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外伝短編|それでも、君はそこにいた

作者: 安剛
掲載日:2026/04/07

 ペットショップの中央に、その猫はいた。


 子猫と呼ぶには少し大きすぎる体。

 長い毛並みが狭いゲージに収まりきらず、どこか不格好に見えた。

 周囲では、小さな子猫たちが甲高い声を上げて人を呼んでいる。店員の靴がタイルを叩く音と、広告のBGMが絶えず流れていた。


 けれど、その猫は鳴かなかった。


 白と灰色の毛が混じる身体をどしっと床につけ、ただこちらを見ていた。

 期待でも、不安でもない。

 もっと言えば、「選ばれること」に慣れきった目でもなかった。


 諦めに近い、静かな視線。


 値札の数字は、他の猫よりも低かった。

 理由は簡単だ。大きいから。もう子猫の時期を過ぎているから。

 売れ残る理由は、いつも分かりやすい。


 その視線から、目が離れなくなった。


「この子で」


 言葉にしたのは、迷いを断ち切るためだったと思う。

 本当は理由なんて後付けだ。

 半年前に子猫を迎えたばかりだったし、決して余裕のある時期でもなかった。


 仕事もうまくいっていなかった。

 プライベートも、胸を張れる状態じゃなかった。


 寂しさを埋めるためだった。

 それを認めるのが、少し怖かっただけだ。


 店員が書類をめくる音がして、ペン先が紙を擦った。

 キャリーケースのチャックを閉める音が、思ったより大きく響いた。

 猫は抵抗しない。暴れない。

 ただ、奥で毛を揺らして、息を吐いた。


 帰り道、車の揺れが一定に続いた。

 キャリーの中で爪が布を掻く音がたまにして、そのたびに胸が小さく跳ねた。

 私は何度も「大丈夫」と言いそうになって、飲み込んだ。


 猫は言葉より空気を読む、と聞いたことがある。なら、今の私は余計な音を出さないほうがいい。


 家には、すでに1匹の猫がいる。

 茶色い毛並みで、少しだけ沿った耳。

 撫でられるのが好きで、額を差し出す癖がある。


 額の柄が特徴的で、デコと名付けた。


 新しく迎える白と灰色の猫には、2匹目だからという安直な理由で、ニコという名前をつけた。


 仲良くなれるといいな、と思った。

 それ以上のことは、考えなかった。



 拍子抜けするほど、2匹はすぐに馴染んだ。


 用意したゲージは、ほとんど意味をなさなかった。

 ニコはゲージの中で腹を出し、デコは警戒するどころか興味深そうに鼻を近づける。

 鼻先が触れるか触れないかの距離で、2匹は同時にくしゃみをして、私は笑ってしまった。


「……これは、もう大丈夫だな」


 翌日には直接触れ合わせた。

 心配は杞憂に終わり、2匹は猫らしくないほど人懐っこかった。

 甘え方も、距離感も、どこか似ていた。


 夜、電気を消して布団に入ると、足元から小さな重みが乗る。

 次に、胸のあたりにもう1つ重みが増える。

 呼吸が2つ分、部屋に増える。


 その音が、私の生活になった。


 気づけば、猫というより「家族」という言葉のほうが自然になっていた。


 帰宅すると、玄関まで走ってくる。

 鍵を回す音で分かるらしい。

 ドアが開く前に、爪が床を蹴る音が近づく。


「ただいま」


 返事はない。

 でも、足元にすり寄る温度が「おかえり」になる。

 その当たり前が、いつのまにか私を保っていた。


 写真フォルダは、あっという間に埋まった。

 外を見る後ろ姿。追いかけっこをする背中。

 不思議な体勢で眠る2匹。


 同じ写真が何枚もあるのに、消せなかった。

 違いがあるからだ。

 耳の向き、尻尾の角度、目の半開き具合。

 全部が違う。


 当たり前のように、そこにいた。



 夜、寝室に向かうと、必ず2匹がついてきた。


