第51話 契約の儀式
「こ、こわいよう……」
「下を見るからいけないんだ……上を見てればいいんだよ。上をさ」
リリアが恐怖に慄きながらも下を見ずにはいられないのは、俗に言う怖いもの見たさという奴だろうか。
俺からすれば高いところから下を眺めてしまえば自分が地面に落ちて潰れたトマト状態になってしまっている未来を想像せずにはいられなくなるのだから、見ないに越したことはないと思うのだが……。
まぁ、こういうことは理屈ではない。
つい、やってしまうという気持ちも分からないではないので、これ以上何か言おうとは思わなかった。
俺たちが今、そんな風に下を見たら怖がらざるを得ない状況にいるのは、つまり崖を昇っているからで、それは最終的にリリアの従魔を得るために行っているのだから、仕方のないことでもある。
ちなみに、リリアは自分の力で崖を上れるような握力も体力もないから、俺の背中に丈夫な紐で括り付けられていて、恐怖のおんぶ状態であった。
俺が崖から手を離したらその時点で一緒にまっさかさまである。
もしかしたら、普通に自らの力で崖を登っていたら少しくらいは恐怖も軽減されたかもしれないが、それは今更言っても仕方ないことだろう。
そもそもそれが事実だったとして、リリアは登れないのだから考えるだけ無駄というやつである。
崖登りであるが、俺は前世、特にロッククライミングを修めたとかそういう特殊な経歴があったわけではないが、こちらの世界に転生してから、両親と魔女の婆さんにひたすらそんなようなことをやらされたので、慣れていると言ってもいい。
それこそ姥捨て山よろしく、背中に木枠で出来た背負子に魔女アラドを背負って何度も登ったり降りたりをやらされたくらいだ。
もちろん、本当に魔女アラドを山に捨ててきたわけではない。
というか、あの婆さんを役立たずだと言って山に捨てたところで、山に謎の要塞設備を作り始めかねない程度には、極端な技術力があの婆さんにはあったのだから、無駄な話だ。
シンデレラとかいばら姫とかの話を俺は過去、あの婆さんに自分の考えた話として本にまとめて送ったことがあるのだが、やはり魔女が出てくると親近感を覚えるのだろうか。
謎の糸車やらかぼちゃの馬車やらを作っていた記憶がある。
今思えば馬車はともかく糸車はヤバそうなので処分したかったが、今もまだおそらくは廃墟になっただろうデオラスの城の奥の地下室にあるのだろうか……。
考えると少し怖い。
そんなことを考えるうち、俺はリリアを背負いながらも、ほとんど苦労もせずに崖を登り切り、目的の洞窟へと近づいた。
見れば、洞窟の入り口には巨大な爪でつけられたらしき傷跡があり、これはつまり氷虎の縄張りを示すマーキング行動か何かなのだろうとあたりをつける。
リリアに聞いてみればその通りだというので、ここが氷虎の巣ということで間違いないようだ。
俺は剣を抜き、魔力を通してから、先に洞窟の中に踏み込んだ。
リリアにも身体強化はかけておくように指示してある。
小さな油断が、いかに優れた人間であっても簡単に命を奪うことを、俺はよく知っていた。
だから、こういう場面で、あまり楽観的な予想をあてにしたりはしない。
常に、最悪の事態を考えて、動く。
それは魔女アラド、それに両親の教えでもあった。
洞窟の中は、氷虎の巣だけあり、肉食獣の匂いが充満していた。
人によっては眉をしかめるような匂いだろう。
けれどリリアはその匂いが嫌いではないらしく、すんすんと嗅いでなんとなくうれしそうにしている。
魔物調教師というのは獣の匂いが好きなものなのか、それともリリアだけなのか、それは彼女しか魔物調教師を知らない俺には判断できないが、どことなく特殊な性癖のように思えて何となく引いてしまった。
そのことを敏感に察したらしいリリアは色々言っていたが、それはとりあえず置いておき、先に進んでいく。
泣きそうになっていたけれど、それもまた放っておいた。
別にいじわるしているわけではない。
断じてそんなことはないのである。
洞窟の中は、奥に進むに連れ、徐々に涼しくなってくる。
いや、むしろ寒い、と言った方がいいかもしれない。
天井を見れば、そこにはつららが延びているのが見えるくらいだ。
吐く息は白く、足下には靄のように冷気が這っている。
「氷虎は寒いところを好むんだって。だから、巣にはたくさんの魔石を集めて、自分の魔力を込めて冷たいところにするんだよ」
どうやら、氷虎が魔物を大量に殺し回っていたのは必ずしも縄張り確保のためだというわけではないようだ。
魔石は魔物の体内のみに存在しているわけではないが、魔物の体内には基本的に存在するものなので、数を確実に確保しようとするのなら、魔物を殺し、解体して集めるのが一番楽だ。
氷虎は自分のためにそれを行っていたという事だろう。
厳密に言うなら、自分の子供のためか?
