追憶(2):見え過ぎるのは不幸せ
「―――うーーん、落ちないわねぇ……」
「……………」
「恵那ーー?」
「サボってない」
「一か所ばっかり掃除してるなら同じよ。そういうの、ポーズって言うの。それより、倉から魔法の粉取って来てくれるかしら」
「……はーい」
私の生まれは、神社。
その中でも特にしきたりや風習を重んじていて、新しい事をなるべく取り入れないのが方針だという古い考え方の保守派だ。
例えば、お七夜に始まる今では廃れてしまっているような風習。
例えば、四方拝や祈年祭、大祓いなどの年中行事。
昔からのしきたりや風習は絶対に途絶えさせないけど、新しい事は取り入れたくない。
そういう考えが、私の家には今もあって。
もしかしたら、私のコレもそういった考えの結果の……呪いみたいなものなのかもしれない。
………。
……………。
お七夜。
生まれて七日は人ではなく神の子。
七日過ぎればようやく人の子。
お母さんが言うには、私は生まれて間もない頃に、突然呼吸が止まったことがあるという。
一度は、もうダメかと思ったって。
自分の子の可愛さのあまり、神様が私を手放すのを惜しんだのかもしれない……って。
連れていかれなくて本当に良かったって。
読み聞かせみたいに、何度も言い聞かせられてきた。
私は神様が嫌いだ。
だって、お母さんやお父さんの言葉を信じるなら、こんなものが見えてしまうのは神様の所為なんだから。
地域だけではなく、神社同士といえば大きなネットワークでつながっているけど。
絵馬に合格祈願とかの意味合いを乗せるようになったりとか。
鳥居を光るように細工したり。
お賽銭を電子端末による決済可能に、とか。
最近のものから、かなり昔のものまで……例えを挙げれば多くて。
多くの地域で、各々が現代に適応しようと、様々な方法を模索しているのに。
そういったものを切り落とし、削ぎ落とした絶滅しかけの神社。
それが、私の家。
「―――えーなぁ? 魔法の粉、取りに行ってくれたの?」
「……今、行く」
今だって。
母親に言われて、しつこい汚れを落とすための「魔法の粉」を取りに行くところだ。
「―――……けほっ」
辿り着いたのは、神社の裏手にある木製の倉。
二階建てに天井裏まであって、かなり広いけど……ずっと昔からあるみたいで、色も凄い事になってる。
多分、所々木が腐ってる。
倉の中も、掃除してもすぐに埃っぽくなる。
「……………」
倉といっても、クラスの皆が羨ましがるような刀とか、装飾品みたいな宝物が沢山ある場所じゃない。
お米の俵みたいな袋、麻で編まれた袋。
沢山の袋。
ここは、そのままの意味で物置。
で、この奥の棚の下に―――あった。
前に腐らないの? って聞いたけど、お塩とかこういうのって腐らないんだって。
不思議だ。
けど、神社の人が魔法なんて言葉を使うのはおかしいと思う。
あと、汚れが取れないって言ってた先生にコレの事教えてあげたら、お婆さんみたいって言われた。
……多分。
こんなものを使って大掃除している家は、この町でも私の家くらいなんだろう。
他の家は、普通に洗剤とか、スゴイ薬品とか使ってるに違いない。
程々にゆっくりしつつ、半分以上がなくなっているプラスチックの容器へ、お米と同じはかりで魔法の粉を入れて……。
「―――っと」
ちょっと零れた。
けど、床を見れば、同じように零した跡が沢山ある。
……つまり、いつもの事。
無視、無視。
この世の全てのものには神様が宿っているという考えが、古くから世界中にはあるらしいけど。
例えば、倉の神様とか。
本当に神様が見ているっていうのなら、罰の一つも落とせば良いと。
そそくさと倉庫を出て、裏口から靴を脱いで母屋へ……―――?
縁側の方から誰かが歩いてくる音がする。
お母さんかな。
もしかしたら、私が戻るのが遅いからサボっていると思って見に来たのかも。
これは良くない。
ちゃんとやっているという事を見せないと……。
「お母さ―――」
「んむ?」
―――え?
………。
……………。
「―――ひっ……ぃ……!!」
妖怪!?
