1.山田俊介
この物語は、ひとりの少年が抱える心の闇と葛藤を描きます。
日常の中に潜む孤独や痛み、そして人間の弱さと向き合いながら、彼は自分自身と世界の理不尽さに立ち向かいます。
誰にも理解されない苦しみの中で、彼が選ぶ道とは――。
読む者の胸に静かに響く、繊細で重厚な物語です。
『ねぇ、俊介君…力が欲しい?』
この出会いが僕の運命が大きく変わる瞬間だった
僕の名前は山田俊介、平凡な高校二年生。しかし、僕の日常は決して平穏とは言えなかった。教室のドアを開けるたびに、心臓が締め付けられるような感覚が襲う。それはまるで毎日同じ悪夢を繰り返すかのようだった。
朝の教室にはすでに何人かのクラスメートがいて、笑い声や軽口が飛び交っていた。しかし、僕が教室に入ると会話が止まり冷たい視線が突き刺さる。僕は教室の隅にある自分の席に着き、机の上に広げた教科書を意味もなく眺めた。
「おい、山田。ちょっとこれ見てみろよ」
後ろから肩を叩かれた瞬間、嫌な予感がした。振り返ると、そこにはクラスのリーダー格である田中が立っていた。彼の目には嘲笑の色が浮かんでいた。
田中の手には、スマホが握られていた。画面をこちらに向けると、そこには僕の写真が映っていた。昨日、下校途中に撮られたものだ。知らない間に、撮られていたらしい。しかも、加工されて奇妙な落書きが加えられていた。僕の顔には道化師のようなメイク、背景には「陰キャ王子、降臨」と書かれた文字。
「ウケるだろ? お前ってさ、本当に面白いやつだよな」
周囲からクスクスと笑い声が漏れた。誰も止めようとはしない。むしろ楽しんでいるようだった。
僕は何も言えずにただ、田中の目を見返した。怒りや悔しさではなかった。そこにあったのは、空虚だった。まるで、自分がこの教室の中で透明な存在になってしまったかのような感覚。
「……消してくれ」
僕の声は、かすれていた。それでも田中は聞こえたらしく、わざとらしくスマホを掲げた。
「え? これか? どうしようかな~。削除してほしい? それとも、もっと面白いの追加してほしい?」
僕は何も言えずにただ、立ち尽くしていた
暫く沈黙が続くと田中は何か言えよと呟きながらスマホをポケットにしまうと、周囲の空気はすぐに元に戻った。いや、戻ったというより、「いつもの日常」が再開しただけだった。
クスクス笑い、ひそひそ声、誰かが机を叩いて抑えきれない笑いを爆発させる。
まるで、自分が空気のように透明で、そして笑いの対象としてだけ形を持つ存在になってしまったかのようだった。
僕はゆっくりと椅子に座り直し、机の上の教科書を開いた。ページの文字は滲んで見えなかった。目に入らないというより、脳が情報を拒絶しているような感覚。
(なぜ、誰も止めない?)
そう思った瞬間、自分の問いかけに苦笑した。
(……知ってるくせに)
この教室では、声を上げる者は次の標的になる。だから誰も逆らわない。沈黙は、自己防衛なのだ。
チャイムが鳴っても、授業の内容は一つも頭に入ってこなかった。ノートを開いても、ペンは動かない。先生の声は、遠く、こもったように聞こえていた。
昼休み。僕はパンを持って用具室に向かった。誰も来ない場所だからいつもここに逃げている
しかし、用具室の扉を開けたその瞬間、背筋が凍った。
そこにいたのは、田中と数人の男子たち。まるで、僕が来ることを知っていたかのように立っていた。
「よう、山田。まさかほんとに来るとはな。期待に応えてくれてありがとな」
田中がニヤリと笑う。スマホを持ちながら
「今日はもっと面白いネタ、撮らせてもらうからさ、協力してくれよ、“陰キャ王子”」
男子の一人が、僕の肩を掴んで壁に押し付けた。抵抗しようとしたが、力では敵わない。
田中が僕の顔を覗き込み、小声で囁いた。
「なあ山田、お前ってなんで生きてんの?」
その言葉が、胸の奥を突き刺した。
「クラスで誰もお前を必要としてないし、存在すら認識してないふりをされてお前がいなくなっても、誰も困らない。むしろ喜ぶんじゃね?」
彼の言葉に、周囲の数人が笑いを噛み殺す。
僕は、何も言い返せなかった。ただ、まばたきの合間に、ふと頭をよぎった。
(……もし、本当に僕がいなくなったら、世界は変わるだろうか?)
その問いは、思ったよりも自然に、心の中に落ちていった。
田中たちは笑っていた。用具室の空気は、どこか冷たく湿っていて、まるで牢獄のようだった。
僕の肩を掴んでいた男は、力を抜く気配がない。田中がスマホをこちらに向けながら、顔をしかめて言った。
「なあ山田、お前さ、『全裸土下座』しろよ。それっぽく、こう……“すみませんでした!”って顔してさ。そしたらバズるかもな?」
その瞬間、周りの男子が僕の着ているすべての物を無理やり脱がせて正座をさせた。
「ほら、撮影ターイム」
僕の顔にスマホのライトが当たる。眩しさで目が潤んだ。それを見て田中が満足げに笑った。
「お、いいねいいね。泣いてるっぽいじゃん」
(泣いてなんかいない。これはただの……)
でも、言い訳するのももう面倒だった。どうせ、何を言っても嘲笑が返ってくるだけだ。
田中がスマホをポケットにしまうと、顔を近づけてきた。その目はもう、完全に「人」ではなかった。爬虫類のように冷たく、無機質で、ただこちらを獲物として見ていた。
「なあ、山田。今、学校辞めたらどうなると思う? あーでも、お前んちって母子家庭だったよな。母ちゃん、働いてるって言ってたっけ?」
僕の肩がピクリと反応する。
「やっぱりな。じゃあさ、もしお前が消えたら……母ちゃん、泣くかな? それとも“やっと重荷がなくなった”って笑うのかな?」
その言葉は、今までのどんな嘲笑よりも、痛かった。
「……やめろ」
かすれた声で言った。言ったのに…田中は止めなかった。
「お前ってさ、生きてて楽しいの? 何のために毎日学校来てんの? 誰とも話さねぇで、笑いもせずに、何も残さずに、ただ生きてるだけ。……それ、生きてるって言えるの?」
僕の心の中にあった何かが、また一つ崩れた音がした。
周囲の男子たちが、飽きたのか口々に言った。
「もう、いいんじゃね? なんか反応薄いし、つまんねーわ」
「逆に怖くね? こいつ、マジで死にそうな顔してんじゃん」
「おい田中、そろそろやめとけって。ガチでヤバいかも」
田中は舌打ちしたが、やがてスマホをしまってため息をついた。
「……チッ、じゃあ今日はここまでにしといてやるよ。“陰キャ王子”、またな」
そう言って、彼らは去っていった。
誰も振り返らなかった。まるで、最初から僕がそこに存在していなかったかのように。
用具室の扉が閉まる音が、耳の奥に響いた。
沈黙。
僕は膝から崩れ落ち、冷たい床に額をつけた。
(終わったわけじゃない…。これが、毎日続く)
(ずっと。見て見ぬ振りをされ。誰にも助けられずに)
手が震える。喉が乾いて、呼吸も浅くなる。
(俺がこのまま死んでも、きっと誰も気づかない。クラスは笑ってるし、先生は名簿を見て出席を確認するだけだ)
(母さんにだって、迷惑しかかけてない)
(じゃあ……何のために、生きてるんだ?)
