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太陽の子 六万年前  作者: まきの・えり
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太陽の子2

 一九五六年 転生

 私と上のものは、同じ日の同じ時間に転生することに決まった。

 私達は、お互いに決めた容姿のままでいた。

 人間の言葉で言えば、『裸』だ。

 肉体をもっと固定させるために、転生前には、身体中を糸で巻いていく儀式が行われる。

 赤・青・橙・緑・黄・紫・白・黒の糸を、両足の親指から順番に巻いていく。

「太陽の子が来た」と周囲がざわめいた。

 太陽の子も人間の形になっていた。

 金色の長い髪、白い衣服、青白い顔。

 眉は太く、瞳は大きい、鼻が高く、口は小さい。

 美少年と言いたかったが、どう見ても、美少女だった。

 何か言うかと思ったが、何も言わずに、一心に糸が巻かれるのを見ている。

『この子は、美しすぎる』と私は思い、糸を巻かれながら、不安が胸を満たしていた。

 この子を産んで育てるには、本当に相当な精神力と強靱な肉体が必要だろう。

 糸が全て身体に巻きつけられた時、ふっと意識が途絶えた。

 その瞬間に、この世にいた私は死に、あの世に誕生したのだろう。

 稀に、誕生して何年間か、生まれる前の記憶を持つ子供がいると後で聞いたが、私は、それまでの記憶を一切失ったようだ。

 オプション欄に、書き込んでおけば良かったかもしれない。



 長沢幸子(一九五六~一九八一)


