利久さ。ミス ナミコに正体を見破られていたらしい。」
ランディの顔を思い浮かべ暗澹たる気持ちをジェイミスは言葉にした。
「どうするつもりだ。」
「それは、矢内沢に直接言うべきだろう。彼がここのボスだ。君ではない。居るのかね。矢内沢は?。」
「食堂で朝から、おまえを待ってる。」
「それは素晴らしい。矢内沢が私を待っててくれるなんて…。」
「勘違いするな。会いたくて待ってるんじゃないぞ!!。」
「いゃぁ。会いたくて待っているのさ、ジェイミス。このコースの運命は、私に委ねられているんだからね。」
ジェイミスは嬉々として、青トタンの事務所に向かってゆくマイクの真意を読み取れずイライラしていた。
そこに、駐車場に居たバイカー達が集まってきてジェイミスを取り囲んだ。
「なんて言ってた?。あの野郎は。ここは無くなるのか?。ジェイミス。」
「落ち着きましょう。みなさん。どうなるにしろ、矢内沢にまかせるしかありません。」
ジェイミスは、全員を引き連れてマイクのあとを追った。
ー通告
食堂に居る矢内沢は、オンボードビデオが世界中に流れている事を知らされていた。島本がネット上で、20ドルでダウンロードできるサイトを見つけたのだ。
「ランディの野郎。なんて事をしてくれるんだ。」
島本が机を叩くのを見て、矢内沢は言った。
「名義を使われて、かなりの借金があったそうだ。今朝、許してほしいと電話があった。マイクが、ここに来るのを知ったんだろう。」
「許してやるんですか…。」
「ランディがそれで助かったんなら、いいじゃないか。ここを取り上げるのが目的なら、マイクを使う必要はないだろう。それに、俺にはここを運営してゆく資金は2ヶ月分しか無い。多分、ナチュラルが居るとなれば、ここは続くだろう。居なければ終わり。そういう事だ。」
「わかってるね。矢内沢君…。」
食堂の入口にマイクが立っていた。後ろに南海子とジェイミスが悔しそうな顔を並べていた。
「…そのとおりだ。くわしく言えば、ミス杉下に公式計測のタイムを教え。そして再び彼女がコースレコードを出せばいい。そうすれば、マクナマラグループは、ここを存続させる。今までどおり、矢内沢君が運営を行う。多分、今より取り付け道路を広くし、駐車スペースを拡げ、あのサーカスのようなリフトはゴンドラに変わるだろう。どうだ。素晴らしいじゃないか!!。」
マイクは、窓の外のリフト乗り場に向かって左手を広げた。全員が外を見ると、春さんが驚いて後ずさるのが見えた。
「マイクさん。あなたの言ってる事は、誰が言いだしたかもわからない、根拠の無い話しだ。過去にナチュラルが居た事実もない。」
「矢内沢君。それは問題ではない。マクナマラグループは根拠があろうとなかろうと、結果において判断する。しかし、私個人としてはナチュラルの言い伝えを信じている。誰がなんと言おうとナチュラルは存在すると信じている。私を失望させないでもらいたい。」
この男はマクナマラグループよりも厄介だと矢内沢は思いながら言った。
「どうしろと?。」
「言い伝えはこう有る。ひと組の愛し合う男女のバイカーがナチュラルを復活させる。それは矢内沢君。君とミス南海子の事ではないのかね?。」
「…………。」
矢内沢は押し黙り、ナチュラルの言い伝えが醸しだす、気味の悪い空気が食堂に垂れ込めた。
「…南海子さん。もし復活させる事ができないと、この男女の愛は実らない。それが心配ですか?」
「僕らは、あやつり人形じゃない。こんな言い伝えごときに運命を変えられるなんて耐えられない。」
「矢内沢君。そうは言うが、君は言い伝えを認めてないんじゃないのかね?。」
「これから先はわからないが、これまでは言い伝えどうりになっている。それを恐れているだけだ。」
マイクは間をおかずに矢内沢に通告した。
「2ヶ月だ。矢内沢君。やるかやらないかは君が決めればいい。」
深い沈黙を破ったのは南海子だった。
「マイクさん。私はやります。」
南海子は顔をあげて言い放った。
「…ならば。矢内沢君、君の答えも決まったね?。いい知らせを待っている。」
マイクは振り向くと外に出ていった。コースを走るつもりなのだ。彼は…敵ではなかったが、あやねがナチュラルでなければ死刑執行人となる人物だった。
マイク パーキンソンが春さんと笑いあっているのを複雑な表情で南海子は見ていた。食堂はなんともぶっ飛んだ成り行きに混乱した頭を抱えたバイカー達のざわめきを残していた。それぞれ、この事態を評価するため散っていった後も…。
「ねぇ。私達、愛し合ってる?。」
「そうだな。そんな時間はなかった。いろんな事があった、ここ3年くらい。」
2人とも窓の外のコースを遠くを見るような目で見ていた。
「愛し合うって、どういう事か覚えてる?。」
「多少はね。なんせ3年も前の話だから。」
「多少なの?。」
「すぐに思い出すさ。Aを2人で下れば。」
「そうね。Aなら思い出せるね。」
この時、誰も杉下あやねの所在を気にしている者はいなかった。矢内沢と南海子が、あやねと連絡がとれない事に気づいたのは、この翌日の事だった。
ーあやね救出
「携帯の番号、誰も知らないって言うか、携帯もってるかどうかも知らないですよ。なんせパッと来て、ひたすら下ってパッと帰っちゃうし。無口だし。」
山村真治は、あやねの連絡先を聞かれて、俺に聞かれてもと言う顔で答えた。
「でも、けっこう、あやねさんとは話してたじゃない。」
南海子が問いただした。
真治はカツカレーのスプーンを宙に浮かせて答えた。「まぁ…年は同じって事と、岐阜市に住んでいることぐらい。あとは…ミートソーススパゲティが好きで、なぜか…ジョン レノンが好きって事ぐらいかな。」
「そこまで聞いて、なんで電話番号きかねーんだよ。」
トシこと吉野歳三が口をはさんだ。彼は真治とは同時にマウンテンバイクを始めた幼なじみだった。お互いに競いあいながら腕を磨いてきた好敵手だが、趣味の域から伸びない真治に対して、トシはアマチュアからプロの域に脱しつつあった。しかしメンタル面で弱さをもつトシはこの2年後プロになっても真治のアドバイスを必要とした。2人の関係は終生この当時と変わる事はなかった。