静かな絶望が、僕の体の隅々にまで染み込んでいった。
何も感じない。いや…感じることを、やめてしまった。
だから、笑われても、殴られても、何も響かない。
けれど、ただ一つだけ、確かな感情が残っていた。
(いなくなりたい)
それは、悲しみでも怒りでもない。ただの『願い』だった。
世界から、自分という存在が静かに消えることを。
誰にも迷惑をかけず、誰にも気づかれず、すっと消えていくことを。
その願いだけが、僕の中で確かに灯っていた。
しばらくすると、予鈴のチャイムが鳴った。
(…戻らなきゃ)
そう思って立ち上がろうとしたが、膝が震えて力が入らなかった。立てない。身体が言うことを聞かない。まるで、骨の芯まで疲れ果てたようだった。
額に手を当てて、ゆっくりと深呼吸をする。
体を引きずるようにして用具室のドアを開け、廊下へ出る。
教室に近付くに連れて呼吸は浅く鼓動が速くなり
気分が悪くなっていくそんな状態で歩いていると
「ちょっと大丈夫?」
その声に、僕は思わず足を止めた。
振り返ると、そこには保健室の先生が立っていた。白衣の袖を軽くまくり、心配そうにこちらを見ている。
「顔色が悪いよ。どこか具合悪いの?」
僕は答えようとしたが、喉がつかえて声が出なかった。ただ、かすかに首を振った。
「……そう。じゃあ、無理しないで。保健室、寄っていく?」
その言葉に、僕は再び首を振る。行けばきっと、いろいろ聞かれる。それが、怖かった。
「……帰ります」
やっとの思いで、それだけを絞り出した。
先生は一瞬、何か言いたげに口を開きかけたが、すぐに閉じて、静かにうなずいた。
「わかった。担任の先生には私から伝えるから気をつけて帰ってね。……ほんとに、無理しないで」
僕は深く頭を下げた。その姿を見届けると、先生は職員室の方へと歩いていった。
教室には戻らず、そのまま下駄箱へ向かう。誰とも目を合わせないように、廊下の壁をなぞるようにして歩いた。
靴を履き替え、校門を出た瞬間、世界の音が遠のいた。
まるで、海の底に沈んだみたいに、すべてが鈍く、静かだった。
僕は大きく深呼吸をして少し落ち着いてから家に向かった。
歩道を歩きながら、電柱の影だけを追っていた。影が伸びて、細くなって、そしてまた消えていく。その変化だけが、確かな時間の流れを教えてくれた。
(このまま、どこかへ消えてしまえたらいいのに)
そんなことを思いながら、いつもより遠回りして、人気のない裏通りを選んで帰る。
夕暮れの街は、どこかやさしく見えた。オレンジ色の光が、ただのアスファルトを柔らかく染めていた。
家の扉の前に立ち、ポケットから鍵を取り出す。鍵が手から落ちた。拾おうとしたが、手が震えていた。
やっとの思いで鍵を差し込み、ドアを開けた瞬間、漂ってきたのは味噌汁の匂いだった。
「俊介? おかえり。ちょっと早いのね。ご飯、もうすぐできるから」
母の声が、台所から聞こえる。
僕は返事をしなかった。ただ、靴を脱いで、カバンを置いて、自分の部屋へ向かった。
ベッドに倒れこむと、しばらく天井を見つめていた。部屋の空気は静かだった。誰もいない。誰にも、見られていない。
(ここだけが、僕の逃げ場所だ)
そう思いながら、枕に顔を埋めた。
目を閉じても、田中の声が耳に残っていた。
「お前が消えたら……母ちゃん、泣くかな? それとも“やっと重荷がなくなった”って笑うのかな?」
あの言葉が、まるで呪いのように、胸の奥で繰り返される。
明日が来ないことを、心のどこかで願っていた。
それでも、夜は来る。現実は、容赦なく。
僕は眠れなかった部屋は時計の針が動いてる音が響き渡るだけだったがその音が僕を蝕んでいく。気晴らしに屋上に登って見ようと思い物音を立てずに玄関を出た。
屋上に着いた僕は辺りを見渡した、丑三つ時だと言うのに所々家の電気が付いている車も少し走っているが昼間に比べるとやはり静かだった。
「お前ってさ、生きてて楽しいの? 何のために毎日学校来てんの? 誰とも話さねぇで、笑いもせずに、何も残さずに、ただ生きてるだけ。……それ、生きてるって言えるの?」
(僕は何で生きているんだ…)
(あぁ…今なら飛び降りても誰にも気付かれない)
夜風は肌に冷たく、しかしそれすらも今の僕にとっては「生きている証拠」とは感じなかった。
街の灯りが遠くにまたたく。なのに僕の周りだけ、まるで色彩が失われたモノクロの世界のようだった。喧騒も、ぬくもりも、僕のいる場所には届かない。
(……もう、いいよね)
その思いが胸に満ちたとき、僕は屋上の縁に立っていた。
足元のコンクリートの端から、夜の底が口を開けて僕を待っている。
風が吹くたびに寝間着の裾が揺れ、その拍子に身体がほんの少しぐらついた。まるで、背中を押してくれと囁いてくるかのように。
下を覗くと、ただ黒い闇が広がっていた。何の感情も、恐怖すら湧かなかった。ただ、そこにある空虚だけが僕を迎えてくれていた。
(僕は、言えなかった。何も……言えなかった)
苦しんでいることも、助けを求めていたことも、怖かったことも。なにも。
だから、母は知らない。僕の心が、ここまで壊れてしまったことを。
でも、それでも…
(心が壊れたことに、気づいてほしかった)
誰かに、たった一人でいいから。
「どうしたの?」「大丈夫?」じゃなくて、
「気づいてるよ」「わかってるよ」って、そう言ってほしかった。
涙が、頬を伝って落ちていく。風にさらわれるその粒は、まるで何かの最後の証のようだった。
『ごめん……母さん』
その言葉が、唇からこぼれて足を踏み出した瞬間
服の襟を掴まれ後ろに引っ張られた。
「死んじゃダメだよ。」
僕は驚きのあまり、声が出なかった。
後ろを振り向くとそこにはまるで天使のような羽が生えている美女が立っていた
君は誰ですかと僕が尋ねると
彼女は静かに微笑んだ。夜の月明かりが彼女の金色の髪を淡く照らし、その姿はまるで現実とは思えないほど神秘的だった。
「私はレイ、あなたを見ていた者。……俊介くん、あなたが今までどれだけの苦しみに耐えたか、全部、知ってるよ。」
その声は優しく、まるで凍った心にそっと触れる春風のようだった。
「……なんで……君が……僕の名前を……?」
喉の奥からようやく言葉が漏れる。僕の身体はまだ震えていたが、その存在の温かさに、ほんの少しだけ重さが緩む気がした。
「私はずっと見ていたからね。俊介くん、君は“消える”ことじゃなく、“変える”ことを選べる人間だ」
僕は首を振った。
「無理だよ……もう、心が壊れてる。僕には何もない。ただ、生きてるって言えるだけの形をしてるだけで、中は空っぽなんだ……」
「空っぽじゃないよ。ほら、君はまだ私の言葉を聞いているじゃない? それって、心が生きている証拠だよ」
レイは、僕の胸にそっと手を当てた。まるでそこに、何か灯りを見ているように。
「人ってね、心が壊れると、誰かの声すら届かなくなるの。だけど君は、まだ聞いてくれてる。だから、大丈夫。」
僕は俯いて、唇を噛んだ。
「でも、変えるって……どうやって? あいつらは僕を人間だと思ってない。先生も見て見ぬ振り、友達なんていない……世界は、僕を必要としていないよ……」
レイはそっと僕の手を取った。驚くほど温かかった。
「世界が君を必要としてない? それは、“今の世界”が君に背を向けてるだけ。でもね、君自身が君を必要としてるじゃない。だって、君は“生きてる意味”をまだ探してる」
僕の目に、知らず知らずのうちに涙が滲んだ。
「ねぇ、俊介君…力が欲しい?」
僕は大きく頷いた
「君に一つだけ、選ばせてあげる」
レイはそう言って、指を鳴らした。
レイが指を鳴らすと、夜の屋上にふんわりとした光が集まり、小さな光の箱が現れた。透き通るような青い光を放つその箱は、「中にあるもの」を求める者の心に呼応するように震えている
「これが、君に渡す“力”が入った箱だよ」
「君にあげられる力は一つ『憤怒の復讐』か『忘却の赦し』。どちらを選ぶ?」
僕は息を呑んで箱を見つめた。胸の奥が高鳴っている。こんな形で“選択”を迫られるなんて、自分でも信じられない──。
「憤怒の復讐は、刃のように研ぎ澄まされた怒りと力。けれど同時に壊すことでしか癒えない深い傷が胸に残る。苛めてきた人たちへの報復。だが、その果てに待つのは勝利の空虚さか……それともさらに深い闇か。」
「忘却の赦しは、傷つけた者・傷ついた者、両方の記憶や痛みを和らげたり、選択的に消去することができる。自分自身すらその記憶を手放せば、全てが“無かったこと”に近づいていく。だが、力を使いすぎれば、君自身の存在意や痛みを超えて生きた証までもが消えていく危険がある。」
箱の光は二つに分かれた。一方は燃えるように赤く、もう一方は静かに淡い藍色に輝いている。
僕は両方の箱を見つめながら、心の奥に問いかけた
(僕は復讐したいのか? それとも……全て忘れたいのか?)
その刹那、胸の奥にあった呪縛がふるえた。
「どちらの力にも“犠牲”はつきもの君が本当に大切にしたいもの、自分で選んで。」
静寂を取り戻した夜風が、二人の間を通り抜けた。
僕は深呼吸をして、箱に手を伸ばした
「そう…それが君の選んだ力なんだね」
レイは微笑みながら僕が選んだ箱を開けると中から光る玉のような物を取り出し僕の心臓に勢いよく押し付け痛みを感じた瞬間に耐え難い眠気に襲われた、薄れゆく意識の中で彼女が「頑張れ」そう言ったのが聞こえた…
・
・
・
アラーム音で眼が覚めた僕はベッドで寝ていたカーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。見るもの全てが昨日とはどこか違って見える。空気が澄んでいて、色彩がほんのり鮮やかだ。僕の身体が、まるで今までとは違う自分であるかのように感じる。 あれはただの夢だったのかと思ったが僕の胸にはひんやりとした不思議な感覚があった。まるで、光る玉がそこで脈打っているかのようだった。
ベッドから起き上がり、身体をさすりながら部屋の鏡を見る。そこに映るのは、いつもの自分僕は胸に手を当て、鼓動を確かめる。だが、あの痛みや重さそして光の熱は、まるで夢であるかのように消えていた。
本当にあの“力”を手に入れたのだろうか?
