王
〈恒久なる碧の王〉
少女によるとあの巨木の名はそう言うらしい。どうしてそんな名前なのかというと正式名称が存在しないかららしい。なぜそんなことを知っているのか問うと少女は
「私はあの木そのものだから」
と答えた。
どう解釈しても彼女があの木本人ということにしかならない。いや、一本か。にわかに信じ難い、雲を掴むような話だが、葵はすんなり受け入れることができた。自分の目の前でああもされては信じるほかないだろう。それに彼女を見た瞬間何か言い表せないような感覚を覚えたのも事実だ。これらの非日常性はそういう風に帰結した。
「私の、私が人の姿をとった時の名はイルフ」
イルフ。何故かその言葉に不思議と感じるものがあった。長い白い髪が窓から吹き込む風によって小さく揺れ、薙いだ。透明なエメラルドグリーンの瞳が葵を幻想へといざなう。イルフと名乗った少女は葵と向かい合い、対峙していた。
「私は全ての植物の上に君臨する最上位の存在。〈恒久なる碧の王〉とはそういう意味。」
永遠の王。この小さな体に秘められしは高貴な血。それが意味するものは葵でも判った。
「私は地球上に植物が出現したときから存在している」
「えっ…じゃあ君、イルフは……数億歳…?」
驚きが隠せない様子で葵は尋ねた。訊くのも躊躇われる質問だが、気になる。
「その認識で正しい。私は普通の植物よりはかなり長生きする。というよりも枯れない。病気にもならないし、風化して削れることもない」
だけど、とイルフは目を伏せ、付け加えた。
「私は枯れないだけ。人間の手によって切り倒されたり火事で燃え落ちたりするとそこで生命は途絶える」
葵は背中が冷たくなるのを感じた。背筋が凍りつき、足が竦む錯覚さえした。それほどにイルフの声色が冷たく感じられたのだ。
「今からおよそ百年前に大規模な山火事があって、私がいた森の木々が全滅した。勿論私も例外ではなかった。火は四方八方から燃え移ってものの数秒で全焼させてしまった。燃え盛る炎が近づいてくる様はまさに地獄と呼ぶに相応しかった。でも地中の根は幸い残ってたから生命が途絶えることはなかった。辺りの木々は地中の根まで完全燃焼してたから、私は運が良かったと思う。あの日の惨劇は忘れたくても、忘れられない。王の権限として聞き取れる周りの木々の悲鳴、絶望、諦観。迫り来る地獄の業火に為すすべもなかった。辺りから聞こえてくる木々たちの炎への呪詛で私は気が狂いそうになった…」
赦さない。火め。我らに仇なす地獄の使者が。ふざけるな。こんなところで。やられてたまるか。赦さない。我らを愚弄するか。弄ぶか。下等なものどもめ。全生物の敵め。赦さない。いつかきっと。お前たちを。赦さない。いい加減にしろ。長年我らを。縛り付け。赦さない。赦さない。赦さない。赦さない。赦さない赦さない赦さない赦さないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさない!!!!!
植物達の悲痛な叫びと憎しみがイルフを通じて伝わってくる。言葉にしなくとも植物達が嘆き、恨んでいるのが解る。
「民の痛みは王の痛みなり。民の怒りはすなわちこれ王の怒りなり」
イルフは謎めいた事を口ずさみながらやはり面を上げず言葉を続けた。
「そして三十年経って、僅かに地中に残った木々たちの緑が芽吹き始めた頃に、私も芽生えた。でもそこに一人の人間が現れた。我々の中では人間に目を付けられたらそこで終わりという不文律があった。だから焼け野原のこの場所に人間がやってきたときはもう終わりと覚悟した。地球に生を受けてから数億年。私の短いような長いような時はここで閉幕かと思ったら案外あっけなかった。ただ今目の前に死があってもなんとも思わなかった。私は死ぬんだ。その事実だけが突きつけられただけだった。今思えば多分私は未だあの火事の悲劇が心に突き刺さってたんだと思う。人間は私を根ごと持ち去った。人間がやることなんて悪道卑劣で火災よりも質が悪いから。あの頃はそう思ってた。私を連れ去った人間はある一人の人間に出会った。その男は私を買い取り、飛行機に乗せ、この植物園に植えた」
驚きが葵の心を支配していった。最早その人が誰かは明らかだ。
