第1話 プロローグ
つまり、人には苦悩があると思うのだ。
いきなり何を言っているんだ、と思ったかもしれない。
けれど、俺の言っていることを間違っている、という人はいないだろう。
いないだろ?
苦渋の決断、というのはどうしようもないときにするから『苦渋の』という訳なのだし、その決断は仕方がないことだ。
何せ、他に選択肢を見つけることが出来なかったからこその、決断なわけなのだから。
だから、許してほしい。
そう、俺は神殿の床に描かれた巨大な魔法陣を目の前にして思う。
目の前の普通の魔術師には理解できないような複雑な構成をしているその魔法陣の中に、大量の魔力を注ぎ込んでいるのは俺だ。
こんなもの、俺以外の誰にも発動させることは出来ないのではないだろうか。
と言うのは、流石に言いすぎにしても、こんな魔術、構築も発動も出来る者などこの世界広しと言えどもそれほど数は多くないはずだ。
もう少しで、この魔術は完成する。
そう、魔術。
召喚魔術。
何を召喚するかって?
――勇者に決まってるだろ。
◆◇◆◇◆
……多分俺は、死んだのだ。
そう認識したのは、改めて目を開いたその時の事だった。
改めてとはどういう事かと言うと、つまり俺は一度意識の全て、命の何もかもを散らしてしまったあと、レテ河だか三途の河だかを渡りきったのちに、閻魔大王とかハデスとかに人生裁判をされて、君はもう一度人間に生まれていいよと言われて生まれ直したということに他ならない。
予想外だったのはもう一度"地球"に生まれていいよ、と言われたわけじゃないということ。
よくわからない謎の真っ白空間で出会った、そのいかにもなお方は興味なさそうな顔で、悪びれもせずに一息に言ったのだ。
「君は特に罪が深い訳でも、浅い訳でもなかった。だから、もう一度人間に生まれてもいいけど、ここで衝撃の事実。君は僕と――っていう神様との間の賭けの賭け金になってたんだ。実は僕はその賭けで激しく負けちゃってさ。そして賭けの相手方の神様は地球の……この世界の神様じゃないんだよ。だから君は僕の世界にもう一度生まれなおす、と言うのは無理になってしまったんだ。残念賞だよね。だからさ、次に君が生まれるのは別世界、つまり地球とは物理法則とかその他色々が異なる他の世界なんだ。あ、でもあんまり心配しなくても大丈夫だよ。だって流石の全能の神たる僕と言えど、少しくらいは申し訳ないなと思ってはいるんだよ、君には。だっていくら僕が神とは言え、君の意思確認もせずに勝手に賭け金にした上に爽快に大負けしたんだからね。そこんところ、向こうの神様も同じでさ。君の事、気の毒だって言ってたよ。だからそんなに酷いところに生まれることはないからね。そう言う訳で、頑張って。応援してる。いってらっしゃい。さようなら。――君」
などと。
まぁ。
誰がなんと言おうと俺はその時点で完全に死んでいた訳だし、地球に生まれようが別の世界に生まれようがそれは別にどっちでもよかった。
地球にこだわりがあるか、と言われるとアニメとか漫画とかにそれなりに執着はあったが、全く存在しない探しても見つからない、読みたいなら自分で作るしかないとなればそのうちその環境にも慣れるものだろう。
だったら別にいいか、と諦められる程度のものだった。
だから俺は比較的すっきりした気分で次の世界へと迎えたのだ。
問題は。
そう、その問題には、生まれてから初めて気がついた。
俺は神に対し特に今回の人生について注文をつけていなかった。
チートをくれとかいいところに誕生するように取り計らってくれとかそういうありとあらゆる希望をしなかった。
あの"神"は勝手に彼(彼女?)自身が思うことを延々と好きなように俺に語ったのであって、俺が希望していたことを読み取って語ったとか心の奥底にある願望を実現してくれようとしたとかそんなことは全くない。
にもかかわらず、俺は生まれた直後から意識があった。
そう、俺は俗に言う、転生チート、というやつを授かったわけだ。
嬉しいかって?
