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太陽の子 六万年前  作者: まきの・えり
8/10

太陽の子6

 長沢美幸(一九八二~二○二二)


 私は、長沢美幸。

 小学校六年生。

 とっても仲のいい、お父さんとお母さん、私の大好きな兄、それと、頭が良くて、美人の姉との五人家族。

 姉は両親の自慢の種で、勉強ができるだけでなく、ピアノや声楽でも、先生に一目置かれている。

 兄は、いつも、家族から一歩距離を置いている感じがある。

 でも、私には、いつも優しい。

 覚えているのは、大抵、いつもそばにいた兄のこと。

 父や母よりも、兄との思い出の方が多い。

 私は、いつも、「お兄ちゃん」「お兄ちゃん」と兄の後にくっついていた。

 私は、勉強も中くらい、容姿も中くらい、姉と同じように、ピアノを習ったけど、長続きせず、あんまり取り柄も無かったけれど、兄だけは、私が世界で最高の人間みたいに思ってくれていて、兄といる時だけ、自分を最高だと思えた。

 でも、実は、とてもとても平凡な人間だというのは、自分でもわかっている。

 兄は、学校にも行かず、周囲からは『自閉症』だとか『情緒障害児』だとか言われていた。

 学校に行っていたら、姉と同じ、高校一年生になっているところだ。

 兄は、とても美形。

 それに、とても頭がいい、と私は思っている。

 中学生の時は、中学の先生が毎日家に来て、兄と話をしては帰って行った。

 兄は、卒業式にも出なかったけれど、家に写真屋さんが来て、写真を取って卒業アルバムに載っただけで、中学を卒業したみたいだった。

 高校生になると、父が大学生の家庭教師を雇ったけれど、どの家庭教師も、一ヵ月も続かないうちに来なくなった。

 綺麗な女子大生の時もあって、私は、一人でヤキモキしていたが、他の家庭教師同様、一ヵ月で来なくなったので、ほっと安心した。

 父も母も、兄をどこか邪魔者扱いにしているような気がして、私は、それが悔しかったが、兄は気にしていないようだった。

 どうして、私の前では、色々話す兄が、他の人が一人でも混じると、とたんに何も話さなくなるのか、私にはわからなかった。

 兄は沢山の本を読んでいて、私に、それを色々と語ってくれたが、私以外の人に語ることは無かった。

 私も、童話みたいなものを書いていたが、それも、兄しか知らなかった。

「凄いよ、美幸。

 お前は、凄い才能があるよ」と兄は言ってくれる。

 けれど、小学校の作文では、一度も褒められたことがなかったし、一度、親友と言ってくれた友達に、童話を書いていると告白したら、「暗ー」と言われてしまったので、「嘘だぴょーん」と訂正して、やっぱり、それは、兄と私だけの秘密になった。

 兄は、日に日に美しくなり、私は、飽きずに、兄の顔を見ていた。

 学校に行かずに、家にばかりいるのは、勿体ないような美しさだった。

 私の気持ちは複雑で、皆に、兄の賢さや美しさを知って欲しい、と思う一方で、この兄の存在を、自分だけのものにしていたい、とも思うのだった。

「ブラコン」と姉の美月は、私を見ると、そう言った。

「奇人と変人」とも言った。

「まだ小学生だと思って、勉強をさぼってばかりいると、中学になってから泣くことになるよ」

「いいもん、お兄ちゃんに教えてもらうから」

 ふん、と姉は鼻で笑う。

「あれに何を教えてもらうつもり?

