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第25話:枯れゆく温室と黄金の光

ガルディア帝都の東部、緩やかな丘陵地帯に広がるクライン男爵家の領地は、かつて「帝都の薬箱」と称えられていた。

広大な敷地には、初代男爵が莫大な財を投じて築いた十二棟の大型ガラス温室が整然と並び、陽光を浴びて水晶宮のように銀色の輝きを放っていたはずだった。そこは、帝室薬局や有力貴族たちが競って買い求める希少生薬が年中途切れることなく芽吹き、瑞々しい若草と甘やかな花の香気が風に乗って漂う、男爵家の富と名声の源泉だった。


――だが、それはシビル・フォン・クラインという、たった一人の「心臓」が脈打っていた頃の話だった。


シビルが「無能」「毒婦」の濡れ衣を着せられ、夜明け前の泥道へと叩き出されてから、わずか一ヶ月。

晩秋の低い陽射しが降り注ぐガラス温室の敷地には、かつての神聖な息吹は微塵も残っていなかった。


第一温室の錆びついた鉄扉の前。

そこに立ち止まっただけで、鼻腔の粘膜を鋭く突き刺したのは、目が眩むほどに強烈な「植物の腐敗臭」だった。

収穫時期をとうに過ぎ、手入れを放棄されて根腐れを起こした草木が、高熱のガラスの中で蒸れ、饐(す)えたドブ川の泥のような悪臭を放ちながら腐り果てている。

温室のガラス内壁には、過剰な湿気と換気不足によって発生した黒カビが蜘蛛の巣のようにびっしりとこびりつき、外からの光を濁った灰色へと屈折させていた。隙間から漏れ聞こえるのは、水捌けを失って干からびた黒土が、熱せられた空気の中でチリチリ、パチパチと音を立ててひび割れていく、断末魔の乾いた摩擦音だけだった。


「……おい、セリア! 早く来い! ぐずぐずしている時間はないんだぞ!」


敷き藁の腐った泥道を、泥に汚れた革靴で踏み荒らしながら歩いてきたのは、男爵家の次期当主であるテオドールだった。

二十歳になったばかりの青年の顔には、かつて姉を見下していた尊大な傲慢さは影を潜め、極度の不眠と焦燥によって土気色に淀んでいた。目の下にはドス黒い隈が張り付き、右手の爪をギリギリと噛み砕く癖が止まらない。左脇に抱え込んだ分厚い取引帳簿の束は、めくり返されすぎて端がボロボロに毛羽立っていた。


「ちょっと、引っ張らないでよテオドール! ドレスの裾に泥が跳ねたらどうするのよ!」


背後から甲高いヒステリックな声を響かせてやってきたのは、異母妹のセリアだった。

黄金色の巻き毛を豪奢に結い上げ、胸元を大きく開けた真紅のシルクドレスを纏っている。社交界のサロンへ出向くような贅沢な装いは、泥と腐敗臭に満ちた温室の前では滑稽なほどに場違いだった。セリアは扇子で鼻先を固く覆い、眉を吊り上げて靴底の泥を忌々しそうに払った。


「何なのよ、この酷い悪臭は! 息をするだけで頭が痛くなるわ! 私をこんな下品な肥溜めみたいな場所に連れてきて、一体何の真似なの?!」


「肥溜めだと?! ここは我が家の生命線である第一温室だぞ!」

テオドールは血走った目を剥き出しにして怒鳴り返した。その声音は裏返り、恐怖で微かに震えている。


「帳簿を見ろ、セリア! 来週だ……来週の月曜が、筆頭取引先であるヴェルナー伯爵家への、特級生薬の納品期日なんだ! すでに我が家は、伯爵家から金貨百枚もの前受金を受け取っている! 期日までに契約通りの薬草を揃えられなければ、違約金はその十倍……金貨千枚だぞ! 男爵家の屋敷と領地をすべて売り払っても、ビタ一文足りないんだ!」


「な……っ、金貨千枚……?!」

セリアの扇子を持つ手が、ピクリと凍りついた。


「そんな金、どこにあるのよ! お父様が新しい競走馬を買って、私も社交界用の毛皮や夜会服の支払いに回して、もう金庫には銀貨数枚しか残っていないわよ!」


「だから言っているだろうが!」

テオドールは帳簿を温室の鉄扉に叩きつけた。バダンッ、と鈍い破裂音が響く。

「あの地味女……シビルを追い出した後、薬草園の管理はすべてお前が引き継ぐと言ったはずだ! 『私の奇跡の治癒魔法があれば、あんな陰気な女の雑草いじりなど不要ですわ』と豪語したのは、どこの誰だッ?!」


