第115話 岸深央
「先生、お久しぶりです」
先生に再び出会ったら必ず最初に掛けようと思った言葉だ。
特に練習したわけでもないが、不思議なぐらいスラスラと出てくれた。
「……久しぶりだな。深央」
「あら、ウチのことを覚えていてくれてたんですね」
普段は「私」だが、先生の前では使おうと決めていた一人称も淀みなく口にできた。
2年ほど経っても制服以外当時と同じような先生の様子を見て、何だか安心した。
先生との出会いは中学からだった。
当時の奈央と私はどうせすぐ転校するからと友達を作るのも面倒になって、いつも適当に二人で学校生活をのんべんだらりと過ごしていた。
そんな私達に先生の方から話し掛け、一つの提案をしたのだ。
「物語の主人公みたいな存在になることに、興味はないか?」
初対面の相手にするには非常識に過ぎる提案を。
先生は戸惑う私達にも構わず理由を一から説明した。
普通であればこんな与太話に乗っかる人はいないだろう。
事実奈央も最初は先生の案を一蹴していた。
しかし私は、ずっと暇していた。
こんな風変わりな提案を今断れば次同じ機会はまず来るまい。
どうせ目の前のこの男ともすぐお別れになるだろう。
そのときまではこの男がどう動くのか見てみたくなった。
そんな怖いもの見たさの気分が勝った私は、
「ちょっとだけなら付き合ってもいいかも」
と引き受けることにしたのだ。
先生から主人公になるための演技指導を受ける日々は、存外楽しかった。
演技などしたこともなかった私と奈央が、先生の言われるがままに先生の求めるキャラを演じてみると、自分でも驚くぐらい上達していくのを実感した。
転校後は演劇部に入るのも悪くないかもな。当時の私はそうも考えたっけ。
それと先生の家に来ることになったときはひたすらに緊張した。
本格的に交流を持った男子など先生が初めてで距離とかいろいろ模索していたのに、男子の家へお邪魔するなど全く未知の体験だった。
どうしていいのか全く見当も付かなかったが、しかし先生なら多少雑に扱っても特に問題あるまいという開き直りも出てきて、奈央とともに訪ねた記憶がある。
私達を玄関で出迎えてくれた先生のお母様は柔和な雰囲気の優しそうな人だったのがなぜか印象に残っている。今でもお変わりなく過ごされているのだろうか。先生は大して変わってなかったけど。
先生としばらく過ごした学校を離れて転校した私達は、その後可もなく不可もない生活を送っていた。
同級生とも当たり障りのない接し方で日々を過ごし、トラブルこそ起きなかったもののそれだけだ。
先生のような特異な人物と再び交流を持つこともなかった。
奈央にも私にも男子から声を掛けられたことはあった。
時には告白されたこともあった。
見た目や雰囲気は悪くない人も含まれていた。
ただ、先生より面白い人はいなかった。
だから、告白はすべて丁重にお断りした。
演劇部にも、結局は入らなかった。
それにしても、中学のときに先生の連絡先を聞いておかなかったのは後悔した。
初対面のときはさすがに先生の人となりを知らないので連絡先などむしろ教えないようにしていた。
でも慣れてくれば、休日の際の待ち合わせなり、別れ際のときなり聞き出すチャンスは何度もあった。
しかし当時の自分は男の人へ連絡先をみずから尋ねることを気恥ずかしく思い、先生の方から聞けば教えるというスタンスを固持してしまったのだ。
せめて奈央が聞いてくれればよかったのに、奈央も同じことを思っていたのか先生との連絡先交換はしなかった。こんなところまで似なくていいのに。
中学時代の思い出に浸りつつ、奈央との下校で先生について話していると
「で、今後の予定だけどさ」
奈央が相談を持ち掛けてきた。
「胡星さんといつ遊びに行こっか?」
奈央と私のなかでは何とかして先生と交流する機会を設けるのは決定事項になっていた。
私達にすれば先生に対し積もる話はいくらでもあるのだ。
「そうだね……」
私は奈央と先生の件に関して打ち合わせた。
打合せの後、
「それにしてもアンタも役に徹しきれてないよねー」
「どういうこと?」
「さっき胡星さんの前で『私達』とか言ってたじゃん」
「あ……」
何てこと。
奈央に言われるまで気付かなかったけど、私が演じるキャラの一人称は「ウチ」だ。
奈央も合わせて呼ぶなら「ウチら」辺りが妥当だろう。少なくとも「私達」はそぐわない。
「そんなこと言って奈央も『私』とか使っちゃったりして」
「え? 『僕』がそんなしょうもないミスするわけないじゃーん」
隙あらば挑発してくる我が姉こと奈央。
でも、そんな奈央を昔から知っている私だからこそ言えることがある。
私がやった間違いは奈央もなぞるように犯すことが多いと。
……まあ、逆もまた然りなんだけど。
というわけで岸姉妹は時折うっかり「私」や「私達」を使ってしまうことがあります。
決して筆者のミスではございません。
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