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~ 八ノ刻   危機 ~

「ここから逃げるっす!!」


 迫り来る悪鬼の爪をかわしながら、総司郎は後ろにいる浩二と雪乃に向かって叫んだ。


「くそっ! なんで開かないんだよ、この野郎!!」


 死闘を繰り広げる総司郎を他所に、浩二が扉に悪態をつく。やはり、目の前の悪鬼による力で封じられているからだろうか。部活で鍛えているので力には自信があったが、扉を封じる力は浩二の腕力よりも上だった。


 扉を叩き、蹴り飛ばし、最後は全身で体当たりを食らわせた。それでも扉はビクともせず、ガタガタと虚しい音を立てて揺れるだけだ。


 このまま扉を叩いていても駄目だ。そう、浩二が考えたとき、彼の後ろで悪鬼が吠えた。


 地獄の底より生まれし魔獣の、怒りと憎しみを込めた咆哮。それ以外に表しようのない凄まじい叫び声だ。この世に生きる者の口から発せられる音ではない。少なくとも、こんな恐ろしい雄叫びを上げる相手には、浩二は生まれてこのかた出会ったことさえない。


 悪鬼の咆哮に合わせ、その口から多数の赤い蛍が放たれる。放たれた蛍たちはそれぞれが弾となり、一斉に総司郎に向けて襲いかかる。


 避ければ後ろにいる二人に、被害が及ぶことがわかっていたのだろう。総司郎は咄嗟に両手を十字に組み、その魂の鼓動に意識を集中させた。


「弓削さん!!」


 自ら盾となって悪鬼の攻撃に耐える総司郎。それを見た雪乃が、口を両手で覆って叫んだ。


 蛍が総司郎の身体に当たる度に、何かが弾けるような音がする。蛍が当たった箇所に焼けるような痛みを覚え、総司郎の顔に苦悶の表情が浮かぶ。


「は、早く……行くっす……! こいつは俺が押さえますから……早く!!」


 そういう声が震えている。あれだけの攻撃の直撃を受けて、総司郎とて平気なはずはない。


「……っ! 行くぞ、長谷川!!」


 それは苦渋の決断だった。浩二は未だ床にへたり込んでいる雪乃の手を取ると、脱兎の如く駆けだした。


 後ろから、悪鬼の雄叫びが聞こえてくる。しかし、振り向くことは許されない。もし、振り向いて、そこに決して見たくない光景が広がっていたら、それ以上は先に進めなくなってしまうだろうから。総司郎が身を呈して守ってくれたことが、全て無駄になってしまうから。


 屋敷の玄関から伸びている廊下は二つ。向かって左側は、二階へ続く階段のある中庭へと伸びるもの。右側は、未だ探索さえ済んでいない、まったく未知の領域だ。


 迷っている暇などない。ここから近いのは右。浩二は雪乃の手を引いて、躊躇うことなく右の廊下を目指して走る。が、それを見た悪鬼は二人の動きに気がついて、更なる蛍を吐き出した。


「危ない!!」


 攻撃の矛先が自分から移ったことを察し、総司郎の足が床を蹴った。そのまま悪鬼と二人の間に割って入ると、拳に力を込めて蛍を叩き落とす。


 一匹、二匹と、放たれた蛍たちが次々に総司郎の拳によって砕かれる。霊を殴ることに特化した彼の拳は、霊の攻撃もまた無力化する。打ち砕かれた蛍は淡い霧と化し、直ぐに周囲の空気と混ざり合って見えなくなる。


 だが、あらかた蛍を叩き落としたと思ったそのとき、雪乃の小さな悲鳴が聞こえた。思わず後ろを見ると、どうやら落とし損ねた蛍の内の一つが、雪乃の肩に当たってしまったようだった。


 盲目の総司郎にとって、自分に向けられた悪意を察することは容易いこと。しかし、他人に向けられた悪意を察するのであれば、話は別となる。


 自分を狙ってくる攻撃であれば、軌道を読んで叩き落とすことも簡単だ。が、他の人間を狙って放たれた攻撃に関しては、彼の卓越した霊感を持ってしても、全て感知して捌ききることは難しい。


