『君を逃がすつもりはない』 〜冷酷王子は、婚約破棄された令嬢を手放さない〜
王都の夜は、華やかな音楽に包まれていた。
ヴァレンティア王国の王宮で開かれた、建国記念の舞踏会。
無数のシャンデリアが輝く大広間で、リリアーナ・エヴァンスは一人の青年と向き合っていた。
「リリアーナ。君との婚約を破棄したい」
エドワード・グランフォード。
幼い頃から婚約者として隣にいた彼は、今夜、リリアーナに別れを告げた。
その隣には、淡い桃色のドレスを着た少女が立っている。
男爵令嬢、セレナ・ミレーヌ。
エドワードが最近、恋に落ちたという令嬢だった。
「……理由を、お聞かせいただけますか?」
リリアーナは、できるだけ穏やかな声で尋ねた。
胸の奥が、ひどく冷えていく。
エドワードは気まずそうに視線を逸らした。
「僕はセレナを愛している。彼女と結婚したいんだ」
「そう、ですか」
あまりにも簡単な言葉だった。
これまで何年も続いていた婚約も、家同士の約束も。
彼にとっては、別の女性を愛したという理由だけで終わらせられるものだったらしい。
「リリアーナ様……本当に申し訳ありません」
セレナが、涙を浮かべて頭を下げた。
「私のせいで……」
「お顔を上げてください」
リリアーナは微笑んだ。
笑えているかどうかは、分からなかった。
「セレナ様を責めるつもりはありません。エドワード様のお気持ちが変わったのでしたら、仕方のないことです」
「リリアーナ……」
「ただし」
リリアーナはエドワードを見つめた。
「婚約破棄については、両家の了承を得たうえで正式な手続きをなさってください。今夜、この場で決められることではありません」
貴族として、当然の言葉だった。
しかしエドワードは、少し苛立ったように眉を寄せる。
「君はいつもそうだな。何でも冷静に、正しいことばかり言う」
「……え?」
「僕がどれだけ悩んだか、君には分からないだろう」
リリアーナは、言葉を失った。
悩んでいたのは、彼だけではない。
幼い頃から彼の隣に立ち、婚約者としてふさわしくあろうと努力してきた。
それでも、彼の心は自分には向かなかった。
「エドワード様」
リリアーナは静かに頭を下げた。
「今まで、ありがとうございました」
その瞬間だった。
「――それは、どういう意味かな」
低く、よく通る声が大広間に響いた。
ざわめきが止まる。
人々が一斉に振り返った先。
黒い礼装に身を包んだ青年が、ゆっくりと歩いてきた。
漆黒の髪。
冷たい光を宿した青い瞳。
その胸元には、王家の紋章が輝いている。
ヴァレンティア王国第一王子、アレクシス・ヴァレンティア。
王太子の座を約束された、誰もが認める次期国王。
彼はリリアーナの前で足を止めると、エドワードを見た。
「エドワード。今の言葉を、もう一度聞かせてくれるか」
「ア、アレクシス殿下……」
エドワードの顔から血の気が引いた。
アレクシスは微笑んでいた。
けれど、その目はまったく笑っていない。
「君は今、リリアーナに婚約破棄を告げたのか?」
「はい。ですが、これは両家の問題で――」
「両家の問題?」
アレクシスは、わずかに首を傾けた。
「ならば、なぜ彼女をこの場で傷つけた」
「傷つけるつもりは……」
「つもりがあったかどうかは関係ない」
静かな声だった。
それなのに、周囲の空気が凍りつく。
「彼女は傷ついている。君の言葉でな」
リリアーナは、思わずアレクシスを見上げた。
彼はいつもそうだった。
幼い頃から、誰よりも自分を気にかけてくれた。
転んで泣いた日も、貴族の令嬢たちに陰口を言われた日も。
アレクシスだけは、必ず彼女のそばに来てくれた。
けれど今、彼の瞳に浮かんでいるものは、幼馴染に向ける優しさだけではなかった。
怒り。
そして、隠しきれない何か。
「殿下」
リリアーナは小さく声をかけた。
「もう、よろしいのです。私は大丈夫ですから」
