第14話:副官の胃痛と青の薬草茶
帝都特務監察局の執務棟は、日光すら拒絶するかのように重厚な黒色玄武岩で築かれている。その薄暗い回廊を、焦げ茶色の分厚い革書類鞄を抱えた一人の青年官僚が、幽霊のような足取りで歩いていた。
カスパール――二十六歳。
皇帝直属の特務機関において、悪名高き「氷雪の番犬」ことヴァルデマー公爵の副官を務める男である。
公爵とは乳兄弟の間柄であり、その苛烈極まりない性格を帝都で最も熟知しているはずの男だったが、ここ数日のカスパールの精神は、恐怖と困惑の極限にあった。
(……おかしい。絶対に、何かがおかしい……!)
カスパールは、仕立ての良い官吏服の上から、自らの左脇腹――胃の腑のあたりを強く押さえ込んだ。
指先をめり込ませるたび、内側から焼けた針を何十本も突き立てられたような、鋭い激痛が走る。激務、睡眠不足、そして何より「いつ理不尽な粛清の嵐が吹き荒れるか分からない」という極度の緊張感により、カスパールの胃壁はとうに擦り切れ、粘膜はボロボロにただれきっていた。
だが、カスパールを震え上がらせていたのは、持病の胃痛そのものではなかった。
上司であるヴァルデマーの、あまりにも「異常な変化」だった。
北方戦線の呪詛毒の後遺症と不眠により、先週までのヴァルデマーは文字通り「狂気の刃」そのものだった。執務室の気温は氷点下まで下がり、書類の不備一つで部下を凍結魔法で壁に磔にしかねない空気を放ち、宮廷侍医の睡眠薬を何十瓶と床に叩き割っていたのだ。
それが――ここ二、三日、どうだ。
朝、出勤してきた長官の目の下には相変わらず隈があるものの、あの死線の一歩手前のような血走った殺気が、綺麗さっぱり消え失せていた。
あまつさえ、昨夜などは提出された調査書に誤字を見つけた際、舌打ち一つせず、「カスパール、疲れているなら今日はもう帰って寝ろ」と、人間らしい言葉をかけてきたのだ。
(あの長官が! 人を人とも思わぬ冷酷非情な長官が、部下の睡眠時間を気遣うだと……?!)
それは慈悲などではなかった。カスパールにとっては、世界が崩壊する前触れのような不気味さだった。
毒を盛られて脳を侵されたか、あるいは敵対する大貴族による強力な精神干渉魔法にかかったに違いない。
そう確信したカスパールは、昨夜、庁舎の裏口から平服で抜け出したヴァルデマーを、胃の激痛に脂汗を流しながら密かに尾行したのだ。
そして突き止めたのが――帝都旧市街、煤煙と泥に塗れた職人街の片隅に佇む、元・染物屋の小さな長屋だった。
*
からりと晴れた秋の昼下がり。
運河沿いの路地裏には、仕込みを終えた工房の煙突から白い煙がのどかに漂い、遠くで荷馬車の鈴の音が響いていた。
軒下に掲げられたトネリコの看板には、『沈黙の緑』の素朴な彫り文字。
「……ここか。長官を誑かし、怪しげな薬で骨抜きにしている魔窟は……!」
路地の角から店を睨みつけるカスパールは、すでに息も絶え絶えだった。
昨夜の尾行の疲労に加え、昼の決裁書類の山を片付けている最中に胃が限界を迎え、昼食の硬いパン一切れすら喉を通らなかった。喉元まで胃酸の酸っぱい苦味が逆流し、脂汗が額から顎へと滴り落ちている。
だが、特務監察局副官としての責務が、彼を奮い立たせていた。
長官が暗殺者や怪しげなカルトの罠にかかっているのなら、副官である自分がこの手で暴き、白日の下に晒さねばならない。
カスパールは右手に掴んだ分厚い革書類鞄を武器のように握り締め、青白い顔で引き戸へと詰め寄った。
そして、勢いよく木戸を押し開けた。
バダンッ!