 肩を抑えながら、それでも浩二にリードされ、なんとか廊下の奥へと走って行く雪乃。消える彼らの姿を背に、総司郎は失ったはずの瞳をゆっくりと悪鬼に向ける。


「やってくれたっすね……。貴様が誰であれ……俺は絶対に許さないっす……」


 普段の温厚そうな口調は、既に影を潜めていた。そこにあるのは静かな怒り。普段は口数の少ない総司郎だけに、本気で怒った彼の様子は、その全身から立ち上る気の性質さえも変えていた。


 サングラスの位置を直し、総司郎は着ていたアロハシャツを脱ぎ棄てた。黒いタンクトップと、その隙間から覗くたくましい筋肉が姿を現す。全身を流れる怒りの気に合わせ、彼の身体が静かに、しかし力強く躍動していた。


「久々に、本気を出させてもらいますよ。覚悟はいいっすね……」


 呼吸に合わせ、総司郎の上半身が大きく隆起する。両腕に刻まれた梵字は更に激しく、赤く光り、両腕には太い血管が浮き上がる。


 悪鬼が吠え、総司郎に飛び掛かる。対する総司郎も、今度はかわすような動きを見せない。真っ直ぐに、正面から悪鬼の姿を捕え、豪快に拳を突き出して応戦する。


 大銅鑼を叩いたような音がして、総司郎の拳が悪鬼の顔面を捕えた。鋭い爪が己の身を引き裂くより早く、総司郎は強烈なカウンターパンチを見舞ったのだ。轟音と共に繰り出された一撃は悪鬼を軽く吹き飛ばし、直撃を受けた箇所が崩壊して顔面が崩れた。


 玄関の壁に叩きつけられた悪鬼が、憎々しげな目で総司郎を見る。あれだけ強烈な一撃を受けていながら、その目は未だ獲物を狩ることを諦めていない。


 壁から床に、悪鬼の身体がずるりと落ちた。顔の半分が欠けていながら、それでも悪鬼は首をもたげ、ふらふらと立ち上がって総司郎を睨みつける。


 闇の奥で輝く赤い瞳が、眼球いっぱいに広がった。黒く変色した白目の部分を食らうように、虹彩が大きく広がった。


「……っ! これは……」


 何やら不穏な気配を感じ、総司郎が拳を構えた。辺りに意識を張り巡らせると、いつの間に現れたのだろう。そこには多数の赤い蛍が飛来しており、それらは悪鬼の身体に次々と吸収されていた。


 赤い蛍は、気配を消して獲物に近付く。目の見えない総司郎にとっては、生者も死者も関係なく、それらの存在が放つ気を頼りに状況を判断する他にない。ある程度近づけば問題ないが、あの赤い蛍のように気配を消せる存在は、近づかれるまで相手のことを察知することが不可能となる。


 戦いの間に呼び集めていたのか、それとも既に蛍を周りに待機させていたのか。その、どちらでも、総司郎には関係なかった。それよりも問題なのは、あの蛍を悪鬼が吸収したことだ。


新たに蛍を取り込んだことで、悪鬼の身体は瞬く間に修復を終えていた。砕かれた顔も元に戻り、赤い瞳がしぼんでゆく。黒い穴の奥に邪悪な輝きを宿しながら、それはにやりと笑ってみせた。


「なるほど……。これで、仕切り直しってわけっすか」


 構えを解かず、総司郎もまた苦笑しながら呟いた。これはいよいよ、厄介なことになってきた。が、ここで引き下がるわけにはいかないことくらい、彼も十分に承知している。


 修復を終え、悪鬼がその口を大きく開いて叫んだ。白金色の髪が一斉に逆立ち、凄まじい負の霊気の奔流が総司郎を襲う。それらが顔の横を通り過ぎるたびに、総司郎はピリピリとした痛みを覚えた。


