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光と闇の境界線

作者: 壱百苑ライタ




「そら、其処に線があるだろう。あそこで此の壁の色が変わっているのが分かるかい? つまり此の白い方が光で、暗い方は闇だ。こんなにもハッキリ境界が現れるんだよ」


 薄汚れ、自棄に皮膚が厚い太い指で其の男は“境界線”とやらを指差した。それから其の侭其の指を境界線へと持って行き、人差し指でなぞってみせる。

 男の指の爪は明らかに歪な形をしていて、恐らくあれは半分ほど欠けてしまっている―――と少年は思った。

 男が一生懸命に指を差し教えている境界線などには目も暮れないで、少年は男の汚い指や、爪、ささくれ、そんな細かい所ばかりをじっと見ている。


「此の四角い窓から、太陽と言う恒星が発する光が入り込む。恒星、と言うのはつまり光の事だ。宇宙というだだっ広い闇の中には、そう言った灯火のようなものがいくつもあるのさ。太陽は、そのうちのひとつ」


 今度は男は窓枠へと歩いて行った。男が近寄った窓は、窓というよりは唯の四角い穴と言った方が近いようなもので、唯白い土壁を四角く切り抜いただけの代物だ。

 壁は分厚く其の窓の枠は掌一枚分ほどの太さがある。其処に男は腰掛けると、前方に出来た自らの黒い影を、差した。

 男のズボンは擦り切れていて、穴の開いた部分からは何とも浅黒い紫がかった肌が見える。足に生えた毛は何やら縮れ、よく見ると其の奥に赤い擦り傷も見える―――少年はやはり男の指差した方など見ずに、そんなものばかりを目で追っていた。

 相変わらず指は太くごつごつとして、骨ばっている。爪は黄ばんで、普通の人のそれよりも何やら分厚い。爪と皮膚の間には、黒いカスが挟まっている。


「見てごらん、私が刳り貫かれた。黒く刳り抜かれた」


 男はそう言って其のしわがれた声を少し弾ませる。すると今度は少年の視線は、男の口の中へと移された。

 黄色い歯。いくつかは空洞が出来ていて、男の歯は生え揃ってはいないようだ。何処かで折ってなくしたのか、抜けたのか、それとも初めから無いのか―――訳は分からないが、兎に角無い。上の前歯などは完全に半分しか無かったから、あれは恐らく折れたのだろう。辛うじて在る歯でも、何やら細く歯茎から今にも抜けそうで、頼りない。あんな歯ではろくに食べ物も噛めないだろう。歯が歯の役割を果たせそうには到底見えない。

 男の口の中に唾液は無く、従って液体のあるらしき艶が無く、舌は乾きすぎているのかほんの微かに白色が混じっている。あれは人の舌と言うよりは、何か蠢く虫のようだと少年は思った。

 其の蠢く何がしかの虫が、男を操り自分に話しかけてきている―――ような、そんな幻想を少年は抱く。それから其の余りに滑稽で突飛な発想に、少年は自ら息を吐く様に、笑った。


