葛藤
徐々に目の前が暗く歪んでいく。
「はい、感想は?」
「はっ…」
気づくと俺は部屋で立ちっぱなしの状態だった。目の前にはサキがいる。
「これが真実。従ってこの家の床にはアタイの白骨死体が埋まっている」
「それでお前はこの家の地縛霊ってわけか。しかしよく建築の際見つからなかったな」
「施工業者がルーズで運が悪かったのよ。
それに何度も『アタイはここよ!ここにいるのよ』って叫んでも、霊感の強い奴なんて一人もいやしなかった。そんなことより、感想は?」
「…言葉にならないくらい恐ろしい場面だったよ、なんか今日の夢に出てきそうだ」
「川島竜次の顔みたでしょう?」
「ああ、みたよ」
「綾瀬って女の父親に間違いないでしょう」
「…認めたくないが、確かに似ていた」
一週間後、俺は綾瀬ちゃんと三度目のデートの真っ最中だった。今日こそせめて手でも握ろうと思っていたものの、俺の心は別件でとてつもなく重たい気分に支配されていた。
今回のデートには最初からサキもついてきたため、どのみち手を握ることはできそうにないのだが…。
俺のポケットには手紙が入っていた。その手紙は川島竜次、つまり綾瀬ちゃんのお父様宛の手紙であった。
書いたのは俺だが、それはサキに書かされたものだった。
映画を見て、喫茶店でお茶をして、ショッピングをするものの、俺の複雑な表情は隠しきれない。
俺はこれから目の前にいる天使の家庭を崩壊させようとしている。
「どうしたの?ヤマト君、なんだか元気ないみたいだけど…」
「え、あ、い、いや大丈夫だよ」
無理に微笑んでみせる。
その後、お決まりのコースとして料亭カワシマに行く。
「やあ、ヤマト君、今日は楽しかったかね?ちょうど良かった。今日は店でこれからだそうと思っている新メニューを試食してもらおうと思っていたんだ」
満面の笑みのお父様からはとても二十五年前に残虐非道な犯行に及んだという面影は全くない。
今でも何かの間違いではないかと疑ってしまう。
旅館の一番高い部屋かと錯覚してしまう和室にて、俺と綾瀬ちゃんは向き合い、従業員が運んできた超豪華メニューに箸をつけるが、とてもじゃないがガツガツと食べる気にはなれない。
この手紙を読んでお父様が恐怖におののくのは間違いないだろう。
…よく考えてみろ。
本当にこの手紙を渡すべきなのか?
お父様にこの手紙を見せるということで、
得をするのはサキだけである。
その他の人間は全てどん底に落とされるに違いない。
まず俺とお父様との関係を崩壊させてしまうことになるだろう。
それだけではない。お父様は間違いなくパニック状態に陥り、精神的におかしくなり、なおかつ、料亭カワシマの経営もあやうくなるかもしれない。
そして俺と綾瀬ちゃんとの関係にも暗い影を落とすに違いない。
さらに綾瀬ちゃんは(もしお父様の過去を知ってしまったなら)「犯罪者の娘」として自らの存在を呪い、暗い人生を歩むことにもなりかねない。
お父様と綾瀬ちゃんとの関係もズタズタに引き裂かれ、この家庭は完全に崩壊するだろう。
そしてお父様は最悪の場合自殺…。
復讐を果たした藤原サキ子は高笑いをして、満足して俺の前から姿を消し去ることだろう。
そして俺自身も、綾瀬ちゃんと別れることになるのではないか?
綾瀬ちゃんが号泣しながら叫ぶのが想像できる。
「ヤマト君…。過去は事実かもしれない、でもヤマト君さえ事実を隠してくれていたら、お父さんが自殺することもなく、アタシも幸せでいられたのに…。この家庭が崩壊することもなかったのに。どうして黙っててくれなかったの?それは確かに、許されないことかもしれない。でも知りたくなかったよ…」などと泣き崩れてしまい、俺と綾瀬ちゃんとの関係も終わってしまうのではないだろうか?
考えすぎだろうか?妄想だろうか?
いやいやそんなこともない。少なくともこの手紙は俺たちの日常を一気に奈落の底に落とすだけの威力があるのだ。
この手紙を出すということは、とてつもない後悔の念に襲われてしまうということだろう。
たしかにサキはどれだけ苦しんで、どれだけ無念の死を遂げたかとは思う。
あの時、サキに過去の幻影を見せてもらったときは、自分がやられているかのように辛かった。いや辛いなんてものじゃない。地獄と表現してもまだ足りないかのような状態だった。
犯罪は絶対に許されるものではないし、お父様が過去の過ちを隠して裕福な生活をしているというのはサキにとってとうてい納得のいくものではないこともよくわかる。
俺だってサキの力になってやりたいとは思う。
でも、こんなのってあまりにもひどすぎる。
なんでよりによって、サキを殺した犯人が、綾瀬ちゃんのお父様なんだ?
俺はどうすればいいのだ?
俺は綾瀬ちゃんが好きだ。
この子を失ったらどうにかなってしまう。
そのくらい好きだ。
だから綾瀬ちゃんを不幸にすることは絶対にしたくない。
でもサキがお父様に残虐な殺され方をされたという事実を知った以上、サキをも助けたい気持ちがある。
なんだよこれは!
幽霊と人間相手に二股かけているような異様な状態だ。
だが、この手紙を渡さなかったら、サキはこれからどうするのだろう?
