太陽の子4
一九七七年 夏 結婚
私は、父の策略を思った。
どっちに転んでも、父にとっては、同じことだ。
が、父は、自分にとって、誰よりも忠実で、より大きなメリットを持つ男を、娘が選ぶように仕向けた。
その男にさえ、知らせずに。
私と長沢英俊は、父の形式的な反対を押し切って、二十一歳の夏に結婚した。
当然、プロポーズしたのは、私だ。
このままでは、何十年待っても、らちが明かないと判断した。
「結婚しましょう。
もう、帰る姿を見送りたくないから」
父が提案して、長沢が企画した、全社あげての超豪華結婚式は、私が足蹴にした。
学生結婚だったから、まず籍を入れてハワイに飛んで、二人だけの結婚式と新婚旅行をした。
私の家に長沢が入り婿に入るような形になった。
私は、毎日、彼といられることが、思っていたよりも、もっと嬉しいことに驚いた。
一緒に食事を作って、一緒に食べ、彼の背中を見送ることなく、一緒に眠る。
しかし、そんな甘い日々は、一ヵ月も続かなかった。
結婚前には、毎日、私の前に姿を現し、何くれと私のことに心を砕いた彼は、今度は、仕事の方に奔走するようになった。
父と母の結婚を再現しているようだった。
私は、何だか、騙されたような気がしたものだ。
彼といつも一緒にいたいために、私は結婚したつもりだった。
ところが待っていたのは、毎日一人で眠り、一人で起き、一人で食事する生活だった。
私は、よく夢を見た。
奇妙な話だが、夫ではなく、堺逹彦と私が一緒に暮らしている夢だ。
私達は、何も身につけずに向かい合っている。
すると、色とりどりの細い糸が、足下から舞い上がり、私達の身体に巻きついていくのだ。
夫が私から遠ざかっていくにつれて、私は、何度か会っただけの堺逹彦のことを考えるようになった。
大学からの帰り道、私は、偶然に、堺逹彦に会った。
その瞬間、私と彼の身体に、夢の中のように、色とりどりの糸が巻かれていくような気がした。
私達は、何も言わずに、見つめ合ったままで、しばらく立っていた。
「あ」と、堺逹彦が、先に我に返って、「結婚おめでとう」と言った。
「ありがとう」と答えながら、唇が震えてきた。
自分がずっと孤独だったことに、その時、初めて気がついたのだ。
「よし、ドライブに行こう。
ちょっと待っててください」と言って、堺逹彦は、真っ赤な車を運転してきた。
「乗って」と言われて、私は、助手席に乗った。
そして、奇妙な気分になった。
夫の運転する車で、自分が助手席に乗ったことがないことを思い出したのだ。
夫は、常に、私の運転手だった。
「僕が言いますよ」と堺逹彦が前を見たまま言った。
「もしも、あいつが、あなたに淋しい想いをさせているんなら」
「そんなんじゃないんです」と言って笑おうとしたけれど、突然、涙が流れてきた。
堺逹彦は、前方を見たまま、私にハンカチを渡した。
ハンカチを見たら、もっと悲しくなって、ハンカチに顔を埋めて、泣き続けた。
「お母さん、お母さん」と心の中で叫んでいた。
あなたも、こんな想いをしていたのですか。
ずっと、死ぬまで。
「窓の外の風景が流れるのを、見ていてごらんなさい」と堺逹彦が言った。
「自分の心も流れていくから」
言われる通りだった。
人も風景も流れて行き、それに気をとられているうちに、悲しみも孤独も流れていくようだった。
車は、どこに向かっているのか、辺りは暗くなり、まだ車は走り続けていた。
そのうちに、山を登り始めた。
「さあ、着きましたよ、降りて」
私は、あっと息を飲んだ。
「綺麗……」
「宝石箱を引っ繰り返したみたいでしょう?」
右手には海が見え、左手には、色とりどりの明かりが輝いている。
「ここから見る景色が一番好きだ。