「あの星の光を、此の私たちの生きる星は貰っているんだよ。私たちの星はね、灯火にはなれないんだ。だからあの星の周りを回って、全ての始まりである光を貰っている」

「―――ねぇおじさん、どうして光が始まりなんだい?」


 少年は今度は男の足元を見ながら尋ねた。本当はどうでも良い様な気がしたけれど、咄嗟に尋ねてしまったのだから仕方が無い。

 男の足は、とても立派な革靴に守られていた。何もかも全てはみすぼらしい男なのに、足元だけは、何処かのお金持ちの貴族のような、ぴかぴかの赤茶色い綺麗な革靴。

 其の皮が光に照らされて、丸く白い光の円が出来る。とても綺麗に磨かれている其の靴は光を反射して、暗闇に立つ少年に微かに光を運んでくれた。

 何とも不似合いで、滑稽ですらある男のそのぴかぴかの革靴は、それでもきっと男の誇りなのだろう―――何時見てもあれは、光っている。

 不釣合いだけれども、少年は其の靴は男にしか似合わないと思っている。あのぴかぴかの靴は着飾った貴族にはきっと似合わない。

 あの靴は、此の男だから似合うのだと―――少年は何故だかそう思っていた。


「いいかい、光が無ければ何もかもは闇の中だ。闇は分かるかい? 真っ暗だ、真っ黒だ、色は無い、何も見えない」


 少年は男の頭に視線を移しながら、其の話に頷いた。

 真っ暗―――何も見えない。夜瞼を閉じて寝るときのようなものだろうか。少年は取り敢えずそれで想像した。


「何も見えない闇は何も無いのと同じさ。全てはそう、混沌という奴だ。其処に光が差し込んで―――漸く混沌に溶け合った全ては命を持つ。それぞれに、分かれていくんだ」


 男は毛糸の帽子を被っている。昔は確か赤い色だった筈の其の帽子は、今は色も落ち薄汚れ、薄茶色に近い色に変色している。毛糸だって所々で千切れて穴が空いているし、全体的に薄くなっている其れに保温力などあるようには見えない。

 それから其の帽子からはみ出る男の髪の毛。白と灰色、黒は無い。触れば柔らかそうな細くちんけな毛質である。もともとは柔らかいであろう髪の毛だが、いかんせん油で固まって形状を記憶し固くなっている。


「だから光は始まりさ。光があるから全てはある。光が無ければ、全ては無くなる。いいや―――溶け合う、かな」


 男の影は動く。男に合わせてそっくり其の侭。其の影が闇か、ならば確かに此の闇は他の闇に触れた途端に溶け合い消える。

 そうか、闇は溶け合うのだ。男の汚い姿など闇は全て消し去ってしまう。少年が気にする薄汚れた指も手も、固そうな髪の毛も、そんな中飛びっきり美しい靴も、全て溶けるのだ。

 そう―――其れは、少年の其の、薄汚れて冷え切って、泥まみれで皸て、変に皮だけ分厚くなった―――みすぼらしい足さえ、溶かしてしまう。


「―――闇は優しいね」


 少年は男の影を見ながら呟いた。其れは誰に向けられたものでもなく唯空気に放り投げた言葉だった。

 勿論其れを男が拾い上げる筈が無い。


「光はね、優しい」


 男は少年とは真逆を言い、少年は少しだけむっとしたのか、口を噤み唇を尖らせ男の顔をじろりと見つめた。

 男の顔は髭に覆われている。顎も、鼻の下も、頬も。其の髭は白く長く、けれどやっぱり其れは形が決まっていて、風にも揺らがない固さである。

 目の横には皺が何本もある。肌は染みもあるし皺も刻まれているし、そもそも肌色でなく茶色に近い。汚れているのだ。

 眉毛は変に右だけ長くて、左は逆にほとんど無い。数本、心なしか短い毛が少しだけ生え残っているだけ。

 唇は薄く平べったくて、紫色で皺くちゃに乾燥している。


「どうして光が優しいのさ、僕達も、貴族も、闇は何もかも皆一緒にしてくれるんだろう? つまり影なら人間なんて皆一緒で、こんな差なんてひとつも無い。じゃあ闇の方が優しいじゃないか」


