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太陽の子 六万年前  作者: まきの・えり
7/10

太陽の子5

 一九八一年 死後


 行く時と違って、戻る時は、簡単だ。

 あっと言う間に戻ってしまう。

 覚悟も儀式も何も無しだ。

 戻ってから、私は、自分の葬式の一分始終をビジョンで見た。

 戻ってみると、そんなものを見ても、何の感慨も無かった。

 はー。

 太陽の子を産む仕事を果たして、一件落着。

 私は、また元の、あるでもなく無いでもない、至福の世界に戻るのだ。

 人間のする瞬きの間のことになんか、一体、何の意味があったのだろう。

 そして、また、自分が経験した人生に、一体どんな意味があったのだろう。

 そこにいる間には、何やらかにやら、意味とか感情とか、紆余曲折に、笑いに涙なんていう香辛料があったみたいだが、戻ってみれば、そんな無意味に付き合った自分に、あー、お疲れさま。

 しかし、いくつか解せないこともあったので、「帰ってきた喜びの儀式を」とか、「準備所への報告を」という、なぜか十二一重をユカタに変えたものの叫びを無視して、上のものの所に瞬間移動した。

 おっと待ってくれ。

 意識だけになって行った私を、人間世界の男のままの、上のものが出迎えた。

「待っていたよ。

 どれだけ君に会いたかったか」と堺逹彦の姿のままの上のものが言った。

 長い間、準備所にいると、こういう風になるのだ、といういい見本だ。

 人間世界の姿のままで、意識体の私に抱きつこうとするので、人間世界のハンマーに変化して、その馬鹿頭を叩きつけてやった。

「しかし、本当に会いたかったのだよ」と陥没した頭を修復したので、今度は、ミサイルに変化すると、さすがに我を取り戻したのか、意識体になった。

「元の境涯に戻る前に、二三質問がある。

 正直に答えてもらおうか」と私は言った。

「人間世界では、あんなに美しく、たおやかで、男性的で魅力的だったのに」と意識体になった後も、くどくど言おうとするので、私が、大砲になると黙った。

「私は、太陽の子を産むためだけに、転生したはずだったな。

 私が、産んだアレが、太陽の子だな。

 転生したお前との間の子だ。

 そうだな」

「そうだ。

 何て美しい愛の世界だったんだ。

 ああ、もう一度、あの世界に戻りたい」

「質問にだけ答えろ。

 私が読んでいった履歴書には、お前と結婚して太陽の子を産み、その前にお前が死んで、私が太陽の子を五才まで育てて死ぬとあった」

「そうだったかな」

「誤魔化すな!」と人間のように怒鳴ってしまった。

 ああ、悪しき後遺症だ。

「実際には、私は、お前とは結婚せずに、別の男と結婚し、その男の子供まで産んで、太陽の子が三才の時に死んだ」

「うう、む。そうだったかな」

「誤魔化してもわかるぞ。

 あれは、月の子だな。

 何で、私が、太陽の子だけでも大変だという話なのに、月の子まで産むことになった。

 そんなことは、履歴書にもなかったし、その御陰で……」

「達幸は」と言いかけて、余りにも、人間世界に毒されてしまったと、自分で恥じた。

「すまん」と上のものは言った。

「全ては、私の転生した後のことだ。

 月の子の父のなり手は、決まっていたが、母のなり手は、ついに現れなかった。

 で、私の後を継いだものが、あなたを母にするために、履歴書を、ほんの少し変えたようだ」

「ほんの少しー!」

「太陽の子同様、月の子も、私よりも、私の後を継いだものよりも、長い意識を持っている。

 そういう意識には、どうしようもないのだ」

「先に意識を持った者が偉いというわけか」

「我々にわからない、我々の知らないことを知っているものには、正直、どう対処すればいいのかわからないのだ」

「で、言いなりになるのか。

 あー、馬鹿らしい。

 好きにやれ。

 私は、元いた場所に戻る」

 もう少しで私が元の場所に戻るのを、上のものは、必死で止めた。

 多少のことでは止まらないと思ったんだろう、人間の時の私の子が叫んでいるビジョンを見せた。

「卑怯だぞ、お前は!」

「仮初の世界で、仮初の仲とはいえ、あなたと私の子ではないか」

 まだ、多少は人間の意識に支配されている私には、胸の痛むビジョンだ。