 先ほどの一撃を受けて、相手も本気を出してきたということか。ならば、こちらも出し惜しみはしない。全身全霊をかけて、目の前の敵を叩き潰す。それだけだ。


 腕の梵字が輝いて、総司郎の拳が空を切る。同時に悪鬼の爪が振り降ろされ、それらは空中で激しく音を立ててぶつかり合った。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 長い廊下を走り抜けると、そこにあったのは倉のような場所だった。床は土間と同じように、ひんやりと固い土が広がるばかり。そこかしこに壷や葛篭のようなものが置いてあり、どれも埃を被っている。


 両肩を揺らして激しく息をきらし、雪乃と浩二の二人はその場にしゃがみこんだ。


 駄目だ。これ以上は、もう走れない。二階で亡者の群れに襲われたときから、あまりにも立て続けに走り過ぎた。


「な、長瀬さん……。私……もう……」


 雪乃の口から出る声は、言葉になっていなかった。アイドル歌手として、ときに舞台の上で踊りながら歌うようなことがあっても、所詮はか細い少女にすぎない。普段から、男連中にまみれて激しく部活で練習をしている浩二とは、体力的に差があり過ぎる。


「ああ……。俺も、マジで限界だ……。でも、ここまでくれば、たぶん大丈夫だろ」


 壁にもたれかかりながら、浩二は呼吸を整えながらも雪乃に気づかうような視線を送った。


「それより、お前、肩は平気か? さっき逃げるとき、あの赤い蛍みたいなやつを食らったような気がしたけどよ……」


「えっ……? あっ、それなら大丈夫です。他の人はどうだか知りませんけど……私、ああいったお化けの攻撃って、効き難い身体みたいですから」


「はぁ? なんだそりゃ!?」


「えっと……。詳しいことは、私にもわからないんですけど……。前に、犬崎君に会ったときに知ったんです。なんでも、私にはお化けとか幽霊とか、そういった者の攻撃が効き難い体質なんだって。もともと霊感が極端に弱いから、逆にお化けの攻撃が私に効果を現すのにも、それなりの時間や量が必要なんだって……」


 耐霊体質。以前、雪乃が毒蟲の群れに襲われているのを紅が救った際、彼の口から言われた言葉だ。霊媒体質の反対で、とにかく霊的な存在の影響力を受け難い。だから、憑依現象に悩まされるようなこともなければ、幽霊が目の前に現れても見えないことも多い。


 呪いや祟りに関しても、一般人よりは聞き難い。普通の人間であれば半年で死んでしまうような呪いを受けても、一年近くは普通に耐えられる。


 最終的には耐久力の問題なので、耐霊体質とはいえ無敵ではない。ただ、攻撃が効かないということは、それだけ命の保証がされているということでもある。慢心はできないが、保険としては十分だ。


「しっかし……。そうなると、やっぱ俺だけが、な~んの力もねえってことになんのかな? カッコつけてここまで来たのはいいけど、結局俺が一番お荷物ってことか?」


 両腕を頭の後ろに組んで、浩二は天井に視線を向けながらぼやいた。


「そ、そんなことないですよ! 長瀬さん、自分の彼女さんのために、ここまで来たんじゃないですか。それも、髪の毛まで切って……。そんなことできる人、なかなかいないと思います!」


「そうか? でも、実際、勢いだけじゃ上手くいかないってこともあんだぜ? 俺は犬崎や、あの陰陽師みたいに、化け物と戦う力なんてねえ。嶋本みたいに妙な知識や人脈があるわけでもねえし、お前みたいに霊の攻撃に強いわけでもねえ。周りにいるやつと自分を比べて見ると、マジでヘコみそうになんだよな……」


 両手を頭の後ろから降ろし、浩二は少しだけ首を下に傾けて溜息をついた。


 詩織を死の祟りから救いたい。その気持ちだけは強くとも、実際は何ができるわけでもない。自分には幽霊と戦う力もなければ、その他に特殊な力を持っているわけでもない。ただ、じっとしているのが我慢できず、意地だけでここまでついてきた。それだけだ。


(くっそ……。なんだかんだで、俺だけが何もできない役立たずってわけかよ……)


