表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/29

第11話 城壁の上の卵

 闇夜の靄がすっと晴れると、目の前に城壁がそびえ立っていた。

 天辺には、丸々とした卵の男が腰かけている。


 つややかな殻、短い手足、きょろきょろと落ち着きなく動く目。

 ふてぶてしい口調で見下ろしてきた。


「ふん。お前たち、何者だ?」


 真理が名乗ろうと口を開いた瞬間、卵男が手をひらりと振って遮った。


「名などどうでもよい。

 言葉は私が決めるものだからな!

 『勇気』とは私にとって『卵の黄身を食べること』。

 『正義』とは『殻を割らないこと』。

 わはは! これが私の辞書だ!」


アリスは肩をすくめ、真理の耳元でささやく。


「ハンプティ・ダンプティは、『言葉の意味は権力で決められる』って考えの風刺なの。

 ヴィクトリア朝では、政治家や学者が自分勝手な定義を押しつけることがあったのよ。

 キャロルは論理の人だから、そういう言葉の横暴をこの卵男に託して笑ったんだ。」


 ハンプティが壁の上で好き勝手に定義を並べていると、真理の上着ポケットがふっと軽くなった。

 財布が自分で泳ぐみたいにするりと抜け出し、一枚の一万円札が宙へひらひら舞い上がる。


 札の中央の肖像――福沢諭吉が、ぱちりと瞬きをした。

 ついで、紙面の人物が立体の影を落とし、三次元の紳士として石畳に降り立つ。


「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず――」


 福沢は眼光鋭く、城壁の上を見上げた。


「言葉の定義ひとつで人を縛るのは、いかがなものかな。」


「ひゃ、ひゃぁぁっ!? 諭吉先生が!? お財布から出てきた!?!?」


 真理は腰を抜かしそうになって声を上ずらせた。

 アリスはこらえきれず、転げそうな勢いで笑い出す。


「あはははっ……不思議の国では当たり前のことよ!」


 真理は目を輝かせ、紙幣の肖像の主へ一歩進んだ。


「福沢先生は、まさに近代化の申し子。西洋の言葉をたくさん日本語に意訳されたんですよね?」


 福沢は威厳を漂わせながらも、重々しく頷く。


「うむ。異国の知をそのまま持ち込んでも、人々には届かぬ。ゆえに我は翻案したのだ。

 たとえば――society は『社会』、philosophy は『哲学』、economy は『経済』、liberty は『自由』、civilization は『文明』、science は『科学』。

 ……いずれも今では当たり前の言葉だが、我が時代には存在せなんだものよ。」


「そんなに沢山……!」


 真理は息を呑む。


「しかも全部、現代でも大事な概念ばかりじゃないですか!」


 アリスは目を丸くし、ぱちぱちと楽しげに拍手した。

 その頭上、城壁の上では卵がふんと鼻を鳴らす。


「結局、言葉は作った者のものじゃないか。私が勝手に定義するのと、あまり変わらん!」


 福沢はゆるりと笑い、首を振った。


「勘違いしておるな。

 おぬしは独りよがりの定義で悦に入るだけ。

 わたしは万人が共有できる道具として言葉を生み出した。

 言葉を人々に開くか、閉じるか――そこが根本的に違うのだよ。」


 真理は勢いのまま問いを重ねる。


「でも……日本に元からなかった言葉を訳すって、無理はないですか? その言葉はどこから出てきたんです?」


 福沢は大きく頷き、口元に笑みを乗せた。


「良い質問だ。

 わたしは蘭学から西洋を学んだが、根底には儒学で培った漢籍の素養があった。

 だからこそ、新しき概念を表すのに漢字を用い、誰もが受け入れられる形にできたのだ。

 『文明』も『自由』も『社会』も、漢字文化という大樹の枝へ、西洋の果実を接ぎ木したに過ぎぬ。」


 真理は、両手を胸の前でぎゅっと結んで力を込めた。


「……なるほど。東洋の古い知識が、西洋の新しい学問を受け入れる器になったんですね。そう考えると、日本って文明の交差点みたい。」


 ふと彼女は顔を上げる。


「中国や朝鮮でも、同じように漢字で西洋の言葉を受け入れたんですか? それとも日本だけの現象……?」


 福沢は目を細め、少し重々しく言葉を選んだ。


「漢字文化は中華にも朝鮮にもあった。

 実際、『自由』や『経済』といった語は後に清国や朝鮮へ伝わり、広く用いられるようになった。

 だが状況は異なる。

 中華は自ら世界の中心という観念が強く、新概念の受容に時間を要した。

 朝鮮も儒学の規範が厳しく、学びはしたが社会全体へ広がるのは遅かった。

 それに比べ、日本は明治維新で旧制度を一気に壊し、新しきを取り入れる覚悟を固めた。

 ゆえに我らの造語はただちに制度や教育に組み込まれ、社会全体に広まったのだ。」


 卵が退屈そうに足をぶらつかせる。

 福沢は言葉を続ける。


「今日、彼の地で当然のように使われる『社会(shèhuì)』『自由(zìyóu)』『哲学(zhéléxué)』――これらは明治の翻訳家が苦心して生んだ和製漢語でもある。」


 真理は目を輝かせる。


「本家の中国語や韓国語が、日本の造語を逆輸入して定着させてるなんて!」


 アリスはにっこり微笑み、城壁の上ではハンプティが不満げに喉を鳴らした。

 風が一枚、紙幣の縁を撫で、登場人物たちの影が石畳に静かに伸びていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