「頼む、今一度、転生してくれ。

 私も、出来るかぎりのサポートを送る」

「はあ?何を寝惚けたことを。

 一度だけというので引き受けた仕事だ。

 お断りだ」

 その時、地球のビデオを再生するように、上のものは、再生した。

 達幸は泣きわめき、私の元夫は、美月を抱いておろおろし、元看護婦は、冷たい目で、達幸を見下ろしていた。

「月の子は、人間にこそ転生しなかったが、様々な人間の守護役をしている。

 だから、サポートする者も多いし、人間界のことに慣れている。

 ところが、太陽の子は、寝ながら地球を見てはいただろうが、人間を見てはいなかった。

 だから、君が死んでしまうと誰からの守護も得られない」

「何を!

 守護をするものを送ると言ったのは、嘘か」

「送ろうとしたが、太陽の子が受け付けないか、守護役を尻込みする者ばかりだった」

「わかった。

 仕方がない。

 私が守護役になってやる」

「それはありがたいが、今では、人間の子供である太陽の子は、人間の愛情が無いと育たない。

 このままいけば、一年もしないうちに死ぬだろう」

 ふっと私は笑った。

「いいじゃないか。ここに戻ってくれば。

 そして、また転生したい気があるなら、転生すればいいし、したくないなら止めればいいだけの話だ」

「そうはいかないんだ。

 太陽の子は、このまま行けば、自分で自分を殺す」

「だから?」

「自分で自分を殺してしまえば、永遠に、ここには戻って来られない。

 永遠に地球とここの間で、死んだ瞬間を、何度も何度も繰り返すのだ。

 一度死んでいるから、もう死ぬことはない。

 永遠に同じことを繰り返す」

 いやなことを言うヤツだ、と私は思った。

 私にも、まだ、人間の感情の名残はある。

「わかったよ。

 転生すればいいんだな」

「その通りだ。

 条件は、前と同じでいいな。

 君が転生するなら、私も一緒に転生したいが、そうも言っておられん。

 転生していた間の仕事が山になっている。

 守護役は、前と同じだ。

 彼女が、君と太陽の子の間の意思疎通を可能にした。

 苦労したらしいが」

「ふーん。そうか。

 で、今度は、何になるんだ。

 どちらかというと、男がいいが。

 太陽の子を守る男というのは、どうだ」

「残念ながら、今回も、女性だ。

 太陽の子の妹だ。

 君の元夫と、元看護婦の間に生まれる娘だ」

「もう、どうでもよくなってきた。

 こうやって、ここの連中は、無闇に転生を繰り返すわけか」

「僕と君との間にできた息子じゃないか。

 守ってやってくれ」

「私情が入ってないか?」

「私情を入れられるのも、上のものの特権だ」

「……もうどうでもいいと思っていたが、無理なことを引き受けるんだ。

 ここでの意識を持っていかせてくれ」

「な、何を法外なことを。

 それは、できないことになっている」

「では、私は、元の生活に戻るだけだ」

「特別に、赤ん坊の時と眠っている時にだけ、ここでの意識を持たせよう。

 だが、人間というものは、赤ん坊の時の意識は薄れるし、眠っている間のことは、忘れてしまうものだ。

 それさえ、何とかすれば、毎晩、ここでの意識を思い出すだろう」

「ま、よしとするか」

「では、早速、儀式だ。

 早くしないと間に合わない」

 仕方無く、私は、また、元の身体を固定した。

「おおお」と上のものは、人間の肉体になり、私に駆け寄ろうとしたが、糸の巻き方が超高速だったため、駆け寄った時には、私は消えていた。


 一九八一年 転生


前回と違って、姿の消えた後も、意識は残っていた。

 人間慣れしたということか、眠っている時は、前の意識があるからか、きゅっと小さな所に、押し込められた気がした。

 人間だったからわかるが、受精した瞬間なのだろう。

 それが二つに別れ、二つが四つに別れ、とどんどん細胞が増えていく。

 増え切ったところで、上下がくびれて、上から下に一本の通路ができた。

 口と肛門は、実は上下があるだけで、別にどっちがどっちでも良かったのか、と変なところで感心した。

 学校で習ったように、または、前世で夫が買ってきた本やビデオで見た通り、人間というのは、魚類から爬虫類、哺乳類と、生物の進化の過程をたどって、人間ぽくなっていくのだった。

