脅迫
五月の若々しい緑が生い茂る季節も過ぎ、生ぬるい雨がしとしと降り続く梅雨に突入した。前日も雨が降り、その雨は今日もまたしつこく降り続く。分厚い雲が空を覆い尽くし、太陽の恵みを雲が吸い尽くしている。太陽の光が恋しくなる憂鬱な天気だった。葵自身まで暗鬱な気分になりそうだ。だが今は一人じゃない。
イルフが我が家にやってきて二週間近く経った。
イルフは既に葵の家に馴染み、家の一部となった。
葵自身も妹ができたみたいだと、表情には出さないものの、痛感していた。
初めこそぎこちなく感じていたが、慣れというものは恐ろしく、あっという間に馴染んでしまった。
そして当のイルフは小雨が降り続く中、庭先に立っていた。
植物のイルフにとって雨は至高のものらしく、梅雨時期は最高の季節らしい。
服と髪は雨に打たれて濡れ、雫がつっと白い肌を伝って地面に降下する。
気持ち良さげに目を細めて、どんよりとした雲を見上げる。
本当に気持ち良さそうだ、と葵は縁側から無邪気に水浴びをする少女を見ていた。端から見れば少々滑稽な写生だが、本人が喜んでいるのでまあいいだろう。それに庭が広く、他人に見咎められることもない。葵の本宅は悠然と構えた日本家屋だ。庭には小さなひょうたん池があり、今の季節、たくさんの蛙が合唱団を形成し、音が絶えることはない。マツなどの常緑樹なども植わっており、ここでも祖父の植物好きが顕著に現れている。ここの庭は全てトメさんに任せてある。枝の切り落としや世話などが判らないからだ。調べても良かったのだが、ここは任せてほしいと言ったので世話を一任している。
ビニルで包まれた植物園と日本邸宅。そぐわない二つだが、先代から建てられていた住居に無理に建てたものだから仕方ないだろう。
ぼんやりと座っているとイルフが近付いてきた。
「ねえアオイ、ご飯まだ?」
雨に打たれて長い白髪がしおれ張り付いているが、不思議と脆弱さは感じられない。むしろ活力がみなぎっているように感じられる。これも元は植物だからであろうか。
「さっき食べたばかりじゃないか。夕飯はまだまだだよ」
イルフは頬を膨らませて拗ね、抗議した。その様子がひどく可愛らしくて葵は自然と頬が緩んだ。
雨に打たれ飽きたのか、イルフは縁側に戻ってきた。葵はあらかじめ用意しておいたバスタオルをイルフの頭に乗せ、長い髪を拭きにかかった。長い髪の毛を一本一本丹念に水気を拭き取る。イルフの小さな頭をタオルでわしゃわしゃと拭いていると、イルフは心地良さそうに目を細めた。
この家にイルフがやってきて(正確には人型をとってから)二週間近くが経過したが、最早彼女は家族同然だった。両親がいない葵にとっては、唯一の家族だった。そう感じると昔の自分はもの凄く寂しい思いをしてきたのだと感じる。家族がこれほど心の安定剤になるとはよもや思いもしなかった。手放したくない。できることならずっと一緒にいたい。そう願った。
すると、玄関の方で呼び鈴が鳴った。葵は手に持っていたタオルをイルフの頭に放置し足早に玄関に向かった。イルフは抗議の声を上げたが致し方ない。
玄関の昔風の引き戸を引くとそこには一人の男性が立っていた。
男は三十後半と思われる青年と中年の間をとったような顔をしていた。黒いスーツを着こなし、黒縁の眼鏡がよく似合っていた。だが、葵はその一見ただのセールスマンでしかない男性をどこか、黒く暗い何かを持っているように感じられた。笑顔の裏に隠された邪悪を思えてならなかった。
「ここは…日向さんのお宅でよろしいでしょうか?」
葵は身構えながらも「は、はい…」と弱く頷いた。
「今日はちょっとした相談で伺ったのですが…」
「相談?」
葵は問うた。疑念を取り払えず、猜疑心ばかりが募った。初対面の人に相談と言われてもただただ戸惑うだけでしかなかった。しかも自分はしがない学生の身分だ。何にせよ、大人の相談を受けられるはずもない。
「相談とはいかがなものでしょう?」
だが、葵は一家の主として、虚勢を張りながらも相談を受けることにした。経済面での相談は到底不可能だが、そうである場合には丁重にお引き取り願おう。相手もそれを承知で子供である自分に相談をけしかけている。
「はい。それは…」
男性はやはり気にせず、続けようとした。その時葵は気付いた。男性の目の内に黒い炎が宿っていると…
「ここの植物園のことです」
…良くない予想は往々にして的中する。まずい。何かが…まずい。
「ここの植物園には、それはそれは大層立派大樹があると伺いました」
どんどん流れは悪い方向へと収斂されていく。音速、光速のスピードで流れていってしまう。葵は顔面蒼白になっているはずだが、男は気にせず続ける。
「だから、その樹を私に売って頂きたいと思いまして。なあに、お代はきちんとそれ相応の額を用意しますし、工事などの諸経費も全て私が持ちます。あなたにはそれを了承してもらうだけでよいのですよ」
悪い予感は先ほどの男の言葉に収斂した。だが、それを補うように冷たい事実が葵の脳を掠めた。
あの樹を売る。それはつまり、イルフに会えなくなることを意味する。
葵はその結論に達すると、ひどく冷静に、冷徹に、男に言い放った。
「申し訳ありませんが、それは拒否させてもらいます」