下界は、ゴミためみたいだけど、ここから見ると、自分は魔法の国に住んでいるような気になれる」
「あなたって、詩人みたい」
「……失恋した男は、詩人になるしかない」
そう言って、堺逹彦は、明るい笑い声を立てた。
「少しは、気が晴れましたか?」
「ええ」
「僕で良ければ、いつでもお供しますよ」
「ありがとう。でも、やめておきます」
「そうですか。
では、今日の偶然の再会を神様に感謝しよう。
送っていきます」
夫に悪いと思ったわけではなかった。
堺逹彦に、女として、どんどん惹かれていく自分が怖かったのだ。
夫は家族ではあっても、男性として惹かれているわけではなかった。
夫は、異性である前に、父の部下であり、仕事の奴隷だった。
何度か、偶然に、堺逹彦に出会ったが、挨拶だけして別れた。
そう。夢の中だけで、充分だった。
彼は、毎晩、私の夢に現れて、夢の中では、私達は夫婦だった。
私は、よく母のことを考えるようになった。
母は、父がいなくても、少しも淋しそうではなかった。
「淋しい」とか「悲しい」なんて、母が言うのを聞いたことがない。
私を可愛がり、何でも私に話す。
私は、徐々に、母は私を産んでから、淋しくなくなったのではないか、と思うようになった。
そして、母は、私にも内緒で、童話や小説を書いていた。
母が亡くなった後も、母の通帳には、時々振込がある。
まだ、母の作品は、読まれ続けているのだ。
夫は、たまに帰ってきても、疲れ切っており、食事もせず、風呂に入ると、すぐに寝てしまう。
もう、以前の夫ではなかった。
一九七七年 秋 堺達彦
「やあ」と堺逹彦が、綺麗な歯を見せて笑っていた。
今度は、偶然ではなく、私が電話で「会いたい」と言ったのだ。
「何かあったんですか?」
「また、ドライブに連れて行って欲しいと思って」
「そうか。よし、ドライブに行こう」
「前のところに連れて行って」
「わかった」
風景が流れ過ぎていく。
自分の結婚も、同じように流れ過ぎていく気がした。
夜景にも、前ほどの感動は無かった。
私は、彼の目を見つめ、「私は、あなたが好きだと思います」と言った。
「私が離婚したら、結婚してくれますか?」
彼は、何も言わずに、私を見ていた。
そして、私を抱き寄せた。
その時、私の細胞と彼の細胞が一つに溶け合ったような気がした。
彼の匂いと私の匂いが混じり合い、前にも、こんなことがあったような気がした。
彼から離れる時、バリバリという引き裂かれる音がしたように感じた。
「今日、私を抱いてください。
あなたの子供が欲しいのです」
帰りの車の中では、お互いに無言だった。
お互いの心臓の音だけが聞こえるようだった。
私は、細かく震えていた。
彼は、黙って私の肩を抱いた。
彼は、シティホテルにチェックインし、私は、その後ろ姿を見ていた。
「愛しています。初めて会った時から」と彼は、ベッドの上で言った。
「今日は、帰らなくてもいいんですか?」
「はい」と私は答えた。
私は、受精した瞬間を知っていた。
自分の子宮が、パクリと大きな口を開けて、新しい生命を飲み込んだような気がした。
「子供ができたと思います」と私は言った。
「あなたは、本当に、不思議な人だ。
そんなことがわかるんですか?」
「なぜか、あなたの子供を生まなくてはいけない気がしたんです」
「僕も、いつかこういう日が来るような気がしていました。
偶然に三回以上会う相手は、運命の相手だって言うし」
「そうですか。運命の相手……
あなたは、毎晩、私の夢に現れて、夢の中では、私達は、夫婦でした」
「あなたの夢の中の自分に嫉妬しますよ。
僕の夢の中のあなたは、いつも、他人の妻だったのに」
私達は、朝まで愛し合い、語り合った。
