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間近で見る森は遠めで見るよりもずっと薄暗く、時折奥からキイキイと不気味な鳴き声が聞こえる。
タマキが身を竦め、アスキは辺りの様子を伺いながら、森の中へ足を踏み入れた。
「足元気をつけて。地面から出てくる魔物もいるから」
「はい」
「なるべく、おれが踏んだ場所を踏んで」
「はい。……あの」
「何?」
さくさくと歩を進めていたアスキに、タマキはおずおずと訊ねた。アスキが振り返る。
「手は、まだ繋いでおいた方がいいんでしょうか」
迷彩魔法"水鏡"の弱点を補うために握っていた手は未だにしっかりと掴まれたままだった。
「そういえば、もういいね。忘れてた」
アスキはそう言って、するりと手を離してしまう。姿が見えなくなり、タマキは慌てて魔法を解除した。
すぐにアスキの姿が現れ、ほっと息を吐く。
「ありがと。細かい魔法を維持するのって、苦手なんだよね」
「あっくんにも、苦手なことがあるんですね」
「そりゃあるよ。何だと思ってるの」
不具合がないか確認し、踵を返して再び先導し始めた髪の長い少年の後を追いながら、タマキは先ほどまで繋いでいた左手を何度も握っては開いて、見つめて、そして木の根に躓いた。
「ひゃあっ」
「ほら、大丈夫?気になるものたくさんあるかもしれないけど、足元見てないと危ないって。もう一回手繋ぐ?」
アスキに助け起こされ、タマキは顔を真っ赤にしながら、慌てて膝に着いた土を払った。
「大丈夫です!すみません!」
「足捻ったりしてない?」
「はい、問題ありません!」
その場でぴょんぴょんと跳んで見せると、ならよかった、と呟いて、アスキはまた歩き出した。
後ろから付いて行きながら、タマキは思わずふふ、と笑う。
「何?」
今度は足は止めず、顔を少しだけ向けてアスキが訊ねた。
「あっくんは、お兄ちゃんみたいですね」
タマキがぽつりと嬉しそうに言った言葉に、アスキは足を止めて振り返った。片眉を下げて、何やら複雑な顔をしている。
「すみません、また私変なこと言いました……」
「初めて言われた」
ぼそりと呟いた言葉に怒気は含まれていない。意外そうな、驚きの声だった。
「そうなんですか?いろんなこと教えてくれるし、優しいし、心配してくれるし、なんだか年上みたいな気がして」
「いつも、『手の掛からない生意気な弟』って言われてたから」
目を伏せて踵を返したアスキの後ろで、タマキが首を傾げる。
「? 誰からですか?ライト先生?」
「……」
何も答えないアスキの表情は、タマキには見えなかった。
しばらく微妙な空気のまま黙々と歩き続けていると、不意にアスキが訊ねた。
「タマキ、マツバカマキリの生態は知ってる?」
「はい。綺麗な水辺の木の上に住んでいて、虫や、時には川魚を捕って食べる肉食、でしたっけ」
「うん。今の時期なら、春に孵化して成虫になった固体が一番多い頃だと思う。ライトもそれを見越して課題にしたんだろうけど」
「へえー」
感心していると、アスキは心配そうな顔で振り返った。
「ていうか、虫、平気?」
「はい。実家は田舎なので、慣れています。家が古くて、蛾とかムカデとか、しょっちゅう入って来るんです」
都市が発展し、街中で虫を見かけることは随分少なくなった。
病原菌を媒介するため一般的に汚らわしいものとして扱われ、虫が苦手な若者が年々増えているという統計もあるくらいだ。
「それならいいけど」
力強く頷いたタマキを見て、アスキは前を向いてまた足を踏み出した。
先ほどの会話で怒らせてしまったかと心配していたタマキが、元通り話しかけてきたアスキを見てほっと胸を撫で下ろす。
「それにしても、虫が全然いないな……。この辺りまで来れば、ハエの一匹くらいいても良いのに……」
「虫を探してるんですか?」
「うん、カマキリの餌になりそうな奴」