そんなことを考えながら学校に行く準備をして家を出ようとしたが玄関のドアノブがやけに重く感じ登校中の足取りは遅く中々前に進まない(やっぱりそうだよな…)
昨日の学校での出来事が心にへばりついていた本当に『力』を貰えていたとしても今まで苛められていた事が消える訳じゃないその考えが足枷になって身体を動きにくくさせる。心が暗く底無し沼に沈んでいくような嫌悪感に苛まれた瞬間に胸が熱くなりそれまであった身体の重さが消え嫌悪感が嘘みたいに消えた。
「夜の出来事は夢じゃなかった現実だったんだ」
喜びのあまり思わず声を出してしまい通行人達に視線を向けられ僕は恥ずかしくなり駆け足でその場を離れ学校に向かった。
学校に着き靴を履き替え廊下を歩いていると教室から大きな笑い声が聞こえた。 笑っている奴が誰だかはすぐに分かった田中達だ いつも遅刻寸前に来るのに今日はやけに早い 嫌な予感がしながらも教室に入ると全員の視線が僕に刺さり笑っている人やヒソヒソと口を手で隠しながらしゃべる人達がいたがその中で 僕と黒板を交互に見つめている人がいたので視線を黒板の方に送るとそこには昨日、無理矢理撮らされた僕の『全裸土下座』写真が大々的に貼られ「陰キャ王子謝罪中www」「まだ生きててごめんなさい♡」「全裸の王子様降☆臨」等の文字が入れられていた。
僕が写真を見ているとシャッター音が聞こえて振り向くと田中とその取り巻きたちが携帯を向けていた。
「よっ!陰キャ王子…いや、全裸の王子様」
笑いを堪えながら近づいてきた田中達に叫んだ
「なんだよこれ」
すると田中は「昨日考えたんだけどよこんなに面白い写真俺達だけで楽しむのは『全裸になった王子様』に申し訳ないと思ってよ、だからクラスの皆にも見てもらった方が喜んでくれるってな」そう言いながら俺の方をバシバシ叩いたそして続けて「死なずにちゃんと学校に来てくれて嬉しいよ折角徹夜して文字入れたりプリントしたのにお前が死んだら反応見れないからな」
田中の言葉に、教室中からまた笑い声が湧き上がる。
僕の喉はカラカラで、唇がわずかに震えていた。
視線を田中から逸らせない。まるで蛇に睨まれた蛙のようにそれに、目の端に映るのは僕を笑うクラスメート達の目「面白いもの」を見つけた子どものような、無邪気で残酷な目。
「ほら、泣けよ。王子様は泣くのだけは得意だもんな?」
田中の言葉にまた数人が吹き出す。
僕の拳は震えていた。だけど、何もできなかった心の奥から滲み出すような、絶望的な無力感が僕に襲ってきた。
暫く無言が続いた後、取り巻きの一人が
「なぁ、田中……あの写真さ、拡散しようか?ネットにも上げたらさ、全国デビューできるかもよ?」スマホをちらつかせながら言った。
僕の鼓動が一気に跳ね上がる。喉の奥がキリキリと痛み、ピンッと張った何かがプツリと切れ押さえていた物が溢れる気がしてこのままだと本当に……そう思ったそのときだった。
耳元に微かな声が届いた。
「ねぇ、俊介くん……今こそ君が選んだ『力』を使う時じゃない?」
その時、時間が止まったような錯覚を覚えた。それと同時に周囲の喧騒が静止したように教室の音が聞こえなくなった。するとどこからか「今、君以外の全ての時間を止めているよ」 聞き覚えのある声だった声の主は上からゆっくり舞い降りてきたのを見て僕は天使だと思った
「君は……レイ……?」
僕がそう聞くと彼女はお腹を抱えて笑った
「正解、でも…ふふっ……君には私が天使の姿に見えているのか……ふふっ…まぁ何でも良いや」
心を読まれた事に驚いたがやはり彼女はレイ だった
『今が力の使い時だよ』
レイは再度呟いて黒く濁った玉を取り出した。
「これが俊介くんの心の状態だよ、漆黒の黒だし所々ヒビが入ってるでしょこれはもう『限界』でこれが割れると君は死にます!力を使うとこの黒く染まった玉は段々元のきれいな透明になって死ぬことは無くなる。使う使わないの『選択』は君の自由だ選んだ力を使い新しい人生で『生きる』事を選ぶか力を使わず今まで通り苛められて耐えきれずそのまま『死ぬ』事を選ぶのか……今朝、君の嫌悪感を消したのは私が君に力を使ったからで『私』は君に生きてほしいと願っている。」
レイの話を聞いて僕は涙が出た
「生きてほしい」その言葉で決心をした。 「決めた、僕は『生きる』為に力を使うよ」
そう言うとレイは笑顔で頷き
『ずっと見てるよ頑張ってね。じゃあね』
レイが指をならすと止まっていた時間が動き出して教室喧騒も戻り僕の前にはレイではなく田中が立っていた。
僕は小さく息を吐き、一度、自分の内側へと沈んでいった。
心を落ち着かせるために――怒りと苦しみ、その正体をじっと見つめる。
殴られ、罵られ、そして無力さに押し潰されかけた日々。
胸の奥に溜め込んできた感情が、じわじわと広がっていく。
だがその一方で、頭の中を覆っていた靄は静かに晴れ、心は妙に澄んでいた。
怒りはもはや混乱ではなかった。
それは、明確な“意志”として、ゆっくりと形を成し始めていた。
あのときの言葉、あの視線、あの嘲笑。
やつらの顔が次々と脳裏に浮かび、そして消えていく。
そのたびに、身体の奥がじんわりと熱を帯びていった。
(……もう、全部終わらせよう……)
そんな思いが、胸の奥で静かに輪郭を描いていく。
まるで、それだけが最初から定められていたかのように。
心の底に渦巻く怒りが、全身に熱を伝えていくのを感じていた。
(終わらせる……いや、違う。あいつらが何も失わずに終わるなんて、それじゃ足りない)
そのとき、俺の中には確かな“意志”が芽生えていた。
ちょうどその時、田中は取り巻きのスマホを見ながら笑っていた。
「……田中」
俺の声に、田中は振り返り、眉をひそめる。
「は? 何だよ」
「……話がある。今日の放課後、用具室に来い」
田中は一瞬、きょとんとした顔をした後、すぐに嘲笑を浮かべた。
「は? 用具室でまた土下座でもすんの? バッカじゃねえの?」
周囲の取り巻きがドッと笑う。
だが俺は冷静に田中の目を、真正面から見返した。
「逃げんなよ」
その一言を残し、黒板に貼られた写真を剥がしてゴミ箱に捨て、席に戻った。
教室はざわついていたが、俺の中は不思議なほど静かだった。
心は、すでに“放課後”へと向かっていた。
授業中も休み時間も、田中たちは俺に手を出さなかった。
あの頃のような暴言も、嘲笑もない。ただ、妙に距離を取っていた。
まるで、俺の中に潜む何かに気づき、怯えているようだった。
教室の空気にはぎこちない緊張が漂っていた。
そして、放課後がやってきた。
クラスがざわつき始める。
それは、今朝の俺の“あの一言”が原因だった。
田中に向かって放った、たった一言――「逃げんなよ」。
いつもなら笑い話で終わるはずの言葉が、今日は違っていた。
俺の目も、声も、どこかが違っていたのだろう。
誰もが気づいていた。“何か”が始まる――そんな予感だけが、教室の空気を濁らせていた。
田中もまた、どこか落ち着かない様子だった。
笑ってはいたが、その笑いには硬さがあり、
スマホをいじる手もどこかぎこちない。
時折、こちらを盗み見るその視線には、警戒がにじんでいた。
俺は何も言わず、田中が動くのを待った。
「……しょうがねぇな……」
わざとらしく笑いながら、田中は取り巻きたちに向かって言った。
「ちょっと行ってくるわ。マジでまた土下座してくれんなら、動画撮ってやるよ。あはは」
だが、誰も笑わなかった。
その沈黙が、妙に重かった。
田中は軽い足取りを装いながら、俺の席の前を通り過ぎて廊下に出た。
俺も後に続く。
扉の前で一言。
「誰もついて来るなよ」
そう言い放ち、教室にいた連中を睨んでから、扉を閉めた。
階段を下りる足音が、やけに大きく響く。
薄暗い廊下。誰もいない時間、誰もいない場所。
用具室の前に着いたとき、田中が振り返った。
「で? なんだよ。マジで何のつもり? 今さら謝ったって、許してやらねーけど?」
俺は答えず、無言でドアを開ける。田中を先に入らせた。
埃っぽい空気。古いマットや跳び箱の匂い。
小さな蛍光灯が、かすかに室内を照らしていた。
ドアを閉め、鍵をかけた瞬間、世界が密室になったように思えた。
俺はゆっくりと歩を進め、田中との距離を詰める。
田中が一歩、後ずさる。
「……は? おい、マジで何のつもりだよ?」
口調は強気だが、その声はわずかに震えていた。
本人は気づかれまいと虚勢を張っているつもりなのだろう。
「田中、ビビってんのか?」
「は? 誰が? お前、調子乗ってんじゃねえぞ……」
田中は顔を歪めて笑った。だが、その笑いには余裕がなかった。
「で? 何だよ? ここまで連れてきて説教か? ウゼえんだよ。つかさ、何? 俺に復讐でもした気分? 中二病こじらせすぎだろマジで」
その足は、ほんの少しだけ後退していた。
俺は、それを見逃さなかった。
「怖いなら逃げてもいい。鍵、開けてやるから」
「……は? 誰が逃げるって? お前みたいな陰キャの相手、俺がビビるわけねえだろ。
だいたいお前な、昔からウジウジしてて、なんかムカつくんだよ。
殴っても、蹴っても、ただ俯いてるだけで、なーんも言い返さねえ。
マジで気持ち悪いんだよ。お前みたいなやつが教室にいるだけで、空気悪くなんだよ」
「……だから、お前は、人を傷つけるのが“当たり前”になってるんだな。
自分が王様のつもりか?」
「はっ、そうかもな。でもお前も、自分がいじめられる“価値しかない”ってわかってたんじゃねぇの?
