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太陽の子 六万年前  作者: まきの・えり
9/10

太陽の子7

 一九九五年 入院


 色々な話を聞き過ぎたせいか、私は、少し大人になってしまったような気がした。

 これから、私の運命も大きく変わっていくような、そんな気分だ。

 いつまでも、お兄ちゃんに甘えてばかりはいられない。

 自分が、もっと強く賢くなって、お兄ちゃんの支えにならないといけない。

 しかし、そう思ったのも束の間、お兄ちゃんは、夜中に近所を徘徊するようになり、近所の家のインタフォンやブザーを鳴らしては、

「地球が危ない」

「今すぐ何とかしないと各地で地震が起こる」

「ウイスルの暴走が始まっている」と叫んで回り、近所からの苦情やら、警察に保護されたりするようになった。

 私は、やはり、ただ、おろおろしているだけの人間だった。

 私が学校に行っている間に、両親は、お兄ちゃんを病院に入院させてしまった。

 お祖父ちゃんの言っていたよりも早く、我が家からお兄ちゃんが消えた。

「大体、元々変だったんだから、もっと早くに精神病院に入れておけば良かったのよ」とお母さんが、夕食の時に言った。

「お母さん、そんなことを言っては、お兄ちゃんが可哀相」とお姉ちゃん。

 私には、「元々、頭が変だったんだよね。

 あー、あれがいなくなって、せいせいした」と言ったくせに。

「で、あなた、あの子が、こうなったら、あの子の財産は、あなたのものでしょ?」

「財産?」とお父さん。

「ほら、本当だったら、あなたと美月の物になるはずだった、前の人の遺産。

 あの狸親父が自分のものにしてしまっている遺産よ。

 この際、あれ、返してもらいましょうよ」

「何を子供の前で」とさすがの父親も渋い顔をした。

「だって、こんな家と土地と、新しい会社を作る資金ぐらいで誤魔化されたのよ。

 あなたが、言いにくいなら、私が言うわ」

「ごちそうさま」と私は、箸を置いた。

 食欲が出ない。

「美幸、全然食べてないじゃないか」と父親は言ったけれど、「大好きなお兄ちゃんの頭が変になって、ショックなのよ」と母は言った。

「ババア、もう一度言うてみろ」と私は言った。

 自分でも、自分がそんなことを言うなんて、思ってもみなかった。

「もう一言でも、お兄ちゃんの悪口を言うてみろ。

 お前の舌を引き抜いて、バターで炒めて、犬にでも食わせてやるからな!」

「ま、まあ、何てことを」と母はうろたえた。

 お兄ちゃんがいたからこそ、私は、こんなババアに我慢していたのだ。

「美幸、お母さんに何を言うんだ」と父も驚いたみたいだった。

「テメエもテメエだ。

 こんなババアの言いなりになって、お兄ちゃんを粗末にしやがって。

 テメエらなんか親じゃねえ!」と言ってから、あ、本当に、親ではなかったんだ、と思い出したが、後の祭りだ。

「まあ、美幸、お父さんやお母さんに何を言うの」と美月ぶりっこ。

「このコンババ女。

 継母にうまく取り入りやがって。

 こんな家、潰れてしまえばいいんだ!」

 私は、自分で自分を抑えられなかった。

 ありったけのお金を持つと、コートを着て、家を飛び出した。

 行くあては、お祖父ちゃんの会社。

 夜だけど、お祖父ちゃんは、いると思った。

 というか、そう思いたかった。

 ところが、会社の門は閉ざされていて、周囲をぐるぐると回ってみたけれど、どこにも入る場所は無かった。

 私は、持ってきたカバンの中を探して、手帳を見つけたが、お祖父ちゃんの家の電話番号は書いていなかった。

 というか、お兄ちゃん以外に親しい相手のいない私の手帳の住所欄は、ほぼ白紙に近かった。

 ほぼというのは、自宅の電話番号と父親の会社の電話番号と学校の電話番号だけは書いてあったからだ。

 万事休す。

 でも、何でも知っているお祖父ちゃんが、お兄ちゃんの入院を知らないわけはない。

 ……私が、今日、家出することまでは、さすがのお祖父ちゃんでも知らないか……

 まだ、未練たらしく、会社の周りをグルグル回っていると、「長沢美幸さんですか?」と知らない男の人に声をかけられた。

「はい」と答えたけれど、何となく怪しい。

「いや、怪しい者ではありません。

 会長に頼まれて、待機していました」

 会長?