 まあ、これを、意識を持ちながら自分で体験したのは、私が初めてかもしれない。

 別に、嬉しくも何ともないが。

 プカー、プカーと羊水の中で浮かんでいるのも、中々気分のいいもので、元いた世界で、光の中で、ぼうっと浮かんでいる状態に似ているかもしれない。

 あー、こういう状態に戻りたかったのだった。

 あー、いい気分だ。

 時々、音楽が聞こえたり、人の声がぶおーんという感じで、水を通して聞こえてくる。

 何を言っているのかまでは、ハッキリと聞き取れないが、笑い声とか怒っている声とか泣いている声とかの区別はつく。

 ウギャアア、という叫び声は、太陽の子、この世界では、達幸の声だろう。

 怒っているのだ。

 ウゴオオ、という声は……

 悲しんでいる……

 グガーー、という声は……

 何だろう?

 そのうちにわかった。

 眠っているのだ。

 あんなに大人しくて、寝てばかりだった子が、今では、グガーグガーという音を立てて眠るようになっているのだ。

「お母さん」という達幸の声が、そばでハッキリと聞こえた。

「ちょっと、あっちに行ってて、達幸君。

 お母さんは、今忙しいから」という冷たい声も聞こえる。

「お母さん」とまた、そばで、達幸の声がする。

 私には、彼が、私を探しているのがわかった。

 小さな手が、触れるのがわかった。

「あっちに行ってて、と言ったでしょ!

 やめて、お母さんのおなかに触らないで!」

 その後、「あなた、あなた!」というキンキンした声が聞こえた。

 私の母になる人ながら、耳触りな声だ。

 前世の私が死んだ後で、私の元夫と結婚したものらしい。

 私の元父は、一体、どうしたのだろう。

 元父も達幸が気にいらなかったのだろうか。

「どうした」という、元夫の耳慣れたはずの声が聞こえたが、何の関係も無い人間の声みたいだ。

「この子を、どこかに連れて行って。

 私のおなかに触ろうとするのよ、気味が悪い」

「弟か妹に触ってみたいんだろう」

「どこかに連れて行って、と言ったでしょう!」

「はい、はい。さあ、達幸、お父さんと、あっちで遊ぼう」

 そのとたんに、ウギャアア、という凄まじい叫び声が聞こえてきた。

 次いで、ウゴオオ、ウゴオオ、という声。

『達幸、達幸』と話し掛けてみても、無駄なようだった。

「その子」という冷たい声が聞こえた。

「あなたの本当の子じゃないんでしょ。

 前の人が他の男と不倫して作った子でしょう。

 その男の実家に引き取ってもらえばいいじゃない」

「うん……」と元夫の声は、歯切れが悪い。

 母のおなかの中で、私は考えた。

 元妻と他の男の子供の達幸、元妻と自分の子供の美月、そして、また、今の妻と自分の子の私。

 それが、実は、元妻が転生した子供。

 しかも、今の妻は、キンキン声のヒステリー女……

 私がこの男なら、世をはかなんで出家するか、何もかも捨てて、外国にでも逃げる。

 上の者に尋ねるのを忘れていたが、太陽の子の育て親と月の子の父親になるなんていう大役を引き受けたこの男の前世は、何だったのだろう。

 ま、元々、私の夫になるというシナリオは無かったのだから、知らないうちに、こういう羽目に陥ってしまったのかもしれない。

 私が、知らない間に、月の子の母親も押しつけられたのと同様。

 ウゲ。

 苦しい。

 何か周囲から頭を締めつけられる気がする。

 痛い!

「あ、あなた、陣痛が来たわ。

 あ、破水した」という声。

 ちょっと待って。

 こういう時に、意識なんかいらない。

 イタタタタ。

 というわけで、私も、今回の母親の陣痛に十二時間も付き合うことになった。

 頼むから、意識を消してちょうだい、お願い、お願い。

 が、最後まで、意識が消えることなく、間歇的に、ギョエーという声で叫びたいほど、締めつけられる。

 前の人生で読んだ本の中に、死ぬ時には、暗い道を通っていくような話があったが、それに締め付けと痛みが加わった、まさに生き地獄の極致だ。

 意識を持ったままなんて、言わなければ良かった。

 後悔、先に立たず……

 その上、「子供なんかいらない!