だから黙って耐えてたんだろ? 自業自得だよ、全部」
その瞬間、俺は田中の胸ぐらを掴み、思いきり壁に叩きつけた。
「……!」
鈍い音が響き、田中の目が見開かれる。だが、まだ殴りはしない。
代わりに、俺は声を突きつけた。
「お前のその“上から目線”、今日で全部終わらせる。
俺の目を見て言え。お前が壊したのは、誰の人生だったのか」
田中はなおも睨み返してきたが、その奥に――“怯え”があった。
それは、今まで一度も見せたことのない表情だった。
「覚えてるか? あの日、俺が顔を腫らして帰ったの。
先生に見つかっても、“階段で転んだ”って誤魔化したんだ」
田中は唇を噛むだけで、何も言い返さなかった。
「覚えてるか? 机の中に“死ね”って紙詰め込んだの。
あれ、お前らだったよな。
俺、泣きながら帰って、母さんにバレないように必死で顔隠してた」
「……知るかよ、そんなこと……」
その声は小さく、壁に吸い込まれるように消えていく。
俺の中の怒りは、もう燃え上がる炎じゃなかった。
それは、底なしの井戸のように、冷たく、静かに沈んでいた。
「……なぁ、田中。お前、誰かに心から謝ったこと、あるか?」
「……は?」
「謝るのが、自分の価値を下げるって思ってんだろ。
でもな、謝れるのは“人間”だけだ。
謝れないやつは、もう“人間”じゃない」
そう言って俺は、田中をマットに投げ倒し――腹を、蹴った。
田中は息を詰まらせるような呻き声を上げ、身体を折り曲げて床に倒れ込んだ。
俺はしばらく、その様子を無表情で見下ろしていた。
痛みにうずくまる田中。
あれだけ傲慢だった男が、今は虫のように身を丸めて、何も言えずにいる。
田中の襟をつかんで立たせ鳩尾を全力で殴った。
「うげっ……! がっ、は……っ」
「ほら、どうしたよ“王様”……教室で俺を蹴って転がしたように、今度はてめぇが転がれよ」
田中は咳き込み、膝から崩れ落ちた。だが容赦はしない。寝転がる田中の腹を執拗に蹴った、腹以外は決して狙わず、淡々と、冷酷に繰り返した。
「ぐっ……あ、ああ……ッ!」
声にならない呻き。だが、腹以外傷一つついておらず外見は保たれている。
田中は叫ぶこともできず、ただ涙と汗を混ぜて嗚咽する。
「や、やめ……やめろよぉ……もう……っ」
その懇願すらも俺の耳には届かない。
「痛ぇよな? 苦しいよな? でも、俺はこれっぽっちも楽しくねぇんだよ。お前が笑いながら俺にやったことを、俺は“怒り”でやってんだよ」
背中を押してマットに沈める
「腹以外に攻撃しないそれがどれだけ残酷か、わかるか? 誰もお前の変化に気づかねぇんだよ。苦しんでるのに、辛いのに、見た目は“いつも通り”。 地獄だよな?」
田中は涙を流し、震え、必死に何かを呟いている。
「ごっ……ご…め…ん…な…さ…い」
俺はその言葉を待っていた、そして田中に
「謝るときはどうすれば良いか分かるよな」
田中は震える手で顔を覆いながら、崩れ落ちたまま呻いた。
「…ごめんなさい…もう、やめて……」
その言葉は、これまで一度も聞いたことのない種類の声だった。
プライドも見栄も、虚勢もすべて剥がれ落ちたただの「一人の人間の、哀願」。
俺は田中の髪を掴み、無理やり顔を上げさせる。
「本当に、悪いと思ってんのか?」
「……お、思ってる……っ……もう、許して……お願い……」
その顔には、笑顔も、怒りも、もうなかった。ただ、怯えと涙と、崩れ落ちた人格だけが残っていた。
「じゃあ……“俺が味わった絶望”、お前もちゃんと味わえよ」
俺はそう言って、かつて自分がやらされた“あの屈辱”を、静かに田中に命じた。
今度は、田中がやる番だった。俺がかつて、屈した、あの形で。
田中は、最初は首を横に振っていた。信じられない、という目で、俺を見ていた。
だが――それでも、俺の目を見て、理解したのだろう。
これはもう、「許されるか否か」ではなく、「代償を支払う番」なのだと。
恐怖と羞恥で震えながら、田中は、かつて俺がそうしたように、自らの手でその姿を晒し、跪き、床に額をつける。
そう、『全裸土下座』だ自分のスマホで動画を撮りながら田中の顔を見た。
「……ご、ごめんなさい……っ……もう、しません……俺が……全部悪かった……!」
誰も見ていない密室で、田中の嗚咽と謝罪が響いていた。
あの傲慢で、教室の“王様”だった男が、今はただの、何も守れない少年だった。
「おい、もう服着て良いぞ」
田中は震える手で服を掴み、ゆっくりと体にまとった。
その顔には、まだ深い後悔と恐怖の色が残っている。
だが、どこか安堵の表情も浮かんでいた。
「今日のことは、誰にも言うなよ」
俺の声は冷静だったが、その重みは確かに田中に伝わっている。
「……ああ、わかった」
田中はうなずき、俯いたまま返事をした。
俺は背を向け、用具室の鍵を開け扉に手をかけ帰るように見せかけ振り返り田中の腹を殴った。
殴られた田中は跳び箱にぶつかり凄い音と共に倒れた。
「おい、なんの音だ」
音を聞いた教師が扉を開けた。
「先生、田中くんが掃除中にバランスを崩して跳び箱倒した音です、驚かせてすみません。」
「そうなのか気を付けろよ」
先生が去った後、用具室の扉がゆっくりと閉まる。
田中は床に倒れたまま、震える息を整えている。
俺はゆっくり近づき、静かに言った。
「これで終わりじゃない。逃げずに明日も学校に来い、じゃないとどうなるかわかるよな」
田中は首を縦に振り、俺は用具室を出て教室に向かった。
教室に着くと田中の取り巻き達がいた
「おい、田中はどうしたんだよ。」
取り巻きの一人が聞いてきたので
「田中の伝言で先生に手伝いを頼まれたから先に帰ってくれだってさ、それと殺虫剤を撒くから用具室には近付くなってさ」
今までの事は言わずに嘘をついた。
取り巻き達はしつこく用具室での様子を聞こうとしてきたので目の前にいた奴の腕を思いっきり掴み
「早く帰れよ」
俺は掴んだ腕を振りほどいて睨んだ
空気が一気に張り詰めた。
取り巻きは一瞬ひるんだが、すぐにニヤリと笑いを浮かべた。 「おう、分かったよ。お前も大人しくしとけよな」
言葉とは裏腹に、その目は鋭く、俺の動きを警戒しているのがわかった。
俺は何も言わずにそのまま教室の自席に戻り、背筋を伸ばして座った。
頭の中では、さっきのことがぐるぐる回っている。 あの密室で見た田中の崩れた姿、そして自分の決意。
「やっぱり、こっちを選んで正解だった」
これは終わりじゃない。 むしろ、ここからが復讐の始まりだ。
俺は荷物を手に取り、家へと帰った。
帰り道の足取りはどこか軽く、気がつけばもう
家に着いていた。
玄関を開け、靴を脱ぎ、そのまま自分の部屋へ向かう。
部屋に入ると荷物を放り投げ、制服のままベッドに寝転んだ。
天井を見つめながら、俊介は無言だった。
まぶたの裏に焼き付いているのは、田中の泣き叫ぶ声。
土下座する背中。鼻水と涙と嘔吐でぐしゃぐしゃになった顔。
思い出すたび、胸の奥が少しだけ満たされた。
けれど、それはほんの一瞬のことで、すぐに消えてしまう。
「……足りねぇ」
ぽつりと漏れた声には、感情がこもっていなかった。
自分でも驚くほど冷めた、ただの“事実”を確認するような声。
あれだけのことをしても、虚しさは消えなかった。
むしろ――もっと壊したくなっていた。
あれでは、俺の“痛み”には届かない。
