第23話 歴史の道標
女王は烈火のごとく立ち上がり、玉座から飛び降りると――。
「もう我慢ならぬ! 判決は有罪、即刻首をはねよ!!」
と叫び、脇で舟をこいでいたハートの王様をついと蹴り飛ばした。
ひっくり返った王の袖から裁判槌を奪い取り、女王は自分の前へドン、と叩きつける。
「わらわこそ裁判官! 判決は絶対!!」
法廷は一瞬で騒然となる。
トランプ兵はおろおろと右往左往、陪審員は書類をばらまき、薔薇の赤い滴が石畳に点々と落ちた。
混迷の中、ホームズはただ一歩前へ出た。
パイプをくわえたまま、氷のように静かな声。
「異議あり。
女王陛下――いや、あなたはこの場では被害者に過ぎない。
被害者が自ら判決を下すのは、法的手続きの重大な欠陥だ。
イギリスは立憲君主制の国。
君主は法の執行者ではなく、憲法に縛られた象徴である。
裁きを行うのは独立した司法であって、女王が自ら判決を下すことは――制度上あり得ない。」
「な、なにをぬかす! わらわが法だ! わらわが国家だ!!」
女王の扇が床を打ち、金具がきしむ。
ホームズは一段と低く、言葉を置いた。
「ならば、あなたは立憲君主ではなく専制君主だ。それは我が国が三百年以上前に否定した体制だ。」
真理が思わず手を挙げる。
「どうしてイギリスでは、そんなに古くから憲法が成立したんですか? ほかの国は専制が長く続いたのに……」
ホームズはパイプを指先で軽く叩き、理知の色を帯びた声で答えた。
「イギリスの憲法は一冊の成文法ではない。
慣習と判例と憲章の積み重ねだ。
1215年のマグナ・カルタで王の専横を制限し、権利の請願、内乱と清教徒革命を経て、やがて権利章典へと続いた。
少しずつ王権を縛り、議会と法を上位に据えた――。
革命で一気に作ったのではなく、数百年の妥協と闘争の堆積こそ、我が国の憲法なのだよ。」
アリスがにっこりして継ぐ。
「だから成文憲法は存在しないの。代わりに慣習と判例が憲法の役割を果たしてる。ちょっと不思議だけど、やわらかいのに強い憲法として長く生きてきたわ。」
真理は大きくうなずいた。
「……なるほど。イギリスの憲法は一冊の本じゃなくて歴史そのもの。だから女王が私が法だと言っても、通用しないんだ……」
そして、もう一つの疑問を向ける。
「じゃあ、この女王様は……絶対の権威なんかじゃないの?」
アリスはあっさりと言い切った。
「ただの虚飾のイメージ。人々の恐怖が作り上げた張りぼてよ。」
「ぐ、ぐぬぬ……! わらわは絶対の権威だ! 首を――首をはね……!」
女王の声がわずかに震えた、その瞬間。
ホームズが女王を真っ直ぐに見据え、歴史の名を一つずつ置いていく。
「マグナ・カルタ。」
――ドン、と見えない重石が落ち、女王の背丈が半分にしぼむ。
「清教徒革命。」
――紅潮が褪せ、威勢が萎んでいく。
「権利章典。」
――女王は片手の大きさになり、扇が紙片みたいに頼りない。
「立憲君主制。」
――最後の言葉が落ちたとき、女王はふっと空気が抜けるように、一枚の小さなトランプ札へと変わった。
アリスがひょいとそれを拾い上げ、真理に見せる。
「ね? ただの紙切れ。人が恐れているあいだは怪物に見えるけど、理性で照らせば――こんなに小さいの。」
真理は驚きと安堵を胸いっぱいに吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
静かな風と、英国の歴史の手触りだけが残っていた。




