外伝短編|それでも、君はそこにいた
ペットショップの中央に、その猫はいた。
子猫と呼ぶには少し大きすぎる体。
長い毛並みが狭いゲージに収まりきらず、どこか不格好に見えた。
周囲では、小さな子猫たちが甲高い声を上げて人を呼んでいる。店員の靴がタイルを叩く音と、広告のBGMが絶えず流れていた。
けれど、その猫は鳴かなかった。
白と灰色の毛が混じる身体をどしっと床につけ、ただこちらを見ていた。
期待でも、不安でもない。
もっと言えば、「選ばれること」に慣れきった目でもなかった。
諦めに近い、静かな視線。
値札の数字は、他の猫よりも低かった。
理由は簡単だ。大きいから。もう子猫の時期を過ぎているから。
売れ残る理由は、いつも分かりやすい。
その視線から、目が離れなくなった。
「この子で」
言葉にしたのは、迷いを断ち切るためだったと思う。
本当は理由なんて後付けだ。
半年前に子猫を迎えたばかりだったし、決して余裕のある時期でもなかった。
仕事もうまくいっていなかった。
プライベートも、胸を張れる状態じゃなかった。
寂しさを埋めるためだった。
それを認めるのが、少し怖かっただけだ。
店員が書類をめくる音がして、ペン先が紙を擦った。
キャリーケースのチャックを閉める音が、思ったより大きく響いた。
猫は抵抗しない。暴れない。
ただ、奥で毛を揺らして、息を吐いた。
帰り道、車の揺れが一定に続いた。
キャリーの中で爪が布を掻く音がたまにして、そのたびに胸が小さく跳ねた。
私は何度も「大丈夫」と言いそうになって、飲み込んだ。
猫は言葉より空気を読む、と聞いたことがある。なら、今の私は余計な音を出さないほうがいい。
家には、すでに1匹の猫がいる。
茶色い毛並みで、少しだけ沿った耳。
撫でられるのが好きで、額を差し出す癖がある。
額の柄が特徴的で、デコと名付けた。
新しく迎える白と灰色の猫には、2匹目だからという安直な理由で、ニコという名前をつけた。
仲良くなれるといいな、と思った。
それ以上のことは、考えなかった。
拍子抜けするほど、2匹はすぐに馴染んだ。
用意したゲージは、ほとんど意味をなさなかった。
ニコはゲージの中で腹を出し、デコは警戒するどころか興味深そうに鼻を近づける。
鼻先が触れるか触れないかの距離で、2匹は同時にくしゃみをして、私は笑ってしまった。
「……これは、もう大丈夫だな」
翌日には直接触れ合わせた。
心配は杞憂に終わり、2匹は猫らしくないほど人懐っこかった。
甘え方も、距離感も、どこか似ていた。
夜、電気を消して布団に入ると、足元から小さな重みが乗る。
次に、胸のあたりにもう1つ重みが増える。
呼吸が2つ分、部屋に増える。
その音が、私の生活になった。
気づけば、猫というより「家族」という言葉のほうが自然になっていた。
帰宅すると、玄関まで走ってくる。
鍵を回す音で分かるらしい。
ドアが開く前に、爪が床を蹴る音が近づく。
「ただいま」
返事はない。
でも、足元にすり寄る温度が「おかえり」になる。
その当たり前が、いつのまにか私を保っていた。
写真フォルダは、あっという間に埋まった。
外を見る後ろ姿。追いかけっこをする背中。
不思議な体勢で眠る2匹。
同じ写真が何枚もあるのに、消せなかった。
違いがあるからだ。
耳の向き、尻尾の角度、目の半開き具合。
全部が違う。
当たり前のように、そこにいた。
夜、寝室に向かうと、必ず2匹がついてきた。
布団に入ると、定位置があった。
左にデコ。右にニコ。
何度入れ替えても、自然とその配置に戻る。
理由は分からない。
ただ、そうなっていた。
眠る前、2匹の重みを感じるのが好きだった。
小さな体温。
呼吸の揺れ。
喉が鳴る音が、左と右から微妙に違う間隔で聞こえる。
それだけで、今日が終わる実感があった。
雨の日は、2匹の体温が少し熱く感じた。
仕事で遅く帰った日は、先に布団に入っていた2匹が顔だけこちらに向けて、眠そうに目を細めた。
風邪で寝込んだ日は、デコがいつもより近く、ニコがいつもより長くそこにいた。
忙しくて夜中までスマートフォンを握っていた日は、2匹の呼吸が先に整っていくのを聞きながら、私は通知音だけを追っていた。
それが、十数年続いた。
猫の平均寿命を越えても、2匹は元気だった。
身体が少し大きくなった以外、何も変わらない。
呼ぶと来る。
撫でると目を細める。
甘えるときは、必ず頭を差し出す。
なにも変わらない。
変わったのは、私だった。
仕事を理由に、2匹と遊ぶ時間は減っていった。
かつては毎回買っていたおもちゃも、増えなくなった。
箱に入ったままの新品のおもちゃが、いつのまにか棚の奥で眠っていた。
にゃぁ、と声をかけられても、「はいはい」と片手間に返すことが増えた。
視線は、いつもスマートフォンにあった。
画面の光は強く、猫の目は静かだった。
私はその静けさに甘えていた。
愛していなかったわけじゃない。
それだけは、今でもはっきり言える。
ただ、「いること」に慣れすぎていた。
⸻
最初に変調を見せたのは、ニコだった。
排泄がうまくいかなくなり、部屋を1つ隔離した。
掃除の回数が増え、床を拭く音が生活に混ざった。