「怪しい店め! 貴様ら、長官に一体どんな毒を盛って――ぐ、ッ?!」
怒号を張り上げようとした瞬間だった。
下腹部からみぞおちにかけて、まるで生木を引き裂かれるような凄まじい激痛が突き抜けた。
ドサリ。
カスパールは怒鳴り散らすどころか、トネリコのカウンターに両手をつき、そのまま床の石畳へと無様に崩れ落ちた。
喉から漏れたのは、「ヒュウッ、ヒュウッ」という、引き攣った空気の抜ける音だけ。手から滑り落ちた革書類鞄が床を跳ね、中から監察局の極秘公文書が何枚かパラパラと散らばる。
「……う、ぐ……あぁ……胃が……割れる……ッ」
膝を抱え、脂汗で前髪を顔に張り付かせながら蹲るカスパール。
視界が白く濁り、激痛による吐き気で指先一本すら動かせない。完全な急性胃粘膜病変による胃痙攣だった。
「おいおい、昼間っから物騒な奴が飛び込んできたと思ったら、行き倒れかよ」
土間の奥から、呆れたような野太い声が響いた。
紺色の作業着の袖をまくり、手にした濡れ雑巾を絞りながら現れたのは、用心棒兼給仕のアルドだった。大男は床に転がるカスパールの襟首をひょいと掴み上げようとしたが、厨房の暖簾をくぐって出てきたシビルが、静かに押し留めた。
「乱暴に扱ってはいけません、アルドさん。その方は、今まさに胃壁が内側から千切れそうな痛みに耐えているのですから」
「シビル先生……でもよ、この野郎、長官がどうのこうのって怒鳴り込んできやがったぞ」
「お客様が何を叫ぼうと、倒れている方を床に転がしておく理由にはなりません。……アルドさん、長椅子へ運んでください。身体をまっすぐ伸ばすと腹筋が張って胃を圧迫しますから、膝の下に丸めた毛布を入れて、背中を少し丸めた状態で横たえて」
シビルの指示は、まるで朝の挨拶のように淡々としており、だが寸分の迷いもなかった。
アルドは舌打ちしながらも、カスパールの華奢な身体を軽々と抱え上げ、奥のトネリコの長椅子へと寝かせた。
「う……あ……放せ……俺は、監察局の……」
カスパールは苦悶の声を漏らしながら、必死に抵抗しようとした。
だが、その額に、冷たい井戸水で濡らされた麻布が、そっと乗せられた。
ひやり、とした心地よい冷感。
続いて、シビルの細い指先が、カスパールのみぞおちのわずかに左側――胃の上部にそっと当てられた。
「…………」
シビルは目を閉じ、指先から微細な魔力を滑り込ませた。
カスパールの胃壁の状態が、手を取るように伝わってくる。過度のストレスとカフェイン、そして不規則な食生活によって、胃酸が自らの粘膜を溶かし、毛細血管から微細な出血が起きている。神経は過敏に昂ぶり、胃袋全体が雑巾のように固く絞り上げられていた。
「強いお酒や濃すぎる黒珈琲で、無理やり身体を覚醒させてお仕事を続けてこられたのですね。……胃の粘膜を守る粘液が完全に枯渇し、胃酸が剥き出しの神経を直接焼いています」
シビルは目を開け、苦悶に歪むカスパールの顔を見下ろした。そのヘーゼルアイには、侵入者に対する怒りも、官僚に対する萎縮もなかった。ただ、傷つき壊れかけた組織に対する、職人特有の深い慈しみだけがあった。
「喋らないでください。息を吐くことだけに集中してくださいね。すぐに、胃壁を包むお茶を淹れますから」
シビルは立ち上がり、足早に調剤台へと向かった。
*
カスパールは荒い息を吐きながら、朦朧とする視界でその背中を追っていた。
(毒殺される……怪しげな下町の呪術師に、トドメを刺される……!)