「それってつまり……」
「そう、あなたの祖父、日向健造」
イルフは小さな頭を小さく上下させ、こくん、と頷いた。
「健造は苗木だった私を愛情を込めて育ててくれた。そのおかげで普通なら数百年以上かかっただろう成長をたった数年でここまで育て上げてくれた。健造にはとても感謝してる」
感謝しているのかしていないのか怪しい無表情で淡々と話したが、イルフは感情をあまり表情に表さないみたいだ。きっと胸中では祖父に対する感謝で一杯なんだろう。
「それと…あなたにも」
「え?」
葵は驚いた顔でイルフを見た。だが当のイルフは心外そうに葵を見つめた。
「健造がいなくなってからもあなたは私を育て続けてくれた。あなたの父は私を見向きもしなかったから。だからあなたにも、多謝」
正面きって言われると何かこそばゆい気持ちになる。決して悪い気分ではないのだが恥ずかしい。葵は照れ隠しに後ろ髪を弄り出した。
「いや…僕はただ好きでやってただけだし…そんな礼を言われるようなことは何にも…ね」
「そんなことない。一度あなたの父に見捨てられてから私は凄く不安だった。いつ棄てられてもおかしくなかったから、あなたの存在はとても大きかった。あなたの父がこの植物園を取り壊そうとしたときにあなたは必死に止めてくれた。私はそのことがとてもとても嬉しくて。だからあなたにも、多謝」
初めて感情が出た…ような気がする。それが葵のことだと思うと頬を綻ばせずにはいられなかった。葵はその頃のことを回顧しながら、感謝に素直に応じた。
「…どういたしまして」
「うん」
やはり感情はこもっていないように思える。慣れていないだけなのだろうか。
「そういえば、あなたの名前、聞いていない」
確かに。名乗った覚えはない。向こうが名乗ったのだからこちらも名乗り返さないと失礼ではないか。
「あ…ごめん。僕は葵、16歳」
「うん、知ってる」
「えっ?」
「小さい頃にあなたが父と来てたから。名前を聞いてた」
「じゃ、何で聞いたの?」
「戯れ」
無表情でそう言われても説得力に欠ける。イルフは視線を宙に向け、再び葵に向き直った。
「アオイ……やっぱり何度聞いても綺麗な名前」
イルフはそう言い、にっこり微笑んだ。今日見せたイルフの最初の表情だった。今まで凍り固まっていた顔が初めて緩み明るい表情になる。全てを包み込むような優しい笑みだった。いつも笑っていれば可愛いのにな、と葵も心中暖かくなる。
ぐうぅぅうぅーーー
盛大な腹の虫が鳴り響いた。
「………………ぷっ」
吹いてしまった。タイミングが良すぎる。
「ぷっ、くくくっふっ、ふふふふっ」
顔から笑いが離れない。
「…お腹すいた」
イルフは少しも恥じた様子もなく、やはり無表情で葵に乞うた。
「はっははは!ははははっはっはぁー…ああ、笑った笑った。判ったよ、ご飯にしようか」
もう日も傾き、太陽が一日の働きを終える頃だった。空には無数の星々がちらつき始め、あちらこちらで明滅している。植物園も暗闇に包まれ始め、植物園の背後に迫る森から暗く濃密な闇が吐き出されている。そろそろ晩ご飯の頃合いだ。イルフの腹の虫を聞いたせいか自分も腹が空いてきた気がする。葵はイルフの小さな手を握り、植物園を後にする。イルフも抵抗することなく、葵にされるがままになる。数歩歩いたところで葵はあることに気付く。
「そういや…イルフは人の食事、取れるの?」
葵は立ち止まって訊ねた。
「人間の形態をとっている時は人間の食物に依存する」
だが、イルフは立ち止まらず、ずんずん進んでいく。葵の静止などお構いなしだ。
(そんなに早く食べたいのかあ)
葵はそう結論づけると引っ張られるまま植物園を退出した。イルフが先に進むせいで鍵を掛けられないがまた後で掛ければ大丈夫だろう。葵は先を行く白髪の少女を見やった。前を行く少女の長い白髪が揺れる。薄闇に染っている中でもその髪は確かな存在感を与えてくれる。まるで道標のようだ。あるべき道を示してくれる。母親のように暖かく、慈愛に満ちた光だ。不思議とそう感じてしまう。
(好きな料理、何だろ?)
とりあえず外国生まれらしいので日本食に慣れ親しんでもらおうと思う葵であった。