 殺して、子供を殺して!」なんていう絶叫を聞きながら、これ以上の地獄は、どこを探してもないね、と思ったとたん、グエーッと身体がねじれて、首まで締まった。

「臍の緒が首に巻きついているぞ」という声が微かに聞こえる。

 もう、ここで死なせてください。

 元の世界に帰らせてください。

 と思ったとたん、ギャアという絶叫を耳にしたまま、明るい世界に飛び出した。


 一九八二年 美幸、誕生


 私だって、泣きたかったから、ギャアギャア叫んでやった。

 赤ん坊の特権で、これに文句を言う者は誰もいない。

「元気な女の赤ちゃんですよ」

 ギャアギャアギャア。

 叫び疲れたら、眠ってしまったらしい。


 ようやく眠れたとたん、『あなた、私が、いつもついています』という腰に獣の皮を巻いた毛むくじゃらの女が現れて言った。

 頼むから寝かせてくれー。

『現れる時は、この姿の方がよろしいですか?』と色々に姿を変えた。

『どの姿がよろしいかしら?』

 どれでもいいから、寝かせてくれー。

『いつも、おそばにおりますので』

 これが、六万年前、私の妻だった女か……

『私よりも、太陽の子のそばにいてやってくれ』

『いや。あなたのそばがいいのです』

 ふー。疲れる。


 目を覚ましたら、

「元気そうな赤ちゃん」

「丈夫そうな赤ちゃん」という声が耳に入ってきた。

「お父さんにソックリ」

 え!

 ちょっと待て。

 私の履歴書に変更がないなら、

『美しい赤ちゃん』

『可愛い赤ちゃん』になるはずだ。

 まさか……

 父親似のおじさん顔の赤ちゃんでは……

 最悪の人生だ。

 この前は、転生したとたんに、意識が無くなったが、今回は、まだある。

 そうは言っても、前の人生で、自分が赤ん坊の時に、周囲が何と言っていたかは記憶にないから、前も、最初は、おじさん顔だったかも、と自分を慰めようとしたが……

 そんなはずはない。

 あんまりムカツイたので、また、ギャアギャアと泣いてやった。

 クソ。意識のある限り、ギャアギャアと泣きわめいてやるから、そう思え。

 上のものめ、今度会ったら、大砲で吹き飛ばしてやる。

「あなた、私、どうも、この子は、好きになれないわ」と実の母が言った。

 そいつは、お互い様だ。

 私だって、お前なんか大嫌いだ。

 ギャアギャアギャアギャアギャア。

「何を言ってるんだ。

 君と僕との子供じゃないか」と父が宥めている。

「それは、そうだけど」

 ギャアギャアギャアギャアギャア。

 ふっふ。

 退院してから一週間もしないうちに、母は、ノイローゼ状態になった。

 昼間寝て、夜中、ギャアギャア泣きわめくという作戦に出てやったのだ。

 どうやら、前世の恨みを晴らしているのかもしれない。

 人間並に言えば、私がまだ生きているうちから、夫と不義密通し、私の死後、我が子の達幸を邪魔者扱いにした女だ。

 あー、自分が、どんどん人間化していくのが悲しい。

 退院して二週間も経ったある晩のことだった。

 相変わらず、ギャアギャアと泣きわめいていると、母は、突然、私の両足をつかんだ。

 逆さ吊りの刑にされた形だ。

 今回は、赤ちゃんの常識に支配されて、本気でギャアギャア泣いた。

 逆さ吊りの刑は、イヤ。

「これ以上泣くと、壁に叩きつけるよ」と母は言った。

 げえ。

 呆気ない最期だ。

 どうせ死ぬなら、死ぬまで泣きわめいてやると覚悟したとたん、私の泣き声は止んだ。

 ドアのところに、誰かが逆さに立っているのが、薄ぼんやりと見えた。

 雰囲気的に、父ではない。

 多分、美月か達幸だろう。

「何しに来た!」と母が叫んだ。

 ということは、達幸だ。

 母が逆上するのは、赤ちゃん殺しの現場を見られるところだったんだから、当然の態度だろう。

「僕が面倒を見るから、殺さないで」と達幸は、ズバリ核心をついた。

「お父さんには、言わないから」と殺し文句も付け加えた。

 ふーむ。

 私が、いない間に、かなり、人間化したようだ。

「お前、ことばが話せるの……」

 毒気を抜かれた母のそばに達幸が来て、逆さになっている私を受け取った。

 私は、驚いたまま、達幸に抱かれていた。

「大丈夫だよ、美幸、もう、大丈夫だよ」

 え?