「しょうがねぇだろ。真治さんHですねえって言われたんだから。」
「どんな聞きかたしたんだよ。おめーは。」
「フツーに聞いたんだよ。」
「いや。なんか変な事いったんだよ。そうでなきゃ、Hですねなんて言われないよ。」
「フツーだよ、フツー。」
スプーンをしゃべりに合わせて振りはじめた真治の手首をつかんで南海子は口論に割って入った。
「待って。とにかくあやねさんに連絡とりたいの。誰か知ってる人いないの?。」
トシはじゃれあいから戻って、疑問を口にした。
「でも南海子さん。いつも住所とか連絡先とか、書いてるんじゃないの?紙に。」
「あやねさんの実家なんだけど…彼女はアパートに住んでて帰ってないらしいの。ここ一週間。バイト先も調べてもらったんだけど、バイトを入れてないって。警察に捜索願いを出したって。おかあさん心配してたわ…。」
窓の外に下りて来たマイクをチラッと見てトシが言った。
「マクナマラの奴らに連れ去られたんじゃ…。」
「彼らにナチュラルを誘拐する理由はないわね。」
冷えたカッカレーにスプーンを突っ込んだまま真治は視線を宙に漂わせて言った。
「なんか、あやねさんの立ち寄りそうな場所とか、おかあさん言ってなかったですか?。」
「そこらへんは、友達に当たってみたみたい。」
「とにかく、探してみますよ。とりあえず、あやねさんの行ってるバイクショップとか。」
「そうしてくれると助かるんだけど…いいの?真治君。」
「問題ないです。あした日曜だし、今日もこれから行きますよ。」
「あてにしてるわ。お願いね。」
南海子は事務所に戻って行った。真治とトシは昼食を平らげると駐車場に向かった。
「真治、俺はウイングヒルズに行ってみるよ。あっちで誰か知ってるのが居るかもしれない。」
「あー。頼むよ。」2人は車に乗りこんだ。
あやねの行っているバイクショップは、岐阜市内の環状線沿いにあった。
丸い外観に縦長のホールがついている。
「何でしたでしょう。」
30代くらいのオーナーらしき人が、真治を見て声をかけた。
「あの、山村と言いますけど、白鳥ダウンヒルズで杉下あやねさんと親しくさせてもらってるんですが、連絡がとれなくなって、ちょっと寄ってみたんですが…。」
「杉下あやねさんですね。おかあさんの方からも聞かれたんですが、うちの方でもわからないんですよ。実はさっきですねー思い出したんですが…。最後にお店にみえた時に、友達の映画を手伝うんだって事は言ってたんですよ。」
「…映画?。」
「ええ。でも、その友達っていうのが誰なのかわからなくて。うちのお客さんでは、映画を撮ってる方はいないんです。」
「そうですか…。」
がっかりした真治は、バイクショップを出て車に乗りこんだ。
しばらく、南方面に車を走らせた。手がかりは消えて、警察に任すより他にないのかと思いながら、信号でなんとなく右折車線に入り環状線を出て右にまがった。やがて橋を越えると、白っぽい建物のが目に入ってきた。
「岐阜大学の柳戸キャンパスか…大学って映画研究会とか…あるよな。」
真治は岐大キャンパスに車を入れた。
真治は、歩いていた学生をつかまえた。
「ちょっと聞きたいんだけど。ここって映画研究会とかある。?」
お揃いのTシャツにジーンズ、キャップの5人組のひとりが答えた。
「あるよ。だちが入ってる。いまロケに行ってて誰もいないよ。」
「その中に、杉下あやねって人いない?。」
「スギシタ?アヤネ?って…あーあの、おねえさんだよな…ミヤ。」
ミヤと呼ばれた、よく見ると女の子が答えた。
「サチのアクションの代役の人でしょ。なんかーバネのついた自転車のってる人。」
「バネじゃねえよ。サスペンションだよ。マウンテンバイクだろ?。」
「そうそう、マウンテンバイクのおねえさん。」
「今、どこに居るかわからない?。」
「ロケに行ってるんじゃないの。多分。」
ミヤと呼ばれた、痩せすぎの女子大生は疑わしげな視線で真治に言った。
「あんた誰よ?。」
「俺は杉下あやねさんのマウンテンバイクの仲間なんだけど、連絡がとれなくなってるんだよ。」
「あの、おねえさん携帯もってないのよ。変よ、今時。」
ミヤは面倒くさそうに言った。最初にしゃべってくれた、一番背の高い学生が助け舟をだしてくれた。
「どっちみち、山ん中だから通じないって、持ってても。だって、辻の携帯一週間通じないよ。」
「辻さんってのは?。」
「映研の部長で、俺のダチ…。でっ、急いで連絡しないとヤバイわけ?。」
「彼女がいないと、白鳥ダウンヒルズっていう、ダウンヒルコースが営業停止になっちゃうんだよ。」
「大変じゃん。ヤバイじゃんそれ。…ミヤさー、サチがどこでやるか聞いてないのかよ?。」
「山県の方とか言ってたけど、知らないよ。住所とかないんじゃない、そこ。」
このお揃いの服を着た5人組は、ラップグループで、見た目より親切だった。部室の鍵を持っている人物を探して部室を開けようと言ってくれた。部室を開けに行くと、部室は開いていて、メンバーのひとりがブドウパンをかじっていた。
「どうした三池?。ここで練習するのか?。」
ブドウパンの学生は口をモゴモゴさせながら、ラッパーのひとりを見上げた。
「中島、おまえロケに行ってるんじゃないのか?。」
「今日、合流するんだけど…この地図わかんなくて…戻ってきた。」
中島はコピー用紙を渡してよこした。
三池と呼ばれた背の高いラッパーはニコリと笑って真治に言った。
「おにいさん。これが目的の場所みたいですよ。」
真治はコピー用紙をもらって見た。
「これなら、わかるよ。これ持ってっていいかな?。」
中島はその言葉に反応した。
「えーわかるの??。わかるなら、後ろついてくよ。お願いします。」中島は残りのブドウパンを見事に口に押し込んでみせた。
真治の記憶によれば、そこは廃校になった小学校が一番奥にある林道で、何年か前にキャンプをした事がある場所だった。映研メンバー中島勝義のインプレッサを従えて、真治はバンを走らせた。なぜか後ろのマウンテンバイクと一緒に、5人組のラッパー達も乗っていた。なんでも、ラッパーとしては捨てておけない事件なんだと言う事だった。