 あれは、学校に行ってないんだよ」

 姉は、いつも、兄のことを『あれ』と呼んだ。

「学校に行ってなくても、お兄ちゃんは、頭がいいもん。

 それに、お姉ちゃんにとっても、お兄ちゃんなんだから、ちゃんと、お兄ちゃんと呼んでよ」

「何でよ。

 お父さんとお母さんだって、『あれ』って言ってるじゃない。

 あんなのにくっついていると、あんたも『あれ』って呼ばれるようになるよ」

「ならないもん。

 ならないもん」

 ふん、と言って、姉は、自分の部屋に行ってしまう。

 私は、そういう時、やり場のない怒りを感じた。

 お姉ちゃんは、美人で頭が良かったけれど、本当に、性格が悪いと思う。

 お父さんやお母さんや、お祖父ちゃんやお祖母ちゃん、学校の先生という大人の前では、とてもいい子をしているけれど、お兄ちゃんや私にだけは、意地悪だった。

 でも、日々は、お兄ちゃんの家庭教師が、次々と変わる以外に、余り変化もなく過ぎて行った。


 一九九四年 地球の声


 私は中学生になり、姉の言った通り、学校の勉強で四苦八苦するようになった。

 お兄ちゃんは、ますます美しくなり、身体中から光が溢れているように見えた。

 姉も美しかったが、それは、外見上の美しさで、お兄ちゃんのように、身体の内側から光が溢れるような美しさではなかった。

 そして、私までが、自分が美しくなったような気がした。

 その証拠に、小学校までと違って、中学生になってから、クラスの男子が、私がいるだけで、ざわざわと奇妙な雰囲気になっていくのだ。

 自分のクラスの男子だけではない。

 他のクラスの男子や、上級生、そして、男の先生達までが、変にざわついた雰囲気を作る。

 私は、それが、イヤでならなかった。

 鏡を見ても、顔の作り自体には、それほどの変化はないのだけれど。

「それは、美幸、お前の中に元々あった美しさが、ついに外に現れたというだけのことだよ」とこの世の誰よりも美しいお兄ちゃんに、軽い口調で言われると、そうか、そういうことになってしまったのか、と本気で思えるから怖い話だ。

 そして、そんな時に、お兄ちゃんの告白を聞いた。

 僕は、ずっと美幸が好きだった、なんていう告白なら良かったけれど、実は、そうではなかった。

 期待した私が、バカだった。

「自分でも、頭が変になったんじゃないかと思うし、何で、そんなことを美幸に打ち明けるんだろうとも思う」とお兄ちゃんは言った。

「けれど、誰かに言わないでは、本当に、自分が変になってしまうと思うんだ」

 私は、何も言わず、真剣な顔をした。

 けれど、内心は、あー、お兄ちゃんは、何て美しいんだろう、なんて思っていた。

 お兄ちゃん、ごめんなさい!

