第25話 最後の挨拶
法廷に静かな余韻が満ち、客席から順に影が立つ。
幕間の風にのせて、退場のカーテンコールが始まる。
「茶は和敬清寂――争いを越え、心を澄ませるもの。」
「だが、奇なるものもまた一興! 『なんせんす』を笑う心を忘れるなかれ!」
二人の茶人は一礼し、すうっと現れた障子の向こうへ消えた。
「志あれば、身分の壁も越えられる。わが国の未来も、きっと法と議会の力で形作られるであろう。」
明治の宰相の足もとから汽車の煙が立ちのぼり、姿を包む。
「人間は制度を作り、理屈を重ねる。けれど結局、恐怖も権威も心が作り出す幻にすぎん。」
「まあ、幻でも飯さえくれれば付き合ってやるがな。」
文豪と一匹の猫は、水面の波紋へと溶けた。
「文明は議論の積み重ねに宿る。人々が声を上げ続ける限り、専制の闇もやがて払われよう。」
蘭学者は手の中の書をぱたりと閉じ、紙幣となって虚空に舞った。
「筋を通さぬ権威は、虚妄にすぎん。けど、筋を通した権威は民の心を繋ぐ……摩訶不思議なもんだて。」
白刃がひと筋きらめき、戦国の覇者は炎の残像だけを残して煙となる。
「芸術は――爆発だッ! 混沌は敵じゃない! 飛び込め! 砕け! その破片で自分をつくれ!」
色とりどりの絵の具が花火のように弾け、しぶきの向こうで芸術家の姿が霧散した。
「……」
法廷は静まり返り、広間には真理とアリスとホームズだけ。
アリスは軽く笑みを浮かべ、肩を寄せた。
「さあ――これであなたの論文、だいぶ形になったんじゃない?」
ホームズは椅子に腰を下ろし、ゆっくりとパイプに火を点ける。
青い煙がまっすぐ天蓋へ伸び、そこでほどけた。
「……ありがとうございました。」
真理が頭を下げる。
「ふむ。ちょっとした暇つぶしにはなった。」
ホームズは視線も動かさず、紫煙だけをくゆらせた。
まるで何事にも興味はないと言わんばかりの顔で。
「ホームズさん……ヴィクトリア朝って、不思議な時代ですね。あなたがいて、アリスがいて、ルイス・キャロルがいて……規律と矛盾、新しい時代と古い時代が混じり合って……」
真理の横で、アリスが小さく笑う。
「だからこそナンセンスが生まれたの。矛盾だらけの時代を、子どもの夢にして笑い飛ばしたのよ。」
少女の言葉に頷きながら、真理は続けた。
「私達の時代も、混沌としていますけど……」
一呼吸置いて、言葉を吐き出す。
「あなたたちの時代は、絶対だった身分制度やキリスト教が後退していく一方で、それを維持しようとする力も強烈に働いて……過去と未来、自由と秩序が激しくせめぎ合って……人々の心はそこで揺らいだり、追いつかなかったりしたんですね。」
ホームズは灰を軽く払う。
「人間社会とは常にそういうものだ。秩序なき自由は混沌を生み、自由なき秩序は専制を生む。両者の間で揺れ動く――それが文明の歩みというものだろう。」
法廷の扉の向こうに光が差し、そこが『不思議』と『現実』の境界のように見えた。
真理とホームズは肩を並べて歩き出す。
足音が石畳に淡く刻まれる。
「最後に……ホームズさんにとって、ヴィクトリア朝とはどんな時代でしたか?」
ホームズは一歩だけ立ち止まり、パイプを燻らせた。
「犯罪の歴史は、社会の影を映す鏡だ。
産業革命の進展とともに、新しい犯罪が生まれ、科学と捜査法も進歩せざるを得なかった。
――ヴィクトリア朝は、私にとっての舞台に相応しい時代だったよ。
混沌と進歩が同居する社会ほど、推理の光は鮮やかに映えるものだからな。」
「……そうですか。不思議だけど、やっぱり魅力的な時代ですね。」
ホームズはパイプを軽く振って合図代わりにし、扉の光の方へと身を向ける。
「さて、そろそろ行かねば。事件とワトソン君がベーカー街で待っている。」
光が彼の肩口を白く縁取り、黒いシルエットがゆっくり遠のく。
振り返ることはない。
「……」
真理はその背中を目に焼きつけ、胸の前で両手を抱きしめた。
アリスがそっと手を振る。
扉が静かに閉まると、残された空間には、薄い煙の香りと、書き込まれた記憶の重みだけが残っていた。