 私の父親は、第二次世界大戦の終わった後、数名のアメリカ人を雇って、焼け跡で英語を教え始めたらしい。

 利にさとく、目端の効く人物だったのだろう。

 父親と母親は、当時にしては珍しい恋愛結婚だったと、母に聞いた。

 数名のアメリカ人が、数百名数千名になり、戦後の英語ブームに乗った父親の仕事は、どんどん発展していった。

 私が生まれた頃、父親は、大抵アメリカかカナダにいて、滅多に家に帰ることがなかった、と母が話していた。

 私が五才の時、「あれがお父さんやよ。『お父さん』て言いなさい」と母親に言われた。

 汽車から父が降りて来たが、私は、どうしていいのかわからずに、ぼうっとしたままでいた。

「幸子、大きくなったな」と言われて、真っ赤になった。

 見知らぬおじさんが、お父さんだとわかって、訳もなく恥ずかしかったのだ。

 母と私は、滅多に父に会うことなく、毎日を過ごしていた。

 父は、いつも仕事で忙しく、日本にいるよりも外国にいる方が多かった。

 日本にいる時も、家にいるよりも、会社にいる方が多かった。

 我が家は、いわゆる『お金持ち』だったらしいが、母や私は父からは忘れられており、母は『お金持ち』だという意識を死ぬまで持たなかった。

「無駄遣いしたらバチが当たる」と言い、広い庭に自分達の食べる野菜を植えて、その手入れに忙しかった。

 私は、別段、父親不在の生活を、悲しいとも淋しいとも思わなかった。

 それが、物心ついてから、当たり前の生活だったからだ。

 たまに、父親が家に『来る』ような時には、五才の時と同じで、どうして良いのかわからずに、自分の部屋から出ずに、勉強していた。

 私は、母親の勧める通りに私立中学を受験して、そのままエスカレーターに乗るように、大学生になった。

 皮肉なことだが、父親の経営する学習塾チェーンのお世話になったこともなく、自力で何とかしてきた。

 また、母親が何も言わなかったので、父親が、有名な学習塾チェーンのオーナーだということも知らなかった。

 母親の『質素倹約』の気質も受け継ぎ、私は、『真面目』が絵になったような子供だった。

 趣味は、勉強。

 黒縁の眼鏡をかけ、髪は三つ編み。

 同世代の女の子のように、おしゃれやファッションには、何の興味も無かった。

 皆がキャアキャアと騒ぐ、男の子にも。

「幸子、大きくなったら、何になりたい?」

 これだけが、父が私に話し掛けることばだった。

 五才の頃から、会う度に聞かれた。

「お母さん」と私は答えた。

 母親以外にモデルのない私は、自分は大きくなったら、自動的に『お母さん』というものになるのだと思っていた。

 父親が、その答えに満足していないことはわかっていたが、父親の職業も知らない私は、他に答えを知らなかった。


 一九七六年 夏 母の死


 母親は、私の休みの日に、庭の畑で野菜を収穫している最中に倒れた。

 夏の盛りで、キュウリやトマト、ナスが大きく育っていた。

「お母さん」と収穫途中だったトマトを放り投げて、内心、『お母さんは、後で叱るだろうな』と思いながら、駆け寄った。

 もう、息が無かった。

 夏の日差しが強すぎたのかもしれない、と後で思ったりした。

 とにかく救急車を呼んで、一緒に乗り込んだ。

 まだ、死んだなんて認めたくはなかった。

 死因は、急性心不全。

 突然、心臓が止まったということだ。

 今まで、心臓が悪いなんて聞いたことも無かったから、医者が嘘を言っているような気がした。

「ご遺体は、ご自宅に引き取ってもらわないとならないんですが、お父さんは、いつ見えられます?」と医者に尋ねられて初めて、父親のことを思い出して、内心ドキッとした。

 父親は、私達の生活には、常にいない人だったので、とっさに思い出さなかったのだ。

 そのことが、ひどく恥ずかしいことのように思えた。

「もうじき、すぐに」と言ってから、病院の電話を避けて、病院の外の公衆電話から、父の会社に電話をかけた。

 父親は、いなかった。

「母が亡くなったとだけお伝え下さい」と電話の向こうの女性に、私は言った。

 電話の向こうから、「まあ」とか「そんな」とかいう声が聞こえていたけれど、もうどうでも良かった。

 父親がいないということで、私の覚悟も決まった。

「父は仕事で多忙ですので、来ることはできないようです」と医者に告げた。

 驚き慌てたのは、医者の方だった。

 私を別室に呼び、お金のある無しを尋ね、懇意の葬儀社に電話をかけてくれた。

 母親の遺体は、葬儀社の手で、住み慣れた家に戻ってきた。

 それまでの私は、母親に全てを委ねて、ぼうっと過ごしてきたのだと思う。

「私に何かあったら、全部、ここに入っているからね」とことある毎に母親が言っていたことばが蘇った。

 そんなことばは、それまでの私にとっては、どうでもいいことだった。