「大丈夫?」
アレクシスが、リリアーナへ視線を移す。
先ほどまでの冷たい表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
「君は昔から、そう言うね」
「……そうでしょうか」
「泣きたいときも、苦しいときも。いつも大丈夫だと言う」
アレクシスは、リリアーナの顔をじっと見つめた。
「だが、今日はそう言わせない」
彼の手が、ゆっくりと差し出される。
「リリアーナ。私の隣へ来てくれ」
「殿下の……隣?」
「ああ」
リリアーナは戸惑いながら、その手を見つめた。
王子の手を取るなど、簡単に許されることではない。
「ですが、私は……」
「君は、私の幼馴染だ」
アレクシスは、周囲にも聞こえる声で告げた。
「そして、私が最も大切にしている女性だ」
大広間に、息を呑む音が広がった。
リリアーナの心臓が、大きく跳ねる。
「殿下……?」
「リリアーナ」
アレクシスは、彼女だけに聞こえるほどの声で続けた。
「もう、あの男のために笑わなくていい」
優しい言葉だった。
だからこそ、胸が苦しくなった。
アレクシスは昔から、リリアーナが傷つくことを嫌っていた。
けれど、こんなふうに人前で庇われたのは初めてだった。
「殿下。まさか、リリアーナ嬢と……」
誰かが、震える声で尋ねた。
アレクシスはその声に振り返る。
そして、迷いなく言った。
「リリアーナ・エヴァンス嬢との婚約を、私から申し込む」
大広間が、騒然となった。
「王子殿下が……?」
「エヴァンス伯爵令嬢に?」
「しかし、彼女はつい先ほど婚約破棄を……」
無数の声が飛び交う。
リリアーナは、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「お待ちください!」
ようやく我に返ったエドワードが、声を上げた。
「殿下、リリアーナは私の婚約者です!」
アレクシスの瞳が、再び冷たくなる。
「君は先ほど、彼女との婚約を破棄したのではなかったか?」
「それは……」
「ならば、君に彼女を引き留める権利はない」
エドワードは、言葉を失った。
アレクシスは、彼からリリアーナへ視線を戻す。
「もちろん、君の意思を無視するつもりはない」
その言葉に、リリアーナは少しだけ安堵した。
「私は君に、私の婚約者になってほしい」
アレクシスは、まっすぐに彼女を見つめた。
「だが、決めるのは君だ」
「殿下……」
「今すぐ答えなくてもいい」
彼はそう言いながら、差し出した手を引かなかった。
「ただ、覚えておいてほしい」
青い瞳が、リリアーナを捉える。
「私は、君を手放すつもりはない」
その声には、揺るぎない決意があった。
リリアーナは、胸の奥で何かが震えるのを感じた。
アレクシスは、いつも優しかった。
けれど今夜の彼は、どこか違う。
まるで、長い間隠していた想いを、ようやく表に出したかのように。
「……少し、お時間をいただけますか?」
リリアーナが尋ねると、アレクシスは微笑んだ。
「ああ。いくらでも待とう」
そして、誰にも聞こえない声で付け加えた。
「ただし、私のそばにいること。それだけは約束してくれ」
リリアーナは、返事をすることができなかった。
その夜。
婚約を失ったはずの令嬢は、王子から新たな婚約を申し込まれた。
そして彼女は、まだ知らない。
アレクシスがこの瞬間を、どれほど長く待ち続けていたのかを。
彼が、彼女の隣に立つ未来だけを願い続けていたことを。
そして。
彼女を手放さないという言葉が、決してその場限りのものではなかったことを。
舞踏会の翌朝。
リリアーナは、エヴァンス伯爵家の自室で一枚の手紙を見つめていた。
王宮から届けられた、正式な招待状。
差出人は、アレクシス・ヴァレンティア。
昨日の夜、彼から婚約を申し込まれた。
あまりにも突然のことで、まだ気持ちの整理がついていない。
