第二話 仕事
第二話
「んっ……」
体を起こそうと、ベッドに手をつく。バネが縮む音が響き、胸がスポンジ部分から離れる。
「ここ……は……」
辺りを見回す。暗く、木の柱が剥き出しになった家であることが分かる。むしろ、それ以外は分からない。
窓から差し込まれた月光が当たった部分が、白く異質な雰囲気を醸し出している。別荘と言われても納得するほど、生活感がそこにはない。
ホコリ臭く、カビ臭い。目のかゆみは気分の問題だけではないだろう。
「起きた?」
声のかけられた方を見ると、青年が目の前に立っていた。
「飲まない?」
その言葉通り、彼の目線の先にはコップが置かれている。所々が茶色く汚れ、飲み口の部分が少し欠けている。
「あ、ごめん。ありがと……」
手を伸ばし、コップを取る。半分ほどまで注がれている中身は、暗さゆえに判別することは出来ない。
乾いた唇と喉が、液体を欲している。恐る恐る、口に運ぶ。
鉄臭さとカルキ臭さの入り交じった臭い。生暖かな液体が、乾いた喉を濡らして流れていく。
「っ……はっ……」
飲む、というよりも流す、と表現するのが正しいと思われるその喉の潤し方。
「ははっ、不味いでしょ?」
馬鹿にするように笑う少年を睨みつける。不味いと分かっていて、なお私に飲ませたのか。
「あぁ、わざとじゃないよ? ここで飲める水は全部こんなものさ」
外人のように両手を広げ、オーバーなリアクションをとる。
「あなたが私を運んでくれたの?」
「そうだよ。あそこに放置された方が良かった?」
冗談めかして彼は笑うが、愛想笑いも出来ない。あんなところに一人だったら、そう考えたら………
「あ、あなたは?」
名前、ここにいる理由、私を助けてくれた理由、それらを含めた質問。
「自分からってのが、セオリーってものじゃない?」
「……私は森野、森野舞咲って言うの。さっきも言った気がするけど、肝試しに来て、それで迷っちゃって……」
「馬鹿だね」
包み隠そうともしないその言い方に、思わず握る手に力が篭もる。批判できない自分と、批判できない事を分かった上で聞いてくる事に怒りが湧く。
「僕は志人。ここに来た理由は……別に言う必要はないよね」
「私は話したのに……」
「別に聞いたつもりは無いけど?」
「いや、さっき聞かれた気が……」
「あそこで何をしてたのって話で、なんであそこにいたのかって話はしてないよ」
二口目をつけない私のコップに目をやり、机らしきものの上に置くよう目線を動かす。
「だとしても……」
「僕には話す気は無いよ、一切ね」
机から離れ、光の当たらない所へ行ってしまう。追いかけようと足を床に触れさせ、思い出す。
「そっ、そう言えば……あの、さっき追いかけてきたのは……」
足が軽く浮く感覚。自分が自分ではなくなったような。この世では無いものに襲われるという、得体の知れない恐怖。
「幽霊だよ、分かってると思うけど」
そう言い、先程渡されたコップと同じくらいに汚れたものを持ち、彼は暗闇から現れる。
「ゆう……れい……」
かもしれない、という可能性は無くなった。この世では無い存在がいるという恐怖。そして、あの数十分だけで、二体も出会ってしまうという恐怖。
「な、なんであなたは普通にしていられるの?」
自らのことを一切話さないと聞いたばかりなのに、踏み込んでしまう。
一瞬の無言、そして馬鹿にするように鼻で笑い、話し始める。
「ここは自殺の名所、富士の樹海。死体も幽霊も、もしかしたら妖怪もいるかもしれない。そんな事分かってて来たんじゃないの?」
自殺の名所である事は知っている。自殺ということ考えたことが無い私でも知ってるくらいだ。
「だ、だとしても、頭で分かってたとしても……」
言葉が上手く出てこない。何を言いたいのか、言い表したいのかが分からない。
「君は死にたくなかったの?」
死にたい。そんな重々しい言葉を、いとも簡単に吐き出す志人。
「し、死にたくなんて……ないよ……」
「そうか」
