第16話 ジャバウォックとタロウ
霧の帳から、巨大な影が現れた。
蝙蝠の翼、竜のような首、ぎらつく双眸、床をひっかくほど長い爪――なのに、輪郭は水面の影みたいにゆらいで定まらない。
ズズン……ズズン……。
声とも音ともつかない唸りが、地面の奥から鳴って森を震わせた。
真理は思わず一歩退く。
「な、何これ……? ドラゴン……にしては形が変……」
アリスは肩を寄せ、ひそひそ声で囁く。
どこか得意げに。
「ジャバウォックよ。
『鏡の国』に出てくる怪物。
言葉にならない『無意味』が姿になっちゃった存在なの。
火を吐くとか竜みたいだとか言われるけど、本当の形は決まってない。
ただ――『意味不明なのに怖い』、それがジャバウォック。」
真理は喉を鳴らし、小さく繰り返す。
「……意味不明なのに、形だけはある怪物……」
怪物が口を開いた。
意味を結ばないのに、胸の奥を直撃するような音が迸る。
「Snark…… Frumiousss…… Callooh! Callay!!」
森じゅうの霧がびりびりと震え、木々の影がいっせいに身じろいだ。
翼が大きくはためくたび、現実の縫い目が少しずつほつれていく気がした。
その時、霧を裂くように、鋭い叫びが空気を震わせた。
「──なんだ、これは!!」
突如、火花が散るみたいな勢いで一人の男が現れた。
髪は逆立ち、目はぎらぎら、両腕を大きく広げてジャバウォックを睨み据える。
「恐れるな! 意味不明? ナンセンス? 上等だ!」
男は一歩も退かない。
「人間の存在そのものがナンセンスなんだ! なんだこれは! と叫び、ぶつかってこそ人生だ!!」
アリスが目を丸くする。
「え……誰、この人……?」
真理は息を呑み、かすれ声でつぶやいた。
「岡本太郎……現代美術の大家……」
ジャバウォックが喉の奥を鳴らし、意味を結ばない言葉を吐き散らす。
「Frabjousss! Snicker-snack!!」
男は逆に腕をさらに広げ、笑いながら吠え返した。
「わけがわからん? その通りだ!」
奇妙な姿勢と動きで、怪物ににじり寄っていく怪人物。
「だが、人間の生き方はわけがわからんことを貫くことだ!! 恐怖を芸術に変えろ! 迷いを叫びに変えろ!」
霧がびりびりと震え、怪物の輪郭が一瞬だけたじろいだ。
太郎の声は、森の奥底で火を点けるように、闇の色を少しずつ塗り替えていった。