 私の名前は、美幸なの?

 今まで、誰も呼ばなかったけど。

「名前、美幸でいいよね、お母さん」

「え、ええ……」

 ということは、まだ、名前もつけてもらってなかったってこと?

 役所には、生まれて二週間以内に届けないといけないんだぞ。

「僕が、美幸の世話してもいいよね、お母さん」

「そ、そりゃあ、構わないけど……」

 構わないけどじゃなく、「嬉しい」と言え、と私は思った。

 ふー。

 命拾いした。

 いくら何でも、生後三週間で、母親に壁に叩きつけられて死ぬのは悲惨だ。

 意識が無いならいいけど、あるんだから、そりゃあ、想像を絶する、痛さと恐怖を味わった、と思う。

「お母さん、僕の部屋に、ベビーベッドを持ってきて」

 母は、命令を聞くロボットみたいに、達幸の後から、ベビーベッドを引きずって、着いて来た。

 前世で母と住んでいた家は、殆ど改装されているみたいだけれど、逹幸が私を運んで行った部屋は、前世の私の勉強部屋だったところだった。

「そうだな。

 僕のベッドの横にベッドを置いて」と言われて、母は言う通りにした。

「お母さん、ずっと大変だな、と思っていたんだよ。

 今日からは、グッスリ眠ってね」

 母は、達幸の言うことを聞いているのかいないのか、ふらふらーっと、部屋から出て行った。

「じゃあ、お休み、美幸」

 うーん。まだ意識が無くならないのと関係があるのか無いのか、この日、私は夜泣きをするのも忘れ、六万年前の妻に煩わされることもなく、今回生まれて初めて、グッスリと眠った。

 朝起きて、今までの習慣通り、ギャアと泣こうとする寸前に、達幸が言った。

「おなかがすいたんだね。

 今、ミルクをもらってくるから、待っててね」

 達幸は、何才になったのだろう。

 私が前世で死んだ時が、三才だった。

 上のものと、何やかやと言っている間に、元夫は、今の妻と再婚していた。

 私を妊娠して、出産するまでに、十カ月として、四才か五才?