育児環境を確保するために、そうしていたということだろう。
中々に子育てに手間をかける種族のようだった。
そんな風に雑談しながら、洞窟の一番奥に来ると、そこには大量の藁で作られたベッドがあった。
その上に、一体の氷虎の幼生が眠っている。
親とは異なり、かなり小さく可愛らしいそれは、とてもではないが強力な魔物の一員とは思えなかった。
リリアはといえば、その幼生を一目見た瞬間から目を輝かせており、その魅力にやられてしまったらしいことが分かる。
問題は可愛さとかではなく、リリアが魔物と契約できるかどうかなのだが、その辺を聞いてみると、
「……うん。たぶん、出来ると思う。親を殺して子供を仲間にするって、間違いなく悪魔の所行のような気もするけど……」
言われてみれば、その通りなのだが、そこは言わぬが華、というものだろう。
人は昔から、自分たちが生き残るため、魔物を利用してきた。
これもまた、その一環である。
そう割り切るしかない。
だから俺は黙ってリリアの背中を押した。
リリアが藁のベッドに近づくと、耳をぴくぴくと動かした幼生が、ゆっくりと目を開いた。
気づかれたらしい。
逃げられると困るので、俺はリリアの後ろで見張りだ。
よほどの高速で動かれない限りは、逃げても俺が捕まえることができる。
逃げるような魔物と契約できるのかどうかは分からないが、ダメならダメで売ればいいだろう。
いいお金になるらしいしな。
リリアが徐々に近づいていく。
そして、リリアは藁のベッドの前、幼生から30センチも離れていない位置にまで達して、屈んだ。
けれど、幼生は未だに逃げる様子はなく、じっとリリアを見つめている。
幼生が何を思って彼女を見つめているのかは、俺には分からない。
ただ、その反応がここに来るまでに出会った様々な魔物とは明確に異なるものだということは分かった。
これが、魔物調教師が契約できる魔物の反応という奴なのだろうか。
そうだとするなら、契約は成功するのだろうか。
専門家ではない俺には、これ以上、なにもできることはない。
ただ、リリアと幼生の無言の会話、らしきものを見つめていることくらいしかできない。
それからどれくらいの時間が経ったことだろう。
見つめ合っていた二者。
そのうちの片方が、とうとう動いた。
リリアが、ゆっくりと氷虎の幼生に手を差し出したのだ。
それを見つめた幼生は、そっと立ち上がり、リリアの手に近づいて……。
ぺろり、と嘗めた。
「ふふ、くすぐったい……」
それから、リリアと幼生が打ち解けるのは早かった。
気づいたときには、ごろごろと猫の様に転がる氷虎がリリアの手にじゃれついて遊んでいた。
リリアも楽しそうにしていて、これはもう大丈夫なのではないか、と思った俺は、控えめにリリアに話しかける。
「……契約は、いけそう?」
するとリリアは、俺の存在を今の今まで忘れていたかのようにはっとして、俺の顔を驚きの表情で見つめた。
「……まさか、俺のこと忘れてた?」
「……ごめん。この子が、あんまりにもかわいかったから……」
しゅん、としてそんなことを言うリリア。
まぁ、確かに幼生は可愛らしく、いつまで見つめ続けていても飽きそうもない。
肉球がぷにぷにしていて、リリアはそれをいじくりながら俺の話を聞いている。
真面目に聞けと怒鳴りたいところだが、まぁ、今のリリアには多少の癒しが必要だろうと勘弁してやることにした。
しかし、それでも、ここら辺りにはほとんど魔物の気配はないとは言え、俺たちがいるところは一応、多量の魔物のいる危険地帯なのだ。
さっさと終わらせるべきことを終わらせて、ずらかるべきなのは間違いない。
「まぁ、忘れていたことはいいよ……それより、契約の方はどうかな?」
