第27話 終幕
法廷の奥に並ぶ扉のひとつが、柔らかな白い光で縁どられていた。
そこは『物語』と『現実』の境界線――静かに呼吸をするみたいに、明滅を繰り返している。
真理は足を止めて振り返る。
そこには、夢のようでいて、確かに心に刻まれた不思議の国が広がっていた。
紅茶の香りと、薔薇の花の匂いが微かに混じり合い、空気は甘くも切ない。
「……ここでの経験、全部が夢みたいで……でも、確かに生きてた気がする。」
アリスはいつもの明るい笑みで、軽やかに顎をしゃくった。
「さあ、戻る時よ。アリス・リデルがそうしたように――あなたもね。」
涙がにじむ。
けれど真理は微笑み、小さくうなずいた。
「……ありがとう、アリス。」
一歩、また一歩。
光の方へ踏み出すたびに、心の奥から、かつての光景が次々と浮かんでは消える。
紅茶の香りの向こう――
帽子屋が高らかにカップを掲げ、
三月ウサギが時計を逆さに振り回し、
ヤマネはティーポットの中で小さな寝息を立てていた。
カップの縁に差した茶杓が揺れ、利休の巨躯がすっと現れる。
その隣で織部が歪んだ茶碗を掲げ、湯気の中で静かに笑っていた。
きのこの上では青虫が水煙管を吹かし、煙の輪が宙に浮かぶ。
紫煙のむこうで伊藤博文が呵々と哄笑し、明治の風が頬を撫でた。
闇の中ではチェシャ猫の口元だけがにやりと揺らぎ、
木陰から歩み出た漱石が、抱えた吾輩と共に議論を交わしている。
城塀の上でハンプティがふんぞり返り、
その真下を一万円札がひらりと舞って、福沢諭吉の姿が浮かび上がる。
砂浜ではグリフォンが翼を広げ、論文のリボンを風になびかせていた。
幻獣を前に、南蛮具足を纏った信長が白刃を鋭く煌めかせる。
ジャバウォックが咆哮し、その巨影はかすかな色を残して遠ざかる。
絵の具の飛沫の中で岡本太郎が奇声をあげ、その色彩が空で弾けた。
弾けた絵の具は薔薇の色へ溶け込み、
赤と白の薔薇が咲き乱れる庭園で、トランプの兵たちが駆け巡る。
やがて滅茶苦茶な裁判が幕を開け、ハートの女王の怒声が法廷に響く。
その傍らでは、ホームズが静かにパイプをくゆらせていた。
そして最後に――
寝ぼけ眼の王様が裁判槌を掲げ、ひとつ『コン』と打つ。
その音は、どこか祝福のように天蓋へと広がった。
すべての光景が胸の奥で重なり、ゆっくりと溶けていく。
真理は名残惜しそうに振り返り、小さく息を吐いた。
「……あの世界の全部が、少しずつ私の中に残ってる気がする。」
アリスはにっこり笑い、肩をすくめた。
「そうよ。だって不思議の国は、消えるものじゃないもの。見るたび、思うたび、少しずつ形を変えて生きていくの。」
真理は静かにうなずき、光の方へ歩み出す。
歩を進めるたび、輪郭がやわらぎ、足跡が白い光の中に消えていく。
背後で、アリスの声が風に混じって届いた。
「また会えるわ。だってナンセンスは、あなたの心の中にあるんだから――」
光が一瞬だけ強まり、紅茶の香りも、薔薇の匂いも、青い煙もすべて溶けていく。
最後に残ったのは、まぶしい白と、柔らかな笑い声だけ。
そして、不思議の国の舞台は――音もなく幕を下ろした。