――微妙、としか言いようがないな。
◆◇◆◇◆
ぼんやりと目を開くと、そこは新たな世界だった。
俺を初めて抱き上げたのは、妙に迫力のある真っ黒なローブを着た婆さんだった。
しわがれた声で、彼女は言った。
「おぉ……この子は! とうとう、とうとうこの時が来たのじゃ……! この子は王国の希望になりますぞぉ!」
その言葉が本気だったのか冗談だったのかおべっかだったのか、はっきりしたことは分からない。
けれど、俺は一番最後だったのだと思っている。
なにせ俺の転生先、それはとてつもなく権力のある家だったからだ。
つまりそれは、デオラス王国、というところの王族、ということだ。
俺の立場は、デオラスの国王エルトモラルガルドローの正妻ププリ=プリ=ププリンの第一子、つまり長男だった。
それが何を意味するか、分からないわけがない。
俺はこの王国の次期国王、という立場に生まれたのだ。
ありがちで分かりやすい運命操作に喜んでいいのか呆れればいいのか分からない。
まぁ、貧乏な家とか奴隷とかに生まれるよりかはずっといいのだろうけれど。
恵まれている、と考えるべきだろう。
ちなみに俺を抱きあげた婆さんは『王国の魔女』と呼ばれる変わり者の魔女だった。
この世界――地球のように、特に世界に名前があるわけではなかったのでファンタジー的にはちょっと寂しかった――には、予想通り、というか想像通りに魔法や魔物と言う不可思議現象が存在した。特にその現象の原動力となっているのは魔力と呼ばれる不可視の力であり、それを学問的に研究することによってこの世界の人間は文明を築いていた。
地球の科学との相違点を探すなら、魔法や魔力の扱いに関しては個人によってかなり大きな差があることだろう。科学で言うなら頭脳指数や記憶力やセンスが高いとそれが才能の差だと言われるが、魔法において、それは内在魔力、つまり体内にそれぞれの生き物が持つ魔力の大きさによって決められる。
通説的考え方によると、内在魔力の大小は後天的な努力によって変更することのできない特別なものであるとされ、これによって魔法使いとそうでない人間との分類がなされるのである。
ただ、これはこの世界に住んでいる人間の一般的な感覚の話だ。
実際にはどうかというと、確かに生半可な努力によって魔力の大小は変えられないが、不可能ではなく、またある程度遺伝することが分かっている。
つまり、魔力の高い者同士が交配し続ければその家系は魔力の高い人間が生まれやすくなるのだ。
それを歴史的に行ってきたのが、王家であり、貴族である。
そのため、王家の人間は生まれつき人間としてはかなり高い魔力を持つ者が多い。
しかし、この世界には人間以外の種族もいるとされている。
亜人と呼ばれる、耳が長い、角が生えている、など通常の人間とは異なる特徴を持つ者たちだ。
いるとされている、というのはその人間以外と人間との違いがいまいちよく分からないからだ。
神の造形によるものだ、と言う話が最も流布している考え方であるが、そうではなくただ進化の過程で別れたに過ぎないと言う者も少なからずいる。
俺としては後者を押したいところだが、今のところ少数説だ。
そして、そんな亜人と呼ばれる種族の中に、"魔女"と呼ばれる者達がいる。
俺を抱き上げた婆さんは、そんな魔女の一人だ。
魔女は、非常に変わった種族だ。亜人に数えられる種族なのだが、人と異なる外見的特徴が明確には存在しないと言われる。
にもかかわらずなぜ亜人扱いかと言えば、それは彼女たちは決して男性を生まないこと、さらに極端に長い寿命を持つこと、その個体数がかなり少ないこと、そして人間が持てる量を遥かに超えた内在魔力を持つことによる。
彼女たち一人で一国を落とせると言われ、国家は彼女たちを探し、取り込むことに必死になっているが、彼女たちは決して国に属さない。
