ゼノカリオン5
ジャックは不思議な夢を見た。
それは人体実験でオーバードーズされた薬品が見せた幻覚かもしれないし、ヒトが死に際に見るといわれている走馬灯なのかも知れなかった。
まあどちらにしても今のジャックにしてみれば大差無い事だ。
(夢……か?ここは、一体……?)
それは夢であると意識的にハッキリと認識できる、不自然な程の明晰夢だった。
現実世界とは違ってジャックの身体に欠けた部位は一つも無く、体調にも異常も感じなかった。
訳がわからないままに上半身だけを起こして周囲をぐるりと見回すと真っ黒な空が目に入る。
空は真っ暗というより『真っ黒』だった。
いくら夜といっても空が曇っているか位はなんとなく分かる筈なのに、ここの空は妙にのっぺりとしていて雲も星も全く見えない。
(……そもそもここは外なのだろうか?)
空は黒く、暗い筈なのに何故か視界は広く良好で……ジャックはあまり夜目が利く方では無いのに、何故か遠くまで見渡せてしまう。
今の状況に全く理解が追い付かなかったが、とりあえず大の字で横たわっている自分の身体を起してみる事にした。
立ち上がって体の埃を手で軽く払うと、衣服や身体からポロポロと零れ落ちるものがある。
それをなんとなく目で追うと身体から零れ落ちたのは砂であり、地面が砂で覆われているのに気付いた。
地面の砂を手で掬ってみるとそれは砂でも無く、どちらかというとサラサラになった灰に近いものだと気付いた。
周囲を見渡してみると遠くになだらかな灰の丘がいくつもあるのが見えて、それが視界の続く限り延々と続いていた。
「おーい!」
誰か居ないものかと声を張り上げてみるが、当然返事は無い。
しょうがないのでジャックは方角も碌にわからないまま、適当に進んでみる事にした。
・・・
歩き始めてからどれ位の時間が経ったのだろう?
いくら歩いても喉も渇かず腹も減らず、おまけに全然疲れない。
そのせいで時間の感覚も全く無くて、随分長い間歩き続けていたのは確かな筈だが……それがどれくらいの時間なのかはっきりしない。
しかしそれでも他にやる事が思いつかないので、ジャックは只ひたすらに灰の砂漠を歩き続ける。
いい加減に代わり映えしない砂漠の景色に嫌気が差してきた頃、遠くの方に砂では無い物が見えた。
灰の丘の上に白い何かが乗っかっているのだ。
やっとこの状況を知る手掛かりを見つけることが出来るかもしれないと感じたジャックは足早に白い物体に向かって歩いた。
徐々に白い物体に近づくにつれて、遠くにあるそれが何であるのかハッキリと見える様になってきた。
どうやら白い物体は何か巨大な生物の頭骨の様であり、馬や牛に似た草食動物系の細長い頭骨に大きな角が二本生えていた。
角の形状はジャックが知っているどの生物とも違っていて、そもそも左右が非対称であり、まるで手入れされていない木の枝の様に乱雑に枝分かれしていた。
やっとの思いで頭骨のもとへ辿り着いたジャックは、なんとなくそれに触れてみようと手を伸ばした。
その時、突然地震が起こったせいでジャックは思わず頭骨に伸ばしていた手を止めた。
初めは震度1程度の微弱な揺れだったものが、徐々に揺れが大きくなっていき、遂には立っていられない程になってしまった。
「ひぃ!?」
ジャックは堪らず地面にしがみ付くように伏せて姿勢を低くすると頭部を手で押さえてうずくまった。
頭を抱えてうずくまっているジャックは見ることが出来なかったが、彼の周りでは劇的かつ不可思議な変化が起こっていた。
空を覆っていた漆黒が蠢いたかと思えば、漆黒がまるで空から手を伸ばすように地上に垂れてきて、ジャックの目の前にある巨大な頭骨をひょいっと拾い上げたのだ。
漆黒の空は頭骨を高々と持ち上げると、その下の部分に竜の形を象った。
地上に巨大な竜が姿を現すと地震は徐々に弱まり、じきに収まった。
頭を抑えてうずくまっていたジャックが恐る恐る顔を上げると、先程まで地面にあった巨大な頭骨が宙に浮き上がり、黒い眼窩の奥に確かな意思を感じさせる青白い光でもってジャックを見つめているではないか。
ジャックは恐怖のあまり腰を抜かしてその場にへたりこみ、地震の時よりも大きくて情けない悲鳴を上げて後ずさった。
「ひ、ひいぃぃぃぃ!!」
よく見ると頭骨は浮いているのではなくて先程見た空と同じ色の黒色が、竜の身体を形作って持ち上げているのがわかる。
巨大な黒竜が頭を垂れてジャックの存在を覗き込んでいる。
怯えるジャックを意に介さずに黒い竜はジャックに語りかけた。
「我ガ領域ヘ迷イ込ンダカ、ヒトノ子ヨ……我ガ名ハ『艮領』死ヲ司ルゲヘナガ一柱デアル」
艮領のあまりの迫力にジャックは怯えて話も出来ない状態だった。
だがそれも仕方ない事だ。
艮領は死を司るゲヘナ、生物が必死に逃れようとする『死』そのものの具現と等しい。
相対して正気を保てる生物は虫けらからヒトに至るまで一切存在し得ない。
知能の高低、意識の有無に関わらず、どのような生物であっても死への畏れは等しいものなのだ。
艮領は恐怖に震えるジャックを見て、何やら考えている様子だった。
「フム……」
艮領はおもむろに前足を上げると一本だけ指をジャックに近づけた。
話が出来ない状態のジャックの脳内を調べるつもりらしい。
「…………」
しばしの沈黙の後、ジャックの脳内を調べ終えた艮領が再び口を開いた。
その言葉はジャックに向けたものというよりは独り言に近かった。
「苦痛ノ果テニ此処ヘ至ルカ……是モ何カノ縁ヤモ知レヌ、汝ヘ贈リ物ヲ送ロウ」
艮領が言い終わると二人の間に旋風の様な闇が巻き起こり、その中からまるでヒトの鮮血を凝縮した様な真紅の大鎌が現れた。
「生ヲ渇望スルノデアレバ、ソノ鎌ヲ取リ、全テノ命アル者共ヘ復讐ヲ為セ」
「死ヲ望ムノデアレバ、此処デ灰ニ埋モレテ眠ルガ良イ」
この昼も夜も不確かな灰の丘で、どれだけの時間が過ぎたのだろう?
ジャックが恐怖に震えたままの体で、ようやく動きを見せた。
(死にたく無い……!死にたく無い……!!)
ジャックを支配する死への恐怖はその他一切の思考を彼に許さず、ただただ死にたく無いの一心でなんとか鎌の所まで無様に這って辿り着き、息も絶え絶えの泣き顔のまま鎌の柄に手を掛けた。
その瞬間、艮領は大きく両の翼を広げた。
その姿のなんと雄大で不吉な事か。
「生ヲ望ムカ、ヒトノ子ヨ。ソレデハ暫シノ別レダ」
艮領は広げた翼を大きく羽ばたかせると、星の無い闇の空へ帰って行った。
一方ジャックは艮領が飛び立つ際に巻き起こした灰の嵐に巻き込まれて意識を失った。