本能が警鐘を鳴らしているはずなのに、額の冷湿布の心地よさと、みぞおちに触れられていた指先の奇妙な温もりが、身体の強張りを少しずつ奪っていく。
シビルが棚から取り出したのは、濃い青紫色の乾燥花弁が詰まったガラス瓶だった。
――マロウブルー(ウスベニアオイ)。
古くから「喉と胃の守護花」と称され、植物界で最も純度の高い植物性粘液質(ペクチンおよび多糖類)を豊富に含むハーブ。熱湯を注ぐことでゲル状の保護膜を形成し、傷ついた粘膜の表面を滑らかにコーティングする特効生薬。
そこにシビルが合わせたのは、リンゴに似た甘い芳香を放つジャーマンカモミールの頭花と、甘草の根の刻みチップだった。
カモミールに含まれるアズレン誘導体が胃粘膜の炎症と痛みを速やかに鎮静させ、甘草に含まれるグリチルリチンが胃潰瘍の組織修復を促す。さらに、甘草の持つ砂糖の数十倍もの自然な甘みが、衰弱した胃腸に負担をかけずに微細なエネルギーを補給する。
シビルは乳鉢を使わなかった。
マロウブルーの繊細な花弁を粉砕してしまえば、粘液質の分子鎖が断裂し、抽出液が濁ってしまうからだ。
透明な硝子サーバーの中に、ふわりと花弁を踊らせるように入れ、そこに裏庭の井戸から汲み上げた、あの軟水を注ぎ入れる。
沸騰したての熱湯ではなく、人肌より少し熱い程度の、摂氏七十五度の白湯。
熱が高すぎれば粘液成分が熱変性を起こし、低すぎればカモミールの精油が抽出されない。極限の温度管理。
サーバーの中に湯が注がれた瞬間――。
カスパールは、痛みに霞む目を疑った。
――ふわぁっ、と。
硝子の器の中で、乾燥していた濃紫の花弁が、まるで生き返ったように柔らかく花開き始めたのだ。
そして、花弁の縁から、信じられないほど鮮やかで澄み切った「青」が、水の中へと溶け出していく。
藍色でも、絵の具のような濁った青でもない。
それは、夜明け前の澄み渡った冬の空、あるいは深海の底を思わせる、息を呑むほどに純粋で神秘的なサファイアブルー。
「……な、んだ……あれは……?」
カスパールの唇から、呆然とした呟きが漏れた。
シビルはその青い液体の上に、そっと素手をかざした。
掌から放たれる微細循環魔力が、水分子とマロウの多糖類を均一に結びつけ、とろりとした滑らかな粘度を与えていく。
青い液体はサーバーの中で静かに渦を巻き、やがて光の加減によって、深い紫を帯びた夜空の色へと変わっていく。
シビルは、脚付きの透明な硝子カップへ、その青いお茶を静かに注ぎ分けた。
そして――カウンターの小皿から、薄く切られた黄色いレモンの端片を手に取った。
銀のピンセットで、レモンの果肉を一押し。
澄んだ果汁が一滴、青い液面の中央へと落ちた。
――トスリ。
その瞬間だった。
カップの底から、まるで魔法の花が一気に開いたかのように、鮮やかな変化が起きた。
酸性の果汁に反応したマロウブルーのアントシアニン色素が、触れた部分から瞬時に色を変え、深い青から、紫、藤色、そして――春の朝の曙光のような、息を呑むほど可憐な「淡い桜色」へと、波紋を描きながら変色していったのだ。
「う……そだろ……」
カスパールは絶句した。
帝立魔導工学院の錬金術実験室ですら見たことのないような、鮮やかで、息を呑むほど美しい色彩の劇変。
シビルはそのカップを手に取り、長椅子のカスパールの元へと戻ってきた。
立ち上ったのは、カモミールの林檎のような柔らかな甘みと、レモンの清々しい香り。
「お待たせいたしました。マロウブルーとカモミール、甘草のお茶です」
シビルはカスパールの背中に優しく手を添え、上体をゆっくりと起こさせた。