 布団に入ると、定位置があった。

 左にデコ。右にニコ。


 何度入れ替えても、自然とその配置に戻る。

 理由は分からない。

 ただ、そうなっていた。


 眠る前、2匹の重みを感じるのが好きだった。


 小さな体温。

 呼吸の揺れ。

 喉が鳴る音が、左と右から微妙に違う間隔で聞こえる。

 それだけで、今日が終わる実感があった。


 雨の日は、2匹の体温が少し熱く感じた。


 仕事で遅く帰った日は、先に布団に入っていた2匹が顔だけこちらに向けて、眠そうに目を細めた。


 風邪で寝込んだ日は、デコがいつもより近く、ニコがいつもより長くそこにいた。


 忙しくて夜中までスマートフォンを握っていた日は、2匹の呼吸が先に整っていくのを聞きながら、私は通知音だけを追っていた。


 それが、十数年続いた。


 猫の平均寿命を越えても、2匹は元気だった。

 身体が少し大きくなった以外、何も変わらない。


 呼ぶと来る。

 撫でると目を細める。

 甘えるときは、必ず頭を差し出す。


 なにも変わらない。


 変わったのは、私だった。


 仕事を理由に、2匹と遊ぶ時間は減っていった。

 かつては毎回買っていたおもちゃも、増えなくなった。

 箱に入ったままの新品のおもちゃが、いつのまにか棚の奥で眠っていた。


 にゃぁ、と声をかけられても、「はいはい」と片手間に返すことが増えた。


 視線は、いつもスマートフォンにあった。

 画面の光は強く、猫の目は静かだった。

 私はその静けさに甘えていた。


 愛していなかったわけじゃない。

 それだけは、今でもはっきり言える。


 ただ、「いること」に慣れすぎていた。



 最初に変調を見せたのは、ニコだった。


 排泄がうまくいかなくなり、部屋を1つ隔離した。

 掃除の回数が増え、床を拭く音が生活に混ざった。

 消臭剤の匂いが濃くなって、私は何度も窓を開けた。


 一緒に寝ることは、できなくなった。


 夜、寝室に行くと、右側が空いている。


 デコが、ニコを埋めるように右側へ移動した。

 けれど、左側はぽっかりと空いたままだった。


 何かが欠けた感覚。

 言葉にできない違和感。

 布団を整える手が一瞬止まる。


 空いている場所に、無意識で手のひらを置いてしまう。


 冷たい。


 隔離部屋の網越しに、ニコが鳴く。


 にゃぁぁん、にゃぁぁん。

 特徴的な、少し甘えた声。


 目が合うと、使い古したおもちゃを咥えて近づいてくる。

 落として、頭を差し出す。


 遊びたいわけじゃない。

 ただ、撫でてほしいだけ。


 分かっていた。

 分かっていたのに、

「はいはい」と言って、その場を離れることもあった。


 そのとき、ニコは追ってこない。

 ただ、網の近くに座って、鳴き声を少しだけ小さくする。

 あれは、呼ぶのをやめたんじゃない。

 呼んでも届かない、と学習した音だった。


 私はそれを聞いていたのに、正面から受け止める速度が遅かった。


 愛していなかったわけじゃない。

 でも、愛に反応する速度は、確実に遅くなっていた。


 いつしか、写真フォルダに写る2匹の姿は少なくなっていた。

 以前は「今」を残すために撮っていたのに、いつのまにか「たまに」になった。

 撮らなくてもそこにいる、と思ってしまった。


 当たり前は、写真より強い。

 強いから、記録が要らないと錯覚する。


 隔離部屋の前を通るたびに鳴き声がする。

 にゃぁぁん。にゃぁぁん。

 私は立ち止まって、扉を開ける。


 目を見ずに撫でる手、もう片方はスマートフォン。

 通知。返信。仕事。

 その音が終わってから、やっと目を見る。


 ニコは待っている。

 待つことに慣れた目で。

 でも、諦めた目じゃなくて。

 まだ私に期待している目で。