 私は、毎日趣味の勉強をして、休みの日には、お母さんの趣味の庭仕事を手伝ってあげる。

 それが、それまでの私の人生だった。

 たまに来る父親は、そういう穏やかな母と私の人生に吹く、小さな嵐だった。

 私にとっては、正直に言うと、邪魔者だった。

 葬儀社の若い社員が、たたみかけるように話していた。

 全部、葬儀の費用と香典返しの値段の話だ。

 母は、私の敷いたいつも寝ている布団の上に、いつもと同じように寝ている。

 寝ているのが、母の部屋ではなく、居間だという違いだけだ。

「ちょっと、待ってください」と私は、口の角に泡をためている若い葬儀社の社員に言った。

「父と相談しなくてはなりません」

 その時になって初めて、自分が交渉していた相手が、ただの子供だと気がついたように、社員は、初めて話すのをやめた。

「お父さんて、どこにいてはるんですか。

 それやったら、最初からお父さんと話させてもらいましたわ。

 私としたら、お宅にとって、一番いい葬式をしてあげたかっただけなんでね」

「今日のところは、お引き取り下さい」

「何言うてんの、あんた。 

 遺体の引き取りかて、葬式代の一部なんやで。

 今更、よそで、葬式出すなんか、世間一般の常識からして……」

「帰れ」と私は言った。

「何を非常識なことを……」

「帰れー!」と私は怒鳴った。

 あー、私は、生まれて初めて、人に対して怒鳴った、と冷静に自分を観察しているところもある。

 多分、こういうことは、全部母親がやってくれていたんだろう。

 私が怒鳴ったとたん、ピシピシと家中が鳴り始めた。

 私の怒りに、家も同調してくれたんだと思い、私は嬉しかった。

「ひ、ひえー!」という叫び声を上げて、葬儀社の男は転がるように、我が家から出て行った。

 父親と相談しなければ、と言ったのは、方便だ。

 こんなヤツに、いつまでも、家にいて欲しくは無かった。

 母と二人きりになった時、心の底からほっとした。

 こういう時は、すごく悲しくなり、「お母さん、何で死んだの」と泣きわめくものだと、どこかで思っていたけれど、私は、かなり冷静だった。

 母の顔を見ながら、「私に何かあったら、全部、ここに入っているからね」と教えられていた、母の部屋の箪笥の上から三段目の引き出しを全部引き出して抜いた。

 その奥に、もう一つ引き出しが残っていた。

 箪笥の奥に隠し金庫を作ったようなものだな、と私は思った。

 その引き出しを抜くと、中には、預金通帳や証書類が入っていた。

 私を受取人に指定した、契約者と被保険者が母親名義の生命保険証書が三通。

 合計六千万円。

 母親名義の普通預金通帳が一通。

 ここ二十年間、父親から毎月三十万円の振込がある。

 母親は、それを全額、毎月、私名義の異なった銀行や郵便局の定期預金通帳六冊に移していた。

 通帳の数字を見ていると、目がクラクラした。

 母親は、父親からの振込全てを、私に残している。

 それなら、どうやって、母親は、私と二人の生計を立てていたのだろう。

 母親は、経済的には、父親に全然依存していなかったことになる。

 精神的には、どうかは、子供の私としては、知りようも無いが。

 最後の何冊かの通帳に鍵があるかしれない。

 それは、『所沢翠』という、母親の旧姓名義の預金通帳だった。

 母親の両親が、結婚する前に死んでいることは聞いていた。

『遺産三四二万円』から、通帳は始まっていた。

 もっとも、『遺産』の文字は、母親が記したものだろう。

『幸子誕生祝い』

『幸子入学祝い』といった母親の文字の合間に、『原稿料』『印税』という文字がある。

 その文字は、ひどく踊っていて、嬉しそうだ。

 私は、通帳を見ているうちに、母親が、いわゆる自分の『原稿料』というもので、私を養ってきたことを知ることになった。

 残額は、決して、最初の三四二万円から減ることが無かったからだ。

 私の母親とは、一体、何ものだったのか。

 娘の私は、彼女が死ぬまで、その正体を知ることは無かった。

 母親が、私を主人公とした童話や、少女小説を書いていたというのは、母が死んだ後、我が家を訪れた雑誌社の人から聞いたことだ。

 その後も、一度として母の書いたものは読まなかった。

 私は、自分が幸福だなどと、ことさら思ったことも無かったけれど、母が死んだ後、それまでの自分は幸福だったんだ、と思い知ることになった。

 まず、滅多に会わなかった父がやってきて、母を家に搬送した葬儀社に搬送代を払って追い払い、母の葬式を取り行うというよりは、自分のために存分に母の死を利用した。

 そんなことを思ったのは、ずっと後のことで、その時の私は、何が何やら全然わかってはいなかった。

 私は、母との二人きりの生活から、葬式を境に、ポーンと世間に発射された。

 通夜の間中、父は大いに泣いた。