「青から桜色に変わるお茶……胃の粘膜が擦り切れている時は、強い色を見るだけでも神経が疲れてしまいますから。優しい春の色にしてあります。……少しトロミがついていますから、噛むようにして、ゆっくり一口ずつ喉へ送ってください」
差し出された硝子のカップ。
湯気とともに漂う香りは、ツンとした薬品臭など微塵もなく、ただただ甘く、優しく、疲弊した嗅覚を解きほぐしていく。
カスパールは震える両手でカップを受け取った。
熱すぎず、ぬるすぎない、完璧な温度。
毒かもしれないという疑念は、その神秘的な美しさと香りの前に、もはや完全に消え去っていた。渇ききった本能に突き動かされるように、カスパールはカップの縁に唇をつけた。
トスン、と。
液体が口内に滑り込んだ瞬間、カスパールは目を見開いた。
「…………ッ?!」
驚くべき舌触りだった。
水特有のサラサラとした感触ではない。まるで上質なシルクの布を溶かしたかのような、とろりとした、極めて滑らかなテクスチャー。
舌の上に広がるのは、甘草の優しく奥深い甘みと、カモミールの穏やかな林檎香。レモンの酸味は極限まで抑えられ、ただ爽快な後味だけを残している。
そして――そのとろみのある液体が、喉を通り抜けた瞬間だった。
――じゅわり、と。
荒れ果て、胃酸によって焼け焦げていた食道と胃壁の表面を、その温かな粘液が、まるで天鵞絨の包帯を巻き直すようにして、滑らかに、隙間なく覆い尽くしていったのだ。
シビルの微細魔力を帯びたマロウの粘液成分が、剥き出しになっていた胃の痛覚神経を、外部の刺激から物理的に遮断する。
続いて染み渡るカモミールのアズレンが、毛細血管の炎症を鎮火し、甘草の成分が胃粘膜のひきつれを解いていく。
――ズキ、ズキ、と。
カスパールの脳髄を狂わせんばかりに脈打っていた、あの鋭利な激痛の波が。
嘘のように。
まるで、引き潮のように、すうっと静まり返っていった。
「……あ……あぁ……」
カスパールの喉から、情けないほどの吐息が零れ落ちた。
痛みが、ない。
何ヶ月も、何年間も、鉛の塊のように自らの身体の中心に居座り続け、食事のたびに、呼吸のたびに自分を苛み続けていたあの焼けつくような苦痛が、綺麗さっぱり消え失せている。
胃袋の内側が、まるで温かい温泉に浸かっているかのように、ポカポカとした柔らかな熱に包まれていた。
「ごくっ、ごくっ……」
カスパールは両手でカップを握りしめ、無我夢中で飲み干した。
最後の一滴が胃の腑へと落ちていった時、カスパールの全身の毛穴から、緊張の解けた冷や汗が引き、代わりに健康的な微熱が巡り始めていた。
「……どうですか? 少しは落ち着かれましたか」
シビルの穏やかな声。
カスパールは空になったカップを見つめたまま、ガタガタと肩を震わせた。
そして――。
「はいよッ! お茶で胃壁を包んだら、次は胃袋に優しい飯を入れなきゃねえ!」
厨房の奥から、エルゼが木製のトレイを持って元気よく現れた。
トレイの上に載っていたのは、湯気を立ち上らせる深めの素焼き椀だった。
「レンズ豆のスープじゃあ、今の兄ちゃんの胃袋には繊維がちと強すぎるからね。裏庭の井戸水で、燕麦を糊状になるまでとろとろに煮込んで、少量の岩塩と裏ごしした人参を混ぜた特製のポタージュだよ。……ほら、熱いうちに胃袋へ流し込みな!」
差し出された椀の中では、粒の形が完全に崩れるまで煮込まれた燕麦が、とろりとした乳白色のポタージュとなって優しく揺れていた。
油気は一切ない。穀物の自然な甘みと、ほんの少しの塩気だけが漂う、極限まで消化に配慮された滋養食。
カスパールは添えられていた木のスプーンを手に取った。
震える手ですくい、口に運ぶ。
――はふ、と。
舌の上で噛む必要もなく溶けていく、麦の素朴な温もり。
