第21話:黒塗りの馬車と倒れた貴婦人
正午を少し回った旧市街は、職人たちの昼休憩のざわめきが一段落し、緩やかな気だるさに包まれていた。
煤けた赤煉瓦の工房からは、炉の火を落とした後の灰の匂いが漂い、大工や革なめし職人たちが長屋の軒先で干し草を敷いた木箱に腰掛け、麦酒の入った素焼きのジョッキを傾けている。日差しは秋の深まりとともに傾きを増し、狭い路地裏の石畳を斜めに白く照らし出していた。
『沈黙の緑』の店内には、エルゼが昼の仕込みを終えたばかりの、大麦と乾燥野菜のポタージュの素朴な香りが穏やかに満ちていた。
カウンターの奥で、シビルは手持ちの薬匙を使い、昨日カスパールとニコラのために新しく調合した鎮静茶の余剰分を、乾燥させたガラス瓶へと小分けに詰めていた。カラン、カランと小さな匙がガラスの縁を打つ乾いた音が、心地よいリズムを刻む。
用心棒兼給仕のアルドは、勝手口の板戸の隙間で、ルッツの工房から届いたばかりの薪割用の鉄鉈に砥石を当てていた。シュッ、シュッと一定の間隔で鳴る刃研ぎの音。
平和で、誰にも脅かされない、労働に根ざした静かな午後だった。
――その平穏が、通りの向こうから轟いた異様な地響きによって、一瞬で叩き割られた。
ゴロゴロゴロ……ガシャン、ガラガラガラ!
それは、旧市街を行き交う荷車や野菜売りの荷馬車の音などでは断じてなかった。
重厚なオーク材と黒檀をふんだんに使い、鉄輪の周りに分厚い硬化ゴムを幾重にも巻き付けた、規格外の重量を誇る車輪の軋み。さらに、四頭立ての巨躯を誇る漆黒の軍馬が、蹄鉄を打ち鳴らして石畳を蹴り上げる重低音。
「……おい、何だあの音は?」
アルドが鉈を研ぐ手を止め、眉を跳ね上げた。
路地を行き交っていた職人たちが、蜘蛛の子を散らすように道の両端へとへばりつく気配が、開け放たれた小窓越しに伝わってくる。怒号と馬のいななき、そして威圧的な鞭の音が、狭い裏通りに鋭く響き渡る。
「退け! 道を空けろ! 帝室直轄公務である、道を譲れッ!」
張り裂けんばかりの鋭い号令。
直後、『沈黙の緑』の真向かい、トネリコの看板の目の前に、巨大な影が滑り込んできて急停止した。
ギギギィッ――!
急制動をかけられた重い車軸が悲鳴を上げ、車輪が石畳の泥水を激しく跳ね飛ばす。
現れたのは、旧市街の泥濘と煤煙の風景にはあまりにも不釣り合いな、豪奢を極めた巨大な黒塗り馬車だった。
四頭の黒馬の馬具には純銀の金具が眩いばかりに磨き込まれ、車体の黒漆には、帝室の「白鷲」に極めて近い意匠――帝国の最高峰たる公爵家の紋章が、見事な金蒔絵で燦然と浮き彫りにされていた。窓には黒曜石のように濃い硝子と、金糸の房飾りがついた厚手のベルベットのカーテンが隙間なく閉ざされている。
馬車の周囲を固めるのは、儀礼用の銀甲冑を身に纏い、抜き身のサーベルを握り締めた八名の精鋭護衛騎士たちだった。彼らは馬車が止まるや否や、即座に扇状の防御陣形を展開し、物珍しそうに覗き込む下町の住人たちへ抜き身の切先を向けて威嚇した。
「な、何事だい……?! 近衛の親衛隊かい?!」
厨房から飛び出してきたエルゼが、顔を青ざめさせて叫んだ。
その混乱の渦中、馬車の扉が蹴破られるように開いた。
ステップから転がり落ちるようにして飛び出してきたのは――官吏服の襟元を乱し、髪を振り乱した特務監察局副官、カスパールだった。
「シビル殿! シビル殿はいらっしゃるかッ?!」
カスパールは周囲の騎士たちを押し退け、血相を変えて店の引き戸へと飛び込んできた。
昨日の穏やかさは微塵もなく、その顔面は死人のように蒼白で、額には滝のような冷や汗が噴き出していた。彼はカウンターに飛びつくように両手をつき、シビルの腕を掴まんばかりの勢いで叫んだ。
