王の代償
木が突然倒れてきたのは勿論偶発的なものではない。イルフの力を利用した。敷衍して言えば、イルフの〈恒久なる碧の王〉の権限を発動させ、木の根元の一部を腐らせたのだ。狙いの方向へ倒させるには計算などの高い技術が必要だが、そこはイルフ自身の力だ。まず外さないだろう。
だが、生きている木を倒すのはやはり抵抗があるらしい。その心情は葵にも解らなくはなかった。何十年、何百年にもわたって生き長らえてきた生命を絶ってしまうのだ。苦しくないはずがない。それでも王のため、といって妥協するのだそうだ。イルフも心苦しかろう。
だが、事態が事態だとイルフは言ってくれた。
慰められていると気付くと葵はその心遣いに嬉しく感じられた。二人の間の距離が近づいていると確信できる。
初めははりぼてのような薄い関係だった。いつ倒れてもおかしくない、少し風が強く吹くと、倒れてしまう、そんな関係だった。だけれど今は違う。弱く細い糸のような関係ではない。強く太い縄のような力強い絆が二人を結んでいる。それは誰にも切れない、家族の絆だと、葵は信じている。
葵は先刻の男の狂った表情に内心ビクつきながらも寝床についた。目を閉じると男の顔が浮かんでくる。それを振り払うと眠気に襲われた。思ったよりも体に負荷がかかっていたらしい。恐ろしいまでに黒い、濃密な暗闇は何かを暗示しているようで怖かった。ポツンと灯る豆電の明かりがひどく弱々しく、不気味だった。葵は急き立ててくる睡魔に抗えず、泥のように眠った。外はインクをこぼしたような深淵の闇だった。
深夜二時。
暗黒が支配する世界。全ての生き物は活動を停止し、一部例外を除き、完全に休眠をとる。人間も例にもらさず、夜勤や夜更かしをしている人を除けば、明日の活動エネルギーを補充するため寝床についているだろう。
葵は自室のベッドでぐっすり眠っていた。昨日の溜まりに溜まった疲労を癒すために。
イルフは隣の部屋で眠っている。普段は擬態を解き、樹の姿に戻るのだが、今回は状況が状況なだけに仕方ない。擬人化している間は疲れがとれないらしいが、今は我慢してもらうより他にない。
そんな誰もが寝入っている時間。
悪夢は始まった…
遠くで鈍い音がする。それは断続的に鳴り響き、歪な音を奏でる。葵は目ざとく、いや耳ざとくそれを感知し、目を覚ましてぼうっとする頭を無理やり起動させる。
…来たのか?
葵は悟り、前もって用意してあった服に着替え、辺りを見渡した。特に異常は見当たらない。当然だ。ヤツの目的は葵ではなくイルフなのだから。
そう考えるや否や葵は足早に自室を出、隣室に移動する。日本家屋特有の部屋のつくりで部屋同士が繋がっているので移動は二つの部屋を隔てる襖を開けるだけでよい。
少し年季の入った襖を引く。すすっと滑らかともぎこちないとも表現できない音が響く。
葵はその奥の光景に絶望した。
イルフが倒れていた。
苦しみ、悶えみ、低い呻き声をあげている。時折体をビクンと痙攣させる以外に体が動いている様子はない。硬直しているようだ。布団は向こうの方に飛んでおり、敷き布団でさえ乱れていた。
「イルフ!大丈夫!?」
葵は畳の上に転がっていたイルフを抱き寄せ、自分の膝の上に仰向けに寝かせる。イルフは葵の姿を確認すると少し安心した顔をし、にこりと微笑んだ。その表情が、とても痛々しくて、葵はやりきれなかった。
「どうしたの!?」
葵は明らかに動揺していた。まさか、寝ている間にあいつが来てしまったのか!?それならばなんと愚かなことなんだろうか!
イルフはそんな葵の思考を見透かしたように、首を左右に振った。
「ううん…違う…これは私の能力の…一部…」
「能力?」
まだ混乱は収まっていないが、今のイルフの発言一つ一つ聞き逃すわけにはいかない。なにせ葵は何も知らないのだ。イルフのことを…
困惑した表情はイルフの不安を増長するだけだと頭では理解できていても、体が言うことを聞いてくれない。そうしている間にもイルフの痛みは刻一刻と増している。イルフを見た。その今にも消滅してしまいそうな顔は葵の心を酷くざわめつかせた。
「でも…やつが来ているのは間違い、ない…やつは私の同胞を……木をへし折ってる…!」
心臓に針が刺さったような感覚を覚えた。あいつが来ている?本当に?どこに?