「……あいつだけじゃないよな」
脳裏に浮かぶのは、他の“傍観者”たちの顔。
何も言わず、見て見ぬふりをしたクラスメイト。
ときに笑い、ときに沈黙しながら、俺の苦しみを“エンタメ”として消費した連中。
田中は“主犯”だった。
だが、“共犯者”は――教室中にいた。
俺を苦しめたのは、田中ひとりじゃない。
それなのに、田中ひとりで終わらせるなんて、そんなのは都合が良すぎる。
「……全部、壊さないと……俺の中の“何か”は終わらねぇんだよ」
俺の目が、ゆっくりと鋭さを取り戻していく。
冷たい、光のない瞳。
その奥にあるのは、もはや「正義」ではなかった。
あるのはただ、喪失を埋めるための“破壊衝動”。
もう誰も、俺の苦しみに手を差し伸べることはできない。
なぜなら、俺自身がそれを望まなくなっているからだ。
優しさも、言葉も、赦しも今の俺には何の意味もなかった。
必要なのは、崩壊。連鎖する復讐。
(でも、まだ田中を壊しきれてない……)
翌朝
目が覚めると、外はすでに明るかった。
あのあとすぐに眠ってしまったらしい。
心は満たされていなかったが、なぜか気分は悪くなかった。
俺はまるでおもちゃを買ってもらった子どものような気分で、学校へ向かった。
田中は、来ていた。
教室の一番後ろ。壁に背をくっつけるようにして、うつむいている。
机に手を置いたまま、まるで石像のように動かない。
扉が開いた瞬間、肩がビクッと跳ねたのが遠くからでもわかった。
――来たんだな。
心の中で、俺は静かに呟いた。
命令に従わなければ、何をされるか分からない。
いや、もう分かっているのだ。
だからこそ、登校してきた。
教室の隅で、小さく縮こまる田中。
だが、逃げない。いや、逃げられない。
“俺に来いと言われたから”来た。ただ、それだけの存在。
誰も知らない。
あの放課後、誰もいなかった。
あの密室で、俺が田中に何をしたのか、誰も知らない。
突如、田中は壊れ始めた。
それは唐突で、静かで、不気味だった。
昨日まであれほど威張っていた田中が、
今では教室の隅で小動物のように震えている。
声も出さず、目も合わせず、息を潜めるように。
その異様な変化に、クラスメイトたちは戸惑っていた。
「……田中、なんか、やばくね?」
「体調悪いんじゃね?」
「いや……昨日、俊介と用具室にいたよな……?」
ひそひそとした声が、教室のあちこちで交差する。
だが、誰も核心に触れられない。
何が起こったのか、誰も知らないからだ。
俺はその中心で、黙って座っていた。
何も変わらない日常のように。
ただ、田中をちらりと見るだけ。
その視線ひとつで、田中は怯え、背筋を伸ばした。
机の下で手を組み、俺から目を逸らそうと必死だった。
周囲はさらに混乱していく。
なぜ俊介を恐れている?
俊介は何をしたのか?
暴力も怒声も、誰も見ていない。
なのに、田中は恐れている。
その違和感が、教室全体に静かに染みわたっていく。
疑念、不安、沈黙。
でも誰も、それを“言葉”にできない。
俺は、それが楽しかった。
“俺だけが知っている”という優越感。
“お前らが知らないうちに、主犯は壊された”という快感。
田中はすでに、俺の掌の上にいる。
だが、クラスメイトたちはまだ、その地獄に気づいていない。
この歪みが、たまらなかった。
昼休み
「……昼、田中と一緒に食っていい?」
わざと周囲に聞こえる声で言った。
田中はビクリと反応し、恐怖の眼をこちらに向けたが、何も言えない。
そしてただ、静かに頷いた。
その瞬間、教室はさらに静まり返った。
何かがおかしい。だが、誰も核心に触れられない。
教室の空気が変わった。
「些細な違和感」は、やがて「確信」に変わっていく。
俺は普段通りに弁当を開き、静かに箸を動かしていた。
向かいの席の田中は、まるで抜け殻のように座っている。
白くなった顔。焦点の合わない目。
弁当は開かれているが、手は動かない。
箸を持つことすら、もう“重すぎる作業”になっていた。
誰も、その異常に気づこうとしない。
「あれ? 田中、体調悪いんじゃね?」
「……まあでも、よくあることじゃね?」
疑念はある。だが誰も深く踏み込まない。
なぜなら昨日、俺が言った
「誰もついて来るなよ」
睨みながら放たれたその言葉の圧それを皆が、無意識に引きずっている。
田中が壊れていく理由を、知っている者は一人もいなかった。
田中は、俺に一言囁かれただけで震える。
だが俺の心には、まだ渇きが残っていた。
(これだけじゃ……足りねぇ)
田中は、完全に壊れていない。
放課後
教室の窓際。カーテンが揺れる中、俺はスマホを手に取った。
画面に映るのは、昨日撮った田中の自宅の番号。
(家庭ごと……壊す)
通話ボタンを押す。数回の呼び出し音。
そして、硬めの女性の声が応答した。
「はい、田中です」
一呼吸置いて、俺は優しい声を作った。
「あ、突然すみません……僕、田中くんと同じ学校の者なんですが……お母さま、いま少しお時間いいですか?」
「ええ……何かありました?」
「……実は、田中くんのことで……お伝えしなきゃいけないことがあって」
「え?」
「田中くん……学校で、ある生徒をひどくいじめているみたいなんです」
沈黙。
俺は続ける。
「本人は認めてませんが、教室では皆が知っていて……
暴力や暴言、私物を壊したりしていました。
その生徒、今では学校にも来れなくなってます」
「そんな……そんなこと……息子が……?」
「信じたくないですよね。
でも、その生徒、最後にこう言ってました――『田中くんだけは許さない』って。
だから僕、黙っていられなかったんです。学校に言う前に、まずご家族に伝えたくて。
証拠の動画が入ったSDカードをご自宅に送っていますので、届いたらご確認ください」
「……わかりました……お電話、ありがとうございます……」
通話は、震える声で切られた。
俊介はスマホをそっと置く。
田中の保護者は、“世間体”を何よりも気にする人間だった。
家庭内では常に“優等生”であることを求められていた田中にとって、
「いじめの加害者」というレッテルは、最大の裏切りとなる。
そして昨日送ったSDカードも、そろそろ届いている頃だ。
翌日
田中は教室に現れた。
だが、その顔には明らかな変化があった。
目の下には腫れ、唇は切れ、制服は乱れ、カバンの持ち手は破れていた。
それ以上に、“気配”が違っていた。
怯えている。俺ではなく、世界そのものに対して。
田中は席に着くなり、机に突っ伏した。
誰も話しかけない。
いや、誰も“関わりたくない”という空気さえ漂っていた。
俺は、その背中を見ながら、ゆっくりと席に座る。
(……親に殴られたな)
分かる。
あの腫れは、教師や友人ではつけられない。
“恥をかかされた”ことに激怒した親が、感情のままに手を上げたのだろう。
俺は、静かに目を閉じた。
(……家庭も壊れた。もう、戻る場所はない)
田中から、仲間も、尊厳も、そして家族も奪った。
だがそれでも、俺の胸の中の空洞は、まだ埋まっていなかった。
その日の夜
薄暗い部屋の中。
俺はベッドに座り、スマートフォンを手にしていた。
その画面には、二つの動画が並んでいる。
ひとつは田中が教室で俺を殴り、笑いながら蹴りつける動画。
もうひとつはあの用具室で、田中が全裸で土下座し、嗚咽しながら許しを乞う姿。