 誰?

 もしかすると、お祖父ちゃん?

「会長は、今、海外出張中ですので、私が、美幸さんのお世話をさせていただきす。

 佐伯と申します。どうぞよろしく」

 うーん。お祖父ちゃんの回し者?

「とりあえず、お部屋をご用意しております」

 お部屋……

 もしかすると、援交親父?とも思ったけれど、そういう雰囲気でもなく、真面目な感じの人だった。

「お写真と随分違うので、大分、とまどいましたが」と相手の見せた写真は、私の小学校卒業アルバムの写真。

 う。お父さんそっくりの顔で、椅子に座っている。

 二度と見たくない写真だった。

「とにかく、御案内しましょう。

 会長に言われて、私が探したので、お気にいるかどうかは、わかりませんが」

 車に乗る時は、少し怖い気もしたが、乗ってしまったら、何となく安心した。

 ま、こうなったら、何でも来やがれ気分だ。

「今朝方、突然、家を探せという電話が、アメリカからかかってきたもので、時間がなくて、こんなところなんですが」

 車を降りると、二階建てのこじんまりとしたマンションの前に出た。

「どうぞ」と言われて、中に入る。

 嘘でしょう。

 こじんまりしたマンションだと思えば、それが、家だった。

「これが、鍵です。

 一日で揃えたので、家具とか調度に不足があるかもしれませんが、その時は、おっしゃって下さい。

 これは、私の名刺です。

 裏に携帯番号も書いてありますので、いつでも、お電話ください」

 そう言うと、男は帰って行った。

 ひええ。

 お祖父ちゃんは、神様です。

 私は、鍵を使って、家の中に入った。

 マンションだと思うぐらい大きな家の中には、体育館やら音楽室や図書館みたいなところもあるからだった。

 まあ、今のところ、そんなところはどうでもいい。

 台所も広くて、五人家族でももて余すぐらいの大きなテーブルと大型冷蔵庫があった。

 中を開けると、ジュースや食パン、サラダや惣菜で満員だった。

 冷凍庫にも、アイスクリーム、ピザ、コーン、ピラフなんかが詰まっている。

 一番驚いたのは、お兄ちゃんと私の部屋だった。

 今までいた家に帰ったのかと錯覚するぐらいに、似ていた。

 違うのは、全部、新品だということだけだ。

 私の部屋には、私の中学の制服やら、体操服、学校規定のカバン、教科書類が、学習参考書と共に、全部揃っていた。

 新品のノートには、印刷したような綺麗な字で名前まで書いてある。

 今までの自分の部屋には無かったクロゼットには、新品の服が入っていて、下着や靴下まである。

 今までのベッドを新しくしたようなベッドの上には、新しいパジャマが置いてあった。

 あー、何て、いたれりつくせりなんだろう。

 もう、今日は、本当に疲れた。

 私は、パジャマに着替えると、ベッドに入り、その瞬間に眠ってしまった。

 夢も見ずに。


 一九九五年 スーパーお祖父ちゃん


 翌日は、朝早く、佐伯さんから電話があり、言われるままに用意して学校まで、車で送ってもらった。

 帰る時間になると車が待っている。

 何だか、急に、お姫様にでもなった気分だ。

「会長は、明日戻られますが、次の日曜日に、ここにお連れしてもよろしいでしょうか」と佐伯さんは言った。

「お連れしてください」と私も言った。

 学校なんかに行っている場合じゃないんだけど、と思いながら、佐伯さんが迎えに来ると学校に行ってしまう。

 父や母や姉のいない生活が、こんなに解放感のあるものだとは、離れてみないとわからなかった。

 また、お兄ちゃんのいない生活が、こんなに淋しいものだとも、わからなかった。

「新居はどうだ」と日曜日の午前中に、やってきたお祖父ちゃんが言った。

「気にいったか」

「はい」

「達幸が十八になるまで、じっくり探そうと思っていたんだが、そうもいかなくなった。

 心配しなくても、お前の両親には、私が面倒を見ていると言ってある」

「そうですか。

 それはありがとうございます」と私は儀礼的に言った。

「もしかすると、お前は、ちょうどいい時に家を出たのかもしれない」とお祖父ちゃんは言った。