 泣き続けたと言った方がいい。

 私は、全然、泣かなかった。

 泣けなかったと言った方がいい。

 母の秘められた作家としての人生は、葬儀の間中、語られることは無かった。

 多分、誰も知らなかったせいだと思うが、夫であった父が知らないということは、私に色々なことを思わせた。

 父は、母のことなど、実は何も知らなかった。

 最低の夫だ。

 知ってはいたが、あえて、知らないフリをした。

 これもまた、最低だ。

 お通夜や葬式というものを、私は初めて経験したけれど、父の役者ぶりを初めて見る機会でもあった。

「私は、本当に、最低の夫だった」と父は大いに嘆いて見せ、大抵の人は、内心はどう思っているのかは知らないが、父に同調して泣いた。

「幸子にとっても、最低の父親だった」

 この嘆きには、色々と反応があった。

「こんないい子に育ったんだから」

「やっぱり、血は争えませんよ」

「奥さんのためにも、幸子さんを後継者にして……」

 母の通夜の時に初めて、私は、父の職業を知り、創業者の娘としての自分の立場を知った。

 私は、その時、大勢の父の取り巻きに紹介されたが、その誰の目にも、私は私ではなく、創業者の娘として写っていた。

 私と結婚すれば、父の築いた財産と業績を受け継ぐことができる。

 最後の一人が帰った後、私と亡くなった母親は、父と三人きりになった。

 自分が死んだ後、夫と娘と三人きりになることを、母が想定していたかどうか。

「で、幸子は、これから、どうするつもりや」と父のような者は言った。

 私は、自分で認めたくは無かったが、せめて、母のなきがらの前では、母の死んだことを、その夫に悼んで欲しかった。

 私は、本能的に、父が母の死を悲しんではいないことを知っていた。

 だから、そんな父の前で、私は、母の死を悲しむことは出来なかった。

 けれど、せめて、礼儀だけでも、母の死を悲しむフリでもして欲しかった。

「お父さん、私は、座を外します。

 お父さんは、大勢の人に囲まれて、お母さんの死を悲しむ余裕が持てませんでした。

 それは、悲しいことだと思います。

 もう、お父さんとお母さん以外には、誰もいません。 

 私も、座を外します。

 お二人で、これまでのこと、これからのことを、充分に話し合ってください」

 私は、そう言って、自分の部屋に引き上げたが、父が、そんなことをする気遣いの無いことはわかっていた。

 もし、母と何かを話すとすれば、どうして、あんな娘に育ったんだ、という苦情ぐらいだろう。

 母への感謝は、何千回しても足りないだろう。

 私は、二十歳になるまで、何も考えずに過ごしてきた。

 全部、母が考えてくれていたからだ。

 時々、我が家を訪れる『父という名のおじさん』に関しても、母が全部を取り仕切ってくれていて、私に実害が及ぶことは、母の生きている間には、一度として無かった。

 翌日の昼に葬儀が行われ、父の部下が全てを取り仕切っていた。

 私は、自分がどこか遠くの空の上を漂っているような気持ちがしていた。

 顔は、なぜか微笑んでいた。

 父が母の写真を持ち、私は何も持たなかった。

 父は、母に何かを話しかけては、涙を流し続けていた。

「お母さんは、平和で幸せな世界に旅立ったのだから、悲しむことはないのよ」と私は、見兼ねて、父に言った。

 父は、なぜか、キッと私を睨んだ。

「お前は、お母さんが死んで、悲しくはないのか」

「淋しいとは思うけど、悲しいとは思わない。

 私とお母さんは、いつも一緒だった。

 だから、今も一緒にいる気がするの」

 そう。確かに、そんな気がしていた。

 母は、ずっと私を見守ってくれている。

 母は焼かれて、骨だけになった。

 細い骨だった。

「手先の器用な方やったんですな。

 ほら、どの指にも仏さんが宿ってはる。

 全部の指に、指仏さんがある方は、長い間、この仕事してますけど、初めてですわ」

「そうなんですか」と私は微笑んだ。

 母が手先が器用すぎて、私は、母に似ず、不器用だった。

 母の骨をお墓に納めて、私は父と別れた。

 父は、仕事が気になって、そわそわしていたし、私も、一刻も早く自分の家に帰りたかった。

「また、連絡する」と父は言った。

 私は、迷惑そうな顔をした。

 家に帰ると、そこここに母のいた痕跡があった。

 私は、もう一度、例の隠し引き出しを開けた。

 全部引っ繰り返すと、底から、封筒が出てきた。

 その中に、この家の権利書が入っていた。

 私は知りたかったのだ。

 この家の名義が誰のものかを。

 母の名義になっていることを知ると、ほっとした。

 しかし、父にも相続権がある。

 私は、この家で、母としていた生活を続けて行くつもりだった。



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