夜明け前の虹
いつか見えたという逆さまの虹が見えないほどに、この森は深々としている。
木の幹は厚く、背は高い。
森の中は薄暗くジメッとして涼しく、食べ物は豊かだ。
争いもなく、ただ静かな時が過ぎていく。
だから、森のモノは森で生まれ、森で眠る。
ここは住みよい森なのだ。
「この森を出て行こうと思うんだ」
臆病なキミがそんなことを言うもんだから、すごく驚いたんだ。
「……突然だな」
「初めて口にだしたけど、ずっと考えてはいたんだ。だから、突然ではないよ」
キミはいつもの会話と同じように少しゆっくりと話した。
「…そうなのか」
「少し旅をしたくて、外の世界を見てみたいんだ」
いつも困った顔してるキミの目が少し輝いて見えた。
「外の世界、か」
森の外に出てみたいだなんて思ったこともなかった。
「旅だから、帰ってくるつもりではいるんだよ」
「わからないじゃないか。外の世界が良くて帰ってきたくなくなる」
こっちにしてみりゃ、急に一生の別れを突きつけられたようなもんだ。
「ははは、ここ以上に素晴らしい場所を見つけたら、キミを迎えにくるよ」
それもまた突拍子もない話だ。
さっき以上に驚いて、大きな声がでた。
「ええ?」
「この森よりも素晴らしい場所を見つけられたら、キミと見たいんだ」
「…」
「そしたら、ぼくを信じて付いてきてくれるかなぁ?」
キミの真っ黒な瞳に自分が映る。
恐ろしく間抜けな顔だ。キミはどんな顔をしている?
「訳がわからん」
「わからない?一緒にいたいんだよ」
一緒にいたいなら、ここに居ればいいんだ。
そんな言葉は口から出ない。
「いつ旅にでる?餞別をやるよ」
「薄い月がもう少しふくよかになったらいこうかな」
「わかった…」
本当は今の話はよくわからない。
たくさんの何故が頭には浮かんだが、聞くことはできなかった。
その何故は、歩き出そうとしたキミの足を止める気がしたから。
だから、離れていても大丈夫なように何かを贈りたいと思った。
でも、それってなんだ?
何を渡せばいいんだろう。
みんなに相談することにした。
「この森で素敵なもの?わたしの歌声じゃない」
最初はコマドリに相談した。間違いだったかもしれない。
「そういう刹那的なやつじゃない…。コマドリは上から森を見渡せるだろう?」
きっと地上からは見つけられないものがあるはずだ。
「空から見たって森は森よ」
コマドリは鈴が鳴るように笑った。
「…そうか」
「どうしたの?あなたが誰かに物事を尋ねるなんて」
高らかな声も答えが見つからないと苛つくだけだ。
「考えごとだってする」
「寂しいの?」
「噛み付かれたいのか!」
ビクッとした自分の心を誤魔化すように叫んだ。
「届きっこないわよ」
コマドリは木の上に上がってくるまでに飛び立つと羽を広げた。
その通りなのだがむかついたので、木に向かって登るふりをした。
はぁ、だめだな。何か良いものないか…。
コマドリに聞いたのが間違いだった。
次はヘビに話を聞きに行った。
「この森の素敵なもの?オンボロ橋の近くにあるキノコは美味いぞ」
ヘビはペロリと舌を出した。
「…形が残るものがいいんだが」
出来れば旅の間、持ち歩いてほしい。
「丸呑みするからなんも残らねぇな」
「…食べ物以外は?」
「森は森だろ」
ヘビは話は終わりだと言うように身体をくねらせて草陰にはいる。
「それはないってことか…?」
「食べ物ぐらいしか教えてやれないってことさ」
カサカサと音がして体から見えなくなってから声だけが森に聞こえた。
この森は広い。そして静かだ。
今まではそれが心地よかったが、誰かの後ろ姿を見ることがなくなると思うと、この薄暗さは少し広すぎる。
だから、最後の砦にすがることにした。
「この森の素敵なもの、でしょ?」
キツネは尋ねる前に口を開いた。そしてその訳も教えてくれた。