 湧き立つ悔しさをなんとか心の中に押し込めて、浩二は冷たい土の床に、握るようにして爪を這わせた。


 戦う力が欲しいとは言わない。強大な霊感を持たないのであれば、せめて雪乃のように、亡霊の攻撃に耐えられるだけの力が欲しい。そうすれば、例え真正面からぶつかって敵わなくとも、せめて亡霊たちに一矢報いる程度はできるかもしれない。あの、玄関先に現れた悪鬼を総司郎に押し付けて、ここまで逃げる必要もなかったかもしれないというのに。


「あの……長瀬さん?」


 俯いたまま黙り込んでしまった浩二の顔を、雪乃が心配そうに覗き込む。


「なんだよ。また、あの赤い蛍でも現れたのか?」


「そうじゃないです。ただ……御鶴木先生や弓削さん、本当に大丈夫でしょうか?」


「さあな。でも、あの場はどう考えたって、逃げる以外に方法はなかっただろ? それに、俺達とは違って、あの人達は犬崎や九条みたいに、すっげー強ぇ霊感持ってるみたいだしな。俺達がいない方が、あっちとしても気兼ねなく戦えて……」


 最初は自分に言い聞かせるようにして、浩二はやけに饒舌になって喋っていた。だが、途中まで話をしたところで、急に何かを思い出したかのようにして、言葉を切ったまま固まった。


「どうしました、長瀬さん?」


 浩二の口から出る言葉が途絶えたことで、雪乃が怪訝そうな顔をする。それでもなお、浩二はその両目を見開いたまま、その場で唐突に立ち上がる。


 雪乃は言っていた。自分は霊感が弱く、それ故に幽霊の攻撃も効き難いのだと。だから、先ほどの赤い蛍による一撃も、そう大した威力はなかったと。


 だが、それならばなぜ、雪乃にはあの赤い蛍が見えたのか。いや、赤い蛍だけではない。蛍が呼びだした亡霊や、連中が集まって生まれた悪鬼。あの、犬崎紅に酷似した白髪の怪物が、浩二だけでなく雪乃にも見えた理由はなぜか。


 霊感の弱い雪乃の目でも、この村の亡霊たちが見えること。それは即ち、連中の力がそれだけ強力だということだ。実際、普段は幽霊など見ることのできない浩二でさえ、この村の亡霊たちは普通に姿を見ることができる。元から霊感の強い魁や総司郎ならまだしも、何の力も持たない自分が、こうもたくさんの幽霊を普通に目視できたということが、そもそも不自然極まりないことだ。


 霊感が弱ければ幽霊は見えず、それ故に霊の攻撃も効き難い。では、その反対に、強い霊感を持っている人間にとって、幽霊の攻撃はどうなるのだろう。


 紅や魁、それに総司郎のような人間は、恐らく雪乃と正反対の性質を持っている。その力は確かに悪霊を祓うのに効果的だが、強い霊感を持つということは、それだけ霊的な存在の影響を受けやすいということでもある。


 自分達を逃がすとき、総司郎は全身で赤い蛍の攻撃を受け止めていた。その光景を思い出し、浩二は慌てた様子で雪乃に向かって叫ぶ。その目は既に、先ほどのような焦点の定まらないものではない。緊張と焦り。その二つの感情が、明確に表に現れていた。


「おい、まずいぞ、長谷川! お前の言っていることが正しかったら……やっぱ、あそこに弓削さんを置いて逃げたのは、間違いだったかもしれねえ……」


「えっ!? そ、それ、どういう意味ですか?」


「お前、さっき言ってたよな。幽霊が見えないやつは、幽霊の攻撃も効き難いって……。だったら、俺達よりも幽霊を見る力の強いあの二人は、俺達以上に、霊の攻撃でダメージもらいやすいってことじゃねえのか!?」


「あっ……!!」


 浩二の言葉に、雪乃も息を飲んで立ち上がる。確かによくよく考えてみれば、浩二の言っていることは納得がゆく。霊感の強さが霊的な攻撃に対する影響力までをも左右するならば、霊感が強いということは、それだけ霊の攻撃に弱いということにもなりはしないか。