「僕は、ずっと、自分が何のために生まれてきたんだろう、と考えていた。

 どう考えても、生まれる必要なんか無かったんじゃないか、と思えた。

 お父さんにとっても、お母さんにとっても、僕は必要な人間でも、生きていて嬉しい人間でも無かった。

 僕は、常に頭が混乱していて、どうしていいのかわからなかった。

 美幸が生まれて、僕は、初めて、自分は生きていていいんだと思った。

 僕は、一心に、美幸の世話をした。

 で、美幸の世話が必要ではなくなった時、また、同じ疑問が浮かんだんだ」

「もう、お兄ちゃん」と私は、たまらずに言った。

「私は、自分でも覚えていない時から、ずっとお兄ちゃんに育てられてきたんだよ。

 お父さんもお母さんもいるけど、お兄ちゃんは、私の親みたいなもの。

 私が大人になるまで、私に色々教えてくれる義務があるの。

 大人になった後でも、色々教えてくれないといけないのよ。

 私の世話が必要でなくなる時なんて、永遠に来ないの」

 ふっと、お兄ちゃんは笑った。

「そうか。それが、親代わりとしての責任か」

「そーよ。それが、責任よ。

 最期まで、責任取ってよね」と私は、本気で言った。

「わかった。その責任は取る。

 でも、それとは別に、ずっと僕に囁きかけてくる声があるんだ。

 最初は、何だかわからなかったんだけど、段々と、感情としてわかるようになった。

 僕が、学校にも行かずに、色々な本を読んだのは、それが何なのか知りたかったからだ、とようやく、最近わかるようになった」

「誰が、お兄ちゃんに、囁きかけてるの」と私は、嫉妬半分で尋ねた。

 ちょっと許せない気がした。

 私の愛するお兄ちゃんに、一体、誰が。

「それが……」とお兄ちゃんは、言い淀んだ。

「誰よ!」

「それが……

 地球なんだよ」


 しばらくの間、私は、かなりのショックを受けて、何も考えられない状態になっていた。

「僕にずっと囁きかけてくる声がある……

 それは、地球なんだよ」

 一体、何をどう考えればいいのか、私にはわからなかった。

 毎晩、何か複雑な夢を見たような気もするけれど、朝になると、全然覚えてはいなかった。

 皆が言う通り、やっぱり、お兄ちゃんは変なんだろうか、などという恐ろしい考えも抱いた。

 だって、地球というのは、地球という星で、話したりはしない、どう考えたって、話すわけはない、と思うせいだった。

 私は、しばらく、お兄ちゃんの美しい顔を見ることを諦めて、自分としてはどうすればいいのかを考え続けた。

 両親に話して、どうしたらいいか、相談する。

 これは、できない。

 学校の先生に話す。

 考えるまでもなく、問題外。

 学校の友達のお母さんが、カウンセラーだというのを思い出したが、そのパターンでいくと、即、うちの両親に筒抜けになる気がした。

 スクールカウンセラーというのも、時々、学校に顔を出していたが、これはこれで、即、学校に筒抜けになる気がした。


 一九九五年 地震


 そういう時に、関西に大きな地震が起こった。

「お兄ちゃーん!」と私は、兄の部屋に駆け込んで、兄に抱きついた。

 やっぱり、こういう時、真先に助けを求めるのは、お兄ちゃんだった。

「地球が怒っている」とお兄ちゃんが言い、電気が消えてしまった闇の中で、周囲のガラガラガッシャーン、という音を聞きながら、『地球が怒っている』ということばが、すんなりと、おなかに響いた。

 地震の揺れが怖かったのもあって、もう、全部、お兄ちゃんの言う通り、という気になってしまった。

 その後、電気がついてから、テレビで地震の被害を見た。

 身体が震えるほど怖かった。

 あちこちが燃えていて、犠牲者の数が、どんどん増えていった。

「日本だけじゃなく、世界各地で大きな地震が起こるだろう」とお兄ちゃんは、予言者みたいに言った。

「その上、ウイルス達が暴走を始めている」

「ウイルスって?」

「細菌よりも小さなもので、それ自体では、生物とは言えない。

 他の生物に寄生して、次々に、自分をコピーさせていく」

 お兄ちゃんの言うことは、難しくてよくわからなかったけれど、何となく不気味に聞こえた。

「これは、仮説なんだが」と私にわかるように話してくれたところによると、生命の誕生よりも前に、ウイルス達の世界があり、大昔の海の中で、ウイルスは、盛んに自分をコピーしていた。

 何となく、海の中に、不気味な虫がうじゃうじゃいるところを想像してしまって、とっても気持ちが悪かった。

 でも、コピーミスをいっぱいしたので、色々な種類になり、そのうち、蛋白質と出会って、生物の卵みたいなものになった。

 だから、私達人間の身体の中にも、色々なウイルスが遺伝子の中に組み込まれているし、普通の状態なら、何もしないウイルスもいっぱいいる。

 わー、気持ち悪い。

 考えたくない。

「それぞれのウイルスには、『宿主』というのがあって、つまりは、ウイルスの家なんだ。

 誰も、よっぽどのことが無ければ、自分の家を壊したりしない。

 それどころか、自分が住みやすいように、家を掃除したりして、大事にするだろう?」

「うん」

「ウイルスもそうで、宿主には、害を与えない。

 けど、誰かが自分の家を壊そうとしたら、どうする?」

「ダメ、やめてって言う」

 世界中で、ウイルスの家が壊されていっている。

 森林が切り倒され、絶滅する動物も増えている。

 家の無くなったウイルスは、次の家を探す。

 または、家を壊そうとする者に襲いかかる。

 ウイルスの家を壊す者、それが、人間。

 だから、人間に襲いかかる。

 そういうことらしい。

 音を消したテレビには、まだ、焼けている家が映っている。

 犠牲者数は、増えていくばかりだ。

「多分、ウイルスが、一番、地球の意思に近いんだと思う。

 他の何よりも長い間、地球と一緒にいたから」

「人間が悪いの?」と私は、恐る恐る尋ねた。

 答えはわかっていたけれど、つい尋ねてしまった。

「そうだ、と思う」とお兄ちゃんは答えた。

「地球は滅びてしまうの?」と怖いのに、また尋ねてしまった。

 お兄ちゃんは、しばらく考えていた。

「あと五十億年もすれば、滅びるかもしれない」

「え?

