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君を愛することはないと言った公爵様が、鈍器みたいな契約書を渡してくる

作者: 鬱沢色素

「君を愛することはない」


 執務室に入って開口一番、ハロルド様は私──ルシールにそう言った。


 ハロルド様は私の夫となる男性だ。


 それなのにいきなり「愛することはない」と言われたわけだが、私は驚かない。

 こう言われることも織り込み済みだったからだ。



 そのことを説明するためには、まず私たちが結婚することになった経緯について言う必要がある。



 ハロルド様は公爵家。一方の私は伯爵家の令嬢。

 爵位的には彼の方が上だ。

 私の家は不景気の煽りもあって、慢性的に財政難だった。借金の額も少なくない。

 そこで公爵のハロルド様と私を結婚させることにより、伯爵家は公爵家の支援を受けることを考えた。


 そのこと自体に不満はない。

 だって、こういう政略結婚の可能性があるからこそ、私は小さい頃から贅沢な暮らしをさせてもらっているんだもん。

 それなのに「恋愛結婚じゃないと嫌ですー」と言っても筋が通らないだろう。


 だが、問題がないわけではない。


 ハロルド様とは王都のパーティーで、一度お会いしただけ。

 だから最初は結婚を打診しても断られると思ったけど……何故か、ハロルド様は私たちの要求を受け入れてくれた。


 それにこの国では独身の貴族男性に対する視線は厳しいからね。

 独身のハロルド様としては、早いところ嫁を見つけたかったのだろう。


 双方のメリットがあった上での結婚だったわけで、そこに必ずしも愛は必要でない。


 ……っていうのは分かっているけど、ちょっと寂しいな。

 私も仲睦まじい夫婦に憧れないわけじゃなかったのに。


 しかしそれを表情に出すわけにはいかない。


 ハロルド様の言葉に頷くと、次に彼はこう口を動かした。


「だから契約書を作らせてもらった」


 契約書?


 ああ、結婚契約書のことか。


 そういうのって、もうとっくに家同士で締結されていると思っていたけど……どうして急に彼はそんなことを言い出したのか。


 不思議に思っていると、ハロルド様は机の下からとんでもないものを取り出した。


「これだ。読んでほしい」

「……はい?」


 思わず間抜けな声が出てしまう。


「あのー、契約書はどこに?」

「これと言っているだろうに」

「鈍器じゃなくて?」

「契約書だ」


 ちょ、ちょ。


 ちょっと待って!


 ハロルド様の取り出した契約書、すっごく分厚いんだけど!?


 普通契約書って、どれだけ分厚くても十ページ程度なんじゃ?

 それなのにハロルド様の取り出した契約書は、最早本の形をしている。


 というか本どころか正方形だ。

 サイコロ?

 契約書って言われるより、人殺しの道具だと言われた方がまだ納得出来る。


「まあ、()()分厚くなってしまったのは反省している」

「少々どころじゃないと思うんですけど……」

「なにを言う。この国は法治国家。法がなによりも重要視される。結婚は一年、二年どころの話じゃないからな。今後、君とは長い付き合いになるんだ。だから契約書がこれだけ分厚くなっても、仕方ないだろ?」


 私が戸惑っている理由を本気で分かっていないのか。

 ハロルド様はきょとんとした顔をする。


 そうだ……彼のことを忘れてた。


 ハロルド公爵様は普段、司法長官のお仕事をされている。

 法律のお仕事をする人たちのトップだ。弁護士や裁判官なんかよりも、ずっと上。


 ハロルド様は誰よりも法律を遵守し、仕事を執行する姿から『法の番犬』と呼ばれることも多い。

 彼は仕事となると同僚にも厳しく、その仕事ぶりからちょっと疎まれているとも聞いたことがある。


 なるほど……。

 鈍器みたいな結婚契約書を渡してくるわけだよ。

 変人扱いされても仕方がない。


「読んでみても?」

「もちろんだ」


 私は鈍器──じゃなかった。結婚契約書を捲る。


『第一条の第一節:今回の結婚について

 ハロルドルシールは、本契約の締結日から正式に結婚関係を結ぶものとする。これは、法的に認められた結婚の形式に基づき、互いの権利と義務を明確にする』


 ……ダメだ。

 一ページ目から眠たくなってきた。

 契約書だから『甲乙』で私たちを示すのは分かるけど……そのせいですんなりと文章が頭に入ってこない。


 私はペラペラと結婚契約書をめくっていく。

 ちなみに──というか当然だが、ほとんど流し読みだ。


『第七条の第一節:外出に関する規定

 ルシールが公爵邸を離れる際は、ハロルドの明示的な許可を得るものとする。甲は、乙がその許可を得るために適切な手段と時間を提供する義務を負う』


 いやいやいや!