消臭剤の匂いが濃くなって、私は何度も窓を開けた。
一緒に寝ることは、できなくなった。
夜、寝室に行くと、右側が空いている。
デコが、ニコを埋めるように右側へ移動した。
けれど、左側はぽっかりと空いたままだった。
何かが欠けた感覚。
言葉にできない違和感。
布団を整える手が一瞬止まる。
空いている場所に、無意識で手のひらを置いてしまう。
冷たい。
隔離部屋の網越しに、ニコが鳴く。
にゃぁぁん、にゃぁぁん。
特徴的な、少し甘えた声。
目が合うと、使い古したおもちゃを咥えて近づいてくる。
落として、頭を差し出す。
遊びたいわけじゃない。
ただ、撫でてほしいだけ。
分かっていた。
分かっていたのに、
「はいはい」と言って、その場を離れることもあった。
そのとき、ニコは追ってこない。
ただ、網の近くに座って、鳴き声を少しだけ小さくする。
あれは、呼ぶのをやめたんじゃない。
呼んでも届かない、と学習した音だった。
私はそれを聞いていたのに、正面から受け止める速度が遅かった。
愛していなかったわけじゃない。
でも、愛に反応する速度は、確実に遅くなっていた。
いつしか、写真フォルダに写る2匹の姿は少なくなっていた。
以前は「今」を残すために撮っていたのに、いつのまにか「たまに」になった。
撮らなくてもそこにいる、と思ってしまった。
当たり前は、写真より強い。
強いから、記録が要らないと錯覚する。
隔離部屋の前を通るたびに鳴き声がする。
にゃぁぁん。にゃぁぁん。
私は立ち止まって、扉を開ける。
目を見ずに撫でる手、もう片方はスマートフォン。
通知。返信。仕事。
その音が終わってから、やっと目を見る。
ニコは待っている。
待つことに慣れた目で。
でも、諦めた目じゃなくて。
まだ私に期待している目で。
その期待を、私は抱える器を少しずつ小さくしていた。
⸻
ニコは、静かに旅立った。
17年という時間を生きた。
老衰と呼ぶには、十分すぎる理由があった。
それでも私は、理由が欲しかった。
理由があれば、後悔が減ると思った。
「よく生きたな」
そんな言葉が、自然と浮かんだ。
平均寿命から計算し、合理的に納得する。
納得の形を作ることで、自分が崩れないようにする。
涙が出た。
でも、その涙に蓋をする感覚も、同時にやってきた。
隔離部屋の床を拭く手が、途中で止まる。
止まったまま、私は「次にやること」を探してしまう。
片付け。手続き。病院。火葬。連絡。
順番を作れば、感情は後回しにできる。
テレビでは、ニュースが流れていた。
「人類の感情変動は、許容範囲内に収束傾向――」
収束、か。
悲しくないわけじゃない。
辛くないわけでもない。
でも、生きるとは次へ進むことだ。
そんなテンプレートな答えで、自分を保とうとする。
それでも、後悔は消えなかった。
もっと抱きしめればよかった。
もっと応えればよかった。
扉の前でスマートフォンを見る前に、先にニコを見ればよかった。
「はいはい」じゃなくて、名前を呼べばよかった。
にゃぁぁん、の声を「今だけだ」と理解していたのに、理解したまま動かなかった。
AIに問いかける。
返ってくるのは、一般的で正しい言葉。
喪失の受け止め方。ペットロス。時間が癒す。後悔は自然。愛していた証拠。
「そうだよな……」
その正しさが、さらに私を冷たくする。
正しい言葉は、痛みを説明するが、痛みを抱きしめない。
私はそこで、考えるのをやめた。
やめたというより、止まった。
止まってしまう自分が、怖かった。
⸻
夜。
寝室に向かう。
デコだけが、ついてくる。
足音が1つ分しかない。
布団に入るまでの短い距離が、以前より長く感じる。
ドアを閉める音が、部屋の中で大きく反響する。
布団に入ると、デコは右側に座る。
左側は、空いたままだ。
私は、その空白を埋めない。
埋められないと、知っているからだ。
それでも、そこに手を伸ばしてしまう。
何も触れない。
空気だけがある。
デコが喉を鳴らす。
その音が「ここにいる」を繰り返す。
私はその音にすがりそうになって、同時に怖くなる。
すがったら、ニコの空白をデコで埋めてしまう気がした。
それは違う。
違うのに、私は人間だから、埋めたがる。
何も触れない。
それだけで、分かる。
愛は、あった。
確かに、あった。
ただ、反応できなかった時間があっただけだ。
世界のせいにしてもいい。
忙しさのせいにしてもいい。
自分が冷たい人間だった、と言ってもいい。
でも、どれも最後の言い訳だ。
言い訳を重ねても、ニコがそこにいた時間は戻らない。
戻らないのに、私は今も寝室に向かってしまう。
右と左の定位置を、無意識で探してしまう。
デコが右に座り、左が空いたままの夜が続く。
1日。2日。3日。
私は毎晩、同じ場所に手を伸ばす。
毎晩、同じ空気を掴む。
毎晩、同じ後悔の形を確認する。
それでも、君は、そこにいた。
隔離部屋の網越しに。
おもちゃを咥えて。
頭を差し出して。
にゃぁぁん、と呼んで。
そこにいた。
そして私は、今もここにいる。
残ったのは、空白と、呼び声と、事実だけだ。
埋められない空白を抱えたまま、私は明日も布団に入る。
右と左の定位置を探しながら。
――それでも、君はそこにいた。