「そ、それは……!」

痛いところを突かれたセリアが言葉を詰まらせる。

だが、生まれついての虚栄心と甘えが、彼女に非を認めることを許さない。セリアは唇を尖らせ、反抗的に胸を張った。


「大声を出すんじゃないわよ、みっともない! 私が少し忙しくて、この一ヶ月温室の手入れを庭師どもに任せきりにしていただけじゃないの! 使用人どもがサボっていたのが悪いのよ! ……どきなさい、私が直接見てあげるわ!」


セリアはテオドールを肘で突き飛ばすと、荒々しく第一温室の扉を開け放った。


――ムワッ。


開かれた扉の隙間から吐き出されたのは、真夏の密閉された温室をさらに何倍も煮詰めたような、湿り気と毒気を含んだ熱波だった。

セリアは咽せ返り、思わずハンカチで口元を押さえたが、その視界に飛び込んできた光景に、息を呑んで立ち尽くした。


「……な、に……これ……?」


第一温室の中央、かつて男爵家に莫大な富をもたらしていた最重要区画。

そこに植えられていたはずの、至高の希少薬草――「月光菫(げっこうすみれ)」。

本来であれば、夜露のような銀色の斑紋を帯びた丸い濃緑の葉を茂らせ、指先で触れるだけで清涼な芳香を放つはずのその群落が、見る影もなく変貌していた。


広大な盛り土の畝(うね)一面に広がっていたのは、黒ずんでチリチリに干からびた無数の残骸だった。

葉先は熱で焦げたように茶色く丸まり、茎は水分を失って針金のように痩せ細り、地面へと垂れ下がっている。根元の土壌は白く塩を吹いてカチカチに硬化し、わずかに残った水分のある場所には、ドロドロとした灰色の粘液カビが泡を吹いてへばりついていた。

瑞々しい青さは、どこにもない。

そこにあるのは、緩慢な窒息と渇きによって、生きたまま組織を焼き殺された植物たちの、無残極まりない屍骸の山だった。


「ひ……っ、全滅、している……?」

セリアの喉から、掠れた悲鳴が漏れた。


「全滅なんかさせてたまるか!」

テオドールが後ろから温室の中へ踏み込み、爪を噛みながら叫んだ。

「まだ根元にわずかに緑が残っている株がある! おい、セリア! お前の光魔法を使え! あの夜会で、大勢の貴族の前で見せつけた、あの派手な治癒の光を浴びせれば、こんな雑草など一瞬で生き返るんだろうが! 早くしろ!」


「言われなくてもやるわよ!」

セリアは苛立ちを露わにしながら、ドレスの裾を持ち上げ、ドロドロの土の畝へと足を踏み入れた。

シルクの靴裏に、腐敗した葉のヌメリがべちゃりとまとわりつく。顔をしかめながらも、彼女は月光菫の群落の前に立ち、両手を高々と掲げた。


「ふん、所詮は名もない野草よ。私の高貴な魔力を注ぎ込んであげれば、今すぐにでも花を咲かせて頭を垂れるに決まっているわ!」


セリアは体内の魔力を練り上げた。

土壌の水分量も、根の吸水力も、大気中の湿度の偏りも、彼女の頭の中には存在しなかった。

彼女にとって魔法とは、ただ「目立ち、他者を圧倒し、賞賛を浴びるための装飾」に過ぎなかったのだ。


「――お出でなさい、聖なる恵みの光よ! この卑しい雑草どもに、私の祝福を授けなさいッ!」


セリアが叫ぶとともに、その両の手のひらから、凄まじい光が放たれた。


――カァァァッ!!