「おびき寄せるんですね!」
「できれば大きめの、バッタかトンボか……」
そう言って辺りを見回すアスキに釣られて、タマキも一緒にきょろきょろとしてみる。ふと上を見て、
「ひっ」
急に小さな悲鳴を上げたタマキに、アスキが声を掛けた。
「どうしたの?」
「あの、あれ……」
口を押さえ、震える指でタマキが示した方向を目で追うと、
「うわ」
百メートルほど先、周りより一際高い木が二本聳える間に、この距離からでも見える巨大な蜘蛛の巣が掛かっていた。
大量の虫の死骸や、まだ生きている虫が引っかかり、蠢いている。
「あいつのせいか」
その中心にいる巨大な黒い影、八本足の魔物を見て、アスキは目を細めた。
「オオワシグモ……」
名前の通りの、翼を広げた鷲ほどもある巨大な蜘蛛が、網の真ん中に鎮座していた。
虫が平気とはいえ、自分の身の丈ほどもあろうかという化け蜘蛛には、本能的に拒否反応がでてしまう。事前学習の教科書に載っていた森の危険生物の姿を見て、タマキは身を小さくした。
しばらく遠巻きに観察していたアスキが、
「あれ?」
と、不意に声を上げた。
「どうしたんですか?」
「……本当、タマキは運がいいね」
そう言われ、もう一度蜘蛛の巣を観察する。絡め捕られているトンボやハエの中に、紅色の美しい羽を持つ蝶が一匹、もがいていた。
「あっ!ショウジョウアゲハ!」
任務依頼書に載っていた写真と同じ蝶を見て、タマキは驚きの声を上げた。
「あれが捕まえられれば、任務達成ですか!?」
「でも、ボスは蝶じゃないよ。どうする?」
「うう……。オオワシグモは、七級危険生物、顎に毒も持ってる、ですよね……」
迷っているタマキに、再びアスキが尋ねる。
「見送る?まだあいつはこっちに気付いてないから、道を反れて川でカマキリを探せばいい」
「でも、折角目の前にショウジョウアゲハがいるのに……」
「タマキはどうしたい?」
アスキの問いに、タマキはしばらく迷ってから、キッと化け蜘蛛を睨みつけ、
「……合格したいです」
と言った。
「了解」
アスキは静かに答え、樹上の蜘蛛を見据えた。それまで、目つきの凶悪さに似合わず落ち着いた穏やかな空気を纏っていたのが、一変して殺伐とした野生の獣のような雰囲気に変わる。
タマキはその表情に恐怖を覚えたが、
「私は、何をすればいいですか?」
自分のためにわざわざ危険を冒そうとしてくれている仲間に怯えるとは何事かと、自分の頬を叩いて叱責し、気合を入れ直してアスキに尋ねた。
「うまく使えそうな魔法は?」
「水鏡と、防御壁と、治療系はなんとか。あと、閃光弾は先生が誉めてくれました」
「見事に攻撃魔法がないね……」
「す、すみません。風刃と赤火弾も発動することはできますが、上手く当てられるかどうかは自信がありません」
「分かった。後で魔法弓の使い方を教えるから、攻撃魔法はいいや。オオワシグモの特性は知ってる?」
「昼行性で、基本的に造網性だが、餌の少ないときは徘徊もする。ただし、巣を張った場所から半径百メートル程度しか移動しない。音に非常に敏感で、視力も良い。巣や本体に危害を加えると襲ってくる。捕食の際に出す溶解液と、顎から分泌される毒は人間にも害があるので気をつける。です」
教科書に書いてあったことをそのまま反芻すると、
「それだけ分かってれば大丈夫。……できれば、クモも生け捕りしたいよね……」
「へ!?何言ってるんですか!?」
「道具屋のおっちゃんに、お土産持ってくるって言っちゃったからなあ」
「別に、生け捕りじゃなくてもいいんじゃ……」
「あれが出す糸、高く売れるんだよ。生け捕り任務は、三人パーティでDランクくらいだったかな……」
「えええ……」
「それに、ライトの引きつる顔が見たい。あいつクモ嫌いなんだ」
口元を少しだけ上げ、悪戯を思いついた子供のように物騒なことを言う。タマキは、彼を『手の掛からない生意気な弟』と称した誰かの意見を改めて思い起こした。