そこに居たのは、身体も、その周りも黒い影。
影というより、黒の球体みたいななにか。
多分、人なんだろうけど、何も見えない。
そんなに何も見えなくくらい……今までに会った人たちとは比較にならないくらい、悪意に満ちている真っ黒の大きな球体だ。
「―――ふむ」
声は……お爺さん。
凄く重厚で……何処か、安心できるような優しい声……でも、真っ黒だ。
つまり、今まで見た事もないような悪い人だ。
「お嬢ちゃん」
多分、私に話しかけているんだろう。
けど、目線が分からない。
だから、良ーく目を凝らして……浮かび上がる、灰色の口髭と皺の多い顔。
……多分、私のお爺様より年上?
今時、家を訪ねてくるお仕事関係の人でも珍しい和装のお爺さんで―――あ、話しかけられたんだった。
「……は、はい」
「―――何が、見えたのかな?」
「……!」
この人。
「それとも、見えないのかな?」
「……ぁ、ぅ」
分からない。
このお爺さんと二人で話しちゃ、いけない気がする。
………。
……………。
「お待たせ致しました、ミツヨシさま。―――おや、恵那。そこに居たのか」
「む。ノボルくん。やはり、この子は娘さんだったか」
「はい。お会いするのは初めてでしたね。一人娘です。エナ? ご挨拶しなさい」
「…………」
「―――ククッ、それも良い。防犯意識がしっかりしているじゃないか。それとも、私の悪人顔が効いたか」
「……はは、申し訳ありません。恵那? もう良いから行きなさい。お母さんが探していたよ」
あちらがその気だったのかは分からない。
けど、思いがけない助け。
挨拶できなかった代わりに、一礼してその場を離れた私―――振り向けば、お父さんに促されるままに廊下を歩いていく真っ黒の球体。
何故か、ホッとする。
本当に、こうして離れた今も身体が見えない程の黒。
今まで見た事もないような真っ黒。
こんな衝撃を受けたのなんて、それこそ……―――数か月ぶり、くらい?
考えて、気付く。
思ったほど前じゃない。
けど、思い出しただけで身震いがするのは確かで……。
「エナちゃーん、私が遊びに来たよーー」
「……………」
「あーそーぼーー」
……また、来たんだ。
声の方へ向くと、私のいる縁側へ向かって靴を鳴らしながら走ってくる影。
先程の真っ黒とは打って変わって、何処を見ても、欠片の黒もない女の人が姿を現す。
今日は何も連れていないみたいで。
服装はセーラー服……縁側と庭という高低差があるのに、背丈が大差ない。
………。
どんな人にも、どんな子にも、本当に小さな黒は必ず浮かんでいたりするものなのに。
この人は、ハエほどの大きさの黒も浮かんでいないし、欠片の悪意も存在しない。
それが、かえって気持ち悪い。
「また、来たんですか」
「大晦日も近い冬休みだしね。遊び収めって事で、お友達と遊びたいじゃないか」
「友達じゃない。それに、私忙しい」
「そうとも。忙しくなるよ? 一緒に焼き芋とかどうかな―――……んう? ナニソレ」
こちらの言葉を聞いているのかいないのか、興味深げに私の手元をのぞき込む女性。
ふと、思いつく。
悪戯心に火が付く。
私は、手に持ったプラスチックの容器を差し出して。
「……お砂糖」
「―――ほう? お菓子作るの? 甘酒とか? あずきゆでるとか。きなこ餅とかが良いな、私」
「舐め、る?」
「うん? ……うーーむ。私、苦いお砂糖はダメなんだ」
バレてる。
色もほとんど変わらないのに。
「で、それは?」
「重曹」
「おぉ、そんなに……お掃除用なのかな? 今日日珍しいね、それ使ってるの。もしかして、専用の倉とか持ってたり? お宝とか無いかな。あ、うちにもあるんだよ? 倉。でも暫くお掃除はしてなくて―――」
「……………」
本当に、ペラペラペラペラ。
口だけよく回る人―――……ッ!