幼馴染として、アレクシスのことはよく知っているつもりだった。
けれど、王子としての彼が、自分を婚約者に望む理由は分からなかった。
「お嬢様。殿下からのお迎えが到着いたしました」
侍女の声に、リリアーナは顔を上げた。
「もうですか?」
「はい。王宮へお越しいただきたいとのことです」
手紙には、昼食を共にしたいと書かれていた。
断る理由もなく、リリアーナは支度を整えた。
王宮へ向かう馬車の中で、彼女は何度も手紙を読み返した。
アレクシスは、昔から約束を違えない人だった。
だからこそ、昨日の言葉も冗談ではないのだろう。
そう思うと、胸が落ち着かなかった。
王宮に到着すると、すぐにアレクシスの私室へ案内された。
扉の前に立っていた侍従が、恭しく頭を下げる。
「殿下がお待ちです」
「ありがとうございます」
扉が開く。
部屋の奥では、アレクシスが窓辺に立っていた。
黒い礼装ではなく、白いシャツに濃紺の上着。
王子としては珍しく、少しだけ気を抜いた姿だった。
「来てくれたか」
「お招きいただきましたので」
「そうか」
アレクシスは微笑み、リリアーナへ歩み寄った。
「昨日は眠れたか?」
「……あまり」
「私もだ」
意外な答えに、リリアーナは目を瞬いた。
「殿下もですか?」
「ああ。君のことを考えていた」
さらりと言われて、リリアーナの頬が熱くなる。
アレクシスは、そんな彼女の反応を見て満足そうに目を細めた。
「座るといい。昼食を用意させている」
「ありがとうございます」
テーブルの上には、リリアーナの好きな料理が並んでいた。
幼い頃から好んでいた、蜂蜜を使った焼き菓子まである。
「……覚えていらしたのですね」
「忘れるはずがない」
アレクシスは、当然のように答えた。
「君の好きなものも、苦手なものも。全部覚えている」
「全部、ですか?」
「もちろん」
リリアーナは、少しだけ困ったように笑った。
アレクシスは昔から記憶力がよかった。
けれど、そこまで自分のことを覚えているとは思わなかった。
「昨日の話ですが」
リリアーナが切り出すと、アレクシスは静かに彼女を見た。
「婚約のことでしょう?」
「はい。殿下は、本当に私との婚約をお望みなのですか?」
「本気だ」
即答だった。
「ですが、私たちは幼馴染です。殿下には、もっとふさわしい方が……」
「リリアーナ」
アレクシスの声が、少し低くなる。
「君は、自分を過小評価する癖がある」
「そんなつもりは……」
「ある」
彼は椅子から立ち上がり、リリアーナの隣へ移動した。
「君よりふさわしい女性など、私にはいない」
真剣な瞳に見つめられ、リリアーナは言葉を失った。
「殿下……」
「それに」
アレクシスは、彼女の前に紅茶を置いた。
「君がエドワードと婚約していた間、私はずっと我慢していた」
「我慢、ですか?」
「君の隣に立つのは私ではない。そう思い知らされるたびにね」
リリアーナは、驚いて彼を見た。
アレクシスがそんなことを考えていたなんて、知らなかった。
「ですが、殿下はいつも私たちを祝福してくださって……」
「そう見せていただけだ」
彼は淡々と告げた。
「君が幸せなら、それでいいと思おうとした。だが、無理だった」
静かな声だった。
その言葉が、リリアーナの胸に深く残った。
昼食を終えたあと、アレクシスは王宮の庭園へ彼女を連れ出した。
色とりどりの花が咲く庭園は、春の陽射しに包まれている。
「懐かしいですね」
リリアーナは、庭園の奥にある小さな東屋を見つめた。
幼い頃、二人でよく遊んだ場所だった。
「覚えているか?」
「もちろんです。殿下が木から落ちて、膝を擦りむいた日も」
「……その話は忘れてくれ」
珍しく気まずそうな顔をするアレクシスに、リリアーナは笑った。
「ふふ。あのときは驚きました」
「君が泣きそうな顔をしていたから、私は平気なふりをした」