「コマドリさんから聞いたよ。プレゼントを探しているんだよね」
「…そうだ」
「わたしは沢山の素敵なものを知っているけれど、理由を察するに自分で探した方がいいわ」
キツネのアドバイスはいつも正しい。
それでもヒントが欲しかった。
「……」
「誰かが選んだものを渡したら、気づかれてしまうよ」
「そうだったとしても、何か渡したいんだ」
「なぜ?」
「帰り道を見失わないお守りを…」
ちゃんと此処に帰ってきてほしい。
どこか素敵な場所を見つけても、この森の自分を忘れないでほしい。
ここで、ずっと待っているから。
キツネが頬を舐めてきたので、恥ずかしくなって顔を地面に埋める。
「っなんで、なんで、出て行くなんて言うんだろう…」
「旅よ、帰ってくるのでしょう?無事を祈りましょう」
頭に肉球が押し付けられて、顔を起こす。
「…図体でかいから大丈夫だろ」
「素直になりなさいな」
それが一番に大事だとキツネは静かに言った。
そんなこんなをしていたら、数日が経ってしまい。
夜空に浮かぶ薄い三日月がはっきり見えるようになった。
「キミになにかをあげたかったんだけど、自分ではなんにも見つけられなかったんだ」
いつも会う池で待つキミは相変わらず大きいのに、肩をすくめていた。
「うん…」
「宝物でも持っておけばよかった。そしたらあげられたのに」
本当にそう思った。
「うぅん、いいんだ。物をもらったら失くすのが怖くて、旅を続けられそうにないからね」
「…そうか」
「そんなにしゅんとしないで」
くすくすと笑って鼻で身体をつつかれた。
そんな軽い触れ合いでも体は横に倒れそうになる。
「してないっ!」
「まぁまぁ。代わりに用意してみたんだ」
「キミから?」
「うん、旅に出る前に一緒に食べたくて」
大きなクマの足元にキノコが二つ置かれる。
「このキノコ、食べて良くない色味じゃないか? 」
「大丈夫大丈夫、キミと一緒に食べたくてヘビさんに探してもらったんだ」
一口食べて、今まで味わったことのない苦味を感じた。
「うぇ!変な味!」
「ホント!ふふふ」
「何笑ってんだ!ヘビのやつに騙されたんだ!あいつ許さねぇ!」
「違うよ、ははは」
「な、なんで笑って、ははは、ははは!」
怒った顔はグニャっと歪む。
二頭は笑いが止まらなくなった。
このキノコはワライダケだった。
「笑い合ってさよならしたかったんだ、君はあんまり笑わないから」
「こんな無理やりな方法、ははは!怒る気も起きない…」
「ふふ、よかった。作戦成功だね」
「ははは、まったく…!」
溜息をついてキミの顔を見る。
笑顔を覚えて起きたいと思った。
「これから誰が根っこ広場に挟まったおれを助けてくれるんだよ」
「大丈夫だよ。キミは嘘つきじゃない、捕まらないさ」
「…嘘をつく相手もいないんだ」
「そんなことないさ。ぼくへの餞別をずっと探してくれた。荒くれ者ってだけじゃないってみんなわかってるよ」
キミはいつも優しくて、傍にいてくれる。
「…キミがわかってくれていたら、それでよかったよ」
「びっくりだ、あはは。キノコには素直にさせる毒もはいってたかな」
「そうかもな」
「じゃあ、そろそろいくよ」
「…あぁ。旅の話楽しみにしてるよ」
「うん。キミも変わらずいてね」
すっと身体寄せて、別れをつげる。
本当は持ってきていた。キミへの餞別を。
掌に隠したドングリを池に投げた。
「どうかどうか。キミが息災でありますように…」
その呟きは静かに風に乗り、クマの体を優しく撫でた。
ついに森の外れだ。
ここから先の景色を見ようとしたこともなかった。
一歩踏み出すのが難しい。
後ろを振り返ったら、きっと…、歩き出せない。
すべてが怖くて、逃げ出したかった自分から変わりたい。
ぼくという存在がキミを傷つけないように。
キミとずっと一緒にいたいから。
成長したいんだ。
ほら、見上げた空も笑ってる。
きっと大丈夫。