「俺は、やっぱり弓削さんのところに戻るぜ。これ以上は、逃げ回るのなんて俺の性に合わねえ。それに、逃げてばかりじゃ犬崎にも九条にも追いつけねえし、詩織だって助けらんねえからな!」


「で、でも……。私達が行っても、足手まといなんじゃ……」


「だったら、こいつを使って戦えばいいだろ? あの陰陽師の言ってたことが正しいなら、これで幽霊どもにもダメージを与えられるはずだ」


 ポケットから小瓶を取り出し、浩二はそれをしっかりと握り締めて言った。この屋敷に入った際、魁より手渡された神水だ。悪霊に対しては硫酸のような効果を発揮する水として、護身用に手渡してくれたものだ。


 こんな物で、あの悪鬼を倒せるとは思えない。だが、仮に倒せなかったとしても、弱らせたり怯ませたりする程度ならできるかもしれない。そうやって隙を作れば、そこに総司郎が必殺の一撃を叩き込むことも容易いだろう。


 神水の入った小瓶を握る手が、静かに震えていた。こんな簡単なことさえ気づかずに、慌てて逃げ出してしまった自分が情けない。自分の頭の足りなさを、浩二は改めて呪った。


「わかりました。それなら、私も行きます。私だったら、万が一お化けの攻撃を受けても、直ぐに死んじゃうことはないと思いますから」


 雪乃も小瓶を取り出して、浩二に微笑んで見せた。こんな場所でも直ぐに笑顔になれるのは、彼女がアイドルという仕事をしているが故なのか。それとも、その穏やかな物腰の裏に秘めた、芯の強さから来るものなのか。


 その、どちらでも、今は関係ない。雪乃を危険に晒すのは気が引けるが、彼女をこのままこんな薄暗い倉に放置してゆくわけにもいかない。


 いざとなれば、自分が前に出て戦おう。雪乃の身体が幽霊の攻撃に強いことなど、あくまで保険の様なものだ。


 自分自身に言い聞かせ、浩二は先ほど自分達が走り抜けて来た道を戻ろうと歩き出した。その後に雪乃も続く。が、少し足を進めたところで、雪乃が軽い苦悶の声を上げて肩を押さえた。


「お、おい……。大丈夫か、長谷川?」


「はい……。ちょっと、さっきやられたところが痛んだだけです……」


「さっきやられたところって……。お前、幽霊の攻撃は効かないって、自分で言ってたばっかりじゃねえかよ!!」


 目の前で肩を押さえ、空元気を出す雪乃に対し、浩二は本気で怒鳴った。責めるつもりはなかったが、気がつくと強い口調になっていた。


「肩を見せろ!!」


 そう言うが早いか、浩二は雪乃の手を払いのけ、服の襟をつかんでずらした。恋人のいる身で、同い年の少女の肌を見ることに抵抗がないわけではない。だが、今はやましい気持ちより、雪乃の身を案じる気持ちの方が強かった。


 あくまで平気だと言い張る雪乃を他所に、浩二は半ば強引に、雪乃の服をまくって肩を見た。紅ほどではないにしろ、彼女の肌は学校の級友達のそれと比べても白い。それだけに、肩に現れた赤い腫れは、直ぐに浩二の目に止まった。


「お前……。こんなに腫れてんのに、なんで今まで黙ってたんだよ!!」


 雪乃の腫れた肩を目にし、浩二の口調が更に強くなる。痣になるまで酷いものではないが、それでも随分と腫れている。


 こちらに心配をかけまいと、雪乃はきっと痛みに耐えていたのだろう。それは浩二にもわかる。だが、この場に置いてその判断は、返って事態を悪化させることにも繋がりかねない。


 霊的な存在の攻撃に強い雪乃でさえ、ほんの一撃でこれだけのダメージを受けたのだ。では、これが魁や総司郎だったら、果たしてどうなってしまうのか。あれだけの蛍の直撃を受けても、一見して総司郎は大丈夫な様子だったが……本当に何の影響もなかったのかは、浩二にもわからない。