「もうしばらくはもつと思っていたが、お前のお父さんの会社は、二度目の不渡りを出した。

 どこからも援助が無ければ、倒産だ」

「そうですか」と、自分の感情が、元の家族に対して、全然動かないのを、不思議に思った。

「あんたにとっては辛い話だろうが、ここに来る前、ご両親が揃って、私に、達幸の財産を渡せと言ってきた。

 私にとっては、十億や二十億の金は、はした金だ。

 くれてやってもいい。 

 『助けてください』とでも言えば、助けたかもしれない。

 金をドブに捨てることになっても、私の娘の婿、元私の部下だった男だ。

 それぐらいはしてやろう。

 しかし、彼らは、達幸が母親から受け継いだ遺産を引き渡せと言ってきた。

 その理由は、逹彦が、もう社会復帰の可能性が無いからだという。

 これを、どう思う。

 あんたの考え次第で、そうしてもいいと考えている」

「会社なんか潰してください」と私は、言った。

「お兄ちゃんを食い者にするのだけは許せない。

 多分、お兄ちゃんは、そんなお金になんか何の興味もないと思う。

 でも、許せない。

 お兄ちゃんを少しでも大事にしたのならともかく、少しの愛情も注がずに、お兄ちゃんの財産だけを取るなんて、絶対に許せない」

「わかった」とお祖父ちゃんは言った。

「本当に、私の娘と血が繋がっていないのが、不思議なぐらい、きっと娘なら言ったようなことばが、あんたの口から出てくる」

 そう言って、お祖父ちゃんは、両手で顔を押さえた。

「今の病院にいる限り、達幸は一生、退院できないだろう」

「どういうことですか?」

「有名な悪徳病院だ。

 医師や看護婦やスタッフの人手を少なくするために、患者は薬漬けにして、ずっと眠らせておく。

 家族とも面会させない。

 入院した患者は、社会復帰の見込みなし、と決めつけて、一生、病院に置いておく。

 ま、そういう処置を望む家族のための病院だ」

 唇がわなわなと震えて、また泣きそうになったが、ぐっと涙をこらえた。

「お祖父ちゃんなら、お兄ちゃんを助け出してくれるんでしょう?

 お祖父ちゃんなら、もっと違う病院に、お兄ちゃんを入院させてくれるんでしょう?」

 ワハハハハとお祖父ちゃんは、大笑いした。

「随分と買いかぶられたもんだ」

「だって、お祖父ちゃんは、何でもできそうだもの」

「スーパーお祖父ちゃんというわけだな」

「そうそう。

 超ウルトラスーパーお祖父ちゃん。

 お願いします。

 お兄ちゃんを助けてください」

「あの悪徳病院の院長とは、実は、ゴルフ仲間だった。

 私も、仕事上の悪徳度では負けていないから、よく気が合ったよ」

 私は、口を開けたままでいた。

「お祖父ちゃんは、正義の味方じゃないの?」

「正義の味方だよ。

 法に触れるようなことは何もしていないし。

 ただし、仕事を大きくしていこうと思ったら、色々あるということだ」

「お父さんの会社を潰したり?」

「人聞きの悪いことは言わないでくれよ。

 私が潰したわけじゃない。

 ただ、会社というのも生き物だから、大きく育てるには手間暇がかかる。

 多分、子供を育てるのと一緒だろうな。

 目をかけ、手をかけて、伸びていく手助けをし、邪魔になるものは省いてやる。

 すると、自分で大きくなっていく」

「へー。面白そう」

 お祖父ちゃんの目が、キラリと光ったような気がした。

「面白そうに見えるか?」

「うん。だって、沢山のお金があったら、何でも出来るんでしょ?」

「何でもということはないが、大抵のことはできる」

 お祖父ちゃんは、腕組みをした。

 目が潤んでいるように見える。

「娘が、そう言ってくれるのを、ずっと待っていた。

 だが、私の娘は、いつも、大きくなったら『お母さん』になりたいと言った。

 ま、その通りになったんだがね」

「私は、お母さんよりも……」とウッカリ言いかけて、真っ赤になってやめた。

「お兄ちゃんのお嫁さんになりたい」とお祖父ちゃんが、私の声真似をして言った。

「バカ!