俺は無言で、それらを再生した。
スピーカーから響く、かつての田中の高笑い。
そして、その後に流れる、嗚咽と絶叫。
部屋の静寂を、交互に響く「支配」と「崩壊」の音が満たす。
俺の目は、まったく笑っていなかった。
ただ何かを“確かめるように”、画面を見つめていた。
そして、つぶやいた。
「……これで、終わりにしよう」
静かな決意。
いや、これは終わりではない。
これは「始まり」だった。
俺はスマホを操作し、匿名アカウントを開く。
新しく作った“告発用アカウント”。
「●●高校いじめ告発」という名のアカウントに、俺はまずいじめ動画を投稿した。
投稿文
> 【いじめ加害者の実態①】
この動画は、●●高校2年、田中○○が同級生に対して行った暴力の記録です。
拡散希望。加害者を守る学校の沈黙を許さない。
投稿ボタンを押す。
数秒後、動画がアップされた。
再生数は、すぐに三桁に達し拡散されていく
コメントが流れ始める。
> 「うわ、えぐ」
「これ犯罪じゃん……」
「まじでこんなこと? 許せない」
「こいつキモすぎるだろwww」
「犯罪者タヒね」
「田中○○の住所特定したwww」
「教師とか、他の生徒は無視かよ最低だな」
俺は、それを無感情に見つめていた。
続けて、もうひとつの動画を投稿する。
投稿文②
【加害者の末路】
教室で暴力をふるっていた田中○○くん。
これが彼の“その後”です。
罪を認め、全てを失い、土下座謝罪する様子を記録しました。
いじめは、こうして償われるべきです。
その動画もまた、瞬く間に拡散されていく。
「全裸土下座」
涙を流し震えながら謝る田中の姿。
一線を超えた内容に、驚愕と批判と好奇の声が入り混じる。
「これマジ? wやりすぎじゃない?ww」
「でもこいつがいじめしてたんでしょ?」
「かわいそう? 被害者の方がもっとかわいそうだよ」
「チ○コちっさwww」
「こいつはタヒんだ方が良い」
善悪の議論が、匿名の海で交錯する。
正義と復讐、同情と侮蔑が入り混じる。
俺は、それらのコメントをひとつひとつ目で追いながら、どこか冷めたように笑った。
「……これで、田中はもう“終わった”」
社会的死。
人格の破壊。
家庭の崩壊。
そして今――ネットという“公開処刑台”に、彼は立たされた。
もう、誰も救えない。
誰も、庇えない。
「いや…アイツらもここで全部終わらせよう」
あの日。
教室で、俺が蹴られたとき。
首を絞められ、机に叩きつけられたとき。
誰も、助けなかった。
目を逸らした。
笑っていたやつも、いた。
スマホを向けて撮っていたやつも。
「……お前ら全員。共犯者だ」
俺は静かに立ち上がる。
再びスマホを開き、フォルダの深い場所に眠る、動画群を呼び出した。
──クラスの空気を映した“沈黙の証拠”。
田中が暴力を振るうたび、見て見ぬふりをした連中の表情。
笑っていた顔。
顔を背けた瞬間。
教師の目の前で行われた暴力に、誰も何も言わなかった“現実”。
俺はそれらを繋ぎ合わせ、一本の動画に編集した。
タイトルをこう名付けた。
【いじめ教室の真実──共犯者たちの沈黙】
動画にこの文章をつけて投稿した
「これは、ただの“いじめ”動画ではない。
これは、“全員”が加担した地獄の記録である。
笑っていたお前。見て見ぬふりをしたお前。
撮影してたお前。それを止めなかった教師。
……お前ら全員許さない。」
いじめ特化の告発アカウントに、第三弾として。
投稿文③
【共犯者の顔】
この動画には、暴力を見て笑った生徒、無視した教師が映っています。
“傍観者”は“加害者”と同じ罪を背負う。
いじめを止めなかった者たちの姿をご覧ください。
拡散希望。
#いじめ撲滅 #傍観者も加害者 #●●高校の闇
──数分後。
動画は、爆発的に広まっていく。
「田中」だけではなく、**“その他全員”**が標的になる。
動画の一時停止で映った顔に、SNS民が名前をつけていく。
「この眼鏡、田中の横にいつもいたやつだよな?」
「こいつ笑ってるじゃん……最低すぎ」
「この女、スマホ構えてね?撮影してたの?」
「教師もガン無視じゃん。学校ぐるみじゃん」
怒りは、火の手のように広がった。
個人が特定され、過去のSNSが掘り起こされ、学校の名前が晒される。
“加害者たちの名簿”が勝手に作られ、拡散されていく。
俺の胸には、冷たい達成感が満ちていた。
だがそれと同時に、ほんのわずかな虚しさも、あった。
翌朝
俺は目を覚ますとスマホに大量の通知が来ていたその数は、数千件を優に超えていた。
通知欄が真っ赤に染まっている。
いいね、リポスト、コメント、メッセージ──全てが、俺の投稿に群がっていた。
その中の一つを開く。
見知らぬアカウントからのDMだった。
「ありがとう。私も同じようなことされてた。
でも、あなたみたいに“やり返す”勇気、なかった。
本当にありがとう。」
別のDMには、こう書かれていた。
「田中ってやっぱりクズだったんだな。
あいつ、昔俺にも偉そうだった。
よくやったよ、マジでスカッとした。」
──称賛と感謝。
──共感と喝采。
画面の向こうで、誰かが俺を「英雄」のように扱っている。
けれど──心は、何も動かなかった。
「……違うんだよな」
あの動画は、確かに効いた。
奴らはもう学校に来れない。
世間に顔も出せない。
無視してたクラスメイトも学校もその家族も、きっと終わるだろう。
もしかしたら何人かは自○するかもな…
でも俺が欲しかったのは、そんな拍手じゃない。
欲しかったのは─田中の“本当の崩壊”。
けどそれでも、あの“教室での地獄”の記憶は、消えない。
机に押し倒され、顔を踏みつけられ、笑われたあの瞬間。
あの視線。
あの吐き気を催す声。
ここまでしても俺の心は満たされない…
「足りない…全然足りない…どうしたらこの心が満たされる………そうか…田中がまだ生きているから……『壊れてない』から……もう我慢できない…壊そう」
そう決心して俺は部屋を出たすると母さんが
「俊介の、学校がいじめ問題でニュースになってるわよ。それでしばらくの間休校するそうよ。」
「……そう」
俺は、母の声に短く返事をしただけだった。
もう、そんなことはどうでもよかった。
ニュースになろうが、休校になろうが、あいつがまだ“生きている”ことに変わりはない。
部屋に戻り今度はクラスのグループチャットを見ていた。
グループ「2年C組」
小林
てか俺さ、あのとき教室にいなかったから関係ないし
なんかめっちゃ映ってる風に見えるけど、ただ通りかかっただけだし
ほんと誤解されるの迷惑なんだけど
中村
……私、止めればよかった
今さら遅いけど
本当にあの時、声かけてたら何か変わったのかな……
あの動画の中の自分、ほんと最低だった
斎藤(取り巻き1)
あのさ、マジでふざけんなよ
あれ切り取りだろ?印象操作じゃん
動画出したやつ名誉毀損で訴えられろって感じなんだけど
佐藤
いや、私たちより先生じゃない?
教師が止めなかったのが一番問題でしょ
生徒だけ責められるのおかしいよ、ほんとに
井上(取り巻き2)
正直さ、今さら騒いでどうすんの
もう終わったことじゃん
みんなだって面白がってただけだし、そういうノリだったろ?
山本
なんか手が震えるんだけど
これ、親とかにもバレるよね?学校から連絡くるよね?
