第5話 歪む茶碗
突如、テーブルの上のティーカップのひとつが、ぐにゃりと音を音を立てるように歪んだ。
真理は思わず身を乗り出す。
「えっ……!?」
その歪んだカップを、まるで宝物のように両手で受け取り、愛おしげに眺める人影が現れた。
黒羽織に身を包んだ侍姿の男──鋭い眼差しでカップの曲線をなぞりながら、静かに笑む。
利休は深く一礼した。
「お久しぶりですな、織部様。」
男はにっこりと笑い返し、歪んだ器を高く掲げる。
「こちらこそ。御無沙汰しておりました、宗匠。」
真理は呆然と口を開いた。
「……もしかして、古田織部?」
隣でアリスが首をかしげる。
「その人、誰なの?」
真理は慌てて説明する。
「織部は、千利休の弟子のひとりで……織部焼っていう、あえて歪んだ器や奇抜な形を好んだ人なの。
日本の美意識に『へうげもの』──ユーモアや風変わりさを持ち込んだ茶人よ。」
アリスはぱちりと瞬きをして、口を開いた。
「まあ! それって、すごくナンセンスじゃない!」
織部はその言葉を聞き、口元に愉快そうな笑みを浮かべた。
へうげものと呼ばれた茶人は、歪んだカップを掌にのせ、愛おしげに眺めながら口を開いた。
「左様。茶道においては、完全に均質で端正なものだけが美しいわけではござらん。
むしろ欠如や歪み、その不完全さにこそ、人の心を揺さぶる力が宿るのでござる。」
彼はカップのゆがんだ縁を指でなぞり、ゆっくりと続ける。
「たとえば、釉薬の流れた跡、焼きの加減で生まれるひび割れ……それらは決して失敗ではない。
定められた形から外れた瞬間に、器はただの道具から世界に一つしかない美へと変じるのだ。」
真理は、はっとして息をのんだ。
利休が整えた静謐なお茶会に、織部の言葉は奇妙な亀裂を走らせる。
だがその歪みは、不思議と場を壊すのではなく、かえって深みを与えていた。
アリスは目を輝かせ、思わず拍手する。
「面白いわ! 歪んだカップもまたナンセンスなのね!」
真理は二人の茶人を見比べながら、心の奥で新しい理解が芽生えていくのを感じる。
利休は静かに茶碗を置き、織部の手にある歪んだカップを見つめた。
「織部様。確かに欠如や歪みの中にも趣はございましょう。
しかし、茶道は人の心を静め、無駄を削ぎ落とす場。
あまりに奇を衒えば、本質を見失うのではありませんか。」
織部は呵々と笑い、ゆがんだカップを高々と掲げた。
「宗匠の仰せももっとも。
されど、人の世に完全無欠などありはせぬ。
人の心も、国の有り様も、常に欠け、歪み、綻びを孕んでおる。
ならば器もまた、その揺らぎを映してこそ、人に寄り添うのではありませぬか。」
利休は目を細めてしばし黙し、やがて小さく頷いた。
「……道の厳しさと、心の揺らぎ。どちらもまた茶の本質に通じるやもしれませんな。」
真理はそのやり取りを聞きながら、胸の奥が熱くなるのを感じた。
規律と静謐を求める利休と、歪みと揺らぎを愛する織部。
正反対のようでいて、どちらもナンセンスの世界に通じている。
アリスは紅茶を掲げ、にっこり笑った。
「ねえ、真理。ナンセンスって、無意味でも混乱でもないのよ。いろんな意味が混じって揺らいでる、その在り方そのものなの。」
真理は深く息をつき、ゆっくりと頷いた。
「……なるほど。そういうことだったんですね。」
織部は茶碗を再び高く掲げ、目を細めてにやりと笑った。
「然り。
人の世は、かくも常識と格式に縛られる。
ゆえに我は『へうげ』を以て、その鎖を断とうとした。
奇異こそ、人の目を覚まし、己を映す鏡となる。
──宗匠の侘び寂びもまた真なり。
だが、我が奇もまた真なり。」
利休は静かに瞼を閉じ、その言葉を受け止めるように頷いた。
アリスは、嬉しそうに椅子を揺らす。
「へえ! 正も奇も、どちらも見方によって真なのね!」
真理は二人の茶人の姿を見つめ、胸の奥でひとつの光を掴んだ気がした。
「……ナンセンスって、意味がないんじゃなくて、常識や秩序をずらすことで、本当の姿を映し出す……」
紅茶と抹茶の香りが交じり合う中で、真理は確かにナンセンスへの理解の手がかりを感じ取っていた。