言われて、リリアは幼生を見つめる。
そして頷き、言った。
「……うん。たぶん、大丈夫だと思う。だいぶ私に懐いてくれているし……契約、しちゃうね」
そうして、リリアはここに来るに当たって用意していたものを出すように、俺に言った。
契約に必要な道具のいくつかを、リリアは事前に収納袋に入れていたのだ。
その内訳は、表面に複雑な文様の魔法陣が描かれた大きめの布に、蝋燭である。
リリアは布を地面に広げて、その中心に立つように幼生に言った。
契約をしていない状態なのにも関わらず、幼生はリリアの指示に従ったように、いそいそと布の上へと進んでお座りをする。
さらに首を傾げてくりくりとした丸い瞳で見つめる幼生の姿に、一瞬、リリアは悶えかけたが、そんな場合ではないと気を引き締めたらしく、ぎゅっと表情を押さえて、蝋燭の配置を始めた。
蝋燭は全部で四本。
布の四隅に置き、魔力を通す。
どうやら、あの蝋燭は魔力を少量そそぎ込むことにより、自動的に着火がなされるタイプの魔道具らしく、リリアのそこそこの魔力でも十分起動できるようである。
そして、リリアは布に触れて、自らの持つ魔力を注ぎ始めた。
ゆっくりとではあるが、布に描かれた魔法陣から魔力光が漏れ始める。
そうして、リリアがその持つ魔力のだいたい、半分程度をそそぎ込んだとき、その発光は頂点を迎えた。
魔法陣の中心に座る、氷虎の幼生は驚いたように目を見開いているが、あわてる様子もなく落ち着いている。
賢い個体なのか、それとも氷虎と言う魔物が元々賢いのか。
あの母親氷虎の戦い方を見るに、おそらくその両方なのだろうと思われた。
そうして、光は徐々に強くなり、氷虎の幼生もまた光を帯びていく。
輝きが頂点に達する、そう思った瞬間、氷虎の幼生から、レーザーのように光がリリアの胸元へと照射され、二者が光の橋で繋がれた。
リリアの顔に特に驚きはなく、そのことからこの現象が特に不思議なことではないことが分かる。
これが魔物調教師と従魔との契約魔法、というものなのだろう。
初めて見たその光景は幻想的で、何か歴史的瞬間にでも立ち会っているのではないかと思わせるほど厳かなものに満ちていた。
――このまま、契約よ、成れ。
俺はそう願って一人と一匹の様子を見守る。
けれど突然、ふっと、その光が揺らいだ。
リリアと幼生を結ぶ光が、直線だったのに、徐々に曲がってずれていく。
これもまた、想定内のことなのかとリリアの顔を見れば、あわてた顔をしており、これはどういうことかと思った俺は黙っている訳にもいかず、叫んだ。
「リリア! どうなってる! これでいいのか!」
「う、ううん……このままだと失敗しちゃう! まずいよ!」
どうやらこれは予想外の出来事のようで、リリアの目がひたすらに泳ぐ。
俺はリリアに冷静さを取り戻させるべく、そして契約を成功させるべくどうすればいいのか尋ねることにした。
リリアは、物事を考え始めると冷静になれるタイプだからだ。
「どうすればいい……何が原因か分かるか!」
俺の言葉に、リリアは期待通り、静かに思考を巡らせてからはっきりとした口調で答えた。
「ええっと……たぶん、魔力の均衡が保ててないからだと思う……私の注いだ魔力と、幼生の持つ魔力が本当はぴったり同じじゃないといけないんだけど、ずれてるんだ……!」
どうやら、魔物調教師の行う契約魔法には、縛りがあるらしい。
契約者と、その相手方の持つ魔力量を均衡させなければならないという、縛りが。
リリアが言っているのは、つまり、それを破ると失敗するということか。
確かにリリアと幼生を魔眼でもって見つめてみれば、リリアの持つ魔力と氷虎の幼生の持つ魔力との均衡はわずかながらにずれており、リリア側の持つ魔力の方が多いような印象を受ける。