 これって要は『私が外出する時はハロルド様の許可が必要』ってことよね!?

 ただこれだけ説明するだけなのに、どうして回りくどい言い方をするの!?

 読む気をなくすわ!

 もしかして、こういうのがずっと続くのかしら?


 戦々恐々としていたが、私の予想は当たった。

 契約書にも他にも『朝ごはんは日替わりでパンと米が出される』とか『天気が曇りのち雨だった時の過ごし方』とか、どうでもいいことがこと細やかに書かれている。

 ちなみにこれでも要約した方だ。実際はもっと長い。


「まあ……色々書いてあるが、俺はお互いの自由を尊重しておこうと思っている。あくまでこれは不測の事態が起こった時の場合用だ」

「不測の事態? 具体的には?」

「それは1262ページに詳しく……」


 あっ、これ話が長くなるパターンだ。

 ハロルド様は淡々と説明していたが、私はそれを聞き流し、さらに契約書のページをめくっていった。


『第十八条:契約違反に関する規定

 ルシールが本契約の条項を違反した場合、それは契約違反とされ、裁判所による審理の対象となる。この規定は乙が公平な審理を受ける権利を保証するために設けられている』


 え、怖っ。


 契約違反したら、裁判で決着をつけましょうだって。


 当たり前のことを書いているだけかもしれないが、こうやって書かれると……圧を感じてしまう。


『第十九条:甲の契約違反に関する規定

 第十九条の第一節: ハロルドが本契約の条項を違反した場合、それは契約違反とされ、ルシールの要求を全面的に受け入れる義務がある』


 あら?


「契約違反の場合、私とハロルド様で違っているんですね。私の場合は裁判所。ハロルド様の場合は、私のお願いを全て受け入れるって書いてますけど?」

「ああ。これは司法長官としての覚悟だ。俺は絶対に契約違反など愚かなことはしない。もし! 万が一! 仮に! 違反をした場合、なんでも君の願いを叶えよう! 死ねと言われれば死ぬし、たとえ世界の覇者となれと言われても、それを叶えてみせる! まあそんなことは絶対に有り得ないがな」


 胸を張ってハロルド様が言う。

 相当自信があるらしい。


 頭が痛くなってきた……そっと結婚契約書を閉じた。


「あ、あとで部屋に帰ってゆっくり読ませていただきますね」

「そうするといい。なにせ、これから時間はたっぷりあるんだ。慌てて読む必要はない」


 そうハロルド様は言い放つ。


 本当は読みたくないけど……相手は司法長官だ。

 少しでも契約違反をしたら、私は本当に裁判にかけられてしまうだろう。

 そこに嘘偽りはないはず。


 それに……この契約書を作るのも苦労しただろうしね。

 なのに「読みたくない」という理由だけで目を通さないのは、彼に対して不義理な気がした。


 これはハロルド様による、私への挑戦だ。

 この契約書、必ず読破してみせるっ!

 だけど……何年──いや、何十年かかるかしら?


 自信満々な顔をしているハロルド様の一方、私は早くも疲れ切っていたのだった。


 ◆


 それから私は人生を通して、ハロルド様が作ってくれた結婚契約書を読んでいくこととなった。

 貴族として最低限の教養はあるものの、頭の良さはそこまで自信があるわけではない。

 だから辞書を引きながら、時にはハロルド様の同僚の力も借りながら、私は契約書を読んでいった。



 愛はない結婚だったとはいえ、不思議なことにハロルド様は私に優しかった。

 少しでも体調が悪ければ、私がそれを訴えなくても、ハロルド様は察して休みをくれた。

 仕事が忙しいはずなのに、ハロルド様は私の誕生日や記念日はお祝い事を欠かさなかった。

 不器用だけど優しいハロルド様に私は徐々に好意を覚えていき、いつしか彼のことを本気で好きになっていた。



 しかしハロルド様は決して私に「愛している」とは言ってくれなかった。

 普段のハロルド様はそっけないものだった。

 そんな私たちだったけど、子宝にも恵まれ幸せな人生を送った。

 


