星のクオリア33
ガレス・ギャランティスがまだ本当に子供だった頃、世界はまだ純粋な人類のものであり彼自身も当時はまだ普通の人間の子供だった。
第二次世界大戦の後から世界はおおよそ自由市場経済で回っていたが、極まった資本主義により所得の格差は取り返しの付かないレベルになってしまっていたが、それを誰も止められずにいる……そんな時代だった。
富裕層は時間の経過と共により富んで強大になり、貧困層は一生貧乏で社会の奴隷状態。
そして両者は完全に社会に分別され、交わる事がない。
キメラ医療というものがヘルメス博士とグラーフ博士の所属する中国の軍産複合体『煌鱗』から発表され世界的に注目され始めたのはそんな時代の事だった。
第三次世界大戦が勃発する直前のこの時代を指して、後のヒトビトは「人類の黄昏」と呼ぶ様になった。
・・・
ガレスの送別会を兼ねた誕生パーティーが終わり、客が皆帰った後の静かな夜更け。
明かりが消え、夜の闇に覆われたスラム街にある一軒の家の屋根の上に、空を見上げる小さな人影が一つ……その子供の名はガレス・ギャランティス。
今日10歳になったばかりのガレスは真っ暗な自宅の屋根の上で、夜風に当たってボーっとしていた。
今夜は良く晴れていて星がよく見えるが、視線を下げて地上を見ると粗末なバラック小屋が軒を連ねているのが見渡せる。
「兄ちゃん」
ガレスが振り向くとガレスよりも一回り小さい男の子がいた。
彼はロイ。ガレスの弟で大柄で力の強いガレスと比べれば線が細く少々頼りなく見えるが、ガレスよりも断然頭が良い。
「ロイか……何か用か?」
「こんな時間に何やってるの?」
「あぁ、この街とも今日でお別れだからな……忘れねぇ様に覚えておこうと思ってさ」
「兄ちゃん……オレ、やっぱりイヤだよ、ずっと貧乏でも兄ちゃんと一緒がいい」
「しっかりしろよ……いいかロイ?これからはお前が皆の面倒を見るんだ」
「でも……っ!!」
「オレが研究所に行けば、纏まった金が入る……でもそれだけじゃダメだ。ただ金をもらっただけじゃあ、俺達家族は貧乏から抜け出せない。だからお前はその金で沢山勉強して、いい大学に入って、儲かる仕事を就いて、母さんや皆を助けてやるんだ……これは頭の良いお前にしか出来ない事なんだ」
貧乏人の子供は貧乏人にしかなれないというのは、スラムで暮らしている人なら皆知っている残酷な事実だ。
この悪循環から抜け出す事が出来なければ、一生みじめな貧乏人のまま、キラキラ眩しい金持ち共を見上げて暮らすしか無い。
だけど地頭の良いロイなら、そんな呪われた運命から家族を救えるかもしれない。
そんな事実を幼いガレス達ですら重々承知していた、社会の目というものはそういった事実をただただ突き付ける、突き付け続けて来る。
「でもそれじゃあ兄ちゃんはどうなるんだよ!?よくわかんない研究所のモルモットになるなんてさ、死にに行くのと同じだよ!」
「……頭が悪いオレみたいなヤツは多分、このままここに居てもマフィアの鉄砲玉かヤクの売人になれるか位が関の山だ……そんなのはイヤなんだ」
スラムには人は溢れる程居るが仕事は無い、産業が無いので町は発展しない、住民は貧困から抜け出せない。
頭も要領も良くない自分が出来る事なんて初めからここには無いと、誰から言われなくとも幼いガレスは強く感じていた。
ここに住んでいる奴等は皆、このループから抜け出そうと必死にもがき続けている。
「そんな……」
ガレスの言葉をロイは否定出来なかった。
ロイは兄の固い決意を崩す言葉を出来が良いと褒められる頭の中で探してみたが、所詮はまだ幼い子供……残念な事にそんな都合の良い言葉は見つからなかった。
どうしようもない無力感に苛まれたロイの口から抑えきれない嗚咽が漏れてしまう。
「おい、泣くなよ!オレが死ぬと決まった訳じゃないだろ!もしかしたらテレビでやってるみたいなスーパーヒーローになって帰って来るかもしれないぞ?」
ここ最近テレビや新聞では、キメラ医療の有用性をやりすぎな程、喧伝していた。
やれ病気を根絶だの、寿命が延びるだの、美容にいいだの、しまいには有名人がキメラ医療を受けたとか、そんなニュースばかりが最新を埋め続けている。
この時代を最後にマスメディアというものは世論や国への影響力を失っていく事になる。
自分達の黄昏を悟りつつ、それでも必死になってキメラ化への煩い宣伝を繰り返すこの頃のマスメディアを指して、後のヒトビトは『マスコミの断末魔』と呼ぶ。
(あんなの嘘っぱちじゃないか!)
と叫びそうになるのをロイは必死に踏みとどまった。
言葉にしてしまったら大好きな兄が本当に死んでしまう気がしたから。
「それよりもさ……」
湿っぽくなった雰囲気を変えようと、ガレスはイタズラっぽく声を潜めて自分のポケットから煙草を取り出した。
「これをみろよ」
「これ……ママの煙草?」
「ロイ、お前吸った事あるか?」
「無いよ、ママに怒られちゃうもん!」
「……じゃあママに内緒でちょっと吸ってみようぜ?」
「大丈夫かな……?」
「バレないって、大丈夫大丈夫!」
二人は慣れない手つきでそれぞれ煙草を咥えて、マッチで火をつけた。
煙を吸おうと試みた兄弟は、当然ながら仲良くむせる事になった。
「……ゲホッ!なんだこれ!」
「ママっていつもこんなのおいしそうに吸ってるの!?」
あまりの不味さに二人は早々に火を消して煙草を捨てた。
ガレスは煙草に付いた火を踏んで消した後、静かな声で言った。
「なあロイ、約束するよ。俺は必ずここに帰って来る……だからさ、俺が帰って来る場所、お前が護っててくれよ」
「……約束だよ兄ちゃん、そしたらまた皆で暮らそうよ」
「ああ……そうだな」
それは静かな夜の思い出だった。