それを理解した俺はリリアに叫ぶ。
「リリア! 少し、魔力を幼生の方に注げないか!」
しかし、リリアは首を振った。
「一度発動しちゃうとどうにもならないの……そ、そうだ! ユキト! ユキトが注いでくれればっ……」
自分の魔力を幼生側に注ぐことは出来なくとも、外部からの干渉は出来るらしい。
「それでいいのか? 俺が注いでも契約は成立するのか?」
念のため、確認しておく。
やっておいて失敗した、では困るからだ。
リリアは少し悩んだ様子で答える。
「やったことないから、実際どうなるかは予測できないけど……他に方法は……っ」
ばちり、とリリアと幼生とを繋ぐ光がうねっている。
この様子では、この状態が長く持たないのは明らかだった。
たとえそれが一種の賭けになるとしても、俺がやるしかないだろう。
俺はそう心に決める、魔法陣へと近づいた。
そして、ゆっくりと光り輝く幼生に触れる。
とても柔らかいその体毛に、少しいやされるものを感じるも、今はそんな場合ではない。
俺は自らの魔眼の伝えてくる情報に従い、幼生の中へと魔力を注ぐ。
そして幼生魔力をぴったり、リリアの持つ魔力と合わせる。
それは、魔眼を持つ俺にとってそれほど難しいことではなかった。
幼生が俺の介入を拒絶しないでくれているのも大きい。
俺の持つ魔力を、幼生は抵抗しないで受け入れたので、スムーズな受け渡しが出来ている。
そして、
「……よし、ぴったり同じだけの魔力になった! リリア、早く契約を!」
そう言ってから一人と一匹の方を見てみれば、リリアと幼生を繋ぐ光の橋は、偏りのない直線になっており、安定しているように思える。
だがこれは、本来のやり方ではない、第三者の介入を経た変則的な契約術式だ。
いつ、どんな原因で崩れるか分かったものではない。
だからこそ、俺はリリアを急かすように叫んだ。
リリアもそのことをよく分かっていたのか、契約を進めるべく、必要な言葉を紡ぐ。
「……魔を宿すモノ、人ならざる獣……今こそ私との間に魂の繋がりを打ち立てよう……共に世界を駆けめぐろう……契約!」
その呪文は、リリアが魔物調教師になったときに教わった契約の言葉なのだという。
呪文に決まりはないが、何度も発動の練習をした言葉でないとうまくいかないので、リリアの場合はこれで固定らしい。
リリアが唱えると同時に、リリアと幼生を繋いでいた光は白色から色を変えて蒼く染まる。
そしてその光は、蒼い光の柱から、冷気を帯びた氷の柱へと姿を変え、リリアと幼生の間から徐々にその姿を消失させていく。
最後に、リリアの胸と、幼生の胸へと溶けるように消えていき、契約魔法陣の光も完全に消失したのだった。
「契約は……?」
光も全て消え、魔力の動きもほとんど見えなくなり、辺りが通常の様子に戻ったのを確認したので、そう尋ねると、リリアが少しだけ息を切らして答えた。
「成功したよ……」
答えるとその直後に、かくり、と膝が崩れたので、俺はリリアの体を支えた。
どうやら、相当疲れたらしい。
俺とは異なり、魔力の大半を契約につぎ込んだのだ。
そうなるのもさもありなんという感じである。
「ま、よく頑張ったよ」
俺がそう、労うとリリアは少し笑って、自分の従魔を気にし出した。
「……あの子は……?」
言われて、俺は魔法陣を振り返る。
ずいぶんと賢そうだったし、怯えてもいなかったからきっと大丈夫だろうと思っていたが、リリアもこれだけ疲れているのだ。
幼生の方にもそれなりの負担がかかっているかもしれない。
リリアに、
「ちょっと確認してくる」
と言って、地面に座らせてから手をそっと離すと、俺は魔法陣の中心へと近づいた。
するとそこにいたのは、
「……え?」
服を着ていない、水色の髪をした小さな女の子だった。