第2話 不思議な少女
紅茶の芳しい香りが鼻をくすぐった。
真理はまどろみの中でゆっくりと瞼を開ける。
目の前には、整然と並べられたティーセット。
湯気を立てるカップ、砂糖壺、ミルクピッチャー。
そしてその向こう側には、一人の少女がちょこんと座っていた。
「まあ、あなたったら。お茶会の途中で居眠りだなんて……お行儀が悪いわね。」
澄んだ声で、少女は軽く真理を窘める。
「え……?」
真理は慌てて身を起こし、周囲を見渡した。
そこにあったのは広大な平原。
見渡すかぎりの草原に、机と椅子がぽつんと置かれているだけ。
空は高く、雲はゆっくりと流れ、しかしその場にはどこか現実離れした静けさが漂っていた。
「ここは……仮想空間? それとも、夢……?」
頭が混乱し、言葉が途切れ途切れになる。
少女はそんな真理を見つめ、ふうと小さくため息をついた。
そして椅子から立ち上がると、裾を摘んで優雅にお辞儀をした。
「はじめまして。わたし、アリスよ。」
真理は、いまだ現実感の掴めない周囲を見渡しながら、ぎこちなく口を開いた。
「……す、杉浦真理です。大学生で、えっと……」
自分でも状況が理解できないまま、反射的に名乗ってしまう。
アリスは椅子に腰かけ直し、紅茶を一口飲んでから、好奇心を隠さない瞳で真理を見つめた。
「真理。あなたは、何をしにこの世界に来たの?」
「わたし……」
言葉を探すように、真理は胸の奥に渦巻く思いを吐き出した。
「卒論のテーマで『不思議の国のアリス』を選んだんです。でも、ナンセンスっていう言葉がどうにも実感できなくて……。本を読んでも頭ではわかるけど、心には落ちてこない。教授にも、まだ絞り込みが足りないって言われて……」
声が少し震える。
「だから……もう仮想空間でも夢でも、どちらでもいい。ナンセンスってものを実感できるなら……」
そこまで一気に言い終えると、真理は顔を伏せた。
自分でも半ば投げやりで、でも必死な願いだとわかっていた。
アリスはそんな真理を見つめ、ふふっと小さく笑う。
「なるほど。あなた、まじめなのね。」
カップをテーブルに置き、アリスはゆっくりと身を乗り出した。
「じゃあ、案内してあげる。ナンセンスの世界へ。」
真理は恐る恐る問いかけた。
「……あの、あなたは本当のアリスなの?」
少女は紅茶のカップを揺らし、瞳を細めて笑った。
「本当の、ね。」
言葉を選ぶように、彼女は指先でティースプーンをくるくる回す。
「わたしは、白うさぎを追いかけて穴に落ちたアリス。
でも同時に、川辺でルイスおじさまに物語を聞かせてもらったアリス・リデル。
お姉さまと本を読んでいると、眠たくなって夢を見たこともあったし──。
庭の花壇で、花たちがこっそりおしゃべりしているのを聞いた気もするわ。
そうそう、ピクニックで持っていった苺タルトの味は、いまでもはっきり覚えているの。
でも、あの時いっしょにお茶を飲んでいたのは、たしか三月うさぎだったかしら……?」
真理は目を瞬いた。
「え、それって……現実の記憶と物語が、入り混じって……」
少女はそっとカップを置き、微笑んだ。
「そうよ。物語も思い出も、みんなわたし。どれが本当かなんて、どうでもいいの。」
「ど、どうでもいいって……」
真理は混乱し、言葉を失う。
けれどアリスは楽しげに肩をすくめ、紅茶の香りに包まれながら一言だけ告げた。
「わたしは、わたし。ね?」