「殿下が泣きそうだったのでは?」
「それは君の見間違いだ」
二人の間に、穏やかな笑い声が広がる。
久しぶりに、幼い頃のように笑えた気がした。
そのとき。
「殿下」
庭園の入り口から、侍従が近づいてきた。
「グランフォード公爵家のエドワード様が、リリアーナ様との面会を希望されております」
リリアーナの笑顔が、わずかに曇った。
アレクシスは、彼女の表情を見逃さなかった。
「断れ」
「殿下?」
「リリアーナは私と過ごしている。今、会う必要はない」
侍従が頭を下げる。
「承知いたしました」
去っていく背中を見送り、リリアーナは小さく息を吐いた。
「殿下。エドワード様は、私に話があるのかもしれません」
「ならば、私が聞こう」
「ですが……」
「君が一人で会う必要はない」
アレクシスの言葉に、リリアーナは戸惑った。
「私は、もう婚約者ではありません。話をするくらいは……」
「君は優しすぎる」
彼は、リリアーナの手を取った。
「だから、つけ込まれる」
「殿下……」
「私は、君がまた傷つくのを見たくない」
握られた手は温かかった。
けれど、その指先には、逃がさないような力が込められている。
「それに」
アレクシスは、彼女の手を見つめたまま続けた。
「君が他の男と二人きりで話すのは、好きではない」
リリアーナの胸が、大きく跳ねた。
「……嫉妬、なさっているのですか?」
「そうだな」
アレクシスは、隠すことなく答えた。
「君が思っているより、私は嫉妬深い」
リリアーナは、返す言葉を失った。
彼はいつも冷静で、何事にも動じない人だった。
そんな彼が、自分のことで嫉妬する。
その事実が、なぜか心をくすぐった。
「殿下は、昔から変わりませんね」
「そうか?」
「はい。私が転んだときも、誰より先に駆けつけてくださいました」
「君が泣くのが嫌だったからだ」
「私が泣くと、殿下も悲しくなるのですか?」
「当然だ」
アレクシスは、まっすぐに彼女を見た。
「君の悲しみは、私の悲しみでもある」
その言葉に、リリアーナの心が揺れた。
婚約者に裏切られた悲しみは、まだ消えていない。
けれど、アレクシスの隣にいると、少しだけ忘れられる。
それが嬉しくて。
同時に、怖かった。
彼の優しさに甘えてしまえば、もう元には戻れない気がした。
「殿下」
「何だ?」
「私が……殿下の婚約者になったら」
リリアーナは、ゆっくりと言葉を選んだ。
「殿下のお役に立てるよう、努力いたします」
アレクシスは、しばらく黙っていた。
やがて、彼女の手を両手で包み込む。
「リリアーナ」
「はい」
「君は、私の役に立つために婚約するのではない」
彼は、優しく微笑んだ。
「私のそばにいてくれれば、それでいい」
その声は、あまりにも甘かった。
リリアーナは、頬を染めながら俯いた。
「……少し、考えさせてください」
「ああ」
アレクシスは頷いた。
けれど、彼女の手を離そうとはしなかった。
「ゆっくり考えるといい」
そう言いながら、彼はリリアーナの指先にそっと口づけた。
「ただし、私の気持ちが変わることはない」
リリアーナは、驚いて顔を上げた。
アレクシスは、穏やかに笑っている。
その表情の奥に、強い執着が潜んでいることを。
彼女は、まだ知らなかった。
王子が彼女の返事を待つ間にも、すでに彼女の未来を自分の隣に決めていることを。
そして、彼女を傷つけた男が再び近づくことを、決して許すつもりがないことを。
アレクシスから婚約を申し込まれて、三日が過ぎた。
リリアーナは、毎日のように王宮へ招かれていた。
朝には花束が届き、昼には王子からの手紙が届く。
王宮を訪れれば、アレクシスは必ず彼女のために時間を作った。
「今日はどこへ行きたい?」
「殿下のお仕事はよろしいのですか?」
「君と過ごす時間くらい、どうとでもなる」
そう言って、彼は当然のようにリリアーナの隣を歩く。