 とはいえ、問題がないわけではない。

 問題は鈍器みたいな契約書だ。

 十年かかっても、まだまだ契約書を読破出来る気がしなかった。


 だけど私はそれでもよかった。

 ハロルド様が作ってくれた契約書だもの。

 途中で諦めるわけにはいかないわ。



 そして私は契約書に込められていた、()()()()を知ってしまった。


 ◆


 何十年が経過しただろう。

 私とハロルド様も、すっかり『お爺ちゃん』『お婆ちゃん』と呼べる歳になっていた。


 子どもたちは成長し、今や立派に成人して家を出た。

 最近では生まれた孫を連れてきてくれて、私の生活に彩りを与えてくれる。


 しかしこの歳になると、さすがに体のあちらこちらから不調が出てくる。


 ハロルド様も病気がちになった。彼がベッドで横になっている時間も多い。毎日医者が家に来てくれるけど、どうも体調が芳しくないらしい。

 司法長官もだいぶ前に退き、今では屋敷で私と一緒に老後を過ごしていた。


 そして現在。


 ハロルド様はベッドで横になり、窓の外を眺めていた。



「思えば、幸せな人生だった」



 そう語るハロルド様の声は元気がない。

 今にも消えそうな灯火のようであった。


「そうですね」

「愛がない結婚とはいえ、これはこれで悪くないものだ。君が俺の妻でよかったよ」

「愛がない?」


 私は首を傾げる。


「最初からずっとそう言ってただろ?」


 ハロルド様が問い返す。


 実際、幸せな人生だったけど、彼が私に「愛してる」と言ったことは一度たりともなかった。


 しかし私の彼の真意に気付いていた。


「これ、覚えていますか?」


 私はそう言って、鈍器のようなものを取り出す。

 鈍器みたいな結婚契約書だ。


「もちろんだ。若い頃に比べ記憶力も低下したが……その契約書のことを忘れたことはないよ」

「だったら、あなたがどうしてこの契約書を作ったのか──についても覚えていますよね」


 ペラペラと私は結婚契約書をめくる。


「最初は面食らいました。こんなに分厚い結婚契約書を作るくらい、私のことを信じていないのかと。しかし長い年月をかけて読んでいくと、この契約書が私のことをよく考えて作られたものだと分かります」