その頃、杉下あやねは映研メンバーとマウンテンバイクで走り下りてくるシーンを撮っていた。山の中で夜明けから、夜12時近くまでやっているために、この映研メンバーは連絡不能だった。
マウンテンバイク レディーという、ヒーローもののアクション映画で、主人公役の村主幸子は、アクションはできるものの、自転車は苦手だった。そのため、あやねが代役を頼まれた訳だ。変身したレディーの衣装をつけマスクをかぶっているため、見分けはつかない。部長の辻正樹は、この代役は掘り出し物だと思っていた。とにかく、絵的に綺麗なフォームで走ってくれる上に、スピードが半端じゃない。敵役の乗ったKTMのオフロードバイクを下りで抜いてしまうのだ。ちなみに250ccのレーサーであるにもかかわらず…。自転車に抜かれたオートバイが次々と転倒しカーブから飛び出してゆくシーンは見たそのままなのだ。画像処理で、それらを爆発させる事になっていた。これらはカット割りの予定だったが、10分に及ぶ白熱のワンショットシーンに変更された。ラジコンマニアの学生を説得して、ラジコンヘリにカメラをぶら下げて撮影された。彼は、ほぼ全コースを見渡せる山の上から勘のみでヘリを飛ばして、無事にベストショットを収めたカメラを生還させた。2年後に設立されるビデオ制作会社のスポンサー集めの条件に、あやねとこの学生が制作にかかわる事が明記される事になる。それは、また別の話しである。
この日、あやねが下る道は小川のような細い川に沿ってつけられていた。空は曇っていて降り出しそうだった。しかし、この川の上流で激しい雨が降っていることを想像させるものは無かった。
固定カメラ4台で、あやねの走行シーンのフニッシュを狙って全員が坂の上に注目していた。
「あやねさーん。ラストシーンをもうワンテイク撮って、今日は上がりですー。」
辻は拡声器で、スタート地点に居るあやねに叫んだ。あやねが大きく手を振るのが見えた。
「いきまーす。カメラスタート…アクション。」
あやねはペダルを踏み込むと走り出した。そして映研全員が、その背後の異変に気づいた。なにか、あやねの後方から流れてくるものが見える。
「なんだ?。あれ。水か?…。」
「ちがう。泥だ。山が崩れてくる…。」
あやねは気づいていない様子だった。辻は、喉が潰れても構わないと思いながら叫んだ。
「あやねさーん。全速力。全速力。スピード上げて、マッハも超えて、光速も超えて、スピードあげてぇっー。」
あやねは素直にスピードを上げた。土石流は時速100kmだったが、間は300m以上は開いていた。その時スピードメーターがついていれば、あやねは時速70kmでペダルを回していた。時速30kmで死が迫ってきている事をあやねは知らなかった。
真治は林道入口の目印である、赤い欄干の橋から右折して山道に入った。インプレッサもついてきた。川沿いの林道を、右に左にくねくねとカーブしながら、少し開けた場所に出た。映研の連中のものと思われる車が4台とまっていた。その先の道から、カメラや機材を持った連中が必死の形相で駆け下りてくるのが見える。
「なんだ…。」
その疑問は、すぐに恐怖に変わった。おそらく500m上から、土砂が流れ落ちてくるのが見え、必死の形相の一団の後ろにマウンテンバイクに乗った人物が、全開でペダリングして走ってくるのが見えた。真治は急停車すると、後部荷物ドアのロックを解除して、
「みんな飛び降りろ。山崩れだ。」
と叫んだ。ラッパー達も気づいて、後ろから外に転がり落ちた。インプレッサの中島は、後方で脱輪して止まっていた為、ラッパー達はひかれずにすんだ。
真治は再びアクセルを床まで踏み込んで、山道を駆け上がった。
「車の後ろに隠れて。後ろのドアを誰か閉めて。」
大学生達の前で急停車して、腕で合図した。全員が後ろに回り込み、後部ドアがドンッと閉められた。マウンテンバイクに乗った、マスクとコスチュームの人物は、車の横を抜けて、車の後部にパワースライドして止まって、上を見て叫んだ。
「なに、これ。」
辻が、あやねの腕を引っ張って車の後ろに引きずり込んだ。凄まじい音と共に、石と泥が押し寄せ、世界は暗闇の中に落ちた。
土砂は真治のバンを屋根を残して埋め尽くし、脱輪したインプレッサの前で止まった。インプレッサの中島はラッパー達と、土砂に埋もれた真治の車に駆け上がった。
マウンテンバイクレディーが、車の前方あたりを必死で掘っているのが見えた。中島もラッパーも一緒になって泣きながら土砂を掻き分けた。やがて、埋もれてもがいていた映研メンバーも土砂を抜け出し、血を流しながら、それに加わった。レディーの叫びが危機を知らせた。
「あきらめないで。死んじゃだめよ真治さん。みんなも名前を呼んでっ。」
全員が真治の名前を叫びながら、真治の頭を掘りだした。肩が出て、腰が見え、膝も出て、運転席から引き出そうとした。が、真治が苦痛の悲鳴を出した為、全員が手を止めた。
「生きてる。生きてる。真治さん。がんばって。」
真治のはっきりしない視界の中で、あやねは紛れもなくマウンテンバイクレディーだった。
中島が携帯の通じる所まで下りて、救急車を呼んだ。20分後に真治はレスキューの手で引き出されて病院に向かった。
救急車の中で、あやねは真治のうわごとを聞いた。
「あやねさん…ダウンヒルズを守ってください…。」
ーナチュラルの伝説
岐阜市忠節近藤病院
真治は全身打撲と右足の骨折、頭を強く打った事による脳内出血を負っていた。あばら骨にひびも確認されていた。
映研メンバーとラッパー達が交代でやって来て、色々な雑用をこなしてくれるおかげで、あやねは病室に居る事ができた。警察の事情聴取も現場検証も、彼らが立ち会ってくれた。さらに、あやねのバイクを掘り出してきてくれて、曲がったホイールを自分達のお金を出し合って、新品に替えて持ってきてくれた。
