第9話 猫と文豪
「やあ。どこへ行くのかな?」
声と同時に歯が浮かび、目が灯り、細い縞の体が縫い合わさっていく。
縞模様の猫は枝に腰かけ、尻尾をぶらぶらさせた。
「どこへって……まだ決めてなくて。」
真理が答える。
「なら、どこへ行っても同じさ。道はたくさん。でも行き先がないなら、どれも正しい。」
猫はにやりと笑い、言葉の余韻だけを葉の隙間にぶら下げた。
横でアリスが微笑む。
「チェシャ猫は、道を選ぶって話を、わざとずらして言うの。
ヴィクトリア朝のイギリスは、仕事も結婚も慣習や階級のレールが先にありき。
『どの道へ?』って問い自体が窮屈だったから、ああいう言い方で軽くひっくり返すんだよ。
『どこでもいい』は、用意された正しさへの小さな皮肉。」
真理は枝の上の猫と、足もとの細い小径を見比べた。
「たしかに、道って最初から、これが正しいだろうって顔をして並んでる。」
「うん。だから先に『どこへ行きたいか』を自分で決めるの。」
アリスは肩をすくめる。
「決めないままだと、どの道も、世の中の流れのまま通り過ぎていくから。」
チェシャ猫はまたにやりと笑い、今度は体から薄れていった。
笑い声と口だけが最後まで残り、ひと言だけ落としていく。
「結局は、歩いた道を『正解』にするしかないのさ。」
その時、森の向こうから人影が滲み出た。
和服に洋帽、腕には気難しげな猫を抱いている。
「これはまた、不思議な場所に迷い込んだものだな。」
男は静かに笑った。
真理は息をのむ。
大学の資料で何度も見た口絵の顔――講義で覚えた肩書きが一気に立ちあがる。
『吾輩は猫である』『こころ』の作者であり、明治の新聞社で俸給を得た日本初の職業作家。
倫敦留学の孤独についての記述まで脳裏をかすめた。
「――夏目漱石。」
文豪に抱えられた猫が前脚を伸ばし、堂々と口を開く。
「吾輩は猫である。――名前は、まだ無い。」
真理は思わず口を開き、アリスはきゃっと声を上げて手を叩いた。
「まあ! こちらの猫も、とってもおしゃべりなのね!」
漱石は猫の背をやさしく撫で、穏やかに語る。
「この猫は、明治の人間社会を斜に見るために生まれた。
文明開化の混乱で、人は学歴や地位に振り回され、妙な見栄を張る。
──それを猫の目線で、少し笑ってみせたのだ。」
そのとき、枝の上に残っていた大きな笑い口が、にやりと弧を描く。
「へえ、そっちの猫も、人間の愚かしさを笑うのか。立派なお仲間だな。」
チェシャ猫が気の良さそうに言う。
「愚かしさ?」
吾輩はふんと鼻を鳴らした。
「いや、人間というものは皆、どこかしら猫より愚かである。だが、そこがまた面白いのである。」
真理は少し身を乗り出し、思いついたことを早口に並べた。
「猫と人間の付き合いって古いんだよ。
古代エジプトでは神として崇拝されたし、中世ヨーロッパでは魔女の使いって恐れられたりもした。
つまり猫は、人類の歴史の中で崇められたり、嫌われたりを繰り返してきた存在なんだよね。」
「そんなに昔から人間は猫を飼っていたの?」
アリスが目を丸くする。
枝の上の笑い口が、にやりと歪んだ。
「失敬な。人間が猫を飼っていた? 逆だろう──猫が人間を飼ってやっていたのさ。」
吾輩も負けずに顎を上げる。
「然り。我々猫が昔から人間の相手をしてやっているのである。
餌をやる口実を与え、人間の孤独を慰め、時にはその愚かしさを軽く笑ってやる。
要するに、人間とは猫に使われている存在に過ぎんのだ。」
漱石は猫を抱え直し、苦笑をひとつ。
「まったく、この猫は口が達者で困る。……だが、そう思わされるほどに、人は猫を必要としているのかもしれないな。」




