第26話 追憶
法廷は伽藍と虚ろのまま、煙の残滓だけが霧散していく。
真理は隣の少女に向き直った。
「ねえ、アリス……。あなたにとって、ルイス・キャロルってどんな人だったの?」
アリスは一度まつ毛を伏せ、ふわりと笑う。
「子どもの頃の私はね、ただ楽しいお話をしてくれる先生って思ってた。
真面目で、ちょっと変わってて……でも話を聞いてると、世界がぐるんってひっくり返るみたいで面白かったの。
『不思議の国のアリス』も、その遊びの延長みたいなものだったの。」
言い終えると、彼女の表情に少し影が差す。
「でも、大人になってから気づいたの。
あのナンセンスって、子ども向けの冗談だけじゃなかったんだって。
社会の窮屈さとか、大人の矛盾を、笑い飛ばすためのちょっとした毒でもあったんだよ。
だから私、少し複雑。
『モデルにされた私』と、『風刺の器にされたアリス』って、同じ顔のようで、別の存在なんだもの。」
真理は静かにうなずく。
「……アリスは子どもの記憶と、風刺文学の象徴のあいだに立たされてたんだね。」
アリスは肩をすくめ、ふっと口元をゆるめた。
「それでもね、彼が作った夢の国を私は嫌いじゃないよ。だって、こうして今も――あなたと一緒に歩いてるんだから。」
真理はアリスの横顔を見つめ、そっと口を開く。
「……どうして最初からキャロル本人を呼ばなかったの?
そうすれば全部のナンセンスを説明してくれたはずよ。
あなたはわざわざ、関係のありそうな人たちを一人ずつ呼んで、彼らに語らせた。
――なぜ?」
アリスはにっこり笑った。
けれど瞳の奥は、どこか真剣だ。
「だってナンセンスは、誰かひとりが答えを教えるものじゃないもの。
いろんな人が、それぞれの言葉と立場から語ることでしか、浮かび上がってこない。
もしキャロル本人が出てきたら、それが『正解』に見えちゃうでしょ?」
真理はハッとして息を呑む。
「……そうか。ナンセンスの世界は、一人の作者の解釈に閉じ込められるものじゃない。それを自由に、風刺として、笑いとして受け取るのが大事なんだ……」
アリスは小さくうなずき、指先で空をなぞる。
そこに、さっきまでの登場人物たちの言葉が、透明な糸みたいに一瞬だけきらめいて消えた。
「不思議の国は、読む人の心の中にあるの。キャロルは、きっかけをくれただけ。本当のナンセンスは、私やあなたや、色んな人たちの会話のあいだで育っていくのよ。」
真理は胸の前で手を重ねて、ゆっくりとうなずく。
「……ああ、だから私の卒論も、『正解』を書くんじゃなくて、人がどう考えてきたか――その『過程』を、ちゃんと辿ればいいんだ。」
「そう。」
アリスは楽しげに頷き、くすりと笑った。
「さあ、つづきを歩きながら話しましょう。道は一つじゃないんだから。」