 五十億年?」

 その年月が、どれぐらいのものか見当もつかなかった。

「太陽が年を取った時、死ぬ前に大きく輝く。

 その時に、地球は太陽に飲み込まれて、滅びるだろう」

「じゃあ、ずっと先なんだ」と私は、安心した。

「滅びるのは、地球ではなく、人類だ」とお兄ちゃんは、冷たい声で言った。

 地震も怖かったけれど、お兄ちゃんの言ったことばが怖くて、私は、あんまり眠れないようになった。

 それまで、本当に、一旦寝たら起きることのない私だったのに。


 一九九五年 夢


「もう勘弁してくれ」と私は言った。

「起きている時の私は、本当に、バカで愚かで、どうしようもない子供なんだ」

 寝ている時だけ、元の意識に戻れるのは、ありがたいというより、迷惑な話だ。

 私は、もう、人間なんかに転生せずに、元の自分の状態に戻りたかった。

 そう。あのたゆたゆと母親の羊水に浮かんでいる状態、太古の海に、ゆらゆらとゆられて、まどろんでいる状態。

「まあまあ」と上のものは、隙さえあれば、前世の姿に戻ろうとするので、私は、キッと睨みつけた。

「頼むから、元に戻してくれ」

「まあまあ」

「太陽の子は、人類を滅亡させるつもりだ。

 転生中にはできなくても、その後にでも。

 もう、それでいいじゃないか。

 私だって、太陽の子と同意見だ。

 あんた達の大事な地球は、あと五十億年も続く。

 人類なんて、地球に生えたコケにすぎない。

 絶滅した後は、ウイルスにだって、ごきぶりにだって、転生すればいい。

 何なら、今の意識を持って」

「それも一つの意見だが、太陽の子や月の子、私やあんたといった、全体から見たら、特殊な存在以外は、人類が誕生してから、意識を持つようになった。

 もしかすれば、私達同様、その前から意識があったのかもしれない。

 しかし、人間として転生してから、意識があることに目覚めた。

 彼らの故郷は地球だが、意識の故郷は人類なんだ」

「だから、どうなんだ。

 たかだか、何万年の話だろう。

 それなら、また、何万年かかけて、その意識を他の生物に向けさせたらいいだけの話だ。

 ねずみにでも、魚にでも、鳥にでもね」

「六万年も、人類と無縁でいたあなたには、わからないかもしれないが、何度も人間への転生を繰り返している私達には、ねずみやゴキブリや猫なんかに、転生したいとは思えないんだよ。

 確かに、人間は愚かで欲深く、平気で同じ種族を殺す。

 地球を汚染し、地球を何万回も破壊できるような兵器も作る。

 けれど、私は、そういう愚かで、馬鹿で、残忍で、それなのに、愛情深く、自然を愛し、何とか自分達の愚かさを食いとめようと努めている人類が好きなんだ。

 人間以外の、どんな生物が、自分以上に他を愛する?

 どんな生物が、自分以外の存在に対して、心を砕く?