どうしようどうしようどうしよう……
会話の流れは途切れ、文字が沈黙を包む。
誰も正義を語れず、誰も責任を取らず、
ただ、“あの時”の自分が晒された恐怖と罪悪感の中で、
それぞれが小さく震えていた。
やがて、誰かがぽつりと呟いた。
「……これって、“地獄の入り口”だよね」
誰もそれに返事をしなかった。
夜
動画を投稿してから、まだ一日も経っていない。
けれど、あいつの世界はもう崩れていた。
俺を嘲笑い、踏みにじり、黙って耐えていた心を蹂躙し続けた、田中
SNSでは炎上が広がり、報道が殺到し、学校は急遽休校。
だが、それでも──俺の中にある何かは、静かなままだった。
俺はスマホを開いた。
通知を無視し、DMも未読のまま、田中に短くメッセージを送る。
> 今日の深夜、学校の屋上に来い。
一対一で話そう。お前と俺の話だ。
そう「俺とお前の話」
もう、外野はいらない。
俺が“終わろう”としたあの日、場所はマンションの屋上だった。
寒くて、静かで、夜風が強くて、どこまでも落ちていけそうだった。
あそこが俺の終着点になるはずだった──でも、ならなかった。
だから今度は、田中をあの場所に連れていく。
……いや、厳密には違う。
あいつを連れてきたのは学校の屋上。
あの“地獄”が始まった場所の延長線上。
俺にとってはマンションの屋上が「死の舞台」だった。
なら、田中にとっては……ここがふさわしい。
深夜、学校に忍び込む。
報道の目を避け、人気の消えた裏門から侵入し、真っ暗な廊下を静かに歩いた。
屋上の扉は、昼間は閉鎖されてるが、鍵の壊れた隙間から開くことを、前から知っていた。
──風が吹く。
制服の袖が揺れる。
冷たいコンクリの床に、俺の影だけが落ちていた。
それから、時間が過ぎる。
……ギィ……
金属音が響いた。
屋上の扉が、ゆっくり開く。
田中だった。
ヨロヨロと足を引きずるようにして、影が近づいてくる。
細くなった腕。
不自然に腫れた頬。
髪はボサボサで、目の焦点は合っていない。
あいつは、俺を見て言った。
「……来たよ。お前の言う通り……来たから」
震える声。
憎しみも、威圧も、すべて削り取られたような表情。
──俺の心は、まだ冷たい。
田中は膝をついたまま、うつむいていた。
目の焦点は合っていない。
“泣く”という行為すら、もう忘れたような顔だった。
俺は静かに一歩、あいつに近づく。
「なあ田中。お前、自分のしたこと、わかってるか?」
田中はピクリと肩を震わせた。
答えない。否、答えられないのだろう。
俺は続ける。
「俺はさ、あの日の夜、屋上から飛び降りようとしたんだ。
でも死ねなかった。
怖かったからじゃない──“お前を許せなかった”からだ」
田中の呼吸が乱れる。
浅く、早く、苦しげに。
「でも今は違う。今はもう、お前が苦しむ姿を見て、少しだけ……満たされてる自分がいるんだよ。
俺、きっともう壊れてんだろうな」
それは本心だった。
けれど、ここからが本題だ。
俺はさらに一歩、田中の前に立つ。
そして、しゃがみ込み、目線を合わせた。
「なぁ田中──お前、何で生きてるの?」
「……っ」
「もう友達もいない。学校も来れない。親も、お前のこと信じられないだろう。
家の外歩けば、誰かの視線が刺さる。
バイトもできない。将来? ないよ、そんなもん」
田中の目が潤む。
震えながら首を横に振った。
「もう、終わってんだよ。
だったら──終わらせるしかないんじゃないか?それにもしお前が消えたら……父ちゃんと母ちゃん泣くかな? それともやっと“恥さらしが消えた”って笑うのかな?」
その言葉に、田中の全身が硬直した。
かつて自分が言った事が今度は言われたのだから
「楽になれるよ。
もう、誰にも責められない。誰にも見下されない。
死ねば、全部“無”になるんだ。
逃げる場所もないなら、飛べばいい」
沈黙。
長く、重い、沈黙。
屋上の風が吹いた。
冷たい空気が、田中の髪を揺らす。
遠くで車の音がするが、この屋上だけは、時間が止まったように静かだった。
田中は、俺を見た。
目に映っていたのは、“希望”ではなかった。
“決断”だった。
そして──ふらりと立ち上がる。
何も言わず、ゆっくりと、屋上の縁に向かって歩き出す。
俺は止めない。
夜風が強く吹いた。
髪が乱れ、シャツがはためく。
田中は縁に立ったまま、下を見た。
見下ろす闇の底。
街灯の明かりが点々と揺れていた。
「……なぁ、俊介」
ぽつりと呟くように、田中が言った。
「俺、ずっと、お前のこと“下”に見てた。
何をしても、何を言っても、お前は反撃してこないから。
無敵だと思ってた。……でも、違ったんだな」
静かに笑ったような声がした。
でも振り返らなかった。
「怖いよ、今。めちゃくちゃ、怖い……でも、もう終わりにしたい。
ごめん……じゃないな。ありがとう……かもしれない」
その瞬間──
一瞬、時間が止まったように感じた。
重力さえも彼を忘れたかのように、ゆっくりと──
まるで空気に溶けるみたいに。
そして、落ちた。
沈黙の中、
『ゴシャッ』という音が、夜の空気を裂いた。
乾いた音じゃなかった。
重く、鈍く、何かが壊れる確かな手応えのある音だった。
あれほど聞きたかった音。
どれだけ願っても届かなかった“終わり”の音。
あの教室で、何百回と頭の中で想像してきた音だった。
そして今──ついに、それが現実になった。
俺は、屋上の縁に立ったまま、目を閉じた。
胸の奥に、ひとつの“熱”が灯った気がした。
苦しみでもなく、怒りでもない。
ましてや悲しみでもない。
それは──静かな満足感だった。
ようやく終わった。
俺の復讐は、これで完了したんだ。
誰も助けてくれなかった。
誰も気づいてくれなかった。
地獄の中で、ただひとり黙って耐えていたあの日々。
その報いを、俺は自分の手で“与えた”。
正義ではない。
償いでもない。
裁きだ。
それを果たしたのは、俺だ。
他でもない、俊介という“道具にされた人間”が、全てを終わらせた。
その瞬間、俺の心は“満たされた”。
空っぽだった器に、ようやく何かが注がれたような感覚。
胃の奥が温かくなり、肩が自然と落ちた。
風が吹いても寒さを感じない。
なぜなら──もう、俺は“生き返った”気がしたから。
屋上のコンクリートに座り込み、空を仰いだ。
星が綺麗だった。
あの時と同じ、深夜の空。
でも──あの時とは違う。
今の俺は、ただの“犠牲者”じゃない。
俺は、俺を壊した奴を“壊した人間”だ。
「……ありがとう、田中。お前が壊れてくれて、ようやく俺は人間に戻れたよ」
空に語りかけた言葉は、風に流されていった。
田中が死んだ。
それは事実であり、結果であり、俺の“選択”だった。
あの音──「ゴシャッ」。
それは確かに俺の奥底に届いた。
満たされた感覚。
凍てついた心に、ぬるい液体が流れ込んでくるような安堵。
……でも、それは一瞬だった。
深く呼吸をする。
肺に入る空気が、なぜか重い。
手を見た。震えていない。冷たくもない。
でも、何かがおかしいと、体が告げていた。
胸の奥に空いた穴──
それは、満たされたはずなのに、なぜかまた、口を開いていた。
俺は気づいた。
田中が死んでも、消えないものがある。
──教室での視線。
──嘲笑。
──踏まれた顔。
──“助けなかった”あのクラス全体の沈黙。
──教師の無関心。
──親の無理解。
──何より、自分が黙っていた時間の“重さ”。
田中を壊したことで、俺は一時的に救われた。
けれど──それはまるで、深い傷をカッターで削り取るような行為だった。
一つの傷口に泥を塗って、見えなくしただけだ。
痛みは、そこに残っていた。
俺は……もう、壊すことでしか自分を癒せない。
そういう“人間”になってしまったんだ。
静かに立ち上がる。
田中の靴が風で倒れ、カタリと鳴った。
その音が、まるで俺に言っている気がした。
「次は、誰を壊す?」
俺は黙ったまま、屋上の扉へと歩き出す。
もう、あの日の俺には戻れない。
いじめられていた少年は、きっと、あの屋上で死んでいた。
今ここにいるのは──
痛みを壊して埋めようとする、“壊れた存在”だけだ。
その夜、月は美しく輝いていた。
まるで、何も知らないかのように。
学校の屋上からの帰り道、俊介は人気のない裏通りを使い、誰にも見つからぬよう家に戻った。
着替えもせず、靴も脱がず、ただ静かにベッドへ倒れこむ。
瞼を閉じる。何も考えない。考えたら壊れるから。
ほんの一瞬、夢も見ずに眠った。
朝。
テレビから緊迫したアナウンサーの声が流れていた。
> 「昨夜未明、○○高校の男子生徒が学校の屋上から飛び降り死亡しました──」
俺は起き上がらず、枕に顔を押しつけたまま耳だけを澄ます。
> 「亡くなったのは、3年生の田中涼介さん(18)。
SNS上でいじめ加害者として名前が広まり、動画が拡散されていました──」
映った。あの映像。
田中が俊介の顔を踏みつけ、笑い、周囲がそれを見て見ぬふりをしているあの動画。
ワイドショーは繰り返し再生し、解説者が「学校の闇」とか「教育の責任」とか、上っ面の言葉を並べていた。
「あれ、俊介じゃ……?」
母が気付く
その瞬間、リビングにいた母親の手が止まった。
画面を凝視する。
──あのうつむいた顔。
──蹴られ、押さえつけられている、制服姿の少年。
「……俊介……?」
震える声でそう呟き、立ち上がった母は俊介の部屋のドアを開け放った。
「俊介……あんた……テレビの……あの子……あれ……」
俊介は顔を上げた。
目は虚ろで、感情の残滓すら見せない。
「……お母さん、知ってた? 俺が毎日、どうやって生きてたか」
「な、何言って…知らなかったのよ……でも、なんで……!」
「知らなかった……? 気づかなかった……? あんたさぁ……知らなかった、じゃねえよ。知ろうともしなかっただけだろ。
家でも学校でも、誰も俺を見てなかった」
「違う、違うのよ俊介……!」
立ち上がり、部屋の隅に目をやる。
「煩わしいな……今さら……」
「うるせぇ……もう話しかけんな……俺の世界に……土足で入ってくんな……!!」
俺は、部屋の壁にもたれかかっていた金属バットに手を伸ばした。
母が目を見開く。
「俊介……? それ、やめて……! 何してるの……っ……」
「うるせぇよ……黙れよ……」
俊介は無言でバットを振り上げた。
一撃。重く、鈍い音。
ゴン──!