庭園を散歩するときも、図書室で本を読むときも。
気づけば、いつもアレクシスがそばにいた。
最初は戸惑っていたリリアーナも、少しずつその時間を楽しむようになっていた。
けれど。
「お嬢様、こちらのお手紙を」
ある日の午後。
侍女から渡された手紙を開き、リリアーナは眉を下げた。
差出人は、エドワードだった。
婚約破棄の件について、直接話がしたい。
そう書かれている。
リリアーナは、しばらく考えた。
もう終わったことだと思っていた。
けれど、両家の間ではまだ正式な手続きが済んでいない。
きちんと話をつける必要があるのかもしれない。
「……一度、お会いしなければ」
リリアーナは、手紙を畳んだ。
その日の夕方。
王宮の庭園でアレクシスとお茶をしていると、彼がふと尋ねた。
「今日は、何か考え事をしているね」
「え?」
「いつもより紅茶を飲むのが遅い」
そんなところまで見ているのかと、リリアーナは驚いた。
「実は、エドワード様から手紙が届きました」
アレクシスの手が止まった。
「……何と?」
「婚約破棄について、話がしたいそうです」
「断ればいい」
あまりにも早い返事だった。
「ですが、正式な手続きのこともありますし」
「それなら、両家の者を通せばいい」
「殿下」
リリアーナは、困ったように笑った。
「私も、きちんとお話ししておきたいのです」
アレクシスは黙っていた。
やがて、静かにカップを置く。
「分かった」
「ありがとうございます」
「ただし、私も同席する」
リリアーナは目を瞬いた。
「殿下が、ですか?」
「ああ」
「ですが、これは私たちの問題で……」
「君の問題なら、私の問題でもある」
アレクシスは、まっすぐに彼女を見つめた。
「君が一人で抱える必要はない」
その言葉に、リリアーナは何も言えなくなった。
翌日。
二人は王宮の応接室で、エドワードと向き合っていた。
エドワードは、以前よりも疲れた顔をしていた。
けれど、リリアーナを見ると、どこか安堵したように微笑む。
「リリアーナ。会ってくれてありがとう」
「お話を伺います」
アレクシスが隣に座っているためか、エドワードは少し落ち着かない様子だった。
「婚約破棄のことだが……僕は、君に謝りたい」
「謝罪は受け取ります」
リリアーナは静かに答えた。
「ですが、もうお気持ちは変わらないのでしょう?」
「……ああ」
エドワードは俯いた。
「セレナを愛している」
「でしたら、私も前へ進みます」
リリアーナは、穏やかに微笑んだ。
「どうか、エドワード様もお幸せに」
その言葉を聞いた瞬間、エドワードの表情が曇った。
「君は……本当に、それでいいのか?」
「はい」
「僕たちは、幼い頃から一緒だった。君は僕を愛していたのではないのか?」
リリアーナの胸が、少しだけ痛んだ。
かつては、確かに彼を愛していた。
けれど、彼はその気持ちを選ばなかった。
「昔は、そうだったかもしれません」
リリアーナは、ゆっくりと答えた。
「ですが、今は違います」
エドワードは、言葉を失った。
隣でアレクシスが、静かに目を細める。
「話は終わりだな」
「殿下……」
「リリアーナは、もう十分に答えた」
アレクシスが立ち上がる。
「これ以上、彼女を困らせるな」
エドワードは、唇を噛んだ。
そして、リリアーナを見つめる。
「……君は、殿下と婚約するつもりなのか?」
「まだ、お返事はしていません」
「そうか」
エドワードは、どこかほっとしたように息を吐いた。
その様子を見たアレクシスの瞳が、冷たく光った。
「だが、いずれ彼女は私の婚約者になる」
エドワードが顔を上げる。
「殿下、それは……」
「私の意思は変わらない」
アレクシスは、淡々と告げた。
「彼女を手放すつもりはない」
応接室を出たあと。
リリアーナは、アレクシスの隣を歩いていた。
彼は先ほどから、ほとんど口を開かない。
