第54話 決定
何か一つ言葉を覚えさせる。
それは、氷虎の少女に、果たして人の言語を覚えることが可能かどうかを試すための方法である。
つまり、覚えさせる言葉は何だってかまわないのだ。
と、俺は思うのだが、ここにリリアは妙なこだわりがあるようだった。
「なんでもは良くないよ。初めての言葉なんだから、何か思い出に残るような――大事な言葉が良いよ」
そう言って譲らないのだ。
俺は肩を竦め、
「じゃあ、おはようとかこんにちははどうかな。人間、挨拶から関係性が始まるって言うし、悪くない選択じゃない?」
もし言葉を覚えられると言うのなら、これから他人と話すこともあるだろう。
そのための第一歩に何かしらの挨拶を覚える、というのは我ながら良い思いつきなのではないか。
そう思ったのだが、リリアの意見は違うようである。
「うーん……確かに、悪くは無いんだけど……」
そう言って首をひねり、考え込んでしまったことからもそれが良く分かる。
じゃあ一体どんな言葉が良いんだ。
そう、俺が尋ねかけると、リリアはぱっと顔を上げて、俺に微笑みかけた。
「そうだ、そうだよ! この子……まだ、名前決めてないんだから、それがいいんじゃないかな!?」
◆◇◆◇◆
「――言われてみれば、確かにそうだね」
俺ははっとして頷いた。
野生の魔物である。
いかに親に大事にされていようと、個体名など普通は無い。
緑小鬼など、多少文明的な部分を持っている魔物ならまだしも、氷虎は言葉など持たないのだから、ある意味当然である。
「じゃあリリア。その子の名前を決めてあげるといい」
俺がそう言うと、リリアは、
「えぇっ!? 私が!?」
と言ってなぜか驚いた顔をした。
俺は怪訝な目で彼女を見つめながら、
「……君の従魔なんだし、君が決めてあげるのが筋なんじゃないのかな? これからずっと付き合っていくんだろう? お互いに愛着のある名前の方がいいと思うよ」
と至極真っ当だと思われる意見を言う。
リリアも言われて納得したのか、
「そっか……そうだよね。私の従魔なんだ……私がつけてあげなきゃ!」
そう言って拳を振り上げた。
気合が入ったところで考え込むリリア。
「……セシール……アデライール……レア……違うなぁ……マリオン? ううーん……」
いくつか候補を呟いていくが、どうも納得がいかないらしい。
少女の方もリリアの顔を見つめて首を傾げている。
彼女もいま挙がったようなものはしっくりこないのかもしれない。
そうやってしばらくの間、リリアは悩み続けたが、候補を絞る事すら出来なかった。
業を煮やした俺は、助言、のようなものを与える。
「……リリア」
「なあに?」
「真面目に考えるな、とは勿論言わないけど、あんまり気負いすぎると中々出てこないものさ。もっとリラックスして考えるといいんじゃないかな」
最終的に決まったものがあまり仰々しいのも考えものだからだ。
もちろん、あまり非常識なものをつけるといのも問題だろうが、そうでなければ極論、愛情が籠っていればなんでもいいものである。
「……でも……」
ただ、やはりこのくらいの台詞はあまり心に響かないようで、リリアは浮かない顔をした。
少し具体性に欠けたからかもしれない、と思った俺は、もう少しはっきりとしたアドバイスを送ることにした。
「そうだな……リリアは好きなものとかないかな。たとえば俺の名前は故郷の言葉で雪の人、という意味なんだけど、それは母が、雪が好きだったというのがまずあって、そこから、『あの空から降る白く柔らかい雪のように、凍えるような寒さの中でも人々に感動を与えるような人になってほしい』という意味でつけたんだってさ。リリアもそういうところをヒントに考えると思いつきやすいんじゃない?」
母、というのは雷姫ププルと呼ばれているあの人ではなく、俺が日本人だった頃の母である。
なぜ俺にそんな名をつけたのか、と聞いたら返ってきた答えがこれだったのだが、本当にそう思っていたかは実際のところ謎だ。
東北の豪雪地帯出身の母は、雪が降ってくると憎々しげな表情で「止め!」と空に叫んでいたし、この世で一番不要なものは屋根に馬鹿みたいに積もる雪であると言って憚らなかった。
実家に帰るたびにやらされる雪下ろしが相当嫌だったらしい。
そんな母が俺に雪人などとつけたのだ。
お前なんかいらんという主張に思えなくもない。
ただ、実際はそうではなく、色々文句は言っていても母は雪で真っ白な実家の光景を気に入っていたし、雪だるまやかまくらを作るのが好きと言う面もあり、悪態をつくのはあの子の愛情表現のようなものだ、と祖母が言っていた。
事実、母にはそういうところがあり、父とは自分からプッシュした大恋愛の末、結婚した癖に結構酷いことを言っていたような覚えがある。
父はそういう母の素直じゃないところがかわいいと思っていたようで、結果として仲のいい夫婦だったのだが、今思えば面倒な性格をした人であった。
リリアにはそう言った面倒なところはないだろう。
少し真面目すぎるところがあるが、概ね素直な性格をしている。
したがって、俺のアドバイスにも真面目な顔で頷き、
「好きなものかぁ……そうだなぁ……お花とかかな。私、もともと森に住んでたから……」
と言う言葉が出てきた。
リリアが一体どういった事情で冒険者になろうとしたのかは聞いたことがない。
俺も自分の事情について詳しくは話していないし、その状態で彼女にだけそれを尋ねるのはルール違反のような気がしている、というのもあって聞けないのだ。
ただ、こうやってたまに漏れる台詞からすると、どうやらリリアは深い森の中で自然と親しみながら暮らしてきたのだろうということは分かっていた。
そんな彼女が好きなものが花、というのは納得できる話である。
リリアは思い出すような表情で続ける。
「森の中には色々なお花が咲いてたけど、一番好きだったのは水仙だった。ユキトの話を聞いて、思い出したの。やっぱり、森って冬場は寂しくなるんだけど……水仙の花は雪の中でも綺麗に咲いててね……」
リリアにとって、水仙はいい思い出を象徴する花らしい。
柔らかい微笑みを浮かべながら、リリアは言う。
「冬の間に森を歩いてると、ふっと甘くて強い、けれど、あぁ、お花の香りだなって分かる包み込むような匂いがするの。その匂いを辿って歩いていくと――少し、勾配のある斜面一面に咲いた水仙の花があって……雪の中なのに、凛としてて……すごく幻想的な風景なんだよ。私、水仙の花が咲いてる季節は、その場所に気づいてからは落ち込んでるとき、いつも通ってた……」
リリアの語る話には確かにどこかに連れて行かれそうな幻想的なところがあった。
それは、氷虎の少女にとっても同じだったのかもしれない。
いや、彼女はリリアと心鎖でもって意思の直接的交感がなされているのだ。
リリアの感じる想い出への郷愁が、氷虎の少女に直接伝わっているのかもしれなかった。
それから、ゆっくりと目を瞑ったリリア。
きっと、その思い出の景色を瞼の裏側に見つめているのだろう。
そして、目を開いた彼女の瞳には、もう迷いは無かった。
リリアは氷虎の少女の顔をまっすぐに見つめて、言った。
「――あなたの名前は、プリムラ。今日からあなたはプリムラだよ」
少女が果たして気に入るのか、という問題が最後に残っていたが、杞憂だったらしい。
少女――プリムラは、その名前に微笑み、それからリリアにゆっくりと抱き着いたのだった。