母が悲鳴を上げ、壁にもたれかかるようにして倒れた。
「ごめんなさいっ……! ごめんなさい俊介っ……!」
床に手をつき、血を流しながら、母はなおも懇願してくる。
「全部、私が悪かったの……ッ……っ、気づいてあげられなくて……!」
「ごめんね……! 本当にごめんね……!」
俺の手は止まらなかった。
怒りが、煩わしさが、冷たい憎しみが、その動きを突き動かしていた。
もう一撃。
ゴシャ──ンッ……!
鉄の音と肉がぶつかる音が混じり、血がバットに跳ねる。
それでも、母は泣きながら繰り返していた。
「辛かったよね……怖かったよね……っ……ずっと……一人で……」
「ママが……ママが……守ってあげるべきだったのに……っ……!」
「愛してるよ……! 俊介……っ……愛してる、ほんとに……!」
「あなたを、守らなきゃいけなかったのに……守れなかった……ごめん、ごめん、ごめんね……!」
その声が、俊介の耳に深く深く、染み込んでいく。
殺したあとも、血に濡れた耳の奥で、母の謝罪の声が、反響していた。
母の顔は血に濡れ、腫れ上がっていた。
それでも、その目だけは──涙で潤み、本当に後悔していることが、分かった。
「俊……介……愛してる……よ……本当は……ちゃんと見て……あげれば……」
バタリ。
手が離れ、体が崩れ落ちた。
部屋に静寂が戻る。
窓の外からは、遠くで流れる朝のワイドショーの音。
俺は、呼吸を止めたまま立ち尽くしていた。
“ママが……守ってあげるべきだったのに……”
“ごめんね……”
“愛してるよ……”
その言葉が、頭の奥に焼き付いて離れない。
さっきまで煩わしいとしか思っていなかった声が、まるで亡霊のように、心の底で何度も繰り返される。
──どうして止めなかった?
──どうして、それが聞こえていたのに……?
俺は、母の亡骸を見下ろしたまま、震える唇を噛んだ。
けれど、もう遅い。
何も戻らない。
壊したものは、元には戻せない。
壊すことでしか癒せないと思っていたはずの心が、今、「痛み」を感じていた。
でも、それはもう、ただの“毒”だった。
俺を内側から、ゆっくり蝕む毒。
──静かに、静かに、彼の精神が溶けていく音が聞こえた。
暗い部屋。
死体の傍らで膝を抱えて座り込む俊介。
床には血と髪の毛と破れた服が散らばっている。
そして、部屋の片隅に、いつの間にか立っていた“あの存在”。
──レイ。
黒く、静かで、どこかあの夜の風のような存在。
俊介が初めて屋上に立ったあの日、「力が欲しいか」と囁いてきた声。
そのレイが、今は俊介を見下ろしていた。
「やったんだね。とうとう」
俊介は目を開ける。
レイの声は、いつものように穏やかで優しい。それが、逆に怖かった。
「……終わったよ。全部、俺が壊した。もう、何も残ってねぇ」
「──そう。でもね、俊介くん」
レイの瞳が細くなる。
「“壊すことでしか癒えない心”なんて、君に本当はなかった」
「……は?」
俊介が顔を上げた。
レイは一歩、俊介に近づく。
「君にあげたのは、力。欲望を実現する力。でも、それが君を癒した? 満たした? 本当に?」
俊介は答えられなかった。
レイの目が、夜よりも暗く輝いた。
「君にはもう、力は必要ない。……いや、“持つ資格”がない」
「──待て、なに言って──」
次の瞬間。
俺の身体が、びくりと震えた。
胸の奥が急に空洞になる。胃がひっくり返るような、全身の“芯”が抜き取られるような感覚。
「ぐ、あ……ああッ……!」
力が、消えていく。
燃えるように溢れていた憎しみも、怒りも、どす黒いエネルギーも──
全部、抜け落ちていく。
代わりに残ったのは、空白だった。
レイは静かに微笑む。
「もう、君は“ただの人間”に戻ったよ。壊す力も、守る力も、何もない」
俺は声にならない悲鳴を漏らした。
崩れ落ちる身体。
冷たい床。
赤黒い染みの中で、俺の目に浮かんだのは、
──母の死に顔。
──田中の落下した瞬間の影。
「やめろ……やめてくれよ……返してくれ……!俺の……力……ッ!!」
レイは一言だけ呟いた。
「……俊介くん。君は自分が“正しい”と思ってた?」
その声は、もう優しくなかった。
深海の底から響くような、冷たく硬質な音。
俺は口を開こうとしたが、喉が乾いて声にならない。
レイはゆっくりと、俊介の目の前にしゃがみこむ。
「君は“被害者”だった。でも、今は違う。君は……“加害者”になった。」
俊介の瞳が微かに揺れる。
「母を殺した。人を死に追いやった。世界を恨み、壊した。
そのすべてを“当然の報い”と信じて、満たされた気でいた」
レイは小さく笑った。
「──でも、君が壊したものの“重さ”を、君はまだ背負っていない」
俺は頭を振った。小さく、小さく、まるで震えるように。
「やめろ……やめてくれ……」
「まだ壊れてないんだよ、俊介くん」
レイが手を差し伸べる。
指が俺の額に触れた──
次の瞬間。
頭の中に、“あの音”が響き渡った。
──バットで母を殴った音。
──田中が落下する風の音、肉が潰れる音。
──母の「ごめんね、愛してる」という声。
何度も、何度も、何度も。
「やめろッ……やめろ……ッ!!!」
俺は頭を抱えて叫ぶが、音は止まらない。
鼓膜の内側で反響し、脳を焼くように繰り返される。
レイの声が混じる。
「君が背負った罪を──心で“理解”させてあげる。
これが、君に与えられた“本当の罰”だよ、俊介くん」
記憶の中の映像が再生される。
母が泣いている。田中が地面に叩きつけられる。
笑っていたのは、俺自身だった。
俺の目が狂ったように見開かれる。
「やめろ……やめてくれぇぇぇ……!!」
視界がぐにゃりと歪む。
現実と記憶の境界が崩れ、俺は今、自分がどこにいるのかもわからなかった。
血の池の中に立ち尽くすレイだけが、静かに語る。
「壊して満たされる心なんて、幻想だよ。
君が本当に壊したのは──“自分自身”だったんだよ」
そして、レイは俺の耳元で最後に囁いた。
「──最後に、ひとつだけ教えてあげよう。
“力”には、代償がつきものなんだよ。俊介くん」
もう何も応えられなかった。
顔を伏せ、血と涙と記憶の中で、ただ呆然と揺れているだけだった。
レイの声は続く。
「君が望んだ“力”。
それは確かに、君の願いを叶えた。
だけど、その“代償”は──」
「──不死だよ、俊介くん」
俺の指先がぴくりと動いた。
しかし、反応はそれだけだった。
「君はもう、死ねない。
焼かれても、刺されても、心臓を撃たれても。
死は君を迎えに来ない。
“母の声”と“血の音”を聞きながら、ずっと、生き続ける」
レイの瞳は深い闇のように冷たく、それでいて、どこか慈悲すら宿していた。
「──力は消えた。でも、代償は残る。
それが契約だよ、俊介くん」
俊介は、声にならない呻き声を漏らした。
「やめて……やめてくれ……殺してくれ……死なせてくれよ……」
レイは優しく笑い、右手の指をパチンッと鳴らした。
その瞬間、世界が──崩れた。
床が消え、壁が消え、空も、音も、色も、すべてが無くなった。
俊介は、「何もない空間」にひとりで立たされていた。
黒い虚無。光も風も、方向もない。
ただ、自分の鼓動と、記憶だけが残っている。
田中の絶叫。
母の「ごめんね」の声。
バットの重み。
レイの笑み。
そして、自分の笑い声──
「やめろ……やめてくれ……頼むよ、もう……」
俺は耳を塞いだ。
けれど、音は頭の内側から響き続けた。
「ごめんね……俊介……ごめんね……」
母の声が止まらない。
「ありがとう……ありがとう……おかげで救われたよ……」
最初は、そうだった。
けれど、次の瞬間──見知らぬSNSの声が変わる。
「え、マジで人殺したの? ドン引きなんだけど」
「いじめられてたとか言い訳でしょ。結局、こいつも加害者じゃん」
「復讐って……ただの自己満で人殺しただけじゃね?」
「かわいそうなのは、周りの人間だよ」
「正義ヅラしてただけ。気持ち悪い」
「こういう奴がまた新しい犯罪起こすんだよ」
「あの動画、今でも笑える。マジで狂ってる」
俊介は、叫び声をあげた。
引き裂かれた声。誰にも届かない。
けれど、終わらない。
──なぜなら、彼はもう『死ねない』から。
そしてレイの声が、最後に頭の中で静かに響く。
「これは罰じゃないよ、俊介くん。
君自身が望んだ“未来”の、その果てだ」
俊介は、虚無の中に崩れ落ちた。
痛みも、後悔も、涙も、
永遠に終わることはない。
「じゃあね、俊介くん。……次は、誰が望むのかな、“力”を」
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