「シビル殿、お願いだ! 助けてくれ! 閣下が……カトリーヌ様が移動中に突然、激しい発作で倒れられた! 呼吸が止まりかけているんだッ!」
「カスパール様、落ち着いて」
シビルは動じることなく、瓶を置いた手でカスパールの肩をトンと軽く叩いた。そのヘーゼルアイの深さは、突如現れた大貴族の馬車に対しても、一ミリの揺らぎも見せていなかった。
「患者様を、今すぐ店内へ。アルド、長椅子の上の荷物をすべて払って! エルゼ、一番清潔な麻のシーツを敷いてください!」
「お、おうッ!」
アルドが鉈を放り出し、作業台の毛布を一瞬で長椅子へと広げた。
シビルの迷いのない声に背中を押されたカスパールは、弾かれたように店を飛び出し、馬車の扉へと叫んだ。
「運べ! 中へ運び込め! 頭を揺らすな、決して光を当てるなとシビル殿が仰っている!」
護衛の騎士たちの中でも特に体格の優れた二名が、緊張に顔を強張らせながら、馬車の奥から一人の女性を慎重に抱え出してきた。
店内に運び込まれたその瞬間、狭い空間に満ちたのは、下町の生活臭を瞬時に圧倒する、あまりにも濃厚で豪奢な香気だった。
最高級のフィレンツェ産ニオイイリス(アイリスの根)から抽出された、白檀とスミレが混ざり合ったような、高貴で重厚なパルファム。
そして、その香りを纏っていたのは――帝国の社交界において「女帝」と恐れられ、マクシミリアン皇帝ですら頭が上がらないとされる最高権力者、カトリーヌ公爵未亡人(六十五歳)だった。
身に纏っているのは、深い紫紺の最高級ベルベットのドレス。裾には白貂の毛皮が贅沢にあしらわれ、首元には卵ほどの大きさもある極上のエメラルドが輝いていた。銀髪は本来であれば完璧な夜会巻きに整えられていたはずだが、今は激しい苦悶によって無残に崩れ、乱れた白髪が汗で顔に張り付いている。
「う……ッ……あ、ぁ……っ……!」
喉の奥から絞り出される、獣のような苦痛の呻き。
夫人の顔面は、蝋人形のように白く鬱血していた。
右のこめかみから頬、そして顎のラインにかけて、まるで紫色の毒蜘蛛が這い回っているかのように、太い血管が激しく浮き上がり、ピクピクと狂ったように拍動を繰り返している。
右目は激痛のために固く引き攣れて閉じられ、わずかに開いた左目の瞳孔は、光を恐れるように異常なほど散大していた。両手はベルベットのスカートの生地を爪が剥がれんばかりに強く握り締め、全身が弓なりに反り返って硬直している。
「……長年患われていた、三叉神経痛と悪性偏頭痛の複合発作だ!」
カスパールが悲鳴のように説明を捲し立てる。
「一昨日から前兆があったのだが、宮廷侍医の出す強心鎮痛剤とアヘンチンキを服用して無理を押して外出されたんだ! そうしたら、この下町の石畳の馬車の振動と、急激な気圧の低下で……完全に神経が暴走した! 侍医の薬をいくら飲ませても吐き戻してしまい、意識が混濁して……皇宮まで戻る時間はない! シビル殿、頼む……!」
護衛の騎士たちが、長椅子の周りを取り囲み、抜刀したままシビルを威圧的な視線で睨みつけた。
「おい、町娘! 貴様が何をできるか知らんが、閣下に万が一のことがあれば、貴様の首だけでは済まされんぞ!」
「静かになさいッ!」
鋭く、凛とした一喝が、店内の空気を切り裂いた。
怒声を上げた騎士が、気圧されたように言葉を呑み、息を止めた。
声を放ったのは、シビルだった。
普段の穏やかな薬師の娘の面影は消え去り、そこにあったのは、生死の狭間にある命を前にして、あらゆる虚飾を許さぬ冷徹な「医療者」の威厳だった。
「大声を出すのはおやめなさい。その耳障りな甲高い怒号の一つひとつが、患者様の三叉神経を直接針で刺すような激痛を与えているのが分からないのですか?!」
シビルは騎士たちを一瞥で沈黙させると、躊躇なく膝をつき、カトリーヌ夫人の枕元へと顔を近づけた。
