第49話 福音
「……まぁ、とにかく、さっさと離れた方が良さそうだね……」
俺は周りの惨状に気を配りつつそんなことを呟いてみた。
――しかし、フラグというものはあるものだ。
こんなことつぶやき始めた奴の前には、お約束に従って登場しなければならないのが、強力な敵というものの義務であり役割でもある。
だから、別段、目の前にその存在が唐突に現れたのは不思議なことではなかった。
それは、その場にゆっくりとある意味王族のような威厳を漂わせ、自らの存在を誇示するかのような歩みで現れたのだった。
したがって、まるで、よく躾られた王女が王宮を歩いているかのような優雅さを感じさせる足取りで、その巨体からは想像もつかないくらい静かな動きでまっすぐにこちらを見つめて進んでくるその生き物を、美しい、と評価するのはけっして間違いではないだろう。
雲一つ無い空を上回る美しさを持った蒼い体毛、人間とは異なるが、明らかに深い知性と理性を宿しているだろう黄金の瞳、その辺の刀剣より遙かに鋭く研がれた爪、そして何より人間など遙かに越えた、5メートルを超える巨体。
化け物、と言ってなお足りない強力さを帯びた魔物、氷虎が目の前を闊歩していた。
「……っ」
リリアが息をのんで、氷虎を見つめている。
何も言葉が出ないのは、目の前にいるその魔物の殺気に当てられているからだ。
そう、殺気だ。
あの氷虎は明確に俺たちに対する殺意をもって行動している。
そしてその理由は――
おそらくは、縄張り。
あの氷虎の持つそれに、俺たちが不用意にも立ち入ってしまったことが原因だろう。
このまま黙っていれば、まず間違いなくあの氷虎は俺たちに襲いかかる。
それだけのものを、あの氷虎は俺たちに向けている。
だから、俺は手に持った剣をしっかりと握り、リリアに言ったのだ。
「……よし、倒そう」
「えぇっ!?」
リリアが目を見開いて俺を見つめていた。
◇◆◇◆◇
「何を驚いているんだ」
「いや、だって! あれ、見たでしょ! 今もこっちを睨んでるよ! 危ないよ! 危険だよ! 逃げるべきだよ!」
今にも襲いかからんと体を低くして構えている氷虎を前に、リリアは余裕があるのかないのかそんなことを叫ぶ。
冒険者組合ではじめてひっつかまれたときにも思ったのだが、彼女はいざとなるとずいぶん腹が据わる性格をしているらしい。
一瞬前の、何も言えなくなって思考停止していたことが嘘のようだ。
もちろん、彼女の言うことは一理も二理もあって、正しくないとはとてもではないが言えない。
けれど、そんなことを言い始めるのならそもそも氷虎出現の情報が合った時点で《錆の渓谷》に入るなんて言う選択をとるべきではなかったのだ。
ましてや目の前に現れてしまった時点で逃げても追いつかれることが容易に想像できる以上、そんな選択肢存在しないことは火を見るより明らかなことだろう。
今更何を言っているのか、というのが俺の正直な感想である。
そう告げると、リリアはバツの悪そうな表情をして、ちらちらと俺と氷虎を交互に見つめてため息を吐き、尋ねてきた。
その様子には、怯えなど感じられない。
「……倒せるの?」
「もちろん」
「……はぁ。分かった。つきあわせてるのは私の方だし……でもまだ死にたくないから、完全に任せちゃってもいいかなぁ?」
能天気な内容と響きだった。
この言葉を向けられた相手が俺でなければ、怒り狂ってもおかしくないような台詞である。
しかし、それもまた俺からしてみれば、当然の話であった。
リリアにはある程度鍛えてもらったが、まだ氷虎を倒せるほどではないのだから。
リリアはそんな俺の意見を聞くと、さらに深くため息をついて、
「じゃあ、がんばってね……応援してる……」
と何かを諦めたかのような顔で言って、細剣とダガーを構えた。
「私も自分の身くらい、努力して守ることにするよ。骨になる時は一緒だよ」
覚悟が決まったのか、まっすぐに敵を見つめるリリア。
気づいたときには、氷虎の横にニ体ほどの雪山猫が付き従うように現れていた。
白い体毛にぽつぽつとした水玉模様が美しい。
その毛皮は高級な防寒具として都会の奥様方に人気らしい魔物である。
おそらくは、あの氷虎の手下か何かなのだろう。
感じる威圧から、その強さは豚鬼には至らないが、緑小鬼よりは上、といったところだろうか。
あのくらいなら、リリアでもなんとかあしらえるレベルだろうと思い、俺は、
「じゃあ、リリアはあの雪山猫をよろしく」
そう言って、氷虎に向かって走った。