そして電撃が走った。体を突き抜けるような得体の知れない恐怖とも、朗報とも似つかない閃きを。
判ったのだ。
イルフを苦しめている痛みの正体が。
葵は一週間前のイルフと出会ったときの会話を自然と思い出していた。
民の痛みは、王の痛み―――
あのとき言っていたのはこういうことだったのだ。他にも言っていたような気がしたが、それを思い出すことは叶わなかった。
あの寝起きの際に聞こえてきた鈍い音は木が倒れる音だったのだ。場所は音源の方向からして裏手の森。おそらく重機か何かで無理やり倒しているのだろう。
何故あの男がこんな暴挙にでたのか。狂乱めいたことをしているのか。本来の目的を果たさず、何をしているのか。否言うまでもない。あの男は既に狂乱しているのだ。ゆえに、こんな無意味なことをしているのだ。けれど無意味ではなかった。この行為は確実にイルフにダメージを負わせている。民の痛みは王の痛み。すなわちイルフは下位組織である森の木々とリンクしているがゆえに、痛みもまた伝播し、これを行っているのが皮肉にも、やつだと判る。そしてあの男はそのことを知っていた。だから恥をかかせてくれたイルフに対し、報復活動を行った。森の木々を破壊することによってイルフに間接的攻撃を仕掛けてきた。姿は見えなくともあの男の酷く歪んだ顔が容易に想像できた。
イルフは苦しげに体をくねらせる。葵に出来ることはなかった。無力感だけが心の深奥に募っていく。本当に何も出来ない。ただただ事態が悪化していくのを傍観しているしかなかった。
「あっ……だ、ダメッ……!それは、それだけは……!」
ここにはいない、敵に乞うた。ぶるぶる震えながら伸ばした腕は何もない虚空を掴むだけだ。そこに何かあるように、何かを求めるようだ。
イルフのあの端正で美しかった顔立ちはいまや見る影もない。傷つくだけ傷つけられ、なぶり殺しされた奴隷のような、そんな酷い顔だった。声は掠れ、さらさらに流れていた長い白髪も心なしかくすんでいるように見える。衣服など言わずもがな、だ。
葵はやはり何も出来なかった。その小さな手をとることさえ、出来なかった。ただ小さく震えている体を支える、受け身的な姿勢でいることしか出来なかった。
「あっ………」
どぐしゃあ!!と、聞こえるはずのない音が聞こえた気がした。
そしてその時、部屋に包まれていた空気の質がぐるりと半回転180度変容した。その根源たるものはイルフだった。イルフはゆらりと覚束ない足取りで立ち上がった。両腕は垂れ下がり、首も座ってない。顔は見えない。長い髪が邪魔だ。でも今葵はそれで良かったと思ってしまった。見てはいけないような気がしてならなかったのだ。
「イ、イルフ?」
「………………………………………………………」
葵はイルフの豹変した姿に驚いた。いつものどこか謎めいて、穏やかな雰囲気のオーラとは似ても似つかない、ドス黒く、全てをはねのけ、何もかもを蹂躙するような異様な雰囲気に。
「………せない…」
「…え?」
「………………………………………………………」
葵はイルフの豹変した姿に驚いた。いつものどこか謎めいて、穏やかな雰囲気のオーラとは似ても似つかない、ドス黒く、全てをはねのけ、何もかもを蹂躙するような異様な雰囲気に。
「………せない…」
「…え?」
「……許せない、許せない、許せないゆるせない、ゆるせないゆるせないゆるせないゆるせないゆるせないゆるせないゆるせないゆるせないゆるせない」
永遠に続く呪詛の羅列に葵は恐ろしくなった。イルフがおかしくなってしまった。一体何故!?
そして葵は忘れていたもう一つの会話を思い出す。
民の怒りは、王の怒り。
「!!」
葵は今更のように思い出した事実に恐怖を抱いた。王とはつまりイルフ。民とはイルフの配下、下位の存在、つまりイルフ以外の植物。イルフは他の植物たちと感覚をリンクしているのだ。つまるところ植物たちの怒りは全てイルフに伝播してしまうということだ。いかに些末なものだろうと、動物たちに足で踏まれるなど、全ての植物たちの怒りをイルフは受けてしまう。怒りなどの負の感情を受け続けるイルフの精神はとっくに限界だったのだ。いつ壊れてもおかしくない、そんな瀬戸際でイルフはずっと我慢してたのだ。それが王たる所以。そして王に課せられた非情な運命…。
葵が知っているイルフはそこにいなかった。もしかするともう二度と戻らないかもしれない。今感情が爆発したということは、もう限界は迎えている。それが意味するところは…。そこに元のイルフはいない。
白く艶やかだった髪は赤く、血によって染められたような毒々しい赤に変貌していた。それは怒りの権化であり、血塗られた運命という鉄鎖であるかのように思えた。
イルフも初めは我慢していた。つらかったろうに。苦しかったろうに。あの男が木をへし折っていくときもずっと我慢していた違いない。だがイルフの大事な何かをあの男によって奪われた。もしくは壊された。そのせいで箍が外れてしまった。普段のあのポーカーフェイスも怒りを抑制するためのものだったのだ。けれどそれは周りに被害を及ばせない代わりに自分の中に怒りを押し込め、充填させていった。そして溜め込んだ怒りという名の弾丸は詰め込めすぎたために、暴発してしまった。
イルフは血で塗りたくられたような赤髪を逆立て、憤怒の形相で虚空を見ていた。ここにはいない、誰かを見据えたように。
「よくも、よくも、よくもよくもよくもよくもよくも…よくも…よくも!!」
怒りのゲージは既にメーターを振り切ってしまっている。このままでは何が起こるか判らない!早く止めないと!