翌日、ダウンヒルズに電話して南海子さんに事情を話すと、すぐに矢内沢とトシを伴って、駆けつけてきた。
3人が入ってゆくと、ちょうどあやねがリンゴを真治に食べさせている所だった。真治は大阪の出身だが、家出同然で岐阜に出てきている為家族に連絡できなかったのだ。
「おーい。いつの間に、そういう事になってるわけ?。」
トシが開口一番あきれて言った。
「大丈夫かって言葉は無いのかよ。トシ。」
真治が力の無い声で言うので、トシは少しひるんだ。
「見りゃわかるよ。大丈夫じゃないのは。警察は生きてるのが奇跡だって言ってたってさ。ひどいことになったなー。……おい。治るのかこれは。」
あやねはすかさず、ユーモアを利かせた。
「全治8ヶ月が、お医者さんの判決よ。」
「あやねさん。判決はないよ。」
真治の声に全員が笑った。笑いが収まった所で矢内沢が口を開いた。
「すまなかった。真治。たいへんな目にあわせたな。病院の支払いは心配しなくていいから。ゆっくり治すといい。」
「矢内沢。すまない。しばらくは働けないから助かるよ。…それからナチュラルの事をあやねさんに、まだ話してないんだ。矢内沢から話してもらった方が良いかなと思って…。」
矢内沢は南海子を振り返ってから言った。
「それは、きちんとするよ。」
少し躊躇する空気をあやねは読みとった
「なんなんです…ナチュラルって?。」
あやねは矢内沢と南海子を見上げた。
うち明け話しをするように、矢内沢は語り始めた。
「誰が言いだしたのかもわからない。言い伝えって言うか。うわさ話。クローズド フラット ダウンヒルをやってる人間の間だけで流れてる…。いろんな言い方があるけど、まとめるとこんな風になる。……ある時ナチュラルが坂下から現れて、走ったコースの全てのレコードを塗り替える。ナチュラルは自分のタイムを気にしない。ただ究極の走りのみを目指して駆け下りる。しかし、ナチュラルを解さぬ者がタイムを教える。教えられるとナチュラルの走りができなくなる。そして、一組の愛し合う男女のバイカーが、ナチュラルを復活させる。再び真のナチュラルに戻れた時、死の瞬間までナチュラルの走りをするバイカーになる。しかし、復活できなかった時、この男女の愛は実らない。」
あやねには、さほどにリアリティを感じさせる話しには思えなかった。
「ヘェー。初めて聞きました。」
かなりブッ飛んだ話しだと思ったものの、深刻な顔の矢内沢を前にして言葉を呑み込んだ。矢内沢は続けた。
「この間、公式計測したよね?。」
「えぇ。コンピューターが壊れて測れませんでした。」
「実は、ちゃんと測れてたんだけど、測れなかった事にしたんだ。外部に洩れないように…。」
「なぜなんです?。」
「3本ともコースレコードだったんだよ。その時に立ち会った人間のひとりがヘルメットで撮ってたビデオを持ち出して、ネット上に流した。ナチュラルが出現したってね。」
「はぁ…私がナチュラルだって言ったんですか?。そりゃ笑っちゃいますね。私が真治さんや矢内沢さんより速いわけないじゃないですか。」
「あやねさんが、どう言おうと、アメリカではあやねさんがナチュラルだということになった。言いたい事はあるだろうけど、もう少し黙って聞いてほしい…。実は、矢内沢自転車工業とマクナマラグループの裁判で、会社を除く矢内沢悟志の資産すべての権利を失ってしまった。その中には白鳥ダウンヒルズも含まれてる。マクナマラグループは、あやねさんが本当にナチュラルなら白鳥ダウンヒルズを存続すると言っている。そうでなければ閉鎖される。つまり、あやねさんがもう一度コースレコードを出せば、白鳥ダウンヒルズは救われる。出せなければ終わりだ。」
「それは映画の脚本とかじゃなくて、現実の話ですか?。」
「夢なら、どんな手を使ってでも覚めたいよ。」
「つまりナチュラルの言い伝えどおりなら、私は前のように走れないって事ですか?。それに…復活させるのは矢内沢さんと南海子さん…。たいへん。もし私がコースレコード出せなかったら、愛は実らないんですよ。」
「その程度の事で、僕らは挫けやしないよ。」
急にあやねの顔が険しくなった。
「なに言ってるんですか。もう少し南海子さんの気持ちを考えてあげてください。矢内沢さんは強い人ですから、この程度なんて言えるんです。南海子さんは違います。いつも、いつも不安でいるんです。」
リンゴを吐き出して、真治は思わず言った。
「あやねさん。この2人は普通の人とは違う…。」
「真治さんは黙って…。同じ人間に変わりないです。私は南海子さんの為に走ります。どうしてもコースレコードを出します。約束してください。もしコースレコードが出たら、南海子さんと結婚してあげてください。」
真治は目を見開き、口をあんぐり開けてあやねを見た。矢内沢は目を閉じて、少し考え込んだ。南海子は、じっと矢内沢の背中を見つめていた。
「そうかもしれん。あやねさんに説教されるとは思わなかった。俺は退散するよ。」
そう言う矢内沢に、あやねは下を向いて、あわてて言った。
「ごめんなさい。私、偉そうな事言っちゃった…。」
「いいのよ、あやねさん。たまには、これくらい言われるのも良いんじゃない?。矢内沢くん。」
南海子は悪戯っぽく笑った。
「負けたよ。女の子には勝てない。」
矢内沢は、そそくさと,出ていった。
「ありがとう、あやねさん。でもね、結婚しないのは、もっと他に理由があるの…。でも、うれしかった。…それにナチュラルって純粋って事じゃない?。私達、目的に急げば急ぐ程、純粋ではなくなって、目的にたどり着けなくなってた気がする。何もかも取られちゃったけど、そのかわり、純粋さを思い出せたわけね。…この方が近道なのかもしれない…。」
あやねは南海子を見上げた。
「矢内沢さん。怒っちゃったんでしょうか?…。」
「怒ってないわよ。痛い所を突かれると、男の人は逃げちゃうの。謝るのが大嫌いなのね。」
「びっくりですよー。あやねさんがあんな事言うもんだから…。」
真治は口をとんがらせて見せた。
それを見て南海子は可笑しくなった。
「真治君。ちゃんとしないと、あやねさんに嫌われちゃうわよ。」
