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第18話 VR

 庭の向こうから、甲高い声が空気を裂いた。


「何をしておる! 赤くない薔薇があるではないか――首をはねよ!!」


 一瞬で庭が凍りつく。

 筆を握ったトランプ兵の手が止まり、塗りたての赤い雫が花弁の縁で震えたまま落ちない。


 赤と黒の派手なドレス。

 心臓の紋様が刺繍されたマントが風をはらみ、女王が兵を従えて歩み出る。

 白粉の頬は怒りで紅に染まり、目は刃物のように光っていた。

 周囲のトランプ兵は一斉にひざまずき、肩をすぼめて震える。


 真理は思わず声をひそめる。


「な、なんて威圧感……! みんな怯えてる!」


 アリスは肩をすくめ、皮肉っぽく笑った。


「――あれがハートの女王。

 この国でいちばんの権力者よ。

 口癖は『首をはねよ!』

 気に入らないものがあると、すぐ叫ぶの。

 みんな、その一言が怖くて逆らえない。

 つまり権威の恐怖そのもの、ってこと。」


 女王は白い薔薇の木の前で立ち止まり、赤く塗られた花弁を爪先でつつくと、もう一度高らかに叫んだ。


「首を――はねよ!」


 塗料の匂いと、誰も息をしない気配だけが、庭一面に重く張りつめた。

 庭に緊張が張りつめたまま、真理は紅潮した女王の顔を見つめ、そっとアリスに囁いた。


「ねえ、あの女王にはモデルがいるのかしら? イギリスの女王といえば……ヴィクトリア女王とか?」


 アリスは首をかしげ、少し考えてから頷く。


「直接のモデルって言い切れるわけじゃないけど、キャロルが生きていた時代の女王はヴィクトリアよ。

 彼女は厳格な母みたいに国を統べていて、人々にとっては絶対の象徴だった。

 だから、この不思議の国の女王も、ヴィクトリアの権威と怖さをナンセンスに誇張した姿だ、って考える人は多いの。」


 真理はさらに首を傾げる。


「でも……ヴィクトリア女王って名君で、下々にも慕われていたイメージがあるけど。やっぱり違うの?」


 アリスは小さくため息をつき、声を潜めて答えた。


「偉大な女王として尊敬されたのは事実よ。

 産業革命ののち、イギリスが世界の工場として繁栄した長い治世は安定の象徴だった。

 でも同時に、ヴィクトリア朝の道徳が社会をきつく締めつけてもいた。

 秩序と体面が最優先。

 自由を抑える雰囲気も強かったの。

 だから慕われる権威であると同時に、怖れられる権威でもあったのよ。」


 真理はふと何かを思い出し、口元に手を当てる。


「そういえば……ホームズさんがベーカー街の自室で、拳銃で壁にヴィクトリア女王のイニシャル……VRを弾痕で描いてたよね。」


 背後から乾いた声が落ちてきた。


「その通りだ。君はよく覚えているな。」


 振り向けば、いつものパイプをくわえたシャーロック・ホームズ。

 帽子をとって一礼し、女王の城をひとわたり見渡す。


「あれはただの悪ふざけではない。

 女王陛下はこの国の秩序の象徴だ。

 その忠誠を、私は私なりの作法で示したまで。

 拳銃でイニシャルを刻むのは奇矯に見えるかもしれんが――権威を敬意とともに、少し笑いに変えるのも、我々の流儀だよ。」


 真理は目を丸くして、ぽんと手を打つ。


「なるほど……怖がるだけじゃなくて、風刺やユーモアで距離を取っていたんだ。」


 アリスがにこっと笑った。


「そう。

 イギリス人は権威を尊敬する一方で、そのおかしさも見抜いて皮肉を言う。

 だからハートの女王みたいなナンセンスも生まれるの。

 ――ほら、あの『首をはねよ!』の一言だって、権威が空回りするとどう見えるか、鏡みたいに映してくれるでしょ。」


 女王の号令は、まだ庭にこだましている。

 だが真理の耳には、ホームズの静かな調子と、アリスのからりとした笑いが、権威と恐怖の間に小さな隙間を開けているように思えた。

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