第15話 伝統と革新
信長は腰に手を当て、少し不満げに鼻を鳴らした。
「なんだ、後になっては天皇も将軍も否定した反逆者みたいに言われとるがや。わしは権威は権威として、ちゃんと敬うてきたんだて。」
真理が瞬きをするあいだに、信長は指を一つ折って続けた。
「足利義昭を奉じて上洛したのも、まさにそれよ。『わしが天下人だがや』なんぞ言うとらん。将軍を立て、その威光で世を治め直そうとしたんだわ。」
さらに二本目。
「それにな──正親町天皇の綸旨は重んじたし、安土へ御幸を願い出たこともある。天子を軽んじとったら、そんな段取りせんて。」
そして三本目。
「朝廷の行事や財政が難儀しとるときも、わしの蔵から出して支えた。……きちんとした権威は尊ぶ。それがわしのやり口だで。」
椅子でふんぞり返るグリフォンが、胸を張って叫ぶ。
「なんだ、信長! ならば我輩の権威にも平伏すのが道理だろう!」
信長は刀の柄を軽くコツンと叩き、低く笑って一喝した。
「アホ言え。わしが権威を敬うたんは、そこに国のあるべき姿があるでな。中身のない肩書きに頭は下げんて。」
真理は目を丸くした。
「……信長さん、単に自分の権勢欲じゃなく、国の秩序を重んじていたんですね。」
信長は目を細め、砂地を踏みしめる。
「わしが義昭に出した意見書がある。そこへ、アホやらかした権威の実例をようけ書いといたわ。」
言いながら、指を一本立てる。
「第一にな。
将軍家の奉公衆や守護ばっかり贔屓して、国人や地侍の声を聞かんかったこと。
義昭は、古き名門の血筋こそ尊しときたもんだで、現場で汗かいとる連中を見ちゃおらん。
そんなんで世が回るかい。」
さらに二本目。
「次に、寺社や僧兵の勝手な強訴を止めなんだこと。
天道の権威を楯にすりゃ何でも通ると思いよって、義昭はへらへら迎合しとった。
わしは『筋が通らん』と、強訴を禁ずるようきっちり言い渡したがね。
権威にすがって暴れる、あれは悪手の極みだて。」
三本目の指が立つ。
「それから、将軍家が気に入った者に土地や役職をぽんぽん与えること。
贈与の乱発だわ。
褒美じゃ褒美じゃと続ければ、国ん中が傾くに決まっとる。
だから意見書で釘を刺した――『職の売買を止め、公正を旨とせよ』とな。」
腕を組み、鋭い眼光で言い切った。
「つまりな、権威ちゅうもんは筋を通さんとすぐ腐る。
義昭は権威を笠に着て好き放題やっとった。
せやで、わしは全部書き連ねて、ここ直せと突きつけたんだわ。」
グリフォンは言葉に詰まり、長々と垂れた論文リボンをいら立たしげに踏みつける。
アリスは肩をすくめ、真理の耳元でひと言。
「ね、肩書きより中身って、こういうこと。」
信長は学位帽の房を顎で指し示し、鼻で笑った。
「看板は風で揺れる。けど、筋は折れん。――それだけの話だがや。」
戦国の覇者は更に鼻で笑い、肩をすくめる。
「わしもな、いきなり追放なんぞしとらん。
義昭が将軍になりたい言うで、京で屋敷を建ててやり、権威が保てるように機嫌も取っとったわ。
嫌でも、立派に務まるよう諫言もしとった。」
拳がぎゅっと結ばれ、声が荒くなる。
「それなのに──あのたわけ、恩義も忘れてよ。
周りの大名に泣きついて、わしを討とうと信長包囲網なんぞ拵えおったんだわ!」
真理は目を見開き、言葉を吐き出す。
「……義昭将軍って、信長さんを利用するだけ利用して、最後は裏切ったんですよね。」
信長は冷たい笑みを浮かべ、吐き捨てる。
「ああ。権威の皮をかぶっとるだけの将軍だったわ。筋の通らん権威は、結局、自分で自分を腐らせるんだて。」
彼は一歩前に出て、言葉を刻むように続けた。
「わしは権威は尊重する。
だがな、それは高貴な存在が、自分の置かれた立場の重さを自覚して、筋を通すからだわ。
権威だけ利用して筋を曲げる手合い──わしは、それが一番嫌いだがや。」
アリスが目を丸くして口を開く。
「本当に厳格な人なんだ……! 宗教でも、筋が通らなければ許さないなんて!」
信長はぐるりと首を回し、刀の柄に手を添えた。
「そうだて。わしは筋の通らん奴が大嫌いだわ。……で、さっきからこの鵺みたいな化け物は何だ。権威を振り回すたわけの権化みたいじゃないか。──刀の錆にしてやろうか。」
グリフォンが翼をばたつかせ、後ずさる。
「ま、待て! 我輩は伝統と学識の象徴で──」
信長の眼光が細く光り、一歩。
すっと刀が抜かれ、ひらりと閃く。
刃先がグリフォンの鼻先をかすめた。
シュッ──。
「ぎゃあああっ! 無礼者! 権威に刃向かうとはぁぁぁ!」
情けない悲鳴を上げ、グリフォンは羽音を轟かせて空へ飛び去る。
大仰な肩書きも、振りかざした権威も、砂塵とともに跡形もなく。
信長は刃を拭い、鞘に収めて冷たく吐き捨てた。
「義昭のたわけと同じだわ。筋も通さず、権威だけ振り回すやつは──殺す価値もない。」
背筋を伸ばし、真理とアリスを見回す。
その姿には、静かな炎が宿っていた。
「権威も言葉も……使う者次第だて。愚者が持てば、将軍職も虚仮の看板にしかならん。夢夢、権威のみに跪くな。」
その瞬間、信長の背後が燃え盛る炎に変わる。
松明の火がゆらめくように輪郭が光へ溶け、立つ影は薄れていった。
真理は胸に手を当て、静かにうなずく。
「……はい。」
「さようなら、信長。」
アリスが少し寂しげに手を振ると、陽炎の様な残像だけを残し、信長は霧のように消えた。




