開演 無音
____見とれていた。
目の前でピアノを弾く女子に。
そして、聴き惚れた。
微かに聴こえる歌声に。
放課後のこの時間、毎日聴こえてくるピアノの音。
噂によると、そのピアノを弾いているのは真っ白な天使なのだと。
内心馬鹿にしながら音楽室を通り過ぎ、隣の教室へ。
小さな空き教室だが、元々は楽器の倉庫なのか、防音がしっかりしていた。
そこで俺は毎日、友達の部活が終わるのを待っていた。
いつもなら、スマホから音楽を流してぽつりぽつりと口ずさむ。
でも今日は何故だか、隣のピアノが気になった。
先ほど聴き流したそのピアノが、微かに聴こえた歌声が、泣いているように聴こえたから。
……と、いうのは嘘だ。音楽室に忘れ物をしたんだ。
だから別に、ピアノが気になる訳じゃない。気になる訳ない。
誰かに言い訳をしながら入った音楽室に居たのは、
色素の薄い茶色の長い髪をふわふわと揺らしながらピアノに向かう女子。
真っ白で細長い指が鍵盤の上で踊っていた。
そして聴こえてくる本当に小さな歌声。
ほとんどピアノにかき消されているその歌声が、震えていた。
そっと近付いて声をかけ___
ようとした所で、その女子が勢いよく振り返った。
と、同時に大きく跳ねた。
そして、ピアノに置いていた手をわたわたと忙しなく動かし、何を思ったのか椅子から飛び降りると、席を譲ってきた。
思わず「はぁ?」と言うと彼女は小動物のように肩を揺らしながら怯えた。
しばらく口をぱくぱくと動かしたかと思うと、小さく、本当に小さな声で「ご、ごめんなさい」と謝ってきた。
(……て、いうか。)
「声、小さ…。」
人間の鼓膜をぎりぎり揺らすか揺らさないか。
音として、声として認識できる限界くらいの小声。
呟いた俺の声が聞こえたのか、ばっと顔をあげた彼女は大きな目をもっと見開き、俺の手を取る。
そして、つま先立ちをしながら俺と目線を合わせると、
「私の声…聞こえるの!!?」
あまりに突然のことに数秒固まり、はっと我に返る。
(……て、近い!!)
今にも鼻がくっつきそうな距離。思わず後ずさると、つま先立ちの彼女は当然バランスを崩す。
俺はそれを受け止めきれずに二人して床に倒れ込んだ。
咄嗟に瞑った目をそっと開く。
俺を押し倒す形で上に乗る彼女は
___泣いていた。
静かに、音もなく透明の温かな水滴が俺の頬に落ちてくる。
「聞こえるんですか…?私の声、聞こえますか?」
その声は縋るような、祈るような、願うような色が滲んでいた。
目を奪われる。静かに祈りを捧げる彼女はとても
とても、綺麗だった。
「……やっぱり、聞こえてないよね。」
と言う声にはっとして、返す。
「聞こえてなかったら、こんな時間にこんな教室になんて来ねぇよ。」
その言葉はあまりにぶっきらぼうで冷たく響く。
それでも彼女は嬉しそうに、泣きながら笑った。
本当に本当に嬉しそうに。
また見とれてしまいそうで、彼女から目をそらしながら聞く。
なんで、泣いていたのか。
こんな一人ぼっちの空間で、ピアノの音に泣き声を隠すように。
俺には関係の無いことだ。
だって、今初めて会って、初めて会話をした何にも知らない相手。
でも、聞かなければならない。
そんな気がした。
「私の声…今まで誰にも聞こえていなかったの。大きな声を出そうとしても、喉に引っかかってしまうみたいに、小さな声にしかならないの。」
「だから、ずっと一人だったの。最初は紙に書いてお話してくれていた子も、だんだん離れていってしまった。」
「私のお友達は、ピアノだけだったの。」
「私の声が聞こえるのは、私の声を聞いてくれたのはあなたが初めてなの。」
___それが、俺と彼女が出会った話。