 クソジジイ!」と思わず叫んでしまった。

「うーん。カッとした時の言葉使いで、その人間の幅がわかる。

 腹が立った時ほど、深呼吸して、冷静になるんだ」

 物凄く腹が立ったが、仕方無く、深呼吸した。

 クソジジイめ。

「その調子だ。

 これも仕事だと思いなさい。

 あんたは、私に、達幸を助けてくれと頼んでいるところだ。

 その相手に腹を立てて、バカ、クソジジイと怒りに我を忘れて叫ぶ。

 私も人間だから、当然不快になる。

 もし、私が、誰がお前なんかのために手を貸すもんか、と思ったら、困るだろう」

「困ります。ごめんなさい」と私は謝った。

「先程は、ついカッとなって、失礼なことを言ってしまいました。

 許してください、と謝りなさい」

 また、カッとなりかけたが、必死で深呼吸して、言われた通りに謝った。

「私も、つい調子に乗って、失礼な真似をした。許してくれ」とお祖父ちゃんも、私に謝った。

 大人から、正式に謝られたのは、初めてだったので、ひどく驚いてしまった。

「大人って、絶対に謝らないもんだと思ってました」と私は言った。

「本当の大人は、自分が悪かった時は、きちんと謝るもんだよ」とお祖父ちゃんは言った。

「さて、では、今から出掛けるか」

「病院にですか?」と私は、目を輝かせた。

「私が病院に車を乗りつけて、医者や看護人を殴り倒して、達幸を脱出させるみたいなことを考えてないか?」

「え!」と私は、そんなことになるのかと思って、身体が震えるほど興奮した。

 そして、自分も、バットか何かを持って、活躍する!

「病院には、後で寄ることになるだろう。

 まず、院長と話をする。

 話が決裂したら、私が達幸の後見人として、かなり強引に引き取りに行くことになるだろう。

 一緒に来るか?」

 うんうん、と私はうなずいた。

「院長と話している間、車でおとなしく待っているという約束が守れるか?」

「はい、守れます」

 何でも守ります。

「一応、会う約束はとりつけてある」

 さすが、お祖父ちゃん!

 佐伯さん運転の大きな車で、私とお祖父ちゃんは、後部座席に並んで座った。

「あのー」と私は、小さな声で言った。

「私は、お兄ちゃんが好きですが、それは、ただ、結婚したいとかお嫁さんになりたいというのではないんです。

 私を育ててくれたお兄ちゃんの力になれるような人間になりたいんです。

 お兄ちゃんを助けられるぐらいになりたいんです」

「そうか」とお祖父ちゃんは言った。

「使い道がわからなければ、いくら財産があっても仕方がない。

 将来、達幸の財産を管理してやるといい。

 そのためには、生きた経済を知らないといけない。

 私が生きているうちに、何でも私から盗めばいい」

「え!盗むなんて……」

「……私から何でも吸収して、自分のものにすることだよ」

 あー、驚いた。

 お祖父ちゃんの財産を盗んで、お兄ちゃんのものにするのかと思った。

 病院の院長先生の大きな家の前で、車が止まり、お祖父ちゃんは、運転していた佐伯さんに何かを言うと、自分の家みたいに、その家の中に入って行った。

 車の中で、じっと待っているのかと思ったら、佐伯さんは車を発進させて、一番最初にあったドライブインに入って行った。

「何か食べて待っているようにとのことです」と佐伯さんは言った。

 そう言われたとたん、おなかがグウッと鳴いた。

 佐伯さんに聞こえたかもしれない。

 あー、恥ずかしい。

「ここのランチはおいしいですよ」と佐伯さんに言われて、何にしようかと迷っていたので、私もランチにした。

 えー、ちょっと量が多すぎ、と思ったけれど、全部綺麗に食べてしまった。

 うー、おなかいっぱいで苦しい。

「僕は、コーヒーを頼みますが、ジュースの方がいいですか?」と佐伯さん。

 いえ、おなかがいっぱいで、と言おうとしたのに、つい「ミックスジュース」と言ってしまった。

「一時間経ちましたから、ちょっと様子を見に行ってきます」と言って、佐伯さんは、出て行った。

 チビチビとミックスジュースを飲みながら、トイレにも行って待っていたけれど、お祖父ちゃんの話は、まだ終わらないんだろうか。

 二人とも、中々帰って来ない。


 一九九五年 病院へ


 三時間ぐらい経ったと思ったけれど、時計を見たら、三十分後に、お祖父ちゃんが席に座って、コーヒーを頼んだ。

 穴の開くほど、お祖父ちゃんの顔を見ていたけれど、何の表情も無い。

 黙って、コーヒーを飲んでいる。

 何となく、話の結果を聞くのが怖い。

 一緒に車に並んで座った時、「どうだったの?」とようやく小声で聞くことができた。

「うーん」と唸ったきり、お祖父ちゃんは黙ってしまった。

「ねえ、お兄ちゃんには会えるの?