男は眉をピクッと震わせ、葵の言葉を待った。
「あれは祖父が一生懸命に育ててきた努力の結晶です。それを見ず知らずのあなたに譲り渡すわけにはいきません」
男性は少々困り果てた顔をしたが、葵は続ける。「それに」
「それに…あれは僕も個人的に好きな樹です。祖父がどうこうの建て前ではありません。誠に申し訳ありませんが…お引き取り願えますか」
葵は怒り五パーセント増しで言い放った。…怒り?そうか。自分は怒っているのか。大切なものを奪われようとしているのだ。それは当たり前の感情だろう。葵自身他人に対して怒りを覚えた感覚がほとんどないのでこれが怒っているのか判らなかった。冷たい怒りだった。腹の底が冷たく凍え、鋭利な刃物となってそこに存在している。かけがえのない大切なものが失われる怒りを、葵は初めて認識した。
しばらく男性は無言だった。じっと決意じみた視線を放つ葵を凝視していた。やがて眼鏡を外し、出会い頭の柔和な表情に打って変わって、怪しげな雰囲気を醸し出すようになった。
「お前は見たのだろう、あれを」
鋭い視線が葵に突き刺さる。人を殺してもおかしくない、そんな眼力が込められているようだった。一瞬怯んでしまったが葵は負けじと目を逸らさなかった。あれ、というのはおそらくイルフの変化のことだろう。
「あれの本性を垣間見てお前はどうも思わないのか。ただの一介の植物が人間に化けるのだぞ。異様で、異質で、不気味だと思わないのか」
「思いません」
葵はきっぱりと言い切った。鋭い視線で男を睨み返した。その目に宿っているのは大事なものを守り貫き通す、強固な信念だった。
「イルフは僕にとって家族なんです。居てくれるだけで温かく、幸せになれる、そんな存在なんです。だからイルフは…渡さない」
力強い意志は運命をも変える。そんな言葉が脳裏に浮かんだ。正にその通りだ。葵はイルフを守るためなら世界をも敵に回すくらいの信念でいた。それに揺るぎはない。絶対に渡さない。渡してなるものか。家族を守る、と確固たる意志が芽生えた。
葵は男を見据えた。男はやれやれと溜め息混じりで呟いた。
「ふんっ……家族か……俺は、情愛だとか友情とか、そういう類のものが大嫌いなんだ」
瞳に暗く冷えたものを携えて男は葵と対峙し、睨んだ。先ほどとは違い酷く冷えた言葉だった。その言葉遣いに自然と体が硬直した。葵のそれとは違う、大人の迫力だった。たじろいだが、目を離さなかった。
そして相手は根負けしたのか、鼻を鳴らし、葵に言い放った。
「今日のとこはこれで引き下がってやる。だが次からは実力行使でいかせてもらうぞ。いくら抵抗しても子供のお前では無駄だ」
「…あれだけ大きな樹を運ぶのは物理的には不可能です。諦めて下さい。…植物園ごと壊す気ですか」
いくら葵が非力だといっても多少の抵抗はできる。そもそもあれほどの大樹を運ぶのはたとえ重機を使っても不可能だ。この男は何か算段があって言っているのだろうか…
「ははっ、それもいいなあ。ま、確かに無理だな。物理的には」
葵は怯えに似た、何かを感じた。失ってしまうような感覚とでも表現すればいいのか。
「あれ自体、もともと非科学的な存在だ。科学では証明できるものではない。…あれは地表に植えられていれば、どこにでも転移することができる。土地から土地へ移動するんだ。その力を利用して、こちらの意のままにさせてもらう」
「…嘘、だ」
そんな馬鹿げた論、誰が信用するものか。転移?そんなのワープじゃないか。SF小説じゃあるまいし。そんな事ができるはずない……はずだ。
その自分自身の反抗も次第に弱まっていく。男が言ったではないか。あれは非科学的なものだと。科学的に考えてはいけないのだ。常識が通用しない、当たり前のことが通じない。そんな存在なのだ、イルフは。
本格的な恐怖が葵を襲った。失うつらさ。それは自分がよく知っているものだ。二度とあれを体験したくない。いや、いやだよ。やめて。いかないで。いかないでよ。僕を一人にーーー
「で、でもそんな事イルフが、許すはずが…」
「力があるといっても所詮はただの植物だ。そこらへんに生えてる雑草と、根本的には変わらん。ある程度洗脳させたり、酔わせたりするのは簡単さ」
「…どうして、あなたはイルフを…奪うのですか」
「金さ」
男は目尻を下げて、洩らすように呟いた。
「うちのクソ両親が借金作りやがったんだ。そして当の本人らは逃亡。んで、息子である俺にその災禍がまわってきたのさ。全く、腐った連中だ」
淡々と喋るその口とは裏腹に、目は怒り狂ったものになっていた。家族が嫌い。その経緯には親のだらしなさがあったのだ。
「だからよお、俺には金がいるんだ。金が。今すぐ、最速で。だからなんとか金になるもんをと探してたら、頼まれたのさ。あれを奪えとな。必要なものは全部用意してくれるって言うし、断る理由もなかったしな。旨い話だと思ったさ。ああ、これで俺の借金生活にピリオドが打たれると思うと感激だったね。感謝感激雨嵐だよ。だからさあ。お前のそれ、よこせ」
ふっと男は醜く唇を吊り上げ、侮蔑と勝ち誇りの目で葵を見やった。その目をこう告げていた。
諦めろ、お前に勝ち目はない。おとなしく指をくわえて、後悔と失望に沈んでるんだな。
葵はもう、指一本、動かせなくなっていた。