 私は、人間が愛おしいんだよ」

 私は、アメリカ人がするように、肩をすくめ、両手を天に向けて見せた。

「それは、好きにしてくれ。

 私は、もう、こんな詰まらない茶番に付き合う気はない。

 私にとっては、地球がゴキブリの天下になろうが、人間の天下になろうが、一切関係がない。

 たとえ、人間が滅びたら、私の意識も消滅するというのなら、それはそれでいい。

 元の何も無い状態に戻るだけだ。

 人間の言う『死』ということだ。

 人間は、死んだら、何もかも終わると思っている。

 特に、文明の発達した地域では。

 私が転生した日本でもそうだ。

 ここでも、今は、意識は永遠だと思っているだろう。

 しかし、ここも、どんどん汚染されていく。

 死んだら何もかも終わりだというものが大多数を占めた時、意識も一緒に死ぬだろう。

 私には、関係の無いことだけどね。

 私にとっては、どうでもいいことだ」

 上のものの意識は、しばらく、ぐるぐると、空間を巡っていた。

「おかしなことだが、実は、私も、同じようなことを考えていた。しかし、その考えは、いつも、いつ、私の意識が芽生えたか、というところに行き着く。一体、いつ」

 そう尋ねられると、私も困った。

 もしかすると、意識は、地球が誕生する前、太陽が誕生する前、宇宙が誕生する前からあったのかもしれない。

 それは、私にもわからない。

 瞬間瞬間の意識はあっても、それが、記憶として残らなければ、無いのと同じになる。

 人間で言えば、赤ん坊時代の私が、そうだろう。

 その時あった意識は、後の人生に、記憶として残されていない。

 だから、何も無かったのと同じだ。

「私の意識は……」とそこまで言ってから、なぜ、意識も無かったのに、太古の海で、自分が生命体として存在していたことを知っていたのだろう、と思った。

「私の疑問もそれだ」と上のものが言った。


 一九九五年 祖父


 地震を境にして、お兄ちゃんは、どんどん変になっていった。

「また、森が一つ消えた」とか、「南極の氷が溶けていく」と言っては、顔に苦しそうな表情を浮かべる。

 私には、どう言えばいいのか、どうしてあげればいいのかわからなかった。

 そして、私は、お兄ちゃんのお祖父ちゃんの存在を思い出した。

 お兄ちゃんとお姉ちゃんの本当のお母さんのお父さん。

 私とは何の血の繋がりもないけれど、お祖父ちゃんに会えば、何か、お兄ちゃんに関するヒントぐらいは、得られるかもしれない。

 別に、それほど何かを期待していたわけではないけれど、もう自分では、どうしようもなくなっていて、藁にもすかりたい気持ちだったんだと思う。

 私は、どうしようかと迷ったあげく、直接会社に行った。

 以前、父からだと思うが、お祖父ちゃんは、大抵会社にいると聞いていたからかもしれない。

「幸子」と言ったきり、お祖父ちゃんは、私を見ていた。

「あ、長沢美幸です。

 ご無沙汰しております」と私は、慌てて言った。

「そうか。美幸か、幸子の娘の。

 いや、あれは、美月だったか。というと……」

「母は、頼子です」

「ああ、あの元看護婦の。しかし、驚いたよ。

 まるで、幸子が生まれ変わったかのようだ。

 よく見ると、確かに別人だが、最初見た時、幸子が現れたかと思った」

 私は、困惑した。

 そんなことを言われても、どう答えていいのかわからない。

「達幸のことで来たのか?」と遠くを眺めるような目だった。

「はい」と答えながら、何でわかるんだろうと思った。

「まるで、昨日のことのように思える。

 幸子は、今のあんたと同じ目をして、同じ用件で、私に会いに来た。

 だから、つい錯覚してしまったんだろう。

 私は、仕事バカで、親らしいこともせず、娘には嫌われたままだと思っていたから、来てもらって嬉しかった」

「そうなんですか」と答えながら、場違いなところに来てしまったような、居心地の悪さを感じた。

 お祖父ちゃんとは言っても、私とは血の繋がりもなく、何度か正月に会っただけだった。

 それも、ここ数年は、一度も会うことはなかった。

 相手の表情がそう思わせるのか、それなのに、もっと良く知っている人のような気がした。

「達幸は何才になった」

「十七才です」

「そうか、もうそんな年になったか」

「はい」

「達幸のことも、気にはなりながら、相変わらずの仕事バカだ。

 その上、若い妻をもらったりして、達幸より年下の子供が三人もいる」

 ハハハとお祖父ちゃんは笑った。

「しばらく会っていないが、お父さんは元気か」

「はい」

「会社の業績が思わしくないと聞いているが」

「え、そうなんですか?」

「ま、あんたに言っても仕方がない。

 仕方がないが、あの男ほど、自分を持たない人間も珍しい。

 あの男は、元私の部下だった。

