第12話 権威の殻
壁の上でふんぞり返った卵が、鼻で笑った。
「ハッ! 結局、『社会』や『自由』なんて言葉も、お偉い学者と、それを後押しする権力者がでっち上げた定義だろう。
西洋の権威にひれ伏し、真似をする――物真似猿の分際で、言葉を偉そうに語るな!」
嘲笑に、福沢は腕を組んだまま視線だけを上げる。
「フン。まるで分かっていないな。」
真理は、少し遠慮がちに口を開いた。
「でも……たしかに福沢先生って、西洋に偏っているイメージがあります。明治の人たちの中でも欧化主義の象徴、って思われがちで……」
福沢は目を細め、きっぱりと言い切る。
「それは大いなる誤解だ。確かに西洋文明は学び、紹介もした。だが、西洋にひれ伏したことは一度もない。わたしが軸としたのは――『多事争論』である。」
「多事争論……?」
真理が首をかしげる。
石畳に声が朗々と響いた。
「一つの意見や一人の権威に縛られてはならぬ。
意見はぶつけ、論は争わせる。
西洋も用いる、東洋も活かす。
だが、どちらにも絶対に寄りかからぬ。
多くの事に、多くの論を――その過程で本当の理が残る。
それが『多事争論』だ。」
「多事争論……! 学校で福沢先生のところ、そこまでは習わなかったなぁ……」
真理がぽつりと漏らす。
福沢は鼻で笑い、片眉を上げた。
「どうせ教科書は『脱亜論』だの『文明開化への功績』だの、看板だけを並べる。中身の骨法には滅法冷淡だ。」
真理は気まずそうに笑って、うなずいた。
「……まあ、そうです。『学問のすゝめ』と一万円札の人くらいしか、ちゃんと覚えてなくて。」
福沢は大きく息を吐くと、すぐ真剣な眼差しを向けた。
「嘆かわしいことだ。
わたしが伝えたかった本旨は、文明の真似ではない。
議論を開き、人々の声を集める手続きだ。
名札や流行の言葉ではなく、意味を皆で確かめる作法。
だが世は常に、分かりやすい看板を好む――『近代化に突き進んだ欧化主義者』と短く貼るほうが、便利だからな。」
城壁の上でハンプティがむっと口を尖らせ、つま先で縁をとん、と叩いた。
風が吹き抜け、巨石の縁がかすかに震える。
明治の学者は静かに両手を組み、真理をまっすぐ見据えた。
「よいか。『多事争論』とは――一つの意見に従うことを拒み、あえて多くの声を争わせることに価値を置く考え方だ。」
そう言って西の空へ顔を向ける。
「キリスト教社会では、『唯一の正しさ』を持つ絶対神の教えが中心に据えられた。
そのため、教会はその教義に反する者を異端として弾圧し、魔女は火あぶりにされた。
しかし、近世になると、学者や市民たちがその権威に疑問を抱き、ついに自由な議論を始めた。」
福沢は一息ついて続ける。
「最初は、神が定めたとされる真理をより深く理解しようとする、信仰心に基づいた探究だった。
だがやがて、議論は信仰の枠を超え、科学や近代思想へと発展していった。
絶対だった権威を疑う勇気、そして互いに論を交わすことこそが、文明を前へ押し出したのである。」
今度は東を見やり、低く息をついた。
「一方、儒教の国々では、孔子や朱子の教えが唯一の規範となり、異論を容れなかった。
科挙は正解を書き写すことに終始し、議論ではなく暗記の社会を築いた。
その結果、新しい思想の取り込みが遅れた。」
諭吉は拳を握り、言葉に力を込める。
「ゆえに我は言う。
争いを恐れるな、異論を歓迎せよ。
『多事争論』なくして文明の前進はない。
西洋を真似たのではない。
彼らが、近代化に至った過程こそ重要。
その内実を、我が国に根づかせたかったのだ。」
壁の上で、卵男が真っ赤になって怒鳴った。
「けしからん! 言葉は偉い者が決めるものだ! 下層民の議論などナンセンス、時間の無駄だ!」
アリスは腰に手を当て、きっぱりと言い返す。
「ナンセンスなのはあなたよ! 自分が偉いから正しいだなんて、不思議の国でも笑い話にならないわ!」
福沢は一歩前へ出て、鋭い視線で壁上を射抜いた。
「お前のような存在を打ち砕くために、私は生涯をかけた。
人々が声を上げ、議論することを妨げる横暴な権威――それこそが文明を停滞させる最大の敵だ。
『多事争論』とは、その檻を壊すための旗印である。」
ふと、その表情に翳りが差す。
「だが……後世に正しく伝わらぬのは、痛恨の極みよ。
『学問のすゝめ』ばかりが名を残し、肝心の多事争論は忘れられる。
人々は分かりやすい看板だけを見て、思想の中身に目を向けぬ……」
風が城壁を撫で、卵と諭吉の間で吹きすさぶ。
真理はその流れを感じ、ぎゅっと拳を握り直した。