リリアも分かったもので、言われた瞬間に低級身体強化を唱えて自らの身体能力を上げ、身構えた。
その場から動かない氷虎。
雪山猫は遊撃担当なのか俺に向かってくる。
それを俺は軽くいなして、一匹をリリアの方へと吹き飛ばし、もう一匹は首を切り落としてその場で倒す。
氷虎もそのままの勢いで倒せないかと思ったのだが、そう、事はうまく運ばない。
結構な速度で振り下ろした長剣の一撃を、氷虎はその身に宿る魔法的権能を使用して避けたのだ。
俺の剣が彼の虎に届こうとしたその瞬間、氷虎の美しい蒼毛が輝きを帯び、目の前に向こう側が透けるほど透明度の高い氷の盾が出現した。
所詮、氷と侮りながら剣を引かずに振り下ろした俺の油断をあざ笑うように、たかが氷とはとてもではないが言えないような強度を発揮したその氷は、魔物の首を刎ねるほどの力を込めた俺の剣の一撃に耐えきった。
俺の剣を防いだその氷は、その直後、役目を終えたとでも言うように、ふっとその姿を揺らがせて消滅する。
代わりにその氷のあった場所から現れたのは氷虎の爪だった。
氷の盾を目くらましに使った、と言う訳だ。
相当に賢く、油断ならない相手だと心を改める。
強大な力でもって振り切られるそれを、俺はかろうじて剣で受け、思い切り後ずさる。
結果として、うまい具合に距離が出来た。
しかし、
「……グルァァァァァァァァァ!!!」
氷虎が思い切り息を吸い込み、吠えた。
あたりをびりびりと振動させ、体の中まで響いていくるその強大な叫び声は、ただの威圧というわけではなく、魔力的効果まで有する強力な魔技だったようだ。
魔物や人が魔力を使用して起こす特別な効果を持った技、それが魔技であり、魔法とは異なり、魔力以外に生物に宿る力、"気"をも使用していることから、魔法とは区別されている。
その威力は必ずしも魔法より高いわけではなく、魔法も魔技もそれぞれ長短あって、使い分けをするのが普通だ。
魔物は魔法とともに、魔技をも本能的に身につけていることが多く、それこそが魔物を通常の動物とは分け、魔物たらしめる恐ろしい性質なのである。
目の前の氷虎は、まさにそれを、魔技を使用したのだ。
叫び声に魔力と気を練り込み、辺り一帯に浸透させることによって、恐慌と混乱の渦へと陥らせる効果を持つものだ。
見れば、後ろで雪山猫と戦っているリリアがびくついて足を止めている。
幸いなのは、雪山猫すらも足を止めていることだろう。
どうやらあの氷虎は今の技を、対象を選別して使用できるわけではないらしい。
俺はすぐにリリアに向かって浄化の魔法を飛ばし、その精神の汚濁を取り払う。
恐慌と混乱は、体内魔力の乱れによって人工的に引き起こされる現象であり、氷虎の魔技は魔力と気によって一定の空間に存在する生物の体内魔力を揺らすことにより、その状態を作り出す技だ。
したがって、治癒に必要なのは、体内魔力の正常化であるから、それに対応した魔法をリリアに飛ばしたのだ。
治癒系の魔法はそう簡単に射程が延びるものではないが、俺には魔女に学んだ技術がある。
ある程度離れてもこの程度のことなら朝飯前だった。
雪山猫の方は恐慌状態に陥ったとは言え、さすがに味方の放った技に過ぎないからだろうか、多少体の動きは鈍くなってはいるが、すぐに動ける程度には回復している。
今の状態なら、リリアとちょうどいいくらいの実力だろう。
緑小鬼程度まで弱体しただろうその雪山猫に、リリアはまっすぐに向かっていく。
その様子を見て安心した俺は、再度氷虎との戦いに意識を集中した。
魔法を飛ばしている間も、リリアを観察している間も、間断無く飛びかかってきてはいたのだが、やはり俺にとっては氷虎はそれほどの強敵ではないようだ。
その鋭い爪も、巨大な咢も、当たらなければどうということもなく、剣の強度も相まって、すべての攻撃をいなし、除けることは難しいことではなかった。
はじめは圧され気味だった戦いも、少しずつ形勢が逆転していき、氷虎の動きが鈍っていく。
体力が徐々に低下していく氷虎。
それを確認した俺は、そこで初めて魔法を使うべく魔力を身に宿して循環させ始める。
そして、唱えた。
「……上級身体強化!」
呪いより二段階上の強化魔法、福音による身体能力の上昇は、周囲の時の流れをすら遅く感じさせた。
目の前の氷虎の息づかいが聞こえる。
もはや、負ける気はしなかった。
「覚悟してくれ……氷虎」
気のせいか、氷虎の目に、怯えが宿っているように感じられた。