「勘弁してくださいよ。それは。」
そう言う真治を見てあやねはうれしくなった。
「真治さんは、そういう人ではないから大丈夫ですよ、南海子さん。」
あやねが自信たっぷりに言うので、南海子は思わず笑ってしまった。
「なにか、おかしいですか?。」
罰の悪そうに言うので、余計におかしくなった南海子は ー行くわねー っと言って、トシを促し病室を出た。
外の廊下で矢内沢が待っていた。トシは事の重大さに口を挿む事を病室でも控えていた。ここでも、トシは遠慮した。
「先に車に行ってます。」
彼のこの神経の細やかさは、この後プロとして転戦するアメリカで大きく評価される一因となった。そんなトシの配慮をうれしく思いながら矢内沢は思いを言葉にする衝動を押さえられなかった。
「強いな。純粋さってのは。今までは危ういものだとばかり思ってたけど。」
「危ういのは純粋さじゃなくて、そこから外れていってしまう事なのよ。いつの間にか、見えない場所まで来てしまってる…。私達、それに気づきもしなかったんじゃない?…。」「確かに。あやねさんが引き戻してくれるんだな。きっと…帰ろうか。トシが待ってる。」
「そうね…。」
2人はこの瞬間、覚悟を決めた。今まではどうやればいいか、全て分かっていた。しかし、ナチュラルの伝説の行間にはなんのヒントも見いだせない。その行間に飛び込んでゆく覚悟だった。
ーナチュラルへの道
白鳥ダウンヒルズ。期限まで1ヶ月と20日
「どんな感じになってる。」
トシが島本の後ろからモニターを覗き込んだ。
「昨日よりタイムは上がってる。コースレコードまで、あと1分20秒だ。」
「なにそれ。全然ふつうのタイムじゃん。」
島本はトシの言葉を普通に受け流した。
「ちなみに、俺よりも遅い。」
「島本さー、そんな情報要らないよ。もっと精神的なものじゃないのか?。
座禅とかの方が効果あるんじゃないか。」
島本は各区間のラップタイムをグラフにする作業をモニターを見て進行させながら言った。
「走ってるうちに、あやねさんはレコードを出したんだ。このやり方で、しばらくやってみるさ。まだ1ヶ月以上あるし…。」
沈みがちな島本の為にトシは話題を変えた。
「あーそうそう。また来てるよ…マイク パーキンソン。でも、あのおっさん速いよ。うまいし。」
「本場の人間だ。自転車に乗ったその日からレッドパスを走ってるんだ。場数が段違いだ。」
「なんか喜んで走ってるの見ると、とてもマクナマラ側の奴には見えないんだけど。」
「矢内沢ミラクルだろうな。あの人には不思議な魅力がある。敵でさえ信者にしてしまう。……もう、あがるのかな。」
島本は立ち上がってゴール小屋を出た。外では肩で息をしているあやねさんが、バイクの上で下を向いていた。
「大丈夫?。ちょっと疲れてるみたいだけど…。」
あげた顔からギラギラした瞳が島本を見た。
「ちょっとだけです。でも、もう一本いってみます。」
島本は静かに言った。
「もう、あがった方がいい。これ以上やると転んでケガするよ。」
「でも、私がやらないと。」
後ろをついて走っていた南海子がゴーグルをはずした。
「あやねさん、終わりよ。昨日より良くなってる。」
「よくないです。全然おそいですよ。島本さん、タイムでてないでしょ。」
「あぁ、出てないけど…昨日よりはいいよ。」
「昨日より良くても、しょうがないです。」
南海子は忍耐強く言った。
「もう今日は良くならないわ。それに余分な動きが入ってて、スムーズに体が動かなくなってる。プラスじゃなくてマイナスする走りを考えた方がいいわ。」
「でも、同じ事くりかえしても…いろんな事ためさないと。」
「前、走ってる時は色んな事ためしてたの?。あやねさん。」
「いえ…でも。そうですね。してません。」
「あなたはイメージで走ってたんじゃない?…それが結果的に正しい走りと重なってた。頭の中から色んな事を追い出して、走る事だけ考えて…イメージと見えてるものが重なって…ピタッと合うように…。」
「むつかしいです。集中しようとすると、いろんな事が頭の底から湧き上がってきて…真治さん、体調くずしてるし…矢内沢さんも工場の方たいへんみたいだし…。」
「だから今日はやめるのよ。わかった?。」
「はい。わかりました。」
トシはあやねのギラギラした瞳が、スッと冷めてゆくのを見た。すれ違うように、いつものあやねさんになるのを感じた。2人は洗車場に向かって走っていった。
「あの目をしてないとあやねさんは駄目なんだよ。でも、そんな風になるのは難しいな。」
島本はそう言うトシの肩をたたいた。
権言山に長い夏の日が暮れようとしていた。
ー白鳥ダウンヒルズ 期限まで あと30日
外傷が治療を終えたので、真治はアパートに戻っていた。
あとはリハビリしながらの自宅療養になる。トシの車に乗って、久しぶりにダウンヒルズにやってくると、皆んなが良くやったと声をかけてきた。松葉杖で駐車場からスロープを上がってゆくと、洗車場にあやねと南海子、矢内沢の姿が見えた。あやねが真治を見つけてヘルメットをはずした。その目に涙が浮かんでいるのを見て、真治は近づいていった。
「昼にしようよ。もう12時だし…。」真治はあやねの涙をバンダナで押さえながら矢内沢に言った。
「そうしよう。」
矢内沢がグラブを外して答えた。その瞬間、あやねは真治のバンダナを持った手を握りしめた。
「もう。私、限界。これ以上タイムが出ない。」
「タイムなんて気にしてなくていい。そんなのどうでもいいよ。」
「どうして?。タイムが出ないと駄目なのに。」
「あやねさんを泣かせるような事は俺がさせない。もう、やめよう。」
「いやよ、そんなの。ここまで頑張ったのに。」
「頑張って出るタイムじゃない。頑張らないで出るタイムなんだよ。あやねさんは頑張りすぎた。」
「なによ。真治さんは何も知らないから、そんな事言うのよ…。」
「俺は。あやねさんの事は何だって知ってるよ。」
「知らないわよ…もういい。」
あやねはヘルメットを投げ捨てて、突然バイクで走り出した。駐車場を突っ切って車道に飛び出していった。