 その期待を、私は抱える器を少しずつ小さくしていた。



 ニコは、静かに旅立った。


 17年という時間を生きた。

 老衰と呼ぶには、十分すぎる理由があった。


 それでも私は、理由が欲しかった。

 理由があれば、後悔が減ると思った。


「よく生きたな」


 そんな言葉が、自然と浮かんだ。

 平均寿命から計算し、合理的に納得する。

 納得の形を作ることで、自分が崩れないようにする。


 涙が出た。

 でも、その涙に蓋をする感覚も、同時にやってきた。


 隔離部屋の床を拭く手が、途中で止まる。

 止まったまま、私は「次にやること」を探してしまう。

 片付け。手続き。病院。火葬。連絡。

 順番を作れば、感情は後回しにできる。


 テレビでは、ニュースが流れていた。


「人類の感情変動は、許容範囲内に収束傾向――」


 収束、か。


 悲しくないわけじゃない。

 辛くないわけでもない。


 でも、生きるとは次へ進むことだ。

 そんなテンプレートな答えで、自分を保とうとする。


 それでも、後悔は消えなかった。


 もっと抱きしめればよかった。

 もっと応えればよかった。

 扉の前でスマートフォンを見る前に、先にニコを見ればよかった。

 「はいはい」じゃなくて、名前を呼べばよかった。

 にゃぁぁん、の声を「今だけだ」と理解していたのに、理解したまま動かなかった。


 AIに問いかける。

 返ってくるのは、一般的で正しい言葉。

 喪失の受け止め方。ペットロス。時間が癒す。後悔は自然。愛していた証拠。


「そうだよな……」


 その正しさが、さらに私を冷たくする。

 正しい言葉は、痛みを説明するが、痛みを抱きしめない。


 私はそこで、考えるのをやめた。

 やめたというより、止まった。

 止まってしまう自分が、怖かった。



 夜。

 寝室に向かう。


 デコだけが、ついてくる。


 足音が1つ分しかない。

 布団に入るまでの短い距離が、以前より長く感じる。

 ドアを閉める音が、部屋の中で大きく反響する。


 布団に入ると、デコは右側に座る。

 左側は、空いたままだ。


 私は、その空白を埋めない。

 埋められないと、知っているからだ。


 それでも、そこに手を伸ばしてしまう。

 何も触れない。

 空気だけがある。


 デコが喉を鳴らす。

 その音が「ここにいる」を繰り返す。

 私はその音にすがりそうになって、同時に怖くなる。

 すがったら、ニコの空白をデコで埋めてしまう気がした。


 それは違う。

 違うのに、私は人間だから、埋めたがる。


 何も触れない。


 それだけで、分かる。


 愛は、あった。

 確かに、あった。


 ただ、反応できなかった時間があっただけだ。


 世界のせいにしてもいい。

 忙しさのせいにしてもいい。

 自分が冷たい人間だった、と言ってもいい。


 でも、どれも最後の言い訳だ。


 言い訳を重ねても、ニコがそこにいた時間は戻らない。

 戻らないのに、私は今も寝室に向かってしまう。

 右と左の定位置を、無意識で探してしまう。


 デコが右に座り、左が空いたままの夜が続く。

 1日。2日。3日。

 私は毎晩、同じ場所に手を伸ばす。

 毎晩、同じ空気を掴む。

 毎晩、同じ後悔の形を確認する。


 それでも、君は、そこにいた。


 隔離部屋の網越しに。

 おもちゃを咥えて。

 頭を差し出して。

 にゃぁぁん、と呼んで。


 そこにいた。


 そして私は、今もここにいる。


 残ったのは、空白と、呼び声と、事実だけだ。

 埋められない空白を抱えたまま、私は明日も布団に入る。

 右と左の定位置を探しながら。


 ――それでも、君はそこにいた。

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