「イルフ!ねえイルフ!」
葵は必死に呼びかける。だがその声が届いた様子はなく、未だ荒い鼻息を散らしていた。
イルフはよろよろとよろけながらも、森の方角へ向かっていく。あの男が待つ森へ。咎人を罰するために。イルフ自身怒りとともに強烈な痛みが襲っているはずだ。それを忘れるほどの怒りにイルフは支配されているのだ。このまま行けば敵の思うつぼだ。男はこれを狙ったのだから。イルフが錯乱し、一人でのこのこと出てくることを。しかもお互い何をしでかすか判らない狂乱状態だ。けど明らかに分は向こうにある。このままいけば…
こんなイルフは見たくない。いつものイルフに戻ってほしい。そんな欲求が芽生えた。
「イルフ!!」
葵は咄嗟にイルフの腕を掴んだ。
すると、じゅう、という擬音とともに葵の手から大量の湯気が迸った。
「熱っ!?」
反射的に手を引っ込める。掴んだ手は火傷で爛れていて、痛々しかった。
イルフは怒りによって体温が著しく上昇しているようだ。いや上昇という生ぬるいものではない。沸騰、空焚きをしているようだった。
イルフはそんな葵には目もくれずにどんどん先へ進んでいく。襖を開けて、表に出る。
葵は一瞬逡巡した。だが次にはそんな迷いも消え去り、覚悟を決め、正面からイルフを抱きすくめた。
体からあまりの高温に湯気が立ち込める。服を着ていない、地肌を晒した場所の皮膚が爛れていき、服は繊維が緩み、ふやけていく。
熱い。体が溶けていくようだ。
熱さも重度になると痛みに変わるようだ。その痛みに新たに痛みが重ねられ、痛みをだんだん忘れていき、痛みが感じられなくなる。ひょっとしたらこれは非常にマズいのではないのか?と素朴な疑問を投げかける暇さえ与えてくれない。
「イ…イルフ…」
ピクッとイルフ体が小刻みに震えたような感覚が体越しに伝わってくる。
「僕は、嫌だよ…君の…そんな姿を見る、のは…君にはずっと…笑って、いてほしいん、だ…」
たった一つの願い。他には何もいらない。葵の渇望は暗い夜空に吸い込まれていった。そんな中でイルフの髪が篝火のように赤く燃えていた。
「君の…その…背負ってる、もの…僕にも、背負わせて、くれ、ない…かな…過酷な運命だって、二人なら…きっと…軽く、なるよ…イルフ…僕に言ったじゃないか…自分を責めないで、って…僕も、似たようなことを言うよ」
痛みをだんだん感じなくなってきた。感覚器官はまだ生きているのだろうか。
「たとえどんな困難が待ち受けても、どんな理不尽な運命が定められていても、二人でならきっと切り抜けられる。一寸先は闇なら、照らせばいい。前に道がなければ、作ればいい。一人一人の力は脆弱で矮小でも、力を合わせれば大きな力になる。そう信じてる」
唐突に熱がなくなった。イルフの赤い髪は髪の付け根から元の白髪に戻っていき、逆立った髪も普段通りに重力に任されて下へ垂れた。イルフは泣いていた。ぽたぽたと大粒の涙を流していた。イルフは葵をじっと見つめていた。エメラルドグリーンの瞳に映る葵も泣いていた。瞼の端に涙が溜まり、重さに耐えきれず涙を零していた。心にあった感情の奔流が渦巻いていた。
「アオイ…」
そしてイルフを掴む手の握力を失い、葵はその場に崩れ落ちた。
「アオイッ!!」
「うぐっ…」
今まで忘れていたかのように激烈な痛みが葵に突き刺さった。体中が熱を帯び、全身に満遍なく釘を刺したような地獄の苦しみが葵を襲う。痛みは臨界点をとうに突破し、神経が麻痺しているのか、自分が痛いのかすら最早確認できない。
この火傷では生還は困難だろう。さらに悪いことには現在は深夜だ。営業している病院はない。冷たい現実を突きつけられて葵は絶望した。体はマグマのように熱いはずなのに、体は凜洌とし、真冬の屋外にいるみたいだ。ゆっくりと瞼が落ちてくる。上げようにも、そんな力が残されていない。もう目が開かない。