「あっ、まずい。止めないと…。」
矢内沢はグラブを投げ捨てて後を追った。南海子も後に続いた。とりつけ道路を抜けると、遥か下の、うねうねと曲がった坂道を車を抜き去りながら走ってゆくあやねが見えた。パトカーまでも抜いてゆく姿に、矢内沢と南海子はあやねがナチュラルに戻った事を感じた。しかし、ダウンヒルズに戻ってきてくれるかどうかは確信を持てなかった。パトカーはオーバースピードで、大きく膨らむとスピンした。赤色回転灯とサイレンの横を矢内沢と南海子が抜けると、長良川鉄道ほくのう駅の前で、あやねが止まっているのが見えた。南海子が近づいて、あやねを抱きしめた。あやねは何もなかったような清々しい顔で、南海子に言った。
「私。もう大丈夫です。真治さんの言ってる事は正しかったです。…本当はタイムが出なかったら、真治さんを失うって思ってたんです…心の底で。それに気づかないで、もがいてたんです。でも、タイムが出なくてもいいって言ってくれたおかげで、それに気づきました。矢内沢さんも南海子さんも、同じ事を私に教えようとしてくれたのに…私は馬鹿ですね。」
「…馬鹿じゃないわ。本当に求めてるものなら、失っても取り戻せばいいなんて誰も思わないもの…失わないように守れば守る程、手をすり抜けてゆく…でも、いったん手を離せば、またつかむことができる。…そんな感じね…」
南海子は、その手でナチュラルと言う名の救世主を抱いている事に気づいた。しかし矢内沢は、ちょっとしたトラブルが近づいてくる事を意識していた。これを回避するのは、誰でもなく矢内沢しかいなかった。
「それは良いんだけど…パトカー抜いて停止命令を無視したのは、ちょっと問題だったみたいだ。」
矢内沢が首だけで振り返って、駅前に入ってくるパトカーを見た。
「俺にまかせて…。」
南海子とあやねに黙っているようにと、唇の前で人差し指をたてて見せた。
警官が2人降りてきて、あやねに近づいてきた。職務に忠実そうな、感じのいい印象を矢内沢は感じた。こうした人物を丸め込むのは性に合わないと思いつつ、2人につけ込むスキをうかがった。
丸顔の40代くらいの警官が、この3人はなんだろうという顔で口を開いた。
「ちょっと、そこの人。名前は?」
矢内沢は呼吸を読んで間に食い込んだ。
「あの、どうかしました?。」
丸顔の警官は、矢内沢を見てから3人のマウンテンバイクをチラッと見て、けげんそうな顔をした。ダウンヒルバイクは50ccの原付バイクよりもフレームが太い。さらに、サスペンションはオフロードオートバイと同じようなものがついている。しかし、タンクもエンジンも保安部品も一切ない。ただし身につけている装備はオフロードオートバイと変わらない。
高速で抜き去っていったせいもあって警官は混乱した。
「あれっ!?。オートバイじゃないな…。」
もうひとりの痩せた警官も、あれっと言う顔をして言った。
「でも、この人ですよ。抜いてったのは?。」
矢内沢は、この混乱をチャンスと見て切り込んだ。
「まさか。自転車で車は抜けないですよ。何か見間違いじゃないですか ?。」
丸顔の警官はみごとに誘導されてくれた。
「おかしいな…。確かにこの人なんだが…自転車のわけがないな。レーダーは120kmと出てるんだ。」
「こんなもんで120は出ないですよ。無理ですよ。」
免許証を見せてとも言えず、警官はあきらめた。ここで署に引っ張っても、誰も信じないと悟ったからだ。それでも形を繕うために、苦しそうに言った。
「うーん。とりあえず、名前を聞いとこうか。」
警官は3人に職務質問をしてパトカーに引き上げた。最後まで首を捻りながら…。
「恐るべしナチュラル…120kmときたか。」
矢内沢は安堵と共に恐怖を感じた。
ー真のナチュラル
その日の午後。タイムアタックが再開された。間違いなくタイムが出るはずだった。Aコースのゴール小屋で、あやねのヘルメットのカメラから送られてくる映像を仲間達が見守った。
グングンと両サイドの木々が流れ始めて、幾つものコーナーが飛び去るように現れて消えてゆく。そして、突然カメラが激しく揺れた。なぜかブレーキングしているようだったが、スピードが落ちない。左コーナーに迫ってゆくにもかかわらず、旋回する様子がない。
やがて揺れが収まった。ブレーキを緩めたらしい。ジェイミス ストップ イットとカタカナで書かれた標識が見えて、カメラは木の枝を映し出した後、そこを抜け、青い空と対岸の山で画面をいっぱいにした。そして、ランディング ヒアーと書かれた標識に向かって突き進んでゆく。標識が飛び去ると、着地の衝撃と揺れが起こって、画面は2周まわって砂煙りを映し出した。
砂煙りが収まると、上下にゆっくりと揺れながらコースを映し出し、そのまま動かなくなった。後続の矢内沢が追いつくと、あやねはヘルメットを外して、震えていた。
「ナチュラルで走ってて急に戻ったんだね…。」
あやねは、ゆっくりとうなずいた。
「真のナチュラルってのは…そういう意味だったか。」
そう言った矢内沢本人に恐怖が伝染した。そのため、南海子も含めて歩きでゴール小屋に戻ってきた。あやねは震えたまま真治と一緒に、トシの車で帰っていった。
ゴール小屋は重たい空気に包まれた。
途中で、ナチュラルの状態から通常の状態に戻ってしまうのが、もっとも危険である事は誰にでも判る事だった。
モニターを囲んでいる数人のひとりが口を開いた。
「でも、伝説と違うじゃん。」
「一般道でレコード出してもなぁ…違うんだろう。コースで出さないと。」
「いや、再び真のナチュラルとあるから。まだ真のナチュラルじゃないんだよ。」
そんな会話を聞きながら、島本はまだ呆然としてつぶやいた。
「でもさ。谷を飛んだから助かったって言ったって、奇跡だよ…ねぇ。南海子さん。」
「あやねさんには、毎回驚かされるけど…あの谷を飛ぶとはね。あの標識はジョークだったのに、現実になっちゃたわね。」
「南海子さん。ジェイミスは…。」
「…飛んでないのよ。彼は。それに、あの谷を飛んだらタイムは遅くなるのよ。」