理由は分からない。
彼女たちの殆どは人の住まない魔境に住んでおり、基本的に誰とも交わらずに暮らしているからだ。筋金入りの引きこもりなのである。
ただ、ごく稀にそう言ったところから出てきて何か行動し始めたりすることがある。
そして、そういうときは大抵が伝説になるような世界が大きく揺れ動く時代なのだ。
前回彼女たちが動いたのは天界と魔界が相争い、この世界がその余波で崩れ始めたときであり、その前は神が二つの陣営に分かれて世界の覇権を争った時であると言われている。
なぜ彼女たちがそう言った戦いに参戦したのかは諸説ありよく分かっていない。
それ以外にも、様々な逸話が世界各地に残っているが、その真偽のほどは定かではない。
ただ、彼女達魔女が神とすら争えるだけの力を持っている、という事だけは分かる。
そんな魔女の一員である筈の婆さんが、なぜうちの王国に属しているのか。
それは国王ですら分からないことらしい。
彼女は突然王国に来て、「もしもこの国を滅ぼしたくはないと考えるなら、わしをここに置くがいい、国王よ。無理強いはせんがね」と余裕綽々の笑みを浮かべて言ったのだという。
国王――俺の父親はそれが魔女の脅しであると考え、また魔女が神に等しき力を持つなどというのは眉唾ものであると思い、彼女を捕縛せんと騎士をけしかけたそうだが、ほんの一瞬の後に全員が無力化されてしまったという。
それから、「脅そうと思っている訳でもこの国を滅ぼしたいわけでも財宝を寄越せと言う訳でも生贄を捧げろと言いたいわけでもない。ただ、置いてくれればそれでいい。いずれ来る、そのときのために、ね。もしもただわしを置いておくことに問題があるというなら、何かわしに仕事を与えるといい。望むなら我が知識と魔道を伝えよう。それでも不足かね?」と言った。
彼女のいう事が事実であるなら、それは望むべくもない。
国王は彼女の提案を受け入れ、そして数年がたち、俺が生まれ、俺を取り上げるに至ったということだ。
魔女の婆さんは産婆の知識と技術を持っていた。
なんでも城に来る前は魔女としての力を隠しながら弟子と共に産婆として王国の地方都市で生活していたらしく、かなり重宝されていたらしい。
医師としての知識、治癒魔術の能力も魔女らしくずば抜けていて、彼女に取り上げてもらえるならその方がいいということになったのだ。
魔女婆さんは産婆だけでなく、様々な仕事をした。
自分で言った通り、王国の発展のために尽くし、王国の魔法使いに魔女の作り上げた魔法体系を学ばせ、また過去の様々な国々の盛衰の歴史を語り、書物を書き、さらに多くの国民の子供を取り上げ……まさにこの婆さんこそがチートなんじゃないのかと思うくらいの働きぶりだった。
内政チート、魔法チート、産婆チートだ。
それは俺の役目なんじゃないのか?
などと突っ込みたくは思ったが、突っ込んだところで共感を示して笑ってくれる人間などこの世界にはいない。
黙って見ているしかなかった。
さらに、いくら時間が経っても、彼女の目的は見えなかった。
彼女は、ただ王国のために尽くすのみ……。
生まれたときから俺に様々な知識や技術を教えてくれた魔女婆さんは、俺の祖母のような立場になっていた。
家族だと思っていたし、向こうもそう思ってくれていたと思う。
だから、こんな日々がこのままずっと続くのだと、そう思っていた。
◆◇◆◇◆
しかしどんなに楽しい幸せな日々にも終わりは訪れるものであるらしい。
悲しいことに、俺はそのことを、その日に知ったのだ。
その日、空は晴れ渡り、暖かい陽気が王都を照らしていた。
王都の人々はいつもと同じように朝早くから市場に出て買い物をし、また仕事へと出かけていく。
平凡な、春の日だった。
けれど、そんな平和はほんの少しの異物によって大きく乱される。
その異物は、王都の目抜き通りに現れた。