 できれば今すぐにでも、総司郎のいる場所に戻りたい。しかし、その一方で、雪乃の肩をこのままにしておくわけにもいかない。


「くそっ……。せめて、何か冷やすもんでもあれば……」


 焦る気持ちを抑えつつ、浩二は改めて倉の中を見回した。倉の奥は得体の知れないガラクタが積まれていたが、役に立ちそうな物は見当たらない。それでも諦めることなく部屋の様子を探って行くと、隅の方に、なにやら井戸のような物があるのが目に入った。


 あの井戸は、まだ使えるのだろうか。ふと、そんな考えが浩二の頭に浮かんできた。


 こんな朽ち果てた村の井戸だ。水が枯れていない可能性の方が低いし、そもそも水があったところで、使える状態にあるのかもわからない。もっとも、他に頼りになりそうな物がない以上、今はこれに賭けるしかないのだが。


「待ってろ、長谷川。ちょっと、肩を冷やすもんを持って来る」


 そう言うが早いか、浩二は井戸に向かって駆け出した。そして、井戸の蓋を乱暴に放り投げると、そのまま中を覗きこむ。


 穴の中には、真っ暗な闇が広がっていた。そのまま覗き続ければ、やがては自分の魂さえも吸いこまれてしまいそうなほどに深い闇。その闇の奥で、微かに何かが波打っているのが見える。村の全てが朽ち果てていても、井戸の水は生きているようだった。


 近くに転がっていた縄つきの桶を拾い上げ、浩二はそれを井戸の中に投げ入れた。下の方で鈍い水音がしたところで、浩二は縄を使って桶を引き上げる。両手にかかるずっしりとした感触は、古井戸の底に、未だ十分な水があることを示している。


「ふぅ……。とりあえず、水は枯れてなかったか……」


 桶を引き上げ終えたところで、浩二は改めてその中を見た。いくら井戸の水が生きていたとはいえ、果たして本当に使えるものなのか。なにしろ、ここは亡霊どもの跋扈するような廃村だ。得体の知れない藻や虫の死骸、場合によってはそれよりもおぞましいものが、一緒に引き上げられたとしても不思議ではない。


 桶の中を覗いて見ると、浩二の予想に反し、そこには濁りのない水面が揺れているだけだった。汲み上げた水からは、妙な匂いがすることもない。地下深くにあったため、村の中に漂っている毒気のようなものからも守られたのだろうか。


 これなら使える。浩二は自分のポケットからハンカチを取り出し、それを水に浸して絞った。霊の攻撃によって受けた傷に、果たしてどこまで効果があるか。保証の程はなかったが、今はこのくらいしか、雪乃にしてやれることがない。


「ほらよ。ハンカチ濡らして来たから、こいつで肩を冷やしとけ」


 随分とつっけんどんな口調で、浩二は雪乃にハンカチを押しつける。お礼を言おうとした雪乃だったが、浩二は直ぐに後ろを向いて、雪乃から目を逸らしてしまった。


 こういったことは、妙に照れ臭くて敵わない。詩織という彼女がいる手前、他の女の子に優しくすることに、どうにも後ろめたい気持ちになってしまう自分がいる。


 再び倉の床に腰を降ろし、浩二は雪乃の肩の腫れが治まるのを待った。そう簡単に腫れは引かないだろうが、多少は痛みも和らぐかもしれない。ただ、その間の時間が妙に長く感じられて、浩二はつい、指先で床を叩くような仕草をしてしまう。


 魁と総司郎は、本当に大丈夫なのだろうか。あの二人のこと。そう簡単にやられるとは思えない。


 物事を悪い方へと考えれば、おのずと悪い結果に辿り着く。昔、田舎の祖父母から聞かされた言葉を思い出し、浩二は頭を振って雑念を消した。


 今はただ、信じて待つ以外に道はない。雪乃の肩のこともあり、実際には下手に動けないだけともいえたが、そう思っていなければやっていられない。


「なあ、長谷川……」


 特に理由もなく、浩二は横にいる雪乃に話しかけた。何かを喋っていないと、また悪い考えが頭に浮かんできそうで不安だった。


「お前、そもそもなんで、俺達に同行しようなんて考えたんだ?」


「えっ……!? そ、それは……」


「ま、別に言いたくなけりゃ、いいんだけどさ。ただ、俺なんかとは違って、お前は超売れっ子のアイドルじゃん。わざわざこんな危険な冒険しなくても、東京でライブやって歌ってれば、平和に過ごせたかもしれないって思っただけさ」


