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第7話 ヴィクトリア朝の階級社会

 青虫の煙が渦巻く中、真理は小さく首をかしげた。


「……ねえアリス。ホームズさんみたいに自分で職業を切り拓いて地位を築いた人や、青虫みたいに成り上がった人って、ヴィクトリア朝ではどういう立場だったの?」


 アリスは頬杖をつき、少し考え込んでから答える。


「そうね……あの時代のイギリスでは、産業革命と都市化が進んで新しい階層が生まれていたの。

 医師や弁護士、教師や技師……そうしたプロフェッショナルな職業人は、伝統的な貴族や地主とは違うけれど、尊敬を集める存在になっていったわ。

 ホームズも、その一人といえるの。」


 彼女は目を細め、今度は青虫の方をちらりと見る。


「一方で成り上がりと呼ばれた人たち──労働者階級から商売や事業で成功した人は、財産はあっても社会からは冷ややかに見られたの。

 血筋がないとか、教養が足りないとか言われてね。

 だからこそ、彼らは肩書きや地位にしがみつきがちだったのよ。」


 アリスは肩をすくめ、軽やかに笑った。


「ヴィクトリア朝はね、古い階級と新しい価値観がせめぎ合う、不安定で面白い時代だったの。」


 真理はゆっくりと頷き、目の前のホームズと青虫を見比べた。

 片方は、伝統から外れて独自の道を切り拓いた人物。

 もう片方は、成り上がりの不安を必死に隠して威張る存在。


「……なるほど。だからこそ、両方とも“Who are you?”という問いに対極的なのね。」


 真理はふと、ひとつの疑問を口にした。


「……でも政治の世界では、結局のところ大貴族や大地主じゃなければ、大臣にまではなかなかなれなかったのよね?」


 アリスは目を細め、髪を一房撫でながら答える。


「ええ、その通り。

 ヴィクトリア朝の政治は、まだまだ貴族や大地主が支配していたわ。

 でも、時代の流れの中で例外も現れたの。

 たとえば、ウィリアム・グラッドストン。

 彼は裕福な商人の息子で、伝統的な大貴族ではなかったけれど、努力と才能で首相にまで上り詰めたの。」


 少女は、指を二本立てる。


「もう一人、ベンジャミン・ディズレーリ。

 彼はユダヤ系の家庭に生まれ、当時のイギリス社会では異端視されていた。

 それでも彼は弁舌と政治力で保守党を率い、グラッドストンと並び立つ首相になったのよ。」


 そして軽く肩をすくめ、微笑む。


「つまりね、大貴族や地主でなくても、時代が求める才覚を示せば道は開けた。でも同時に、彼らが例外と呼ばれるくらいに、階級の壁は分厚かったの。」


 真理は深く息を吐き、思わず頷いた。


「ヴィクトリア朝の政治ってやっぱり階級の壁が厚いのね。同じ時代の日本の明治とは違う。」


 アリスが首をかしげる。


「どう違うの?」


 真理は静かに言葉を続けた。


「日本の初代首相、伊藤博文はね。

 武士ではあったけど、身分としては一番下の足軽の出身だったの。

 でもそこから明治維新を経て、国のトップにまでなったんだよ。」


 アリスの瞳がぱちりと瞬き、好奇心を帯びる。


「足軽ってなに?」


 その問いに答えたのは、横で黙って聞いていたホームズだった。


「足軽とは、日本の封建制度における下級武士のことだ。

 領主に仕える末端の兵士で、社会的には身分が低く、裕福でもなかった。

 しかし、その出から首相にまで登りつめたとなれば……確かに、ヴィクトリア朝のイギリスよりも柔軟な上昇の余地があったのだろう。」


 真理は頷き、思わず笑みを浮かべた。


「はい、ホームズさん。

 だから、日本では足軽も、時代の波をつかめば頂点に立てたんです」


 アリスは目を丸くして手を叩く。


「へえ! イギリスよりもナンセンスな国じゃない!」


 湯気と煙がほどけ、巨大なキノコの影から口髭を整えた洋装の紳士が一歩、踏み出した。

 その姿に真理は息を呑む。


「……伊藤博文、さん……?」


 ホームズがわずかに口元をゆるめた。


「伊藤公。変わりないな。」


 伊藤博文は笑顔で軽く会釈する。


「お久しゅう、ホームズどの。」


 アリスが目を丸くして二人を見比べる。


「え、知り合いなの?」


 真理はホームズに向き直り、戸惑いを隠せない。


「ホームズさん……ご面識があるのですか?」


「少し前にね。北の帝室にまつわる厄介な筋で、道が交わった。」


 ホームズはそれだけ言って視線を払う。

 キノコの傘の上を、双頭の鳥にも見える煙の輪がふわりと漂った。

 伊藤は苦笑を含ませる。


「御名を軽々に口にすべき筋でもありませんで。──まあ、あの夜の騒動は今も忘れませぬ。」


 アリスが肩をすくめ、楽しげに囁く。


「世界って案外せまいのね。」


 真理は、胸の鼓動を確かめるように小さく頷いた。

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