 少年は少しだけ甲高い声で男を質した。少年の声は空気にすんなりと通りしわがれてもいないし張りも失ってはいない。


「光は私を私にしてくれる。貴族でも無ければ動物でも無い。私は私になれる。だから、優しいじゃないか」


 男の声には張りなど無い。けれども男の声も―――空気にはよく通る。いいや、空気によく、溶ける。

 しわがれた声だけれど、少年は男の言葉を聞き漏らした事など無かった。しゃがれ声でも張りが無くても、不思議と男の言葉はよく耳に響く。


「おじさんには其の靴があるから、そんな事が言えるんだろう」


 少年は眉を潜め男の靴を恨めしげに見つめながら、吐き捨てる様に言った。やはり光など当に失ったような男の容姿全ての中で、其の靴だけは未だ光で輝いている。

 もう他に、男は光の恩恵など一切受けてはいないだろうに。其の身体全ては闇にまみれて、色など当に失っているだろうに。


「―――此の靴があれば、光の優しさが坊主にも分かるかな?」


 不機嫌そうにむくれた少年を、男は漸く瞳に入れた。それから其の皺くちゃで汚い顔を更に皺くちゃにくしゃくしゃに潰して、唇で弧を描き男は微笑んだ。

 細めた瞳。目尻には幾重の皺が出来て、もう目なんて何処にも無いんじゃないかと、瞼が分からなくなるくらい、皺くちゃで。少年は其の笑顔に何時も少しだけ恐怖を覚える。


「そうさ、僕だって靴があれば分かるさ」


 少年はぶっきら棒にそう言うと、ぷいと男から顔を逸らした。それから疲れたとでも言いたげに、どっかりとその場に座り込み、胡坐をかく。

 組んだ足の丁度真ん中を両手で掴むと、少年はつまらなそうな半目をして、口をへの字に噤んだ侭、其の身体をゆらゆらと揺らした。

 どうせ男が靴などくれない事を、少年は知っていた。

 男の、男の為の、男によく似合う、ぴかぴかの革靴。


「僕だって」


 其の革靴さえあれば、分かるさ。

 少年は声には出さず、心臓の辺りで其の言葉を飲み込んだ。

 そして男も其れ以上言葉を続けなかった。二人の間には少年の言葉を最後に沈黙と言う静けさが降りて来る。

 四角い窓から入ってくる光が少年の居る闇に境界線を引き、光の領域に男は座っていて、黒い影を刳り抜かれている。

 少年は闇の方でしゃがみ込んでいる。今此処が男の言う闇ならば、少年は此の中で何もかもと一緒に溶け合っている事になる。

 溶け合っているのだから此の自らの薄汚れた足も、汚い指も、折れた爪も、擦り切れた服も、見なくて良いのだ。

 やっぱり闇は、とても優しいんだ。少年はそう思いながら、身体を揺するのをぴたりと止めた。


 窓の外を行く馬車の音が聞こえる。ぱからぱからと馬の足音と、それからがらがらと車輪の回る音。

 其の中には綺麗な服を着た女や男が乗っていて、馬車を引く男も立派な服に身を包み、馬に鞭を打ち付けているのだろう。

 靴はブーツで、洒落た帽子も被っているのだろう。

 女のドレスなどはひらひらに幾重にもなって、変な模様の穴の開いた細い布で飾られて、動き難いのに引き摺って歩いている。

 あのドレスのひらひらの一枚だけでもあれば、もう少し暖かくなるのだろうか。

 あの洒落た帽子があれば、少しは耳が冷えなくなるだろうか。


 貴族の女も、馬を操る男も、そして自分も、全ては溶け合ってひとつになるだろうか。


「―――なんだかもう、どっちでもいいや」


 闇、光。どちらも自分を助けてくれる訳では無い。空腹を満たしてくれる何か食べ物を持ってきてくれる訳でも、寒さを凌ぐ布を運んでくれる訳でも無い。

 少年は急に光だの闇だのそんな事が馬鹿馬鹿しくなって、そしてそんな事を話し出した男にどうしようもない憤りを感じる。

 結局何が言いたかったのか。靴を自慢したかっただけじゃないのか。


「どっちでも、いいか」


 少年の呟きを男は聞いていた。其れを示すように返事を返した男は、静かに立ち上がり―――そしてまた、光と影の境目に指を這わす。


「なら坊主はこの境界線だ」


 男は笑った。少年は其の笑顔に得体の知れなさを感じやっぱり怖くなって顔を顰めた。

 男の汚い指が境界線から離れる。よく見ると、境界線は先程あった場所より少しずれて、光はえらく遠く中の方まで入り込んで来てしまっていた。


「夕陽だ」


 太陽が落ちる。西の彼方へと。けれど今度は月が出る。男の革靴の様に、月が光を反射して、少年のところまで光を届けてくる。

 光のなくなる時など無い。この星の上で光がなくなる事など無い。


「―――やっぱり、なんだっていいよ」


 闇など無い。考えるだけ実現しないのなら無駄な事。幻想を抱いている程少年は暇では無いし、境界線だなどと訳の分からない事を言われても理解の仕様も無い。

 本当にどうでもいい事だ。其のどうでもいい事を少し真に受けて考え込んだ自分が馬鹿らしくなる。少年は少しだけ憤慨した。

 薄汚れた男は未だに光に照らされ其の影を落としている。今度は男を照らす光は橙色に染まっていた。

 男の影は、心なしか一層黒い。


「お腹、空いた」


 少年は、最後にそれだけぽろりと零すと、静かに足を折り曲げて、抱え込むようにして身を縮めた。







老人と少年、好きです。

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