 ちゃんと読んでいくと、契約書に書かれている内容が全て私のためになることが分かる。


 外出する時に許可が必要なのも、私が外で危険なことに遭わないようにするため。

 仮に危ないことに遭ってしまったとしても、すぐにカバー出来るような仕組みになっている。

 どんなに些細なこともでも目を配っているため、こんなに契約書が長くなってしまったのだ。


 他にも他にも。


 私がこの屋敷で楽しく暮らせるような多数なされていた。


 貴族同士の結婚とはいえ、私の方が爵位が下。

 公爵家に支援をしてもらうという負い目もある。


 本来なら私は公爵夫人とはいえ、屋敷の中でも体を小さくして歩かなければならない立場だっただろう。

 しかし私がそうならないように、この結婚契約書では意地悪な使用人の行動も縛っていた。

 そのおかげで、私はこの屋敷の人間に受け入れられた。


「この契約書には私への()を感じます」


 それはきっと、この鈍器みたいな契約書を熟読しないと分からないこと。


「だから私は思いました。この結婚契約書は私に対する()()だったのでは……と。契約書を読んでいけば、自然とそんな気がしてくるんですよ」

「……ふっ」


 ハロルド様は笑う。

 きっと笑うだけでも、体に激痛が走るだろう。


 だけど彼は、私の大好きな笑顔を浮かべてくれた。


「パーティーで一目した時から、君のことが好きになった。そう……この結婚は俺の()()()()から始まった」

「合点しました。だけど最初にそう言ってくださればよかったのに。そうすれば、契約書を読む必要もなかったんです」

「俺は不器用だからな。そういう方法でしか、君に愛を伝える方法がないと思ったんだ」


 とハロルド様は申し訳なさそうに言う。


「それはつまり?」

「ああ──俺は君を愛している。愛することはないと言ったのは、俺の嘘だ」


 なんて照れ屋な男なんだろう。

 だけど私はそんな彼のことが好きだった。


 確かに彼は仕事に実直すぎるところがある。


 しかしハロルド様の司法長官という仕事は、指先一つで人の人生を終わらせてしまう可能性があるものだ。

 だからハロルド様は他人の人生を背負った。どんなに細かいことでも見逃さなくなった。


 これほど自分の仕事に真正面から向き合う人間は、彼以外に見たことがない。

 結婚契約書は、そんな彼なりの恋文だったのだ。


「愛している……ですか。とうとう言ってしまいましたね」

「ん?」


 私は契約書のとあるページを捲る。


 何度も何度も読んだせいで、もうどこになにが書いてあるのか全て覚えてしまっていた。


『第十三条:甲(公爵)の感情表現に関する規定

 第十三条の第一節: 乙の同意がない状況下で甲が「乙への愛」を明示的に伝えた場合、それは契約違反となる。この場合、乙はこの契約に記載されている権利を全て行使することができ、更なる措置を講じることができる』


「ここに書かれている内容では、あなたが私に『愛』を伝えた場合、契約に違反したことになります」


 どうしてこんな条項を記載したのか分からない。

 だけどこれも彼なりの挑戦な気がした。


 結婚契約書を読まなかった場合、私はこんな条項があることにすら気が付かなかっただろう。

 実際、これは本の真ん中の方、突拍子もない場所に記載されていた。


 しかし私は見つけ出した。

 私の勝ちね。


「……ふっ。とうとうやってしまったか。人生で最初で最後の契約違反になるだろう」


 そう言うハロルド様の表情は柔らかかった。


「俺が契約違反をした場合、君のお願いを全て受け入れることになっている。言ってくれ。もっとも、今の俺でどれだけ君の願いを叶えらえるかは分からないが」

「では、言います」


 私はハロルド様の両手を包み込むように握り、こう続ける。


「私より早く死なないでください。死ぬ時は一緒ですよ」

「……分かった。君らしい願いだな。だが、その願いを叶えることは──」


 とハロルド様は目を瞑り、脱力する。


「ハロルド様?」


 私の彼の肩を揺さぶる。


 しかし返事はなかった。


「ハロルド様! ハロルド様! 目を覚ましてください! 誰か医者を──」


 立ち上がり、医者を呼びに行くべく私は部屋を出た。






 ◆


「……なんてこともあったな」


 数ヶ月後。

 邸宅の庭で私はハロルド様と散歩をしながら、語り合っていた。


 最近は私もハロルド様も体調がすこぶる良い。

 こうして軽い散歩くらいならすることが出来る。


「あの時はビックリしましたよ。ハロルド様、もう目を開けないかと思って……」


 小説なら、完全にあのまま死ぬ流れだったわね。


「一緒に死のうというのは君の願いなんだ。元司法長官の誇りとして、契約は遵守しなければならない」

「ふふっ、こんな時にも契約ですか」


 彼らしい言葉だと思った。


「愛している」


 そう言って、ハロルド様は私の頭を撫でてくれる。


「もうっ。一度ならず二度までも契約違反ですか?」

「別にいいだろう? この勝負は俺の負けだ。今まで何十年も我慢してきたんだ。これから何度でも『愛してる』と言うから、覚悟しておけよ」


 そんなハロルド様に私は身を寄せる。

 数十年越しに実った恋は、甘酸っぱい味がした。

お読みいただき、ありがとうございました。

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[一言] ハロルド氏にその鈍器の製作期間を伺いたいのですが(白目
[一言] 大正時代の堅物な男性のイメージです(笑) 愛の形はいろいろですね。
[良い点] あー……つまり……愛を語りたい時には給料3ヶ月分の指輪じゃなくて鈍器を渡せばいいってことだな? [一言] そしてそれを理解してくれる人を選べと
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