彼は、汚れたコップに注がれた液体を、苦虫をすり潰した液体を飲むように、口の奥へと流し込んだ。そして、汚れたコップを片手に、また闇の中へと消えていく。
「ま、待って!」
一人取り残されるような気がして、闇へと走り出す。
瞬間。
「君はここにいた方がいい」
私の左肩を掴みながら、彼が、志人が闇から現れる。
「や、やだよ。一人はやだ……」
足が震え、左肩を掴む彼の手を強く掴む。見上げた彼の目は、幼い子を見るような、めんどくさいものを見るような目をしている。
「君は走れないしビビるし、大声を出すし、邪魔をする。そんな奴を連れて行けるほど、簡単な仕事じゃないんだよ」
「し、仕事?」
引っかかった言葉を反復する。こんな場所で、一体何の仕事があるというのだろうか。
「……食料を取りに行くんだよ。今日は二人分ね」
言われて気がつく。確かに、食べ物が必要だ。腹に手を当てる。まだ減ってはいないが、今晩何も食べないというのは、流石に無理だろう。
「あ、そうだよね……じ、じゃあ尚更、私もっ」
彼の目は、私を馬鹿にしたような光を宿したまま、こちらを見続けている。
「食料ってのはさ、基本的に死体しか持っちゃいないんだ。見れるのか? その死体を」
「そ……れは……」
無理だ。でも一人でいるのも無理だ。なら、ならば。
「それは無理だけど、近くにいさせて、ほしい……ダメかな……?」
「……絶対邪魔すんなよ」
ツンデレなどではない、本気の注意。
「あ、はい」
半分涙目になり、彼の手から自分の手を離しつつ答える。邪魔した瞬間置いていかれそう。気をつけよう。押さない駆けない喋らない、だ。
☆☆☆☆☆☆
「む゛っ……む゛り゛っ!!!!!!!」
「くそっ! だから嫌だったんだよ!!」
「ごめん゛っな゛ざいぃぃぃぃぃぃぃ」
後ろを振り返る余裕なく、ただがむしゃらに前へと進む。彼の背中が少し離れ、それに追いつくように足を回す速度をあげる。
「あの木をっ! 右ぃ!」
「あ゛っ! はぃい゛!」
草をかき分け走る音、それに付随する、空を切る音。ひと一人が空中を飛び回るようなそんな音。もちろん、そんな音が出せるのは。
「×××××××!?!!!?!?!?」
「な゛っなんか喋って゛る゛ぅっ!!」
「そりゃ生き物だし喋るだろっ!」
「だぶんっ! 生ぎでない゛!」
ツッコんだ直後、彼が右へと曲がる。離されまいと、前回のようにコケることなく、しっかりと曲がる。
曲がり、急な斜面を降りていく。
「そろそろ止まるぞ!」
「ぅえ!? たぶん無理っ!」
彼は、木々に手をつきながら、走る速度を段々と落としている。
一方こちらは止まれない、と思っていたが。
「あっ」
「えっ? なにぶっ!?」
暗闇、そして止まらなければいけないという焦燥感から、前方に生えていた木が見えず、顔面から衝突する。前方不注意顔面崩壊だ。
「うわぁ、痛そ」
痛みなどという甘い感覚などではない。気を失いそうなほどの、いっそ失えたらどれだけ楽か、と思えるほどの痛み。痛みには変わらないか。
「ふべ……」
鼻から流れ出る温かな液体を感じつつ、仰向けに倒れる。
これから帰るまで、私はこの場所でやっていけるのだろうか。
「大丈夫? 立てる?」
馬鹿にした顔ではなく、慈しむような、はしゃぐ子供を見るような目でこちらを見てくる。
彼の手をとり、立ち上がる。
「ありがと……はなが……」
尻ポケットに入れていたポケットティッシュを取り出し、軽く丸めて鼻に詰める。
「ポケットティッシュは色々なことに使えるから、あんまりそういう事に使わないで」
「あ、うん」
私の顔を見ようともせず、斜面をゆっくりと下っていく。
まだ何も見つかっていないし、見つける前に見つかってしまった。そして、彼の足を引っ張ってしまった。気をつけよう。
少し小さくなった彼の背に、慌てて走り出す。
彼がいる限り、遭難や食糧難からは助かるだろう。まぁ、帰れるかどうかは分からないが。
ホラー……? 怖くなくてもホラー?