「平和に、ですか……。確かに、そうかもしれませんけど……」


 肩に当てていた手を降ろして、雪乃も浩二の方へ顔を向けた。肩の痛みは完全に引いていなかったが、冷たい水で冷やしたことで、少しは痛みが治まっていた。


「私が亜衣ちゃんや長瀬さんと一緒に行こうって決めたの、たぶん長瀬さんと同じ理由です」


「はぁ!? どういうことだ、そりゃ?」


「長瀬さん、自分の彼女さんを助けるために、犬崎君を見つけようと思ったんですよね? だったら、私も一緒です。私も……自分の好きな人が困っているなら、何か力になれればって思ったから……」


 自分でも、ここまではっきりと気持ちを口にできるのが、雪乃は不思議でならなかった。それは、この村の持つ不可解な空気がさせるものなのだろうか。それとも、以前に亜衣と喋ったことで、自分の紅に対する気持ちを周囲に明かすことに、そこまで抵抗がなくなってしまったのだろうか。


 だんだんと、顔が赤くなってゆくのが雪乃自身にもわかった。勢いに任せて口にしてしまったが、やはり終わってみると少し恥ずかしい。気のせいか、全身が少し火照っているような気さえする。今、鏡で自分の顔を見たならば、肩の腫れと同じくらいに、赤く染まってしまっていることだろう。


「なるほどな……。お前、犬崎のやつに気があったのか。だったら、確かに今までの行動も、全部頷けるってもんだぜ」


「ちょっ……! あまり、大声で言わないでください! は、恥ずかしいです……」


 雪乃の顔が、ますます赤くなった。大胆なのか照れ屋なのか、どうにもつかみどころのない少女だ。


「あんだけはっきり言っておいて、今さら何言ってやがんだよ。それよりも……そっちにそんな事情があるんだったら、尚更早く、犬崎のやつを見つけねえとな」


 尻についた土をはたきながら、浩二はゆっくりと立ち上がって体を伸ばす。雪乃も随分と落ちついたようだし、この分なら大丈夫か。


 魁と総司郎は、未だにこちらの前に姿を見せない。亜衣のことも発見できておらず、先行してこの村に向かったと思われる紅や照瑠、それに皐月達とも、やはり未だに合流できない。


 このまま倉にこもっていては、無駄に不安が増すばかりだ。そのことは、雪乃もわかっているのだろう。濡れたハンカチを浩二に返しつつ、肩の様子を確かめながら立ち上がった。


「行きましょう、長瀬さん。御鶴木先生や弓削さんのこと、やっぱり私も心配です」


「そうだな。でも、お前の肩は大丈夫なのか?」


「はい、なんとか……。まだ、ちょっと痛みが残りますけど、このくらいなら我慢できます」


 雪乃の顔が、屈託のない笑顔に変わる。本当は痩せ我慢なのだろうが、それを見せないところが彼女らしい。気弱で内向的な印象とは裏腹に、彼女の芯はとても強い。


 だが、彼らが倉を出ようとしたそのとき、なにやら妙な風が倉の中に吹き込んで来た。その、あまりの冷たさに、雪乃が軽く肩を震わせて後ろに下がる。浩二も体を強張らせて、神水を握り締めたまま油断なく辺りを窺っている。


 この風は、単なる隙間風などではない。屋敷の外から吹き込んで来たにしては、まるで冷蔵庫の中の空気のように冷た過ぎる。どちらかといえば、地の底から吹き上げてくる天然の冷気といった方が正しいか。


 頬を撫でる冷たい空気の流れから、浩二はそれが、部屋のどこから吹き込んで来ているのかを慎重に探った。土倉と思わせる部屋の中は、どこも頑丈な土壁で覆われている。が、その中に一つの古びた扉を見つけ、浩二の視線はその一点に集中した。