サキにとっては俺しか頼る相手はいない。
サキは地縛霊だから、骨が眠る現地、つまり俺の家から離れることはできない。
今日みたいに一時離れることはできても、あまり長時間離れているとサキは具合が悪くなってしまい、現地に戻らざるを得なくなる。
唯一の味方である俺がサキの最後の手段、「手紙」を渡さないということは、サキにとってどれだけ無念なことかは想像できる。
二十五年という歳月を乗り越えて、ようやく霊感のある俺に出会った、それだけでなく犯人を見つけた。
サキにとってはこのチャンスを逃すわけにはいかないのだ。
でも、
でも、
でも、
一体どうすればいいのだ!
ベッドで横になりながら、昭和女子高生の罵声を浴びせられている俺だったが、今日はもう何も考えたくはなかった。
「何で手紙を渡さなかったのよ!二時間もかけて代理で書いたこと自体が何の意味もないじゃない!」
「うるさいなあ!あんな手紙見せたら、お父様はパニックになり、家庭崩壊、綾瀬ちゃんも俺も不幸になるってさっきから言ってるだろう!」
「あんな犯罪者の娘とは早く別れるべきなのよ!」
「俺は綾瀬ちゃんを不幸にしたくないし、別れたくもない!」
「それだとアタイが消える日は永遠にこないわ。それにアンタだって、もしあんな女と結婚なんかしたら、犯罪者と親戚関係になるのよ!」
「その発言は一種の差別だ!」
「何が差別よ!殺された身にもなってみなさいよ!犯罪者はその家族をも不幸にするんだから本当に罪深い存在なのよ!あの男は未だ何ら罰を受けていないのよ!こんな状態が成り立つ社会などありえないわ!」
「俺だってお前の力にはなってやりたいよ!でも、そんなことをしたら…何の罪もない綾瀬ちゃんをも巻き込むことになるじゃないか!」
「ヤマト、これはアンタの運命なのよ!手紙を渡さない限り、アタイはいつまでもいつまでもアンタの前から消えない!アンタがそんな態度ならアンタのプライベートまでもずーっとつきまとってやる!アンタが叫びたくなるくらいに毎日毎日アンタのそばにいてあげるわ!」
「やめてくれ!俺だって一人の時間くらいほしい!」
「だったら手紙を出して!」
「次のデートは一週間後だよ」
「そんなに待てない!明日もう一度あのお店に行って!」
「俺には無理だ!」
するとサキは今までにないくらい怨念のこもった目で俺のことを睨みつけてきた。
やばい、そういえばこいつ一応幽霊だった。
やっぱり幽霊って怖いんだな。
「アンタがどうしても手紙を渡せないというのならアタイにも考えがあるわ」
「ど、どうするってんだよ。お前は俺に触れることすらもできないんだぞ」
「それでもアンタを攻撃するまでよ」
深夜二時、なんだか眠れない。
サキの奴は捨て台詞を吐いたあと、全く姿を見せなくなったのだが、逆にそれが不気味で仕方がない。
眠れないのはそのせいだろうか。
オシッコがしたい。
でも何か嫌な予感がする。
かといい漏らすわけにもいかない。
俺は部屋の戸を開け、階段を降りる。
今日に限ってやたらとミシミシと音をたてる階段。
でもサキは物理現象までコントロールできるとは思えない。幽霊のことは詳しくわからないが…。
気のせいかもしれないが、空気が澱んでいる。湿ったような異様な気配がする。
トイレの明かりをつけて、ドアを開ける。
次の瞬間全身が凍りつく、一気に冷や汗が出る、鳥肌が経つ、血の気がスウッと引く。
目の前のグロテスクなモノを見て俺は絶叫せざるを得なかった。
「うあああああああああああああ!!」
寝ていた両親をもさすがに起こしてしまった。
ぶつくさと文句を言いながらトイレに来る二人。
「大和!何時だと思ってるんだ!」
よろめいて思わず両親の体にぶつかる俺。
気づくと目の前には何もない。
両親が再び床に伏せた後、俺は先ほどの恐怖を思い出す。
トイレの扉を開けると確かにミイラ化したセーラー服姿の遺体が便器に体を預けていたのだ。
大きくため息をつき、サキに脅かされたことに気づく。
「あの昭和女め…。安っぽいホラー映画みたいな真似しやがって…」
帰り道がまた怖い。
単なる脅しであって、自分に何ら危害を加えることができない幻を見せつけられているのだと自らに言い聞かせても、突然何かが現れるという現象は非常に心臓に悪い。
今度はなんだ?
今度はどこだ?
あちこちに神経を張り詰めながら恐る恐る階段を上る。
部屋の前まで着いたが、扉を開ける時が一番何かが起こりそうで怖い。
「サキ!出てこい!わかってんだぞ!くだらない脅しはやめろ!こ、怖くなんかないんだからな!」
何もわかってないくせに強がりながら恐る恐る扉を開ける。
誰もいない、特に何の変化もない。
今度はなんだ?
布団の中か?
恐る恐る布団に近寄ると、
「ぴぴぴぴぴぴ!!」
「うあああああああああああ!!」
腰を抜かしてしまったが、正体は単なるメールの着信音で、見てみると希に届く迷惑メールだった。もちろんメールはサキの仕業でもなんでもない。
布団の中にはもちろん何もない。
その後布団に入るも俺は一睡もできなかった。