「おれがあいつの気を引くから、合図したら出来る限り大きな閃光弾を、クモの目の前でぶっ放して。おれのことは気にしなくていい」
「わかりました、やってみます」
「じゃ、さくっと終わらせよう。確実に当てられる程度の近さで待機してて。迷彩を使ってもいい」
そう言うと、アスキは真っ直ぐに蜘蛛の巣の真下に向かって走り出した。タマキも後を追うが、距離はどんどん離れていく。
相変わらず木の根がぼこぼこと浮き、そうでないところも落ち葉と湿気で柔らかく滑りやすい足場を、まるで舗装された平らな道路を走るように身軽に駆け抜けていく。
アスキが巣の真下で止まったのを確認して、水鏡を発動してアスキが見える木の陰に隠れた。オオワシグモは嗅覚は鋭くないので、大きな音を立てなければ、蜘蛛がタマキに気付くことはないはずだ。
息を吐いてそっとアスキの様子を伺うと、
「……また、変なことしてる」
高く掲げた左手の平に緑色の魔方陣が展開し、風がぐるぐると渦巻きながら徐々に丸く凝縮されていく。タマキは見たことがない魔法で、もちろん教科書にも載っていなかった。
「それっ」
やる気のない掛け声と共に、アスキは蜘蛛の巣の中心、本体がいる場所目掛けて渦巻く風の球を放り投げた。
垂直に高く上がった球は、狙い通りにクモの傍まで揚がり、
パァン!
「ひっ」
爆竹のような高い爆音を撒き散らして破裂した。タマキは驚いて身を小さく縮こまらせ、ビリビリと辺りが揺れる。木々に止まっていた鳥たちも、ばさばさと飛び立っていった。
再び巣を見ると、音に驚いたクモが動き出し、するすると糸を出して降りてくるところだった。
アスキはわざと自分に気付かせたのだ。そして、
「タマキ、準備してて!返事はいらない!」
ショートソードを抜いて、真上から降ってくる魔物を睨みつけながら、自分の周りで次々と小さな風の球を爆発させた。攻撃的で音に敏感なクモを、真っ直ぐ自分に向かってくるように仕向けるためだ。
降りてきたクモがまさにアスキに襲いかかろうと足を広げたとき、アスキが叫んだ。
「今!」
「はい!」
言われた通りに、思い切りクモとアスキの間で閃光弾を破裂させた。先ほどの風魔法よりも更に派手な、バァン!という音が響き渡り、離れているタマキも目を開けていられないような眩い光が辺り一帯を照らす。
「……」
光が消え、自身も耳を塞いで目を伏せていたタマキが恐る恐る顔を上げると、アスキはだらんと力なく垂れ下がったクモから出る糸を、ショートソードで切っているところだった。
脚まで含めるとアスキとそう変わらない大きさをしたクモは、ぴくりとも動かない。
「あの、どうなったんですか?そのクモ、死んでないんですか?」
「気絶させた。人間より目も耳も良いから、しばらく動けないんじゃないかな」
「あっくんは大丈夫ですか?」
「大丈夫」
簡単にそう言い、ごそごそとポケットを探った。そして、道具屋で買った虫かごを取り出す。
「この虫かご、中に入れたものは外に危害を加えられないように、結界魔法が張ってあるんだよ。あのおっちゃんのお手製。すごいでしょ」
「ええっ!あのおじさん、そんなこともできるんですか!?」
「魔法弓も、あの店で売ってる商品の殆どはおっちゃんの自作だよ。その道では知られた発明家なんだ」
「へえ……」
アスキは喋りながら器用に糸で蜘蛛の足を縛り、虫かごに放り込むと、ぱんぱんと手をはたいた。
「よし。おれは囮になっただけだから、実質、クモを捕まえたのはタマキのお手柄だ。やるじゃん」
「そんな、私はあっくんの言うとおりに動いただけで……」
「なかなか強烈な閃光弾だったよ。あれだけの規模が起こせるなら、ちょっと鍛えれば案外、一番も夢じゃないかも」
そう言うと、アスキは初めて、歯を見せてにっと笑った。初めて見た少年らしい表情にタマキは一瞬ぽかんと口を開け、自分の表情に自覚がないのか、アスキはタマキの反応に首を傾げた。