「……ぅ」
何か悪い事をしたわけでもないのに、思わず身体を小さくして息を潜めてしまう。
視界の端に、ちらと映る黒のお爺さん。
お父さんと一緒に、庭先の大きな御神木を見ているらしい。
「―――どうしたの? 悪そうな人でも居た?」
「……………」
「あ。あの人? 私のお爺様。一緒に来たんだ、今日は」
え。
「―――全然、似てない」
「そう?」
何もかも、似てない。
いや、もしかしたら似てる場所があるのかもしれないけど、見えないのだから仕方がない。
「まあ、外見はね。私はね? 恵那ちゃん。何を隠そう、祖母―――四分の一が西洋人で、更に二分の一が宇宙人なんだ」
「……………」
「三か国語も話せるんだよ? 日本語でしょ? 英語でしょ? 落語―――」
「帰って」
今日は大掃除の日の二日目。
私は忙しいんだ。
こんなよく分からない人の、意味の分からないおバカな話になんて付き合ってられない。
頭がおかしくなる。
「待って、待ってよ。少しくらい良いだろう?」
「忙しい」
「ほら、君のお父さんもお爺様とお話ししてるしさ? だから、恵那ちゃんも―――」
「嘘つきさんとか、悪い人とはお話したくない」
「お爺様とは話したのに?」
見られてたんだ。
「ほら、また目が泳いだ」
「……!」
「やっぱり―――恵那ちゃん、凄いよね。君、分かるんだ。相手が悪い人かどうかって」
「それは……」
「私、お爺さまが悪人なんて一言も言ってないのに。それに、さっき出会い頭で凄く怖がってて、今も悲鳴かみ殺したでしょ? 何だろう。子供ゆえの直感? それとも―――何か、見えてる?」
やっぱり、ダメだ。
この人と長く話していたくない。
そもそもだ。
こんな話を続ける理由も私にはないし、そんな質問、私には関係ない。
「……嘘つきは、悪い事。嘘つくのは、悪い人」
「良いね。君はちゃんと分別があって。ところでさ? 恵那ちゃん」
ころりと話を変えられる。
逃げる隙を与えられない。
「本人が嘘を嘘じゃないと思い込めば、それは悪じゃないって言えるのかな? 昔、ローマの偉い人が言ったらしいよ。巨大な悪っていうのも、最初は必ず善意から生まれるんだって。良かれと思ってやったことも、その他大多数の人から見ればとてつもなく残酷な事かもしれないし」
「ねぇ、恵那ちゃん。悪い事を悪い事と分かったうえで平気でやっちゃうような人間。それと、良かれと思ってやっちゃうような……一般に悪いとされる事を悪いとまるで思わない人間。本当に邪悪なのって、どっちだと思う?」
………。
悪い事を悪いと理解した上で、やる。
勿論最悪だ。
けど……良かれと思ってやる?
意味が分からない。
そんな人、存在する筈がない。
「お爺様はね? 前者なんだ。まぁ、大抵の人間さんっていうのはそういう手合いなんだけど。お爺様はその中でも別格。悪い事は悪い、良い事は良い。それは理解しているけど、それはそれとして悪戯せずにはいられない。人を騙さずにはいられない。そうやって、世界中の人を騙したんだ」
「―――大悪党……!!」
身内にここまで言わせるなんて。
あの黒くて丸いお爺さん、やっぱり凄く悪い人だった。
やっぱり、似てるんだ。
多分、この人も……いや。
この人は違う。
だって、悪い事を悪いと分かっているなら、少しくらい黒が見える筈で。
でも、明らかに良い人とも思えないし……何で?
本当に意味が分からない。
「……悪い事を悪いと思わない人なんて、会った事もない」
「そう? 多分一人くらい居るよ?」
「居ない」
「ホントのホント?」
「知らない」
「私だけど」
「……………。あーー」
どうしてか納得できた。
「ま、良いや。お爺様について知りたいなら、ネットとかで調べたら多分出てくると思うよ。昔のお爺様は、それは、それは、凄くてね。エッフェル塔をヤスリ一本で盗もうとしたり、王室の宝石をレプリカとすり替えてコッソリ舞踏会に出席して、持ち主に見せびらかしたり……」
「……………」
「本気で言ってる?」
「勿論」
………。
……………。
私は、この人の事が分からない。
普通の人は、どのくらい黒いかで全部わかるのに。
それが私の指標だったのに。
この人だけは、ソレがまるで当てはまらなかったから。
ずっと、ずっと……。
この人には、分かりやすさがなくて……それが不安で、怖くて、嫌いだった。
何よりこの人の冗談が、私は嫌いだった。
◇
始めて出会った肝試しの日から……私の何が気に入ったのか、おねえさんはしつこく何度も来た。
その度に、私は帰ってといった。
でも、彼女はいつだってしつこく着いて来て。
私の足下で鳥がわちゃわちゃして。
くすぐったくて……最後には、結局私が折れて、お姉さんと何かをして遊んであげるんだ。
………。
そんな毎日が続いて……ある一年の、最後で最初の夜。
一般では、年末にはお寺、年始には神社っていう人が多いし。
やっぱり、お正月は朝から夜まで大忙しで。
私は、夜が深くなった時間も沢山働いていた。
「おみき、いかがですか」
「お、有り難う、巫女さん」
御神酒……ごしんしゅって書いておみきって呼ぶんだ。
お酒、大人の人は大好きみたいだけど、私はまだ飲めない。
「―――えなーー? 甘酒持ってきてくれるかしら」
「はーい」
そう。
私は、やっぱり甘酒の方が好きで―――……?