中空に漆黒の穴が唐突に現れたその時、王都の人々はいつも通りに過ごしていた。
だから、一瞬何が起こったのか、だれにも把握できなかった。
けれど、刹那の沈黙のあと、王都は阿鼻叫喚の地獄絵図へと変わった。
なぜなら、その漆黒の穴はその場所にいた親子連れの上半身を飲み込み、その場に下半身の身を残したからだ。
内臓が丸見えになったその親子連れの体がおびただしい出血と共にゆっくりと倒れ、そして王都の目抜き通りを覆う真っ白な石畳の上に、赤がまき散らされた。
それは新鮮な血液の色。
親子連れは命を落としたのだ。
後に分かったことによれば、その漆黒の穴は、魔族が開いた門という代物で、魔界と人間界を繋ぐ特殊な装置だった。
そして、それが王都に開いたという事は、魔族がそこから次々と現れることを意味する。
つまり、その漆黒の穴から、一人の、ハルバードを持った迫力のある大柄の鎧騎士が現れて、言った。
「人間よ、滅びよ!」
それが合図だったのか、鎧騎士に続いて次々に魔物が穴から出てきた。
怒涛のよう、とはこのことかと言うくらい、とんでもない数の魔物達がそこから出現したのだ。
当然、王都は蹂躙され、沢山の人が犠牲になった。
正直、そのままにしておいたら、王都はおそらく滅びていた。
いや、人類が滅びていたことだろう。
しかし運のいいことに、この王都には一騎当千、神にも等しい力を持つと言われる老婆、『王国の魔女』がいたのだ――
◆◇◆◇◆
王国の魔女アラド・ゴル・バーダ。
彼女の力をはっきりと把握している人間は王国にはいなかった。
彼女から魔導を、知識を学んでいた王国の者たちだったが、彼女はその能力の片鱗すらも見せていなかったことが、その時分かった。
魔女アラドは、王国に魔族の門が現れたとき、すぐに騎士団と魔法兵団に指示を出し、王国に広がった魔物の掃討を命じた。それから、自らもその戦いに参戦し、現れてから微動だにせずに佇んでいた、最初に現れた鎧騎士の元に向かった。
彼女は分かっていたのだろう。
その鎧騎士が、他の魔物など物の数にもならないほど強力な力を持つ存在だという事を。
アラドは鎧騎士の前に立ち、言った。
「よく来たね、薄汚い排泄物ども。お前ら等は、世界の塵と悪意から生まれた最悪の生き物だ。さぁ、人間界見物ももう十分だろう。疾く、去ね!!!」
それは彼女の口からはきいたこともない、巨大な怒号であり、またあまりにも汚い言葉だったという。
なぜそれほどまでに彼女が魔物を嫌っているのかは最後まで分からなかったが、ともかく心の底から彼らの事を呪っているのだという事はその台詞だけでも分かること。
アラドは叫ぶと同時に、その強大な体内魔力を一瞬のうちに練り上げて人間にはとてもではないが構築不可能な複雑さと巨大さを持つ魔方陣をいくつも展開して鎧騎士を取り囲んだ。
魔方陣を展開すると同時に、鎧騎士に対しても何らかの呪詛をかけているらしく、鎧騎士はその場を動こうと努力するも僅かずつにしか体を動かすことが出来ずにぶるぶると全力でその呪詛に抵抗するかのうように動いていた。
アラドはそれを見ながら、悠々と自らの魔法を組み上げるのだ。
急いではいない。しかしだからと言って遅くもない。
むしろ、信じられないほど高速なのだ。
ただ魔方陣に綻びは一つたりとも見つけないほどの精度で、アラドはいくつもの魔方陣を組み上げていく。
これが魔女なのかと、その場にいながら魔女と鎧騎士の気魄に呑まれて傍観していた騎士達に戦慄が走る。
そして、魔女アラドは組み上げ終わった魔法を鎧騎士に放つべく、不敵な笑みを浮かべてあらん限りの大声で鎧騎士を罵倒した。
「さぁ、人の世界から去れ、化け物!!」
魔女がゆっくりとその皺に塗れた手を挙げると、空中にいくつも浮かんだ魔方陣が輝きを増し、発動する。
瞬間、世界から音が消える。
――そして、爆音が街を包んだ。