南海子は、また事態が振り出しに戻ったものの、不安はなかった。ナチュラルは存在していて、ナチュラルは結果を出してくれると信じる事ができたからだ。
ー白鳥ダウンヒルズ 期限まで あと7日
矢内沢はあやねをコースに出さず、真治と一緒に過ごさせていた。もはや、コースを走る事に意味がないと考えたからだ。あやねの中に有る、余分なものを消してしまわないかぎり、またナチュラルから元に戻ってしまうと…。
マイク パーキンソンは少し不安になったのか、事務所の矢内沢を訪ねてきた。
「矢内沢くん。ミスあやねはボーイフレンドと遊んでいるようですが…大丈夫ですか?。」
心配そうな顔を見て、矢内沢はこのアメリカ人を好きになった。
「彼女はナチュラルですよ。最後には走ってくれます。ご心配なく。」
「そうですか。矢内沢くんがそう言うなら信じましょう。…あなたの矢内沢ミラクルを。」
マイクは安心したのか、リフト乗り場に向かっていった。
矢内沢はこの日、ある計画をスタートさせていた。それは、あやねを真のナチュラルにする為のメンタル的作戦だった。知らないのは、遠征でレースに出ていたトシと、サプライズ効果の為に伏せられていた真治とあやねの3人だけだった。
この日から、白鳥ダウンヒルズは異様に混雑して、出入りが激しくなっていた。
ー奇跡の理由
白鳥ダウンヒルズ 期限まで あと12時間
トシは、真治とあやねを乗せて、取り付け道路を走っていた。3人はやけに路上駐車が多いなと心の中で思いながら…。
「矢内沢が秘策があるとか言ってたけど…。」
車内はトシの彼女ミオの子猫ちゃんグッズで埋め尽くされていた。つららのように子猫ちゃんがぶら下がって揺れるのは、ちょっとない景色だった。
「秘策はこっちにもあるよ。真治さんのプロテクターにモトパンにジャージ…。」
「まさか真治のパンツはいてないでしょうね。やめて下さいよ。」
後ろから真治がトシの頭をはたいた。
「いてっ。冗談だって。おっと…着いたよ。」
駐車場に車を入れると3人は外に出た。
駐車場はいっぱいになっていたが、仲間は全員事務所の前に集まっていた。
トシの彼女のミオが走り降りてきて、あやねに必勝ハチマキをした子猫ちゃんのぬいぐるみを渡した。
「ハイ。あやねさん。御守りです。」
手のひらサイズの子猫ちゃんを見てあやねは微笑んだ。
「ありがとう。かわいいね。」
「でしょう。大事にしてあげて下さい。」
トシが、またかという顔をしているので真治が
「おまえも大変だな。」
と言って笑った。
あやねは軽く受け流し
「みんな待ってるから。行きましょう。」
と促した。
4人は事務所前の群集の中に入っていった。
群集は全員ダウンヒルの装備をしていた。その中には春さんまでがいた。矢内沢が事務所の中から出てきて、あやねの前に立った。
「今日はあやねさんの後ろを全員で走ります。春さんも何十年振りかで走るんで、ここ一週間練習してくれました。そして、この人が…吉松工場長。ダウンヒル歴は一週間。事務の宮本幸子さんも一緒に練習してくれました。そっちが、うちの従業員…連中は経験者だ。こっちの人は知ってるよね。岐阜大学の映画研究会の皆さん。ラップグループのヤナギドホッパーさん…。」
群集の中から手が挙がった。
「…あぁー。ミスターマイクも走るそうだ…。」
「矢内沢くん。も、は要らないですよ。」
マイクが真剣に文句を言った。
「あんたはゴール小屋でタイム見てなくていいのかよ。?」
トシが怒って叫んだが、まぁまぁとなだめる声に遮られた。矢内沢は暫く沈黙して全員の緊張を高めた。
「今日は全員が、全コースを走り抜きます。…あやねさん。あなたを独りにしない。いつでも、みんなはあなたと共に居ます。」
あやねは涙ぐんで、真治の手を握った。
「ありがとうございます。矢内沢さん…私は、もう怖くないです。」
矢内沢はうなずいて作戦開始を宣言した。
「じゃあ、みんなリフトに乗って。」
ドヤドヤと全員がバイクをとりに散っていった。
ー白鳥ダウンヒルズ Aコース スタート地点
全員が見守る中、最後にあやねが上がってきた。人垣に道が開いて、その中をあやねはバイクを引いて進んでいった。
計測装置の前で停まってバイクに乗った。ヘルメットをゆっくり被り、前に伸びているコースを見た。ペダルを踏み込むと、後ろに同じ想いを感じた。全員が同じ想いでいる。それは策略や誘導で成立させられる種類のものではなかった。
ゴーグルを通して、スピードがぐんぐん上がってゆく。普通は恐怖を感じる速度に達した時、あやねの視覚は逆に、見ているものが、どんどんゆっくりになってゆく…。
Aは、最初の緩いコーナーを曲がると50度近い急斜面に入る。その急斜面に入っても、視覚的には変わらない。そして、歩くスピードで見ているようになってくると、振り返る事さえできた。先頭に矢内沢とジェイミスがくらいついて来ていた。その後ろにマイク パーキンソン、少し離れてトシと島本が見えた。その後ろには延々とバイクが連なっている。
あやねは、まるで散歩をしている感覚でコーナーを抜けてゆく。ラインを選び、コースに降り注いでいる日差しが作る、光と影を眺めた。
Aコース4km地点には斜度80度の通称 壁がある。バイクを押し出すようにザ・バーンに入る。体はサドルよりも後ろに下げて、落ちてゆく。間違っても前輪をリフトしてはいけない。リフトした分、前輪は斜面に叩きつけられ転倒する。ザ・バーンの次は6km地点のスラロームセクションだ。実に500mに渡って右、左のコーナーが続く。ここで振り返るなど普通はできないのだが、振り返ると遠くにかろうじて矢内沢のヘルメットを確認できた。
6km500m地点から300mは、緩いカーブ2つが繋ぐストレートになる。最初は右カーブ。バイクを左に寄せるのだが、わずかに中に切れ込むラインに入る。インをついて次の左カーブと直線で継ぎたくなるが、砂利が深くて逆にスピードが殺される。右カーブを気持ち内で曲がって、そこから右に膨らむように寄せて、左カーブの外側に向かってアプローチする。固く締まった路面をつかんで、左カーブ外側を旋回すると300mほどの直線に入る。路面は浮き石もなくアップダウンもない。緩い下り坂なので、ギリギリまでブレーキを開放してもオーバースピードにならない。比較的安全なストレートだ。しかし、その先に90度に曲がる左カーブがある。