 ええい、いずれ、わかるだろう。

 達幸は、哺乳瓶を頬に当てて温度を計りながら戻ってきた。

 そして、私を抱き上げると、口に哺乳瓶をつけた。

 恥ずかしながら、今の私は、ただの赤ちゃん。

 即、哺乳瓶に吸いついて、我を忘れて、うぐうぐうぐとミルクを飲んだ。

 ゲップをしたまでは許せるが、その後、ブリブリブリとウンチをしてしまったのには、我ながら参った。

 赤ちゃんの時は、意識なんか無い方が、実は幸せかもしれない。

 あー、元我が子の前で、何て恥ずかしい。

 人前でウンチをブリブリと音を立ててするだけでも恥ずかしいのに、その後、そのウンチを見られた上、全てをさらして、ウンチを拭いてもらわないといけない。

 不幸中の幸いは、ウンチが、臭くなかったことだけだ。

 これで、物凄く臭いウンチだったら、そのまま息絶えた方が、よっぽどマシだ。

 が、自分は赤ちゃんであるので、そんな屈辱に耐えなければならなかった。

 しかし、おかしなもので、人間というのは、どんな状況にも慣れてしまうものらしい。

 うぐうぐ、ごくごく、ゲップ、ブリブリ。

 おなかが一杯になって、ウンチをたっぷりして、そして、お尻が綺麗になって気持ち良くなると、自然に頬がほころんでくる。

 そして、ベッドに横になって、うつらうつらしていると、あー、極楽極楽。

 一生、赤ちゃんをやるのもいいかもしれないとまで思える。

 そして、その日を境に、達幸のウギャアやウゴーという叫び声も、私の一晩中ギャアギャアと泣きわめく声も無くなり、どこにでもありそうな、平和な一家に変貌した。

 私の今回の誕生の役割は、達幸の自殺を食い止めることだったが、それは一応果たせたことになる。

 達幸は、私の子守役として、この一家に無くてはならない存在となり、実の母親が死んでから初めて、自分の居場所を獲得した。

 そして、自分の生き甲斐も。

 前世の彼の母の立場で考えると、達幸は、父も無く、母もいない天涯孤独の身の上だ。

 その上、誰からも愛されず、愛する者もいなかった。

 この世に一人ぼっちの身。

 あんまり不憫で、涙が出る。

 すると、達幸は言うのだった。

「大丈夫。

 僕がずっとついているから。

 怖いことも悲しいことも、淋しいこともないからね」

 しかし、美月の姿が見えないようだが、どうしたのだろう、と思っていると、母とお手伝いさんの会話から、お産の間、お祖父ちゃんのところに、預けられていることが判明した。

 すると、前世の父は、まだ健在なわけだ。

 達幸も一旦は預けられたが、脱走して、この家に戻ってきてしまったらしい。

「幼稚園も、すぐに行かなくなってしまわれたし、学校はどうなさるんです?」とお手伝いさんがきいている。

「再来年は、小学生だというのに、どうなることやら」と母の声。

 ということは、と姿は赤ちゃんでも、頭は大人の私は、達幸の年令がわかった。

 再来年小学校に入学する四才児か。

「でもまあ、人には使い道があるってことね」と二人は、さも面白いことを見つけたように、笑い合っていた。

 何で、元夫は、よりによって、こんな女と結婚したのだろう。

 ま、今の私には関係無いことだけど。

「僕の部屋で、何をしているんですか?」と達幸の声。

「まあ、達幸さん……いえね、美幸ちゃんが、すくすく育っているのは、達幸さんの御陰だと、話していたところなんですよ」とお手伝いさんが、その場を取り繕った。

「そうですね。

 美幸に何かあったら、大変ですからね」と達幸は、人の心を貫き通すような冷たい声で答えた。

 オホホホホホ、という理由のない笑い声を残して、二人の声が遠ざかって行った。

「……達幸さん、いつから話せるように?」

「さあ……」

 赤ちゃんの不便な所は、寝ていると天井しか見えないことだ。

『美幸に何かあったら』と達幸が言った時の、母の顔を見たかった。

 バタンとドアの閉まる音がして、達幸の顔が、私の目の前に現れた。

「ほら、美幸、これが、絵本だよ。

 いっぱい絵と字が書いてあるでしょ。

 これが、字の本。

 絵が無くて、字だけなんだよ。

 それから、これが、コップ、これが、茶碗。

 美幸は、まだ、ミルクだけだけど、これから、こういうのを使うようになるんだよ。

 それから、これは、鏡。

 びっくりするかな。

 自分の顔が写るんだよ」

 う……やめて。

 自分の顔を見るのは、とっても怖い。

「ほら、これが、美幸の顔。

 可愛いだろ?」

 恐々と見た自分の顔。

 覚悟はしていたけれど、思わず、ウギャア、と叫びそうになった。

 どこから見ても、父の娘。

 哀れなおじさん顔の赤ちゃんの顔があった。

「ほら、こんな美人の赤ちゃんは、他にいないよ。

 世界一可愛い赤ちゃんだよ」

 もうわかった。

 私は、おじさん顔に生まれついてしまった。

 もう、鏡をどけてちょうだい。

 でないと、泣き叫ぶよ。

「怖くないよ。

 よく見てごらん。 

 これが、美幸。

 世界で一番美人の僕の妹」

 見ているうちに、自分の顔に慣れてきたのか、または、達幸の言っていることに、マインドコントロールされてしまったのか、何となく、自分でも、もしかすると可愛いのかも、と思えてくるから不思議な話だ。

「ほら、笑った。

 笑うともっと美人になった」

 うーん。 

 そう言われると、自分の顔が凄く可愛いように見えてきた。

 まあ、いい。

 達幸がそう言うんだから、きっと可愛いに違いないことに決めた。

 そして、ふと、自分には元々、顔なんてものは無かったことを思い出した。

 いつの間に、人間の言う美醜に惑わされるようになったのか。

 前回の、瞬きする間の人生で、植えこまれてしまったに違いない。

『準備所』にいる者達が、人間並の価値観を持ったり、転生を繰り返すのも、何となく理解できる気もする。

「美幸、これが、僕の本当のお母さん」と達幸は、前世での私の写真を見せた。

 こんな写真しか残ってないの……?