「殿下」
「何だ?」
「少し、お怒りですか?」
「怒ってはいない」
即答だった。
けれど、握られた手はいつもより強い。
「ただ、君があの男のことで傷つくのが嫌なだけだ」
「私は、もう大丈夫です」
「また、それを言う」
アレクシスは足を止めた。
リリアーナも立ち止まる。
「君はいつも、大丈夫だと言う」
「ですが、本当に……」
「本当に?」
彼の声が、わずかに震えた。
リリアーナは、息を呑んだ。
アレクシスが感情を露わにするところなど、見たことがなかった。
「君が私のもとを去っても、大丈夫だと言うのか?」
「殿下……?」
「君が誰かの隣に立っても、私は笑っていられると思うか?」
アレクシスは、リリアーナの手を両手で包み込んだ。
「私は、そんなに強くない」
彼の瞳に、苦しそうな色が浮かんでいた。
「君を失うことだけは、耐えられない」
リリアーナの胸が締めつけられる。
いつも完璧で、誰よりも強い王子様。
その人が今、自分の前で弱さを見せている。
「殿下……」
「すまない」
アレクシスは、少しだけ目を伏せた。
「君を困らせたいわけではない。ただ、君に離れてほしくない」
その声は、幼い頃の彼を思い出させた。
リリアーナが転んだとき、泣きそうな顔で手を差し出してくれた少年。
いつも自分のそばにいてくれた、大切な幼馴染。
「私は、殿下を困らせるつもりはありません」
リリアーナは、そっと微笑んだ。
「少しだけ、お時間をください」
「……ああ」
「殿下のお気持ちは、嬉しいです」
アレクシスの瞳が揺れた。
「本当に?」
「はい」
その瞬間、彼の表情がわずかに和らいだ。
けれど、リリアーナは続けた。
「ただ、私は王子殿下の婚約者になることに、不安があります」
「不安?」
「私では、殿下のお隣にふさわしくないのではないかと」
アレクシスは、しばらく黙っていた。
やがて、彼女の手を引き寄せる。
「リリアーナ」
「はい」
「君が私の隣にいることに、ふさわしい理由など必要ない」
彼は、彼女の手の甲に口づけた。
「私は、君がいい」
その言葉に、リリアーナは胸が熱くなった。
けれど、その夜。
彼女は一つの決意をした。
アレクシスの優しさに甘えるだけではいけない。
自分自身の気持ちを、きちんと考えなければ。
だから、少しだけ距離を置こう。
そう思った。
翌朝。
リリアーナは、アレクシスへ手紙を書いた。
しばらく王宮へ伺うのを控えたい。
婚約について、ゆっくり考える時間がほしい。
それだけを、丁寧に綴った。
手紙を届けたあと、リリアーナは窓辺に立った。
胸の奥が、落ち着かない。
アレクシスは、きっと分かってくれる。
そう思っていた。
しかし。
その日の夕方。
エヴァンス伯爵家の門前に、一台の王家の馬車が止まった。
扉が開く。
降りてきたのは、アレクシスだった。
いつもと変わらない、整った姿。
けれど、その瞳には見たことのない色が浮かんでいた。
「リリアーナに会わせてほしい」
静かな声だった。
侍従が慌てて屋敷の中へ走っていく。
やがて、リリアーナが玄関へ現れた。
「殿下……どうしてこちらへ?」
アレクシスは、彼女を見つめた。
「君の手紙を読んだ」
「はい」
「しばらく会わないつもりなのか?」
リリアーナは、ゆっくりと頷いた。
「少しだけ、お時間をいただきたいのです」
「そうか」
アレクシスは、微笑んだ。
けれど、その微笑みはどこか不自然だった。
「ならば、私もここで待とう」
「……え?」
「君が答えを出すまで」
彼は、リリアーナの前へ一歩近づいた。
「私は、君を待つと言った」
青い瞳が、彼女を逃がさないように見つめる。
「だが、君のいない場所で待つとは言っていない」
リリアーナは、息を呑んだ。
アレクシスは、優しく微笑んでいた。
その優しさの奥にある執着が、初めて隠しきれなくなっていた。