前回の走行で飛んだ谷が正面に迫ってくる。ノーブレーキで突っ込めば、ジェイミス ストップ イットの標識から、5mの谷を飛び越えて、ランディング ヒアーの標識横に着地する事になる。しかし、うまく飛び出せたとしても、5m姿勢を保ち、さらに転倒せず着地するのは普通の人間には不可能だ。しかも、これはコースアウトで失格になる。
あやねは50m手前からブレーキングして速度を落とし、テールをスライドさせてバイクの向きを変え90度左カーブをクリアした。ペダリングで失った速度を取り戻す。70m先に180度右ターンのヘアピンがある。ターンの部分は、谷を渡る橋になっている。細い丸太を横に並べた橋は危険だ。木と木の間の凹凸で、バイクは強制的に速度を殺された上にバウンドしてグリップを失う。急激に速度が落ちた瞬間に体が前に持っていかれると、リアが浮き、完全にグリップがなくなり、過重のかかったフロントを軸にして左か右にスピンして転倒する。あやねは限界まで腰を後ろに引いた。リアタイヤの真上で、おしりがタイヤに擦るギリギリまで腰を落とす。
それでも橋に入ると、サドルまで腰が戻されてしまう。さらにカーブである。
衝撃に耐えながら、欲しいだけの長さの左スライドをリアタイヤに要求する。
リアタイヤは、滑りすぎる事なく要求に応えてくれた。バイクは進行方向を向き、ランディング ヒアーの標識まで、同じ70mを戻り、再び90度左カーブをクリアすると、後は200mの直線で、ゴール小屋が見えた。
あやねはゴールを抜け、土煙りをあげてゴール小屋の前をロックしながら通り過ぎた。停まったのは駐車場の中。リアタイヤはアスファルトの上でパンクしていた。
「ありがとう。あなたも頑張ったね。」
あやねはバイクに話しかけた。後ろを振り返ると、白鳥ダウンヒルズの権言山が、いつもと変わらずにそびえていた。
「権言山さん。私達の都合で、お騒がせしてすいません。でもあなたのお陰で、みんな幸せになれそうです。」
山は黙したまま。でもあやねには、微笑むように見えた。
真治が、まだ痛む体でゴール小屋から降りてくるのが見えた。うまくいったようだと、あやねは思った。真治の笑顔が全てを物語っていた。
ダウンヒルズは救われた。とりあえず、どんな形であろうと今回は。奇跡には理由がある。誰かが言った言葉だ。逆に言えば理由のない奇跡は起こらない。起こりうるだけの理由があれば、誰にでも奇跡は起こせるのだと、あやねは確信した。もう、何も恐れる事はないのだ。あやねは真治に抱きしめられながら、何度も心の中でつぶやいた。
ー2年後 マクナマラ ナチュラルパーク 白鳥ダウンヒルズ
2車線の広い取りつけ道路を、次々と車が登ってゆく。
500台収容の第一駐車場は、すぐに満車になりそうだ。第三駐車場までシーズンオフに増設されている。初代の事務所はクラブハウスと名前を変えて、2階建の鉄筋になったが、屋根は青く塗られている。かつてのリフトは撤去されず保存されている。その山側にゴンドラが建設され、ゴンドラ乗り場で春さんは、バイカー達に相変わらずの調子で声を掛けている。
矢内沢悟志と吉山南海子は、まだ結婚していない。しかし、一緒に暮らしていて、南海子は妊娠8ヶ月だ。トシはプロになり、アメリカをミオと一緒に転戦中。島本裕は、マクナマラグループ全体のコンピューターシステム担当者に抜擢された。
矢内沢自転車工業は、立ち直って以前の力を取り戻しつつある。それはマクナマラグループとの新たな火種となり始めている。
マイク パーキンソンは、矢内沢側に寝返ったと誤解されてマクナマラグループを追われたが、矢内沢自転車工業の販売担当重役として迎えられた。
山村真治は、岐阜大学を卒業した映研の部長 辻 正樹とアクションビデオの制作をしている。村主幸子主演のマウンテンバイク レディーは20%台の視聴率を保っている。あやねは、どうやって撮ったか判らないバイクアクションのスペシャリストとして、スタッフにもファンにとっても、なくてはならない存在になっている。
ー後書き
我々は競争に明け暮れている。国単位で地方単位でと辿ってゆけば、ひとりひとりも同じだ。それによって強いトップが産まれて、人々をリードしてゆくのが理想だった。しかし強いトップはレギュレーションを操作して力を失っても君臨し続けるというのが、現実になりつつある。彼らは人々をリード出来ず、理念も法さえも置き去りにし始めている。
この物語の登場人物達も、あらゆる形で争っている。しかし、白鳥ダウンヒルズを残すという理念において、全ての登場人物が一致をみるのだ。マクナマラグループでさえも。
そんな現実には有り得ないファンタジーを書いてみたかった。というのが、もうひとつの動機でもある。序文では、マウンテンバイクのダウンヒル競技の理想について書いた。読み終えた読者の方は、白鳥ダウンヒルズがその理想郷である事を理解していただけたと思う。
この物語の主題は、純粋である事でした。手段を選んでいたら、いつまで経っても目的に近づけない。その現実は認めざるおえない。しかし、目的に達する瞬間には純粋さに立ち戻らなければ、手にする事ができないと考えるのです。目的そのものが変質してしまうからです。価値観が違ってしまうと言い変えてもいいのかもしれません。頑張って手にしたら、自分にとって何の意味もなくなっていた…それは、あまりに残酷な瞬間であるものの、勘違いであると。そんな気持ちを登場人物達に託してみました。
分かりにくい主題ではありましたが、書ききる事ができたように思います。
あとは読者の皆さんが理解していただける事を切に願っています。ここまで読みきってくださったあなたに、感謝します。ありがとうございました。
2007年7月16日
武上渓