本当の気持ち
男は再び後日伺うと言い残し、去っていった。だが槍のように葵に深く突き刺さった言葉の数々は脳内に残滓として残っている。目を開けば、男の醜悪な姿が浮かび、閉じれば言葉の雨が降り出す。
気がつけば自室のベッドで横たわっていた。前後の記憶が曖昧だ。廊下を歩いた気もするし、庭を駆け回った気もする。脳は整理をすることを忘れてしまったらしい。カーテンの隙間から差し込む弱い光が薄暗い部屋を頼りなく灯していた。
イルフが連れて行かれる。遠いどこかに行ってしまう。考えるだけで身を裂かれるような思いがする、ぞっとする。イルフは家族だ。家族がなくなるのは…この先の言葉が出なかった。酷い嫌悪感のため体が拒否していた。知ってしまった以上、家族という暖かみに触れてしまった以上、もう知らないふりはできない。背を向けることは叶わない。こんなことになるのなら知らない方が良かった。家族なんかに触れなければ良かったのに。そうすればこんなに悲しまずに済んだのに。こんなことになるなら、前の一人のままの方が良かった。ずっと一人の方が………
イヤだ。
嫌だ。一人ぼっちは嫌だ。葵はずっと我慢してきたのだ。一人であることに押し潰されないように、心に蓋をしたのだ。殻に閉じこもったのだ。何事にも鈍感に、気づかないように。蓋が外れないように厳重に見張ってきた。それも一度暖かさに触れて、緩んでしまって、突き放された瞬間、決壊してしまった。嫌だ。戻りたくない。あの頃に。寂しさと孤独さを閉じ込めた、あの頃に戻りたくない。ずっといたい。ずっとイルフと一緒にいたい。ただそれだけなのに。どうして、どうして奪うんだ。感情の奔流が渦巻く。でも…
そもそもイルフは自分と一緒にいて幸せだったのだろうか。一人でひっそりと、誰にも知られず、過ごした方が良かったのではないか。自分といて迷惑だったのではないか。葵はとうとう自己嫌悪に陥ってしまった。絶望の淵に蹴落とされ、負のスパイラルの奔流に呑み込まれる自分はーーーいらないのではないか?
ガチャ
自己嫌悪に陥っていた葵はドアの開く音で現実に戻った。ゆっくりと頭を上げると、イルフが立っていた。
「…………イルフ………」
掠れた声で弱々しく、囁くようにその名を呼んだ。か細いその声は小さな部屋にすら反響せず、煙のように霧散した。
イルフは部屋に入ろうとして止めた。何かに遮られるかのように、進むことはできても、進めない。その一歩を踏み出せない。だが、それは、何かを待っているかのようにも見えた。
「アオイ」
ビクッと葵は体を震わせる。今まではその名を呼ばれるごとに暖かな感情が体隅々までに浸透していったのに。今はそう呼ばれることに恐れを抱いてしまう。触れたら壊れてしまいそうで。砕けてしまいそうで。
「ひどい顔してる」
葵は反射的に自分の顔をまさぐった。
「…そんな酷い顔してるかな」
「うん、してる。誰が見ても、そう感じる」
「………」
イルフに余計な心配をさせてしまった。自分は本当にダメな奴だ。再び自虐に陥る。
「私は」
しかし彼女は
「私はさっきの…嬉しかった」
力強く、言った。
「え?」
葵は目を丸くする。予想だにしない言葉に素っ頓狂な声をあげる。
「アオイが変な男の人に私を売れと言われたとき、アオイは嫌だと言ってくれた。健造がどうこうでなく、アオイ自身の本心からそう言ってくれた。男の人が私の本性の話を持ち出したときも家族と言ってくれた…。あのときの私はどう表現したらいいのか解らなかった。幸福とか幸せとかそういう陳腐なものじゃなくて、もっと重要なものがあるのに気付いた。とっても嬉しかった」
かつてない饒舌で話した。話を聞くと、目頭に熱いものがせり上がってくる。
「本当は私…アオイに迷惑だったんじゃないかって思ってた」
意外な言葉に葵は驚く。迷惑?僕が?そんな訳ないのに。孤独に蓋をして人の暖かみに触れないようにしていた葵に再び光を魅せてくれたイルフを嫌に思う訳ないのに。いや、イルフも同じなのか。
「勝手に家に押し掛けて、居候して、罪悪感を感じてた。迷惑なんじゃないのかって。それを少し引け目に感じてた。でもそうじゃないって判って嬉しかった。アオイが同情とか情けで家に住まさせてくれたんじゃなくて、私といたいからって理由で。すごく…嬉しかった」
「イルフ…聞いてたの?」
こくり、と頷いてみせた。
「だから、そんなに自分を責めないで、アオイ」
優しい言葉に胸のわだかまりが融けていく。
「私はすごく幸せだから。アオイといられて楽しいから。私はアオイのこと、これっぽっちも迷惑とか思っていない。だから…だから、そんなに悲しい顔しないで、笑ってほしい。お願い、だから、ここに、いさせて…アオイの側に…いさせて……!」
イルフは涙混じり、嗚咽混じりで嘆願した。白くミルクのような肌は涙で濁った色に変えられ、赤くなった目頭はひどく目立った。
葵は暫く呆然としていたが、ようやく思い返して、ベッドから立ち上がり、神妙な趣でその場に立った。
「泣かないで、イルフ」
慰めてもらったんだ。
「君が泣いていると僕まで悲しくなっちゃうよ」
絶望の彼方から引き揚げてくれたんだ。
「だからもう泣かないで」
今度は僕が、
「僕の側にいてよ」
慰めてあげる番だ。
「僕じゃ頼りないかもしれないけどね」
「ううん」
「そんなことないよ。アオイはスッゴく優しいから」
「大丈夫だよ」
二人は目を合わせる。
どんな困難が待っていようとも、
二人なら必ず乗り越えられると信じて。
葵は両腕を広げ、優しい声で言った。
「おいで、イルフ」
イルフの両目から涙がとめどなく溢れ、そして次の瞬間駆け出した。さっきの抵抗が嘘のように、幻だったように、部屋に飛び込んで、葵に飛びついた。
イルフはわんわんと泣き、強く葵の服の裾を握る。普段のイルフからは想像できなかった。二度とその体を離さないように葵は泣きじゃくるイルフの背中に手を回し、もう一方の手で頭を撫でた。
親のように
兄妹のように
恋人のように
優しく、いつまでも撫でた。慈しんだ。
イルフの肩にポタリ、と涙が一粒、零れ落ちた。