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第6話 存在と証明と探偵と

 湯気が渦を巻き、紅茶の香りとともに──お茶会の参加者たちが次々と霧散していった。

 マッドハッターも、三月ウサギも、ヤマネも、利休も、織部も──笑い声の余韻だけを残し、煙のように消えていく。


 その直後、大地が低く唸りを上げた。


「な、なに……!?」


 真理が叫ぶと、足元から突如として巨大なキノコが次々と生え出し、伸び上がってくる。

 押し上げられるようにして、真理とアリスの身体はふわりと持ち上げられ、やがて混乱の中で一段高い場所へと押し出された。


 そこには──異様に大きなキノコの傘の上に、青い芋虫が悠然と腰を下ろしていた。

 長い水煙管をくゆらせ、ゆっくりと吐き出す煙は、輪を描きながら宙に舞い上がり、やがて文字のような形をつくっていく。


「──お前は……誰だ?」


 低く響く声が、煙の輪とともに真理の耳を打った。

 真理は息をのむ。

 アリスは平然と彼女を横目で見やり、くすりと笑った。


「さあ、答えてみて。」


「……わ、私は……杉浦真理。」


 勇気を振り絞るように名乗った真理だったが、青い芋虫は水煙管をふかし、煙の輪をもうひとつ吐き出した。


「──お前は……誰だ?」


 同じ問いが、重々しく繰り返される。

 真理は口を開きかけて、言葉を失った。

 名前を言ったのに、まだ答えになっていないというのか。


 横で見ていたアリスが、肩をすくめて笑った。


「この青虫は、いつも“Who are you?”と問い続けるの。

 ヴィクトリア朝のイギリスではね、身分や所属が人を定義すると信じられていたのよ。

 だから『私は誰か』と問われれば、『父は誰々、職業は何々、身分は何々』と肩書きや階級を答えるのが普通だった。

 でも彼は、それを延々と揺さぶるの。」


 芋虫は無言のまま、またひとつ煙の輪を吐き出した。

 その輪は『?』の形を作り、真理の目の前でゆらゆらと揺れ続けていた。

 真理は眉をひそめ、アリスを見つめた。


「……じゃあ、あなた自身は? アリスはどう答えるの?」


 アリスは小さく笑い、首をかしげる。


「わたし?

 物語の登場人物であり、川辺で話を聞いた少女でもある。

 階級を答えるなんて、退屈なだけ。

 だからきっと、笑ってごまかしたと思うわ。」


 真理は納得しきれず、ふと別の名前を口にした。


「じゃあ……例えばシャーロック・ホームズとかはどうだったのかしら?」


 その瞬間、青虫がふかした煙がくゆらぎ、人の形を取っていった。

 細身の体に長いコート、手にはパイプ。

 鋭い眼差しの男が、キノコの上に静かに立っていた。


「ホームズ……!」


 真理は思わず声を上げた。

 そして煙の人影は、はっきりとした輪郭を持ち、世界で最も有名な探偵その人となった。

 真理は少し考え込んでから、ぽつりと口にした。


「……アリス。

 さっき言っていた『階級や肩書きで自分を定義する』という考え方……ホームズさんには当てはまらない気がするの。

 だって彼は、誰の庇護も受けず、自分の力で立っているように見えるから。」


 アリスはぱっと笑顔を見せ、真理に向かって両手を叩いた。


「いいところに気づいたわね!

 その通り。ホームズはジェントリ出身の家柄を持ちながら、それに安住せず、自分だけの職業──『諮問探偵』を築き上げた人。

 階級社会の外に、自分の居場所を作ったの。」


 その言葉に呼応するように、青虫が水煙管をくゆらせ、輪を吐き出す。


「──お前は……誰だ?」


 ホームズはパイプを軽く掲げ、鋭い眼差しで答えた。


「私はシャーロック・ホームズ。肩書きでも家柄でもなく、観察と理性だけが私を証明する。」


 青虫は眉をひそめ、低く唸った。


「そのような立場は、意味をなさぬ! 身分や階級なくして、人はただの虚ろな影だ!」


 ホームズは微笑し、ゆっくりと青虫を見上げた。


「なるほど。君がそう言い張るのも無理はない。」


 視線は冷静に芋虫の手元から衣服、指の動かし方に至るまでを舐めるように観察する。


「君はロンドン東部、職工の出だな。

 手に残る作業の痕、言葉の端々に染みついた訛り。

 身分の檻を破り、這い上がった。

 そのパイプ煙草は安物だが、吸い口にだけ金の装飾がある。

 つまり──労働階級でありながら、上流への憧れを拭えない性格の表れだ。

 その問い──『お前は誰だ?』──は、他者に向けたものではなく、自分自身への叫びにほかならない。」


 青虫の吐く煙の輪が大きく揺らぎ、崩れ落ちるように空へ散っていった。

 真理は言葉を失いながらも、胸の奥で理解の欠片を掴み取っていた。

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