温室のガラス全体を白く灼き焦がすような、無秩序で暴力的な黄金の閃光。

それは夜会の大広間であれば、着飾った貴族たちから「おお、なんと眩い奇跡の光か!」と割れんばかりの拍手を浴びたであろう、視覚的・攻撃的な即効魔力の奔流だった。

黄金の光粒が嵐のように吹き荒れ、温室内の気温が急激に跳ね上がる。チリチリと皮膚を焦がすような熱波が、干からびた月光菫の畝全体を容赦なく呑み込んでいった。


「ははっ、見ろ! 光を吸い込んでいるぞ!」

テオドールが歓声を上げた。


光を浴びた瞬間、奇跡が起きたかのように見えた。

死に瀕していた月光菫の葉が、黄金の熱量に刺激され、一時的に青さを取り戻したようにピンと茎を持ち上げたのだ。縮こまっていた葉身が開き、わずかに銀色の光沢が蘇る。


「ほら、見たこと?! 私の光魔法にかかれば、こんなもの造作もないのよ!」

セリアは勝ち誇った笑みを浮かべ、さらに魔力を注ぎ込もうと両手を広げた。

「あの地味なシビルが毎日毎日泥まみれになって這い回っていた庭仕事なんて、私のこの手にかかれば一瞬の芸当に過ぎないのよ! ざまあみなさい!」


――だが。


その直後だった。


ピシ……ピシ、ピシッ。


不穏な、細い破砕音が、温室の足元から響き始めた。


「……え?」

セリアの笑顔が、ぴくりと引き攣った。


チリ、チリ、ジュウウウッ――!


音が変わった。

それは、熱湯の中に生の植物を放り込んだ時に立ち上る、組織の破壊音だった。


「な……何、これ……?! どうして……?!」


セリアの目の前で、信じがたい光景が繰り広げられた。

先ほどピンと伸びたはずの月光菫の茎が、突然、内側からボコボコと水膨れのように膨張を始めたのだ。

月光菫の繊細な根の毛細魔力管は、シビルの「微細循環魔力」のような、水が土に染み込むがごとき穏やかな波長にしか耐えられない構造を持っていた。そこへ、セリアの放った粗野で暴力的な高熱の光魔力が一気に流れ込んだため、植物の細胞膜が耐熱限界を超え、内側から一斉に爆破・破裂を起こしたのだ。


――ボチャッ。


音を立てて、ひと株の月光菫が、根元からドロドロに溶け落ちた。

続いて、隣の株も、その隣の畝も。

青さを取り戻したように見えた葉は、一瞬にしてタールのような真っ黒な液体へと変色し、熱せられた腐泥の中に崩れ落ちていく。


熱気によって気化させられたのは、植物の死骸から立ち上る、濃縮された毒気と腐敗の蒸気だった。

ジュウジュウと音を立てて煮え立つ黒い泥の海。

温室中に、酸鼻を極める悪臭が爆発的に充満した。


「い、いやぁぁぁぁぁッッ!!」

セリアは耳を塞ぎ、泥の上に尻餅をついて叫んだ。

高価な真紅のドレスの裾が、溶け落ちた薬草の黒い汚泥にべったりと浸かる。


「な、何なのよこれ! 私のせいじゃないわ! この雑草が……この草が勝手に腐ったのよ! 汚い、臭い、誰か片付けなさいよぉッ!」


「お、おい……嘘だろ……?」

テオドールはその場に立ち尽くし、顎をガクガクと震わせた。

目の前に広がっていたのは、緑の絨毯ではない。

熱で溶かされ、黒い泡を吹いて異臭を放つ、ただの「死の汚泥」だった。

第一温室の月光菫――全滅。


「セリア……貴様……一体、何をしてくれたんだ……?!」

テオドールの喉から、絞り出すような絶叫が漏れた。


「何をしてくれたですって?! 私は助けてあげようとしたのよ! 元から腐りかけていた雑草が、私の聖なる光に耐えきれなかっただけじゃないの! 私のせいにするんじゃないわよッ!」


責任を擦り付け合い、泥の中で怒鳴り合う姉弟。

その醜悪な叫び声の向こうから、ペタ、ペタと、引き摺るような足音が近づいてきた。


「……あぁ……ああぁぁ……」


温室の入り口に現れたのは、擦り切れた麻の前掛けを締め、腰の曲がった一人の老人だった。

クライン男爵家に四十年間仕え、かつてシビルと共にこの薬草園の土を踏み続けてきた、老庭師のハインツだった。


ハインツは泥の海と化した月光菫の畝を目にした瞬間、持っていた竹の手桶をガシャンと取り落とした。

老人の皺だらけの顔が、絶望と慟哭に歪む。

ハインツはセリアとテオドールの足元を通り抜け、溶け落ちた黒い泥の前に両膝をついて崩れ落ちた。


「なんということを……なんということをしてくださったのですか……!」

ハインツは震える両手で、熱を帯びてどす黒く濁った泥を掬い上げ、ボロボロと大粒の涙を零した。


「月光菫は、繊細な命なのです……! 直射日光を嫌い、夜露の冷気と、土の底を流れる微かな水脈の揺らぎだけで、やっと息をしている気高い草なのです……! それを、こんな焼き焦がすような光を浴びせたら、細胞が破裂して死んでしまうことくらい、どうして分からぬのですか……!」