アレクシスがエヴァンス伯爵家を訪れてから、三日が経った。
彼は本当に、リリアーナの返事を待っていた。
王宮へ戻ることもなく、伯爵家に用意された客室で過ごしている。
朝食の時間には、必ずリリアーナのもとへ花が届けられた。
昼には手紙が届き、夕方になると庭園でお茶を共にする。
まるで、彼女が王宮へ行かなくなったことなど、何の問題もないかのように。
「殿下。本当に王宮へお戻りにならなくてよろしいのですか?」
ある日の午後。
庭園の東屋で、リリアーナは向かいに座るアレクシスへ尋ねた。
「問題ない。政務は側近たちが進めている」
「ですが、国王陛下がお待ちなのでは……」
「父上には、君の返事を待っていると伝えてある」
「……そこまで」
リリアーナは、手元の紅茶へ視線を落とした。
自分のために、王子がここまでしている。
嬉しい。
けれど、同じくらい申し訳なかった。
「殿下」
「何だ?」
「私が婚約をお断りしたら、どうなさるおつもりですか?」
アレクシスの指が、カップの縁で止まった。
穏やかだった表情が、わずかに曇る。
「……君は、断るつもりなのか?」
「そういう意味ではありません。ただ、もしもの話です」
「そうか」
彼はしばらく黙っていた。
やがて、静かに口を開く。
「君が望まないなら、無理に婚約を結ばせることはしない」
リリアーナは、ほっと息を吐いた。
「ありがとうございます」
「だが」
アレクシスは、彼女をまっすぐに見つめた。
「君が私を選ぶまで、諦めるつもりもない」
「殿下……」
「私は、君を愛している」
何度聞いても、胸が大きく揺れる言葉だった。
「君が私の隣にいる未来を、ずっと願っていた」
アレクシスは、ゆっくりと立ち上がった。
「だから、今度こそ君に選んでほしい」
リリアーナは、彼の瞳を見つめ返した。
その瞳には、強い意志があった。
けれど、彼女を無理やり従わせようとするものではない。
ただ、どうしても自分を選んでほしいという、切実な願い。
それが伝わってきた。
「殿下は……いつから、私を?」
リリアーナが尋ねると、アレクシスは少しだけ笑った。
「いつからだと思う?」
「幼馴染として、大切にしてくださっていた頃から……でしょうか」
「もっと前だ」
彼は、庭園の奥へ視線を向けた。
「君がまだ、私の名前を呼ぶことさえできなかった頃」
「そんな昔から?」
「ああ」
アレクシスは、懐かしそうに目を細めた。
「君は、初めて会ったときから私の手を握って離さなかった」
リリアーナは、思わず笑った。
「覚えていません」
「私は覚えている」
彼は、彼女の手を取った。
「君が泣けば、私は何でもしてあげたかった。君が笑えば、それだけで嬉しかった」
その声は、いつになく柔らかい。
「だから、君がエドワードと婚約したときも、私は笑って祝福した」
「殿下……」
「君が幸せなら、それでいいと思おうとしたんだ」
アレクシスは、少しだけ苦しそうに微笑んだ。
「だが、君があの男の隣で笑うたびに、胸が痛んだ」
リリアーナは、何も言えなかった。
彼がそんな想いを抱えていたなんて、知らなかった。
「君が婚約破棄を告げられたと聞いたとき」
アレクシスの瞳に、冷たい光が宿る。
「私は、嬉しいと思ってしまった」
「……え?」
「君が傷ついているのに。私は、これで君を迎えに行けると」
彼は、目を伏せた。
「そんな自分が、嫌だった」
リリアーナの胸が締めつけられる。
アレクシスは、完璧な王子様ではなかった。
自分だけの幸せを願い、嫉妬し、苦しむ一人の人間だった。
「殿下」
リリアーナは、そっと彼の手を握り返した。
「私は、殿下を嫌いになったことはありません」
アレクシスが顔を上げる。
「本当か?」
「はい。幼い頃から、ずっと大切な方です」
彼の瞳が、わずかに揺れた。
「ただ、婚約者としてではなく……」
「分かっている」
アレクシスは、彼女の言葉を遮らなかった。