お母さんの声に、いったん屋内へ戻ろうと。
あくびを出さないように我慢しながら歩き始めようとした時。
ふと、目に入ったのは一人の男の人。
あったかそうな、黒くてもこもこの上着を着て、ニット帽をかぶって。
手におっきなお酒の瓶をもった若い男の人は、参拝に来る人の流れに逆らって、本殿と出口のどちらでもない、人目を離れた方へ……井戸と倉の方向へ、向かってる?
どうしてかわからなかったけど。
何故か、私はその人から目が離せない。
その人は、全然黒くはない。
なのに、どうしてこんなに怖い……。
『良かれと思うような、悪い事を悪いと思わない人が―――』
あの人、普通じゃない。
絶対に普通なんかじゃない。
根拠なんて何もなかったのに……どうしてかそう思って―――気が付いたら、私は男の人を追いかけて。
神社の奥へ……倉の場所まで来ていて。
「お父さんも、お母さんも、みんな戻ってくる、お父さんも、おかあさんも、みんな戻って……また、あえる……」
陽気で、凄く楽しそうな声だった。
もうすぐ帰ってくる、その誰かの帰りを待っているような、待ち望んでいるような……その声に、私は耳を傾けていた。
それは、凄く変な光景だった。
だって、男の人は鍵の掛かっていない倉庫を開けて、瓶の中身をそこら中に振りまいていたんだ。
「―――何、やってるの?」
不法侵入だ。
鍵がかかっていないのはいつもの事だけど。
それでも、人の家の倉庫に勝手に入るのは悪い事で―――……どうして、この人は黒くなってない?
「何って―――ほら、大晦日……初詣? おめでたい日……ね? お彼岸とかと、一緒? 提灯の灯りって小さいから。沢山燃やせば、皆戻ってきてくれるんじゃないかなって……ね?」
「ッ」
楽しそうに笑うその人。
優しそうな顔と、意味の分からない言葉。
それは仏教の思想だから神社は関係ないとか、そもそも意味が分からないとか。
そういうのじゃない。
この人は、そういう考えを持っていない。
「もや、す?」
「そう。沢山燃やして、あの世から見えやすくするんだ。明るくしてさ」
「―――ぁ……!!」
お酒の瓶が空になる。
男の人は、私と話しながらポケットからマッチを取り出して……ッ。
「ダメ!!」
落ちたマッチが。
火が、瞬く間に燃え広がって。
「なッ、何するんだ……!!」
咄嗟に駆け寄るけど、相手はお姉さんより背の高い男の人だ。
簡単に突き飛ばされる。
「………ッ」
「あっ、あつい!」
転がって、倉庫の壁に当たって。
逆に男の人は、私を突き飛ばした拍子に暴れたからか、服に火が燃え移っていて。
「な、何するんだ! 僕は―――僕は悪くない! 明るければ皆が戻って来るって―――そうだ、お前が消そうとしたから、お前が悪い! 暗くしようとしたお前、ぼ、僕は悪い事してないんだ!!」
意味の分からない事をわめいたまま遠ざかっていく姿。
その後姿にも、黒は見えなくて。
倉の中は次々に火がついて。
お酒の瓶? 床に水たまりみたいなのがあるのって……これ、水じゃなくて、ガソリン? 油!?
「―――……ぁ」
燃え広がっていく火から、どうしてか目が離せない。
どうしてか、逃げようと思っても身体が動かない。
冬なのに、凄く暑くて。
……どうして、私は一人でここにいるの?
悪い事をしたから?
年末の大掃除を理由を付けてサボったから?