私は、初めて出会った時に、糸が巻きつくような感じがしたことを話し、彼は、出会った瞬間に、魂がどこかに飛んでいってしまったみたいだった、と話した。
「僕は、見合い写真を見ていなかったので、お見合いの席に、あなたが現れた時は、本当に驚きました。
そして、自分の幸運を喜んだものです。
束の間の幸せでしたが、あの時ほど幸せだったことはありません。
今も幸せですが、複雑な幸福感ですね」
彼が、夫のことを考えているのがわかった。
「自分が反対の立場だったらと思うと、たまらないな」
「そうですね」と私も思った。
「僕は、一生、日陰の男でもいいんですよ」
「そんなことは、私がさせません」と私は言った。
「あなたは、本当に、意志が強い。
この美しい姿と声が無ければ、並の男性よりも、男らしい」
「そう言われると、母のために、男の子だったら良かった、と思ったことがありました。
そしたら、母をもっと守ってあげられるのに、と」
「あなたが男に生まれていれば、きっと僕が女に生まれていたのでしょう。
どっちにしても、出会って、恋に落ち、幸福な家庭を築く。
生まれる前に決められていたような気がする」
「前世でも、夫婦だったとか?」
「きっと」
私は、シャワーを浴びて、車で、大学の近くまで送ってもらった。
夫との離婚が成立するまで、もう会わないことに決めた。
彼と別れる時、またも、身が引き裂かれるような気がした。
そして、ふっと、もう二度と会えないかもしれない、と思い、そんな馬鹿な、私達は結婚し、死ぬまで幸せに暮らすのだ、と思い直した。
大学から家に帰ると、珍しく夫がいた。
しかも、目が真っ赤だ。
「どうしたの?」と私は、驚いて尋ねた。
「堺が死んだ」と夫は意外なことを言い、その場に泣き崩れた。
「嘘」
「僕だって、嘘だと思いたい。
あんないいヤツはいなかった。
あんないい友達はいなかった」
「だって……」今朝、別れたばかりなのに。
「堺の家から、会社に連絡が入った。
交通事故で、即死だったそうだ」
私は、その場に、へたへたと座りこんだ。
ひどい。
むごい。
ひどすぎる。
「いつ」
「今朝のことらしい」
私と別れて、すぐに……
「対行車線から、ダンプが飛び出してきて、そのまま激突した」
「そう……」
「僕は、今から、堺の家の手伝いに行く。
君は、ご家族と顔を会わせづらいだろうから、葬儀にだけ出たらいい。
しかし、クソ、神も仏もないものか。
堺には、申し訳ない。
本当に、申し訳ない。
君のことが好きだったのに、僕のために喜んでくれた。
あんないい人間はいない」
夫は、喪服を着て、堺家に行ってしまった。
離婚の話を切り出せるような状態では無くなってしまった……
神様は、ひどい、と初めて思った。
私から母を奪い、今また、彼を奪った。
私の未来の幸せを奪った。
彼のいない世界に生きていても、仕方がない。
死のうか、死んでしまって、楽になろうか。
そう思った時に、幻が見えた。
金色の髪を長く垂らした、白装束の美しい少年が、ぼんやりと見えた。
『お母さん、僕がいる。僕がいるよ』
私は、ハッとして、おなかに手をやった。
『そうだよ、お母さん、僕は、そこにいる』
そう言うと、少年の幻は消えた。
そうだ。
彼の子供がいる。
私は、彼を愛するように、その子供を愛そう。
母が私を愛し慈しんだように、その子を慈しみ育てよう。
結局、私は、葬式にも参列しなかった。
自分が取り乱すとは思えなかったが、彼の死を、まだ認めたくは無かった。
彼は、まだ、離婚が成立するのを待っていると思いたかった。
夫は、葬式の夜遅く、戻ってきた。
「最後に堺に会った時、『幸子さんに淋しい想いをさせていないか?』と言われたよ。
それが、あいつの遺言になってしまった。
今まで、すまなかった」と私に向かって、泣きながら両手をついた。