「だからこそ、君に選んでほしい」
そのとき。
庭園の入り口から、侍従が近づいてきた。
「殿下。国王陛下より、お呼び出しがございます」
アレクシスは、わずかに眉を寄せた。
「分かった」
侍従が去ったあと、彼はリリアーナへ向き直る。
「少し、王宮へ戻らなければならない」
「はい。どうかお気をつけて」
アレクシスは頷いた。
そして、彼女の手を離す前に、静かに尋ねた。
「リリアーナ」
「はい」
「私が戻るまでに、答えを聞かせてくれるか?」
リリアーナは、彼を見つめた。
この三日間。
彼の優しさに触れ、彼の想いを知った。
自分がどれほど大切にされていたのか。
そして、自分がどれほど彼を大切に思っているのか。
もう、気づいていた。
「……はい」
リリアーナは、微笑んだ。
「お待ちしております」
アレクシスは、ほんの一瞬、驚いたような顔をした。
やがて、嬉しそうに笑う。
「必ず戻る」
その日の夕方。
リリアーナは、自室の机に向かっていた。
白い便箋に、ゆっくりと文字を綴る。
何度も書き直して、ようやく完成した手紙。
そこには、短い言葉だけが記されていた。
――アレクシス殿下。
――私も、あなたのお隣にいたいです。
翌朝。
王宮から戻ったアレクシスは、リリアーナのもとへ向かった。
彼女は庭園で彼を待っていた。
「リリアーナ」
「お帰りなさいませ、殿下」
アレクシスは、彼女の姿を見つけると、足早に近づいた。
「返事を、聞かせてくれるか?」
リリアーナは、胸の前で手を組んだ。
緊張していた。
けれど、もう迷ってはいなかった。
「はい」
彼女は、まっすぐに彼を見つめた。
「私も、殿下をお慕いしております」
アレクシスの瞳が、大きく見開かれた。
「……本当に?」
「はい」
「私の婚約者になってくれるのか?」
「はい。私でよろしければ」
その瞬間。
アレクシスは、リリアーナを強く抱きしめた。
「殿下……!」
「すまない。嬉しくて、抑えられなかった」
彼の腕は、少し震えていた。
リリアーナは、そっと彼の背に手を回す。
「私も、嬉しいです」
アレクシスは、彼女の髪に顔を埋めた。
「もう、君を誰にも渡さない」
「……殿下」
「君を傷つける者がいるなら、私が守る」
彼は、リリアーナの顔を見つめた。
「君が望む限り、私は君のそばにいる」
そして、少しだけ困ったように笑った。
「ただし、君が私から離れようとするときは、全力で引き留める」
リリアーナは、思わず笑った。
「それは、少し重いですね」
「ああ。私は、君が思っているよりずっと重い」
アレクシスは、彼女の手を取った。
「それでも、私を選んでくれるか?」
リリアーナは、彼の手を握り返した。
「はい」
アレクシスは、嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔を見て、リリアーナは思った。
この人の隣にいたい。
この人の笑顔を、これからも守りたい。
婚約破棄から始まった、二人の恋。
それは、幼い頃から続いていた想いが、ようやく形になった瞬間だった。
そしてアレクシスは、彼女の手を決して離さなかった。
これから先も。
彼女が望む限り、ずっと。
――君を逃がすつもりはない。
その言葉は、彼の愛そのものだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
婚約破棄から始まる、執着系王子様との溺愛ラブストーリー。
幼い頃からリリアーナだけを想い続けていたアレクシスの、少し重くて一途な愛を楽しんでいただけましたでしょうか。
これからも二人は、甘く穏やかな時間を重ねていくことでしょう。
皆様の心に残る物語になっていれば嬉しいです。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