ああ、ごめんよ、約束守れなくて……
浮かんでくるのは自責の念だけだった。イルフと過ごしたかけがえのない日々。それを再び省みることなく、僕は死んでいくのか。あの懐かしかった日々を回顧して、葵は覚悟した。
だがいつになっても死は訪れない。それどころか痛みが消えていっている感じさえする。
葵は恐る恐る目を開いてみた。
そこは光があった。
正確には輝く星のように発光しているイルフが。
イルフは耀う緑色の光に包まれ、周りには付随しているかのように同じく緑色の燐光がちらついている。
イルフの唇と葵のそれが重ねられていた。イルフの顔がすごく近い。両手が葵の頬に添えられていて、目には涙が溜まっているのが判る。当然目は閉じられている。何か熱いものがイルフの唇を介して送られてくる。どうやらこれが葵の傷を癒してくれているらしい。
そしてその治癒性を持った何かと同時に怒涛のように感情の激流が葵に流れ込んでくる。
アオイ。アオイ。ごめん。ごめん。死なないで、死なないで、アオイ……!
癒やしの力を持った緑の光は葵に流れ込み、葵の火傷で爛れた皮膚を完全に元通りにさせた。
葵はそっと片手をイルフの頭に載せる。イルフは目を見開き、唇を離す。名残惜しく感じながら、葵は言葉を待った。
イルフの瞳から溢れんばかりの涙が洪水のように押し寄せ、言葉にならない激情が涙に形を変えていた。酷く顔を歪ませ、慟哭のように泣く。行き場のない感情が次々と涙を生み、涙と感情で輪廻が行き来していた。
葵は溜め息をつき、そんな無垢な少女を諭すように言った。
「こら、もう泣かないでって言ったでしょ。イルフは笑ってる顔が可愛いんだから、泣き顔なんて似合わないよ」
「でも…でも、私…アオイを傷つけて…」
「これはきっと君の運命に荷担する代償なんだよ」
葵は表情を出来る限り柔和に、だがしっかとりと意志を持って、イルフを見据えた。
「君の背負うには重すぎる運命に、手を貸すものとして、この仕打ちは当然のことなんだな。大事な人を守るための代償、なんだ」
決めたんだ僕は
この小さくて儚げな少女を
守るとーー
「でも…それじゃアオイがいつ死んじゃうか判らないよ…」
実際そうかもしれない。だけど、
「僕は死なない」
絶対に、と。
「それにこうして傷ついてもイルフは治してくれるでしょ?」
葵はこれで何度目であろうか、微笑みをイルフに送る。
イルフは涙を拭いながら「…うん」と力強く頷いた。
「私も、アオイを守る。どんなに傷付いて、苦しんでも、絶対に、絶対に私が治してあげる。だから…安心して、アオイ」
太陽がその心に宿ったような、迷いの消えた屈託のない笑顔で葵に手を差し出した。葵はイルフの手を取り、起き上がる。
「さて…感傷に浸ってる時間はないね」
葵は立ち上がる。今の眼前にある大きな壁を乗り越えるために。
イルフも葵に続き、自分の足でしっかりと立つ。
今こうしている間もイルフは他の木々の怒りや絶望感を受け続け、次第に黒く染まっていく。
やるなら迅速かつ早急にだ。
葵は策を張り巡らせる。相手は大人、おそらく重機に乗っている。
こちらがわざと木を切り倒す手段は使えない。相手はその総数を上回っているからだ。かといって怒りに任せて人殺しは言語道断だ。
相手になるべく怪我をさせずかつ重機のみを再起不能にさせる。目的は定まったが手段が思いつかない。物理的に重機を止めるのは至難の業だ。倒木でせき止めるにはそこまで太くて強い木が無い。直接重機にぶつけるのも同じだ。巨大で鈍重な物を倒すにはどうすればいいのだろうか。
すると、一筋の光明が見えた。閃光が頭を貫き、スパークにも似たひらめきが頭を支配するこれだ、これなら大丈夫なはずだ。作戦実行にはイルフの協力が必要不可欠だが、大丈夫だ。きっと力になってくれる。
葵はイルフを呼び、心うちに秘めた妙案を打ち明けた。