 非常に忠実な男で、私も目をかけていた。

 それで、幸子、私の娘で達幸の母親だが、その世話をまかせた。

 私は、後に達幸の父親になる男と結婚させようと思っていた。

 あんたの父親は、その世話もした。

 娘は私の意に反して、あんたの父親を選んで結婚した。

 しかし、彼は、私の部下で、私の言う通りに自分の会社を興した。

 その間、娘は孤独だった。

 で、達幸の父親になる男の子供を産み、夫とは離婚しようとした。

 ところが、あんたのお父さんは、その男が事故で死んだこともあって、その男との子供ができたことを喜び、夫婦の絆は却って強まり、美月が生まれた。

 知っていたか?」

「いいえ」と首を振りながら、なぜか、そういう場面が映画のシーンのように、見えるような気がした。

 かなり、複雑でドラマティックな話だ。

「達幸は、育てにくい子供だった。

 で、娘は達幸にかかりきりになった。

 次に生まれた美月は、あんたのお父さんとお母さんの手で育てられた。

 多分、それがきっかけになったんだろう。

 娘の死んだ後すぐに、二人は結婚して、あんたが生まれた。

 あんたも達幸同様、育てにくい子だったんだろう。

 あんたのお母さんは、前の奥さんの父親ということで、私を嫌っていたが、困り果てて、達幸と美月の世話を、夫を通して頼んできた。

 美月は、うちに馴染んだが、達幸は、すぐに逃げ帰ってしまった」

 どういうわけか、自分が、そういった情景を想い描けるのが不思議だった。

「私は、お兄ちゃんに育てられました」と私は言った。

「それは知っている」とお祖父ちゃんは言った。

 本当に、何でも知っているお祖父ちゃんだ。

「これは、私の癖でね。

 仕事でも家族でも、全部知っておかなければ気がすまない。

 あんたが生まれたお蔭で、達幸の心が落ち着き、達幸に育てられることで、あんたの心も落ち着いた。

 あんたの家族は平和に暮らせるようになった。

 そして、たまの正月以外には、私の出る幕は無くなってしまった」

 そうか。そういうことだったのか、と改めて、私は事情を知った。

「達幸が心配なんだね」と言われて、私は、何でも知っているこの人は、神様かもしれないと思った。

「だから、私のところに来た」

「はい」

「何か困ったことがあるんだね」

「はい」

「その前に教えておいてあげよう。

 達幸は、娘の資産を全部受け継いで、実は、大変な金持ちだ。

 娘が死んだ時、資産総額は、十億と少し。

 私が管理して、今では、十五億に増えている」

「十五億?」と言われても、あんまり実感はない。

「途中で、色々あったけどね。

 あんた達一家が住んでいる家は、娘の母親のものだった。

 娘は、家も資産も、全部達幸に残した。

 夫でも娘の美月にでもなく、全部、達幸にだ。

 当然、夫と娘には、法定分の遺産を受け取る権利が残っていた。

 私は、それを、家と土地、そして、新しい会社を興す資金で、権利を放棄してもらった。

 一つには、余りにも若くして死んだ娘の遺志を尊重したかったのと、何もかも、新しい妻の言いなりになっている、あんたのお父さんに見切りをつけたかったのだ。

 お父さんの本当の素質を見極めたかったというのもある。

 あんたのお母さんの望み通り、私が完全に手を引いてから、会社は、二つとも、いつ潰れてもおかしくない状態になっている。

 それだけの男だったんだよ。

 私の娘が選ぶような男ではなかった。

 あんたには、聞きたくない話だろうが、つい、娘の生まれ変わりのような気がして、我にもなく、詰まらないことを話してしまった」

「お兄ちゃんが、お金持ちなら、どういうことになるのでしょうか」と私は、尋ねた。

「何でも好きなことができる」とお祖父ちゃんは答えた。

「たとえば、今の家を出て、好きな家を買って暮らせる。

 日本でだって、外国でだって、どこででも。

 あんたと二人で暮らすこともできる。

 もしも、望めばだがね。

 商売がしたければ、会社も作れる。

 何かの研究がしたければ、研究所だって作れる。

 世界の難民を救済したければ、それもできるし、世界中の孤児のために、病院や学校を作りたかったら、それもできる。

 地球の緑化に取り組みたかったら、それでもいい。

 大抵の人間は、金の力をバカにするが、それは、己が金を持たないからだ」

「はあ」そういうものか、と思った。

「そうか。達幸は、もう十七才か。

 相変わらず学校には行ってないようだな」

「はい」

「家庭教師もいつかない」

「はい」よく御存じで。

「まだ、話さないのか」

「……」

 うーん……と私は困った。

「あんたには、何でも話すけれど、あんた以外の人間には話さないんだな」

「はい」

「何に興味を持っている」

「……地球です」

「地球?