それが、先ほどお茶でコーティングされたばかりの胃壁へと、滑り込むようにして落ちていく。
冷え切り、縮こまっていた内臓の奥底が、生き返るように脈動を再開する。
「…………っ」
ポロリ、と。
カスパールの充血した瞳から、大粒の涙が零れ落ち、素焼きの椀の縁を濡らした。
止まらなかった。
特務監察局の冷徹なエリート官僚として、貴族の陰謀を暴き、部下を統率し、死線の中で感情を押し殺し続けてきた青年が、子供のようにボロボロと涙を流していた。
「……うまい……うまいです……胃が、痛くない……! 飯を食って、胃が痛まないなんて……何年ぶりだろう……っ!」
カスパールは鼻をすすりながら、無我夢中でスプーンを動かした。
一口、また一口。
温かい燕麦のポタージュが喉を通るたびに、張り詰めていた神経の糸がプツプツと切れ、代わりに生きている実感と安堵が全身を満たしていく。
椀の底を綺麗にすくい終えた時、カスパールは長椅子の上に両手をつき、シビルとエルゼに向かって、深々と頭を下げていた。
「……申し訳、ありませんでした……! 怪しい店だなどと、無礼極まる暴言を吐き……! 私は、私は……!」
「いいんですよ、お客様」
シビルは空になった椀を受け取りながら、くすりと笑った。
「激務でお疲れだったのでしょう。身体が極限まで悲鳴を上げている時は、誰だって心に余裕がなくなってしまうものです。……胃の痛みが引いて、本当によかった」
その菩薩のような微笑みに、カスパールの心臓がドキンと跳ね上がった。
――理解した。
カスパールは、全ての点と線を瞬時に理解した。
あの氷のように冷酷な長官が、なぜこの裏路地の店に足繁く通い詰めていたのか。
なぜ、あんなにも穏やかな顔をして執務室に戻ってきたのか。
毒でも、呪詛でもない。
この店には、この娘の手には――どんな宮廷侍医の劇薬すら及ばぬ、魂と肉体を根本から救い上げる、本物の「奇跡」があったのだ。
(長官……! 貴方は、こんな極上の楽園を、自分一人だけで独占していたのですか……?!)
カスパールは床に散らばっていた極秘書類を慌てて拾い集め、鞄に詰め直すと、立ち上がった。
足取りは、店に入ってきた時とは比べ物にならないほど軽く、視界は驚くほど澄み渡っていた。
「……シビル殿、とお呼びしてよろしいでしょうか」
「はい。シビルで結構ですよ」
「私は……特務監察局副官のカスパールと申します」
カスパールは胸元に手を当て、最高級の貴族礼を捧げた。
「先ほどの非礼を、重ねてお詫び申し上げます。……そして、この命の恩を、決して忘れません」
カスパールは革財布から銀貨を取り出そうとしたが、壁際に立っていたアルドが「おい、銀貨は突っ返されるぞ。定価は銅貨だ」とニヤニヤしながら耳打ちしたため、慌てて銅貨数枚を選び出し、カウンターの上に恭しく置いた。
「シビル殿。……明日も、伺ってもよろしいでしょうか。いえ、毎日でも通わせていただきたい!」
「ふふ、ええ、いつでもどうぞ。ですがカスパール様、今夜は油っこいものと強い珈琲は控えて、早くお休みになってくださいね」
「はい! 仰せの通りにいたします!」
カスパールは晴れやかな顔で、深々と一礼すると、店を後にした。
引き戸が閉ざされ、カランコロンと鈴の音が鳴る。
路地裏に出たカスパールは、澄み切った秋の青空を見上げ、大きく深呼吸をした。
胃の底にあるのは、温かく、確固たる充足感。
(……長官。申し訳ありませんが、この秘密、私も共有させていただきます。……私の胃壁の平和のために!)
特務監察局の冷徹な副官は、長官の不審動向を暴くどころか、最初の一杯で完全に『沈黙の緑』の敬虔なる信徒と化していた。