高価なベルベットのドレスが擦れ合い、生々しい苦悶の熱気が立ち上る。
シビルは素早く手袋を脱ぎ捨てると、素肌のまま、夫人の首筋――頸動脈の拍動点へと、二本の指をそっと当てた。
――トク、トク、ドクンッ、トクククッ。
指先を伝わる、恐ろしいほどの血圧の上昇。
拍動は異常に硬く、血管の壁が内圧に耐えかねて悲鳴を上げている。
続いて、シビルは夫人の引き攣れた右瞼を指先でそっと押し上げ、瞳孔の対光反射を確認した。光に触れた瞬間、夫人の喉から「ギィッ」と歯が砕けんばかりの摩擦音が漏れ、全身がビクンと跳ね上がる。
(光線過敏、音響過敏、そして拍動性の激痛……。三叉神経の第一枝から第三枝に至る全領域が、極度の虚血と異常放電によって発火している。脳血管の急激な拡張が、周囲の神経節を押し潰しているのだわ)
宮廷侍医の処方は完全に裏目に出ていた。
強いアヘンチンキと強心剤は、中枢を麻痺させるどころか、交感神経を刺激して血圧をさらに跳ね上げ、耐えがたい激痛の悪循環を作り出していた。このまま放置すれば、あと半刻と経たぬうちに脳の血管が破裂し、取り返しのつかない麻痺か死に至る。
シビルは立ち上がり、間髪を入れずに指示を飛ばした。
「エルゼ! 表の小窓と引き戸の遮光カーテンをすべて閉めて! 隙間から入る光を一本残らず遮断してください!」
「あ、あいよッ!」
エルゼが走り、厚手の麻布を窓枠に叩きつけるようにして留めていく。
「アルド! 表の通りに立って、馬車の馬を百歩先まで移動させなさい。蹄の音も、人々のざわめきも、この店の周囲から一切排除してください。通り抜けようとする者がいれば、力ずくで迂回させて」
「任せとけ」
アルドが鉈を腰に差し、護衛の騎士たちを「邪魔だ、退け」と太い腕で押しのけながら、表の通りへと飛び出していった。
さらにシビルは、呆然と立ち尽くしていた護衛の騎士隊長を、鋭いヘーゼルアイで射抜いた。
「騎士様方、甲冑の佩刀と胸当てを今すぐ外しなさい。金属が擦れ合う微かなカチャカチャという高周波の音が、患者様の耳奥で爆発音となって響いています。それができないなら、全員店の外へ出て、息を殺して待機してください!」
「な……っ、我らは護衛の任務が――」
「任務よりも、主の命を救うことが先決でしょう!」
容赦のない正論の刃。
騎士隊長は青ざめ、シビルの気迫に呑まれるようにして、慌てて部下たちに「全員、刀身を布で巻け! 外へ出ろ!」と小声で下知を飛ばした。
ガチャガチャと音を立てていた甲冑の群れが、這うようにして店外へと退去していく。
バタン、と引き戸が閉ざされた。
カーテンが引かれた店内は、白昼の明るさから一転して、夜の底のような薄暗がりへと沈んだ。
外の喧騒は完全に遮断され、聞こえるのは、カトリーヌ夫人の浅く荒い喘鳴と、水滴の落ちる微かな音だけ。
光と音が消えただけで、夫人の激しい痙攣が、わずかに、ほんのわずかに波を引いた。
「……シビル殿、これからどうするんだ?!」
暗がりの中、カスパールが祈るように縋り付いてくる。
「血圧を下げ、脳血管の異常な拡張を物理的に鎮静させます。……熱湯で煎じたお茶では、熱そのものが血管を刺激してしまいますから使えません。必要なのは、揮発性の鎮痛芳香水と、経粘膜で直接神経を休める高濃度の浸出油です」
シビルはエプロンの紐を強く引き結ぶと、一切の躊躇なく、店の奥の調剤室へと身を翻した。
「カスパール様、夫人の頭の下に氷嚢をあてがって。決して首を曲げさせないように」
闇に包まれた店内で、シビルの足音だけが、迷いなく調剤室の奥へと消えていった。
その背中には、帝国の女帝の命を背負わされた重圧に対する怯えなど、微塵も存在していなかった。




