第三章 変調(奏汰視点)
天使の声が出るようになったと、前川から聞いた。
前川に聞こえていると言うことは、天使の悩みも解決したのだろう。
だとしたらもう俺だけじゃなく、みんなと話せるようになっているという事だ。
もう、寂しそうに歌わなくて済むんだ。
よかったと本気で思った。
天使が倒れたと聞いて駆けつけた保健室の近くの廊下。
保健室から聞こえた二つの泣き声と笑い声が、二人の壁が無くなったことを証明していた。
それを聞きながら俺と輝はしばらくの間、その場から動かなかった。
二人とも、何も話さなかった。
「奏汰。俺さ、天使さんに告白する。」
突然、輝がそう言った。
驚いて何も言えない俺の顔を見て、輝は余裕そうに笑う。
「決めてたんだ。いつか、天使さんが自分の声で返事が出来るようになったら、その時は俺の気持ちを聞いてもらおうって。」
「…それは、どう返して欲しいの。頑張れって言われたい?」
「何にも言わなくていいよ。奏汰に報告したかっただけだから。」
「…意味がわからない。」
そう返した俺に、やっぱり輝は笑って返した。
(ずるい)と聞こえたのは、どちらの声だっただろうか。
輝が保健室に入っていって、前川が出てきた。
「輝、真白ちゃんになんか用あったの?」
入れ違いに入っていった輝の背中を見ながら前川が言う。
「…話したいことがあるってさ。」
「ふーん。そっか。」
聞いておいて、あまり興味が無さそうに返す。
俺は、音楽室に天使と前川の荷物を置いたままだから取りに行くと言う前川に着いて行くことにした。
「いやー。ごめんね。付いてきてもらっちゃって。」
前川が少しも悪びれることなく言う。
「別にそんくらい良いけど。」
二人分の荷物を持ち、戻ろうとする俺を、前川が止める。
その顔はすごく真剣そうで、思わず立ち止まる。
いつか見たような真っ赤な顔。
そして少しの間の後、前川が口を開く。
「奏汰。私ね、奏汰の事…。」
一瞬の間。
音が消えた気がした。
『ずっと、好きでした。』
真っ白な頭で必死に答えを探す。
動きが止まった俺に、前川が続ける。
「待って。返事は今度で良いよ。ただ、これだけは約束して。」
「嘘だけは吐かないで。断るなら断って。私は、奏汰の気持ちを聞きたいだけだから。」
先程までの顔の赤さが嘘のように、前川は静かに笑う。
「さて!帰ろうか。もう遅くなってきたよ。」
もういつも通りの彼女に、俺は黙って頷くしかなかった。
(ちゃんと約束は守ったよ。真白ちゃん。)
と、呟いた声もその時の俺は聞こえていなかった。
それが金曜日の放課後の事。
俺は忘れ物を取りに学校に来ていた。
先生は鍵だけを渡すと職員室に戻ってしまった。
運動部は大体学校の外に出ていて、吹奏楽部も無いこの学校の休みの日の廊下は、ひどく静かだった。
自分の足音しかないこの空間に、いつもあるはずの賑やかさは無く、少しだけ寂しく感じた。
教室に着いて、忘れ物をとる。
ふと天使の席が目に付いた。
昨日の帰り、天使はずっと何かを考え込んでいた。
告白されたから…?
告白という言葉を思い出し、前川の席を見る。
静かに笑った彼女は、何を思っていたのだろうか。
静かな空間は考え事に最適で、気付くと少し時間が経っていた。
帰ろうと振り返る。
と、教室の扉の近くに、一人の女子生徒がいた。
その女子生徒は俺を見てこう言った。
「立城先輩…ですよね?」
俺が頷くと彼女は表情の読めない顔で続ける。
「お姉ちゃんの事、きちんと応えてあげてください。あれでも、割と落ち込むとめんどくさいので。」
「…お姉ちゃん?」
俺が聞き返すと、彼女はそれには答えず静かに笑うと教室から出て行った。
その顔は、昨日見た顔とそっくりでまたしばらくの間、俺は動けないでいた。
外では、微かに雨音が響いていた。




