最終話 旅立ち
研究室のドアを出ると、夕陽がキャンパスの並木を金色に染めていた。
風が枝を渡るたびに、木漏れ日がゆらぎ、オレンジ色の粒が足もとで瞬く。
提出印の押された卒論の控えが、封筒の中でかさりとかすかな音を立てた。
その重みは、紙の厚さよりもずっと深く、これまでの時間そのものを包んでいるように感じられた。
真理は胸の奥でひとつ息を弾ませる――小さな出版社系のメディア企業からの内定通知。
最初は雑務とリライトに追われるだろう。
けれど、不思議と怖くない。
むしろ、胸のどこかがずっと前から光っていたみたいに、目の前の世界が少しだけ鮮明だ。
見慣れた校舎も、夕陽に照らされるとまるで別の国の建物のようで『不思議の国』で過ごした日々の残り香が、現実の風景に淡く重なって見えた。
夜。机に向かい、ノートを開く。
『英語/フランス語入門』と表紙にある教材のページに、蛍光ペンの線が増えていく。
ページをめくるたびに、ペンの色が光を反射して淡く滲み、まるで自分の中に小さな未来の地図を描いているようだった。
「世界に出て、文化や歴史を肌で感じたい。そして、それを自分の言葉で伝えたい……」
小さく口にすると、独り言が部屋の壁に柔らかく跳ね返った。
窓の外には、冷えた夜空。
ガラス越しに見える星々の間に、ふっと懐かしい顔が浮かぶ。
笑うアリス、煙をくゆらすホームズ、チェシャ猫の笑み、奇妙なドラゴン。
遠いのに、近い――。
幻のようで、記憶のようで。
その誰もが、心のどこかに小さく灯をともしている気がした。
真理はペンを握り直す。
「……これからは、私が書く番だ。」
マグカップからふわりと立つ湯気。
その揺らめきの中に、一瞬だけハートの形が現れて、すぐに消えた。
真理は静かに笑い、クローゼットからスーツケースを引っぱり出す。
服、資料、ノートパソコン。
机には開きかけの語学書、文化人類学の専門書、各国の地図やメモが散らばって、いつもの小さな嵐だ。
それでも今日は、不思議とその散らかりが愛おしかった。
「はぁ……やっぱり片付けられないのは性分かぁ。」
苦笑しながら本の山を整えると、その中から一冊、古びた『不思議の国のアリス』が顔を覗かせた。
指先で擦れた表紙を撫で、ページの縁をなぞる。
紙の手触りが、まるでまだ、あの世界の温度を残しているようだった。
「……あの時の冒険は、本当に仮想空間だったのかな。それとも……あの不思議な機械を通して、本物のアリス・リデルや、異世界のシャーロック・ホームズに会っていたのかしら。」
しばし考え込んで、すぐに首を振る。
「いやいや……それこそ、ナンセンスよね。」
それでも、口元の笑みは消えなかった。
本を机に戻し、真理は荷造りを再開する。
パチン、とスーツケースの留め具が閉まる音。
小さく響いたその音が、まるで次の章の始まりを告げる合図のようだった。
背中がドアの外へ消えると、静かな部屋に時計の秒針だけが刻む音が残る。
机の上の『不思議の国のアリス』が、ほの暗い部屋でわずかに光を拾った。
ページがひとりでに捲れ、挿絵の中の少女がいたずらっぽい表情で片目をつむる。
――チャーミングなウインク。
次の瞬間には、何事もなかったように本は静かに閉じられていた。
Fin