―――違う。
私……何も悪い事してない、悪い事なんて……。
誰か……。
「誰か!! 助け―――」
「やぁ、恵那ちゃん。大きい声出して、どうかした?」
「―――――」
天井へ向かって声を張り上げようとして、二階へ続くはしごから覗いた顔と目が合う。
けど、今回ばかりは本当に意味が分からない。
「奇遇だね、こんな所で。あ、今日の予報って見た? すごく寒くなる筈なんだけど、何か、すっごく暖かいんだ。倉に暖房? 床暖房かな。贅沢さんだ。あ、わたし? 不法侵入じゃないよ? 君のパパには言ってあるよ? 実は、私ここの屋根裏に―――」
「逃げて! 火が!」
「……およ? ―――あ、火だ」
本当に驚く事に、彼女は私に言われて初めて気が付いたようで。
「ねぇ、恵那ちゃん知ってるかな。火事の死因って、大体は火傷じゃなくて一酸化炭素中毒だから、煙が昇る高い所に居ると危ない―――」
「早く降りて!!」
分かってるなら早く降りてと。
叫ぶ私の隣へ降りてきた彼女は、ゆっくりと私の頭に手を……。
「―――からだ、屈めてて」
「ッ!」
今まで聞いたことの無い、間延びもしていなければ眠くなるような不透明さもない声。
そのまま、何かを探しているように。
でも、迷いが全くない動きで燃える部屋の中を行き来する彼女。
「確か、ここに重曹の袋と―――水は……」
「これも、掃除用のクエン酸? ―――お、酸っぱい」
「お姉さんッ!!」
違う。
やっぱり、いつも通り遊んでいるだけな気がする。
入り口は凄く火が強い。
周りだって、凄く燃えてて……熱くて。
逃げられない。
「ぁ、ぁぁ……」
―――こんななの?
本当は、こうなの?
分からないって、こんなに怖いの?
こんなに熱くて、こんなに身体が竦むなんて、今までなかった。
放っておくと危ないという事は分かっても、最初から何も分からないという事はなかったから。
「ぁ……ぁ」
分からないって。
怖いって……こうなの?
しゃがみ込んで、小さくなって、少しでも目の前の状況から目を逸らそうとするけど。
それでも、熱くて、怖くて……。
身体が震えて。
「大丈夫。さ―――せーので飛ぶからね。恵那ちゃん」
「―――ぁ……」
「おねえ、さん?」
肩にひやりとした手が置かれる。
冷たい筈なのに……熱さじゃない、温かさが……優しい声が耳を撫でて。
「せーーのッ―――、……って言ったら飛ぶんだからね?」
「お姉さん!!」
怖い筈なのに。
まだ怖いのに、気付けば私は顔を上げていて……そして、気付く。
「―――ぇ」
扉のまわりを覆っていた火の手が、殆どない。
そこだけが、局所的に。
「さ。行くよ。せーーの」
「ッ!!」
………。
………………。
そこからは一瞬だった。
私は、お姉さんに手を引かれるままに、今まで出したことの無いくらいの速さで走って。
火の手も追いつけないくらい、走って。
「ふぅ。……ね? 大丈夫だろう?」
「はぁ……、はぁ……ッ」
遠くでは、凄い勢いで燃える倉が見えて。
沢山の人が大騒ぎしているのも聞こえて。
「―――お姉さん。あれ、どうやって……」
「んう? ……あぁ。魔法の粉……重曹だけじゃ消えなさそうだったからね。他のも合わせたんだ」
「……ぇ?」
「―――ほら、消火器のあわあわ」
……消火器、使った事ない。
「また今度教えてあげる。一緒に遊んでくれるなら、ね?」
荒く息を吐いて座り込む私。
目の前に、お姉さんの冷たい手が差し出される。
「さ、行こ? すぐ消防車も来るだろうし、色々お話をしなきゃいけなさそうだよ。きっと、ご両親も心配してるだろうし」
「!」
お姉さんの言葉に、今更お母さんから頼みごとをされていた事を思い出して。
差し出された手を―――取る。
けど、起き上がれない。
腰が抜けちゃったんだ。
「そっか。じゃあ、こうしようね」
「……………」
「乗れそう?」
「……ん」
彼女は、重さを感じていないみたいに、本当に自然に私をおんぶして。
ゆっくりと、神社の境内へ歩いていく。
「にしてもさ? 炎の中から生還したなんて、一躍ヒーローじゃない? 恵那ちゃんもそう思うよね。あ、そうだ。このまま犯人さんも捕まえてみる? 一緒に表彰されちゃったり?」
「……………」
「似顔絵作るのに協力しない? 報酬の取り分は五対五でどうかな。表彰状も真ん中で半分こね?」
「……興味ない」
私を背負ったまま、ゆっくり……本当にゆっくり歩いていくお姉さん。
途中では、どうでもいい話を沢山して。
いい加減な話を、やっぱりたくさん聞いて。
いつも以上に、呆れて。
でも。
それが、どうしてだか嫌じゃなくなっていて。
………。
……………。
私は神様が嫌いだ。
私は神様が何かしてくれるなんて信じない。
けど……。
この人との出会いだけは、今でも感謝している。