「黙りなさい、老いぼれが!」

セリアが顔を真っ赤にして泥の中から立ち上がり、ハインツを指差して怒鳴り散らした。

「ただの使用人の分際で、この私に説教する気?! たかが雑草が枯れたくらいで何を大袈裟に喚いているのよ! 代わりの種をそこらの市場から買ってきて、明日までに植え直せば済む話でしょうが!」


「買えるはずがございませんッ!!」

普段は温厚で、貴族に逆らうことなど一度もなかった老庭師が、血を吐くような大声で叫び返した。

ハインツの濁った瞳が、怒りと悲痛に燃え上がり、セリアを真っ向から睨み据える。


「この月光菫は、シビルお嬢様が……追放されたシビルお嬢様が、十年間、毎朝夜明け前に起きて土の声を聴き、指先を霜焼けで腫らしながら、数滴の水と極小の魔力の揺らぎだけで育まれてきた、門外不出の株なのです! 土壌の配合比率も、水脈の魔力残滓の抜き方も、お嬢様の一子相伝の技術があってこそ保たれていた奇跡の庭だったのです!」


ハインツの叫びが、ガラス温室の天井に反響する。


「お嬢様を『無能』と蔑んで追い出したその日から、この庭の死は決まっていたのだ! 土を愛さず、命を尊ばぬ貴方様のような浅ましいお方に、育てられる命など……この世のどこにもありはしないッ!」


「な……っ、な、何ですって……?!」

セリアは息を呑み、侮辱された屈辱にワナワナと唇を震わせた。

「無礼者……無礼者よ! 誰か、この老いぼれを今すぐ地下牢に叩き込みなさい! 鞭打ちにして、領地から叩き出してやるわッ!」


セリアのヒステリックな金切り声が響き渡る。

だが、その怒号に同調する者は、誰もいなかった。


「…………」


テオドールは、泥の上に散らばった帳簿を見つめたまま、微動だにできなかった。

全身の血の気が、足の先から急速に引いていく。

皮膚の下を、冷たい氷の虫が這い回るような凄まじい悪寒。


(……シビルが、一人で……?)


テオドールの脳裏に、かつて屋敷の北端の下男部屋で、泥に汚れたエプロンを締め、夜遅くまで帳面に向かって万年筆を走らせていた、あの地味な姉の横顔が蘇った。

自分や父が、酒を煽りながら「無駄飯食らい」「雑草いじりの日陰女」と嘲笑っていた、あの姉の姿。


自分たちは、シビルが何をしているのか、一度でも確かめただろうか。

あの広大な温室群が、なぜ年中枯れることなく青々とした生薬を生み出し続けていたのか、一度でも考えただろうか。


違う。

考えてなどいなかった。

ただ、金庫に湧き出る金貨を当たり前の権利として浪費し、セリアの派手な「光」だけをもてはやし、その土台を一人で支え続けていた大黒柱を、自らの手でへし折って叩き出したのだ。


「あ……ああ……」


テオドールの膝が、ガクガクと音を立てて崩れた。

泥水の中に両手をつく。

手のひらに触れる、溶け落ちた月光菫のぬめるような冷たさ。


来週の月曜。

ヴェルナー伯爵家の納品期日。

金貨千枚の違約金請求。


払えるはずがない。

男爵家の名誉も、爵位も、領地も、すべてが吹き飛ぶ。

自分は平民に身を落とし、借金取りから逃げ回る物乞いになるしかない。


「あぁ……ああぁぁぁっ……!」

テオドールは頭を抱え、泥の中に額を擦り付けた。


どれほど叫んでも、どれほど後悔しても。

毎朝、泥だらけの長靴を履いて庭を見回り、自分たちのために黙々と土を耕してくれていた姉は――もう、二度とこの屋敷には戻らない。


割れたガラス温室の天井の隙間から、冷たい秋の北風が吹き込んできた。

腐敗臭を掻き混ぜながら吹き抜けていくその風は、男爵家の栄華の終わりを告げる、あまりにも冷酷な弔鐘のように、いつまでも虚しく鳴り響いていた。

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