 それで、強行突破?」

「うーん」と、まだ、お祖父ちゃんは唸っている。

 私の言ったことには返事をせずに、「佐伯、病院の経営ができるものがいるか」と運転している佐伯さんに尋ねた。

「病院の経営ですか。

 吉田の家が総合病院ですが。

 しかし、吉田は、医学部を卒業して、医師免許まで取ったのに、家業を継ぐのがイヤで、うちに入社してますから、どうでしょうか」

「吉田か。言われた通りに業績を上げるのは得意だが、全体を見る目が無いな」

「はい」

「後は?」

「富沢は、経営手腕は抜群です」

「だが、人望がない」

「はい」

「冒険だが、佐伯、やってみるか。

 色々覚えたことを実地に試すいい機会だ」

「はい。やれとおっしゃるのなら」

「よし。決まりだ。お前は、本当に、あれこれ質問もせず、文句も言わず、謙遜もしないかわりに、自慢もしない。

 ダメ元の赤字病院だ。買い叩くのに時間がかかったが、仕方がない。やってくれるか」

「はい」

 私は、一生懸命に、お祖父ちゃんと佐伯さんの会話についていこうと努力していたが、途中で、頭がパンクしそうになって、居眠りをする道を選んだ。

「さ、美幸、着いたぞ」とお祖父ちゃんに、ゆり起こされた。

 私は、カンフーで、バッタバッタと邪魔をする看護人を倒している最中だったので、もう少しで、お祖父ちゃんの手を叩いてしまうところだった。

 反射的に、口に手をやったが、良かった、よだれは出ていなかった。

 降りて見ると、大きいけれど、全体に薄汚れた感じのする建物の前だった。

「これは、相当手を入れないといけませんね」と佐伯さんが言った。

「叩けるだけ買い叩いて、正解だったな」とお祖父ちゃん。

「まさか、達幸の身柄を引き受けるのに、病院ごと買う羽目になるとは思わなかった」

「えー!お祖父ちゃん、この病院を買っちゃったの!」とようやく話が読めた私は叫んだ。

「凄い!お祖父ちゃん、凄い!」

 新しい家といい、病院を買い取るといい、生まれて初めて、お金の力の凄さを思い知った私だった。

「誰も迎えに出ていないな」とお祖父ちゃん。

「私が、行ってきます」と佐伯さんが、病院の方に歩いていくと、横のドアから、医者の恰好をした、痩せた男の人が出てきた。

 佐伯さんと男の人は、そこで、何か話していた。

 すると、突然、男の人が、佐伯さんの手を、両手でガシッと握った。

 すわ、カンフーの出番か、と思ったが、そうではなかったようで、男の人は、こちらを向いて、深々と頭を下げた。

 私は、恐々と、お祖父ちゃんの後について、病院の中に入って行った。

 内部は薄暗く、プーンとトイレの臭いがして、不気味に静まりかえっていた。

「長沢達幸さんの病室は、こちらです」と案内してくれた男の人が言った。

 病室に着くまで、何度も鍵のついたドアを開けて行く。

 病室の前には、名札がかかっていた。

 八名ぐらいの名前があり、その中に、『長沢達幸』という名前もあった。

 病室にも鍵がかかっていて、男の人は、八個ぐらいの鍵束から、鍵を選んで病室のドアを開けた。

 家以外の場で、お兄ちゃんに会うのは、初めてだ。

 お兄ちゃん以外の人達は、皆、眠っているか、起きていても、ぼんやりした顔をして、よだれを垂らしながら、ベッドに腰掛けていた。

 お兄ちゃんの姿を見て、私は駆け寄った。

 何て、ひどい。

 お兄ちゃんは、そでの長い服を着せられて、その両袖を交差させるような形で、身動きできないようにされ、両足もベッドに縛りつけられ、口も皮のロープみたいなもので、縛ってあった。