 地球の何に?」

「環境汚染とか、ウイルスの暴走とか」

「ほお。人間なんか滅びればいいと言っている?」

「……」

 何でわかるんだろう……

 ズバリ核心に来てしまった。

「妹以外の誰とも接触せず、自分の部屋にばかり閉じこもっていると、誰でもそうなる」

「はー」そうなのか。

「これでも、昔は、学習塾チェーンのオーナーだった。

 今では、自分が何屋かわからなくなるぐらい手を広げてしまったが。

 不登校の子供のためのプログラムも作った。

 どうも、自分の身内は後回しになってしまうが。

 さて、達幸は、私に会いに来るかな?」

「多分、ダメだと思います」

「あんたを人質にとったら、どうだ」

「……来るかもしれません」

 怖いお祖父さんだ、と私は思った。

「冗談だよ。

 あんたは、真面目に一生懸命、コツコツ勉強しても、成績のよくならないタイプだな」

 瞬間的にムカッとしたけれど、その通りなので、何も言い返せなかった。

「よし。中学一年生だな。

 これをやろう」とその辺りに山になっている本の中から一冊の冊子を取り出した。

「テスト前には、教科書なんか勉強せずに、この問題だけやって、答えを暗記しなさい」

「はあ……」

「教科書というのは、簡単なことを、わざと分かりにくく書いてある。

 面白いことを、さも難しいことみたいに書いてある。

 そんなものを一生懸命に覚えても無駄だ。 

 学校の教師がテストに出す問題やパターンは、大体決まっている。

 これは、うちの塾チェーンで、勿体ぶって教えているものだ。

 私が開発したんだがね」

「はあ……」

 ますます、訳の分からないお祖父さんだ。

「達幸の誕生日は、六月だったね」

「はい」

「知ってるかね?

 達幸の実の父親と母親も、そして、育ての親のあんたのお父さんも、誕生日が同じだということを。

 奇妙な偶然の一致でね」

「はー」

 お父さんとお兄ちゃんの誕生日が同じだというのは知っていたけれど、実のお父さんとお母さんの誕生日までが同じだとは知らなかった。

「達幸は、家族に誕生日を祝ってもらっているか?」

「……私がお祝いしています」

「なるほど、それは、ちょうどいい。

 誕生祝に会おう。

 毎日の食事はどうしている」

「……私が、部屋に持って行っています」

「誰が作る」

「お手伝いさんが作ります。

 作ってない時は、私が作ります」

「わかった。

 それは、人類なんか滅びた方がいいと思うだろう。

 誕生日のプレゼントに何をやれば喜ぶと思う?」

「さあ」

「お金ではないな。

 今の達幸には、使い道もわからないだろう。

 絶世の美女はどうだ」

 このイヤなジジイめ、と私は思い、唇を噛んだ。

「中学生には、冗談は通じないか。 

 ま、私が考えておこう。

 一つ聞いてもいいか?」

「はい」絶世の美女の話以外なら。

「達幸は、今の家にいて幸せだと思うか?」

 これは、私にとって、厳しい質問だった。

 お兄ちゃんにとっての、自分の存在価値を問われている。

 でも、考えるまでも無かった。

「幸せだとは、思えません」と答えるしかなかった。

「今の家から達幸がいなくなったら、あんたは、どうする」

 突然のことで、私は、ぼうっとした。

 そして、お兄ちゃんのいなくなった我が家を思い描き、唇が震えた。

「わ、わかりません」と答えるのが精一杯で、涙とハナが一度に出てきた。

「ほら」とお祖父ちゃんは、その辺にあったタオルを無造作に渡した。

 涙とハナを拭きながら、このタオル、何に使っているのか、臭いと思った。

 せめて、ハンカチとかティッシュの箱でも渡して欲しかった。

「どうやら、あんたと達幸は、セットでないと身動きできないようだな」

「だって、だって、私、お兄ちゃんに育ててもらって、だから、私、お兄ちゃんがいないと……」と訳のわからないことを口走っていた。

 その瞬間、今まで幸せな家族と思い込んでいた、自分の今いる家庭が、突然、その本当の姿を現したように思った。

 危うい崖の上に立っているような家庭。

 お兄ちゃん以外からは、誰からも愛されていない自分。

 そして、私以外からは、誰からも愛されていないお兄ちゃん。

「わかった、わかった。

 この祖父ちゃんに、まかせておけ。

 どっちにしても、今のままでは、いられないだろう。

 誕生日まで、お父さんの会社がもつことを天に祈っておくよ」

 


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