 三つ編みに黒縁の眼鏡をかけた、高校時代の卒業写真だ。

「綺麗だろう?」

 わかった、あんたの美意識が。

「他の写真は全部燃やされてしまったみたいなんだ。

 これは、お祖父ちゃんに、内緒でもらった。

 お祖母ちゃんにも内緒だって」

 お祖母ちゃん……

 ということは……

 あの狸親父は、母が死んだ後、再婚したのか。

「それから、僕は、お父さんの本当の子供じゃないんだ」

 私の今生の母が、あれだけおおっぴらに言っていれば、誰だって知っている公然の秘密というわけだな。

「美幸だけが、僕の家族だよ。

 僕の大事な妹だよ」

 何だか可哀相で、目が潤んだけど、今生の家族の中では、達幸と私には、血の繋がりは何も無い。

 良かった。

 喋れない赤ちゃんで。

 口がきけたら、「私とあなたは、本当は、兄妹でも何でも無い赤の他人なんだよーん」なんて、言ってしまったかもしれないから。

「美幸、僕は、美幸が生まれるまで、話せなかったんだよ」と達幸が言った。

「頭の中にことばはあるんだけど、口から出て来るのは、叫び声になってしまう」

 はい。よくわかります。

 今の私の状態が、正にそれ。

 せいぜい、ダーダー、ブブブブ、しか言えない。

「だから、幼稚園に行っても、叫んでばかりいて、先生が、『もう、あんたみたいな子は、来ないでちょうだい!』って、僕に向かって怒鳴ったんだよ。

 で、僕は、先生に言われた通りに、行かなくなったんだ。

 行かなくなったら、先生がうちに来て、『どうして、幼稚園に来ないの?』と言うんだよ。

 で、僕は、また叫んでしまった。『先生が来るなと言ったんでしょう?』と言いたかったけど、叫び声しか出なかったんだ」

 わかりすぎて、聞いているのが辛くなる。

 私が死んでから、誰も達幸の言うことを聞いてやらなかったから、叫ぶしかなかったのだろう。

「こんなことを言っても、美幸にはわからないだろうけど、でも、聞いてくれるだけで、いいんだ。

 だって、今まで、誰も話す人がいなかったから。

 だから、美幸は、僕みたいになっちゃダメだよ。

 だって、もう少しで、泣いてばかりで、僕みたいになるところだった。

 僕が、いっぱい美幸に教えてあげるから、美幸は、ちゃんと、話をしないといけないんだよ。

 色々な人と話をして、美月みたいに、誰にでも好かれるようになってね。

 美月というのはね、僕の妹で、美幸のお姉さんだよ。

 きっと、もうじき、帰って来るよ。

 僕は、本当のことを言うと、あんまり好きじゃないけど、誰もが、お父さんもお母さんも、お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも、美月のことを好きだよ。

 幼稚園の先生も園長先生も、皆、美月のことが好きだ。

 だから、きっと、美幸も美月が好きになると思う。 

 そしたら、僕のことは放っておいて、美月と仲良くしたらいいよ。

 僕は、美幸のことを忘れないけど、美幸は、赤ちゃんだから、僕のことを忘れてもいいよ。

 美幸が幸せでいるなら、僕も幸せだと思うから。

 美幸は、不思議な赤ちゃんだね。

 僕の言っていることがわかるような顔をしている」

 まだ、四才の子供のくせに、何という淋しいことを言うのだろう。

 まだ、今は赤ちゃんだけど、私が生まれてきた限り、何としても、守ってやろうじゃないか、という気になってしまった。

 けど、太陽の子よ、あんた、一体、何の目的で、人間に転生したの?

 あんた以外の誰も理由を知らないんだけど、きっと、人間になったとたんに、自分でも忘れてしまったんだろう。

 一回人間になってみたかった、というような理由なら、後で、こずき回してやるから、そう思え。

 大体、転生前の意識があったのは、その辺りまでで、その後、ミルクを飲んだり眠ったり、ウンチをしたり、自分の手と足とかに気を取られ、周囲にあるものに気をとられしていくうちに、完璧に、赤ちゃんと化してしまったものだと思われる。



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