「お恥ずかしい話ですが、これが院長の方針です。

 この患者には、薬が効かず、こうするしか仕方がなかったんです」と男の人は言った。

 私は、無我夢中で、お兄ちゃんの口のロープを外した。

 一旦は、叫ぼうとしたのだろうが、お兄ちゃんは叫ばず、「美幸」と私の名を呼んだ。

 私は、お兄ちゃんの顔が見えなくなるまで泣いていて、お兄ちゃんも泣いているのがわかった。

「お兄ちゃんを自由にして」と私は言った。

「でも、それは……」と言う医者に、お祖父ちゃんが言った。

「私からもお願いする」

 お兄ちゃんは、順番に、縛られているものから、自由になっていった。

 私は、お兄ちゃんに抱きつきたかったが、かろうじて自制した。

「達幸、覚えているか。

 お前の祖父さんだよ」とお祖父ちゃんが言った。

「はい。以前、お正月に、何度かお会いしました」と兄は言った。

「まだ、地球の声が聞こえるか」

「はい。時々」

「そうか。人類は滅亡した方がいいか」

「わかりません。

 警告した方がいいかもしれませんが」

 その時、奇妙なことが起こった。

 部屋の中で、よだれを垂れながら、ぼうっとしていた数人の男性が、よろよろとお兄ちゃんのそばに寄ってきたのだ。

 そして、お兄ちゃんに触ろうとするのだった。

 私は、お兄ちゃんを守ろうとしたが、お祖父ちゃんが私を止めた。

 男性達は、若い人もいれば、お年寄りもいた。

 それぞれが、お兄ちゃんに触った。

「太陽は、地球を守っている」と年配の男の人が言った。

「ずっと、守っている」

「地球が怒っているのは知っている」と若い男の人も言った。

「だから、オレも怒っているのだ」

 そう言うと、また、よろよろと、自分のベッドに戻って行った。

「達幸、美幸と一緒に帰るか」とお祖父ちゃんが言った。

「お前達の住むところは用意してある」

「いいえ」とお兄ちゃんは答えた。

 え!何で!

「しばらく、ここにいます。

 少し考えたいことがあるので。

 美幸をよろしくお願いします」

 えー!

 何でー!

「わかった。帰りたくなったら、言ってくれ」

「はい」

「じゃあ、美幸、私達は、向こうで話があるから、終わるまで、達幸のそばにいなさい」とお祖父ちゃんは言い、三人共、部屋から出て行った。

「お兄ちゃん、お父さんやお母さんの家に帰らなくてもいいんだよ。

 お祖父ちゃんは、私とお兄ちゃんの家を用意してくれたんだよ。

 何で、美幸と一緒に帰ってくれないの」

「何でかわからないけど、ここにずっと縛られたまま、色々なことを考えていた。

 僕は、学校にも行っていないし、自分の家しか知らなかった。

 この世に、自分と美幸しかいないように思ってきた。

 けれど、ここに来てから、色々な人がいることや、色々な人生があることがわかった。

 僕の知っていた世界は狭い。

 もう少し、ここで、色々と考えてみたいと思うんだ。

 美幸がいないと、世界は終わりだと思っていたけれど、それも、小さな狭い考えだったのかもしれない」

 うっと胸が詰まり、私の心配も知らないで、とお兄ちゃんに対して、物凄く腹が立った。

 けれど、お祖父ちゃんの教えてくれた通りに、深呼吸して、心を静めた。

「わかった。私、何度も面会に来るね」とかろうじて言った。

「うん。美幸の姿を見ると、やはり心が落ち着く」

 私は、お兄ちゃんがいないと淋しくて仕方がない。

 けれど、ニッコリと笑って言った。

「お祖父ちゃんたら、お兄ちゃんのために、この病院を買ったんだよ」

「そうか。いい病院になるといいな」

「さっきいた人、佐伯さんていうんだけど、お祖父ちゃんから、病院の経営をまかされたみたい。

 きっと、いい病院になるって」

「そうだな」

「じゃ、お兄ちゃん、私も行くね」と私は言った。

 もう、限界を越えていて、もう少しすると、お兄ちゃんのバカヤロー!と言って、わあわあ泣いてしまいそうだったからだ。

「うん」というお兄ちゃんの声を背に聞きながら、病室から出て行った。

 ガチャンという自動的に鍵のかかる音を聞いて、涙がとめどなく流れてきた。

 お兄ちゃんに聞かれないように、しばらく歩いてから、私は、ウウ、と声を殺して泣いた。

 お兄ちゃんのバカヤロー!

 私は、綺麗に涙が乾くのを待ってから、お祖父ちゃん達のいる所を探した。


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