「お話があります」としかし、私は言った。
このままではいられない。
「私は、堺さんを愛してしまいました。
堺さんの子供が欲しくて、一昨日、堺さんとホテルに泊まりました。
堺さんの子供ができたと思います。
私と別れてください」とまるで、何かの台詞を棒読みしているように、一息に言った。
それを聞いた、夫の反応は、意外なものだった。
「それは、本当か?」と言うと、泣きながら笑ったのだった。
「よくやった。よくやってくれた。
それを聞いて、心が少し晴れた。
では、あいつは、幸せに死んだんだな。
淋しく不幸な男としてではなく、幸せな、君に愛された男として、死んだんだな。
この世に何の未練もなく死んだんだな。
よくやってくれた。
本当に、よくやってくれた。
しかも、子供まで残して」
夫は、大いに泣き、大声で笑った。
私は、珍しい人種を見るような目で、夫を見ていた。
「頼む。君と堺の子を、オレにも育てさせてくれ。
その子を、オレにも見せてくれ。
堺の両親も、きっと喜ぶ。
ああ、二人の喜ぶ顔が目に浮かぶ。
堺と君の子なら、きっと男でも女でも、綺麗な子だ。
ああ、早く生まれてくれないかな」
その日を境に、夫は、毎晩、家に帰ってくるようになった。
「食品会社は、もう軌道に乗せたので、部下にまかせた」ということだった。
来る日も来る日も、堺逹彦と私とのことを、熱心に知りたがった。
時に、涙を浮かべ、時に感動して、「あいつらしい」と言い、「早く、あいつの子供を見たい」と言った。
奇妙に平和な幸せが、この家に戻ってきた。
堺逹彦とのことは、夢か幻だったのか、と思えるほどだ。
この人は、本当に度量の大きな人だと、密かに感心した。
離婚の話は、どこかに、雲か霞となって飛び散ってしまった。
私は、大きなおなかで卒業式に出席し、入学した時とは違う名前で卒業した。
夫が、車で送り迎えをしてくれ、保護者のような顔で、他の父兄に混じって座っていた。
その夜は、夫の卒業式も行われた。どうやって、単位のやり繰りをしたものか、仕事をしながら、ダブリもせず、無事に卒業した。
そして、今では、食品会社の創業者になっていた。
父と同じ、一国一城の主だ。
ただ、父と違うのは、いつまでも、仕事の奴隷になっていないことだった。
一九七八年 達幸誕生
夫は、毎晩、おなかの子に話し掛けた。
私が、男の子だと言うと、『達幸』と名前まで決めていた。
「達幸、丈夫な良い子に育つんだぞ。お父さんがついているぞ。
よし、今日は、浦島太郎の話をしてやろう」
家の中には、出産や育児の本があふれ、もう既に、子供がいる家のように、絵本やおもちゃが散乱していた。
夫は、まるで自分が子供を産むかのように、私と一緒に、安産体操をし、ラマーズ式呼吸法に習熟した。
私に陣痛が始まると、用意していた入院準備品を車に積んで、安全運転で、私を病院に送り届け、その翌日から、会社を休んで、病院に泊まりこんだ。
一九七八年六月六日。
奇しくも、夫と私と堺逹彦の誕生日と同じ日に、達幸が誕生した。
私は、ちょうど二十二才になった。
「しまった。女の子の名前は考えていなかった」と初めて対面した夫が言うほど、色白で女の子のように可愛い男の赤ちゃんだった。
「天使みたい」と病院に実習に来ていた看護学生達が、入れ替わり立ち替わり、息子を抱きにやってきて、私が抱けるのは、授乳の時だけ、気の毒な夫の抱く番は、中々巡って来なかった。
退院間近の、ある晩のことだった。
夫は、仕事の電話をかけに行き、その場にはいなかった。
私が、達幸の寝顔を見ていると、以前に見た幻が、また見えた。
金色の髪を長く垂らした、白装束の美しい少年が、眠っている達幸の傍らに、ぼんやりした姿で立っていた。
前に見た姿よりも、もっと影が薄かった。