 あれだ。あの扉の隙間から、冷気が流れ込んできている。一見して倉に設けられた裏口と思えなくもないが、果たして本当に外に続いているのかは疑問だ。



――――ぎしっ……。



 突然、何かの軋むような音がして、浩二と雪乃の二人に緊張が走った。


 あれは、古びた木の板の上を、何者かが歩いている音だ。一瞬、魁か総司郎がこちらに向かっているのかと思ったが、それが勘違いであることは、二人とも薄々気がついていた。



――――ぎしっ……。



 また、音がした。間違いない。音は、あの扉の向こう側から聞こえてくる。古びた木の扉一枚を隔て、その向こう側に何かがいる。


「な、長瀬さん……」


「下がってろよ、長谷川……。もし、あの向こう側から化け物が出てきたら、俺がこいつをぶっかけてやる」


 神水の入った小瓶の蓋を開け、浩二は扉をにらみつけた。足音はどんどん大きくなり、こちらへ近づいているのが嫌でもわかる。


 やがて、その足音が扉の前で止まったところで、倉の中に一瞬だけ静寂が訪れた。そして、その静寂を自ら破るようにして、古びた木の扉が金具の軋む音を立てながら開け放たれた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 屋敷の玄関に、金属板を叩いた様な鈍い音が響き渡る。白髪の悪鬼と盲目の戦士の戦いは、未だ決着を見ないままに続けられていた。


 悪鬼の指先に備わった鋭い爪が、総司郎の頬を掠めて空を切る。その切っ先がほんの少し触れただけで、頬に痺れるような痛みが走る。


 別に、耐えられないほどの痛みではない。だが、直撃を食らえば話は別だ。


 戦いを主な仕事とする総司郎は、当然のことながら、それなりに訓練を積んでいる。身体に流れる霊気の流れをコントロールすることで、多少の攻撃は受け流せる。先ほどの赤い蛍の攻撃も、それを応用して直撃を防いだ。主に、両腕を中心に陽の気を集中させることで、一種の障壁として作用させることができる。接近戦を主とする総司郎にとって、気の流れを利用したダメージコントロールを行うことは、格別難しいことではない。


 もっとも、そうは言っても、中には受け流せない攻撃もある。例えば、目の前の悪鬼のものであれば、その爪による一撃が正にそれだ。霊的な存在の放つ、魂に作用する毒。さながら、≪霊毒≫とでも形容すればよいのだろうか。あの爪の先には、そういった力が備わっているようである。


 陽の気と陰の気。二つの力の単純なぶつかり合いであれば、総司郎も負ける気はしなかった。しかし、霊毒のように特殊な効果を持った一撃は、さすがに気力だけでは捌ききれない。屈強な肉体を持つ巨像も、猛毒を持ったサソリの一撃で倒れることがある。それを承知した上で、敵に必殺の一撃を叩き込まねば勝機はない。


 悪鬼の咆哮が響き渡り、その口から赤い蛍が弾丸のようにして吐き出される。避けている暇などない。敵の攻撃を正面に捕え、総司郎は手刀で次々と蛍を叩き落とす。


 風船の弾けるような音がして、総司郎の一撃を食らった蛍たちが弾け飛んだ。その隙に、総司郎を狙って悪鬼の爪が繰り出されるが、総司郎はそれさえも、身体を器用に捻って回避する。


 盲目の総司郎にとっては、相手の持つ気の強さ以外に、その存在の位置を把握する術がない。日常生活を送る上で、それは確かに不利なことの方が多い。が、このような状況下においては、むしろ一般人よりも有利に働く。


 敵の放つ強大な悪意。その力が強ければ強いほど、総司郎にとっては相手の位置がはっきりとわかる。否、位置ばかりではない。相手の狙いがなんなのか、その一撃が繰り出される一連の動作まで、手に取るように見えてしまう。


 爪が空を切り裂いた。その一瞬を狙い、総司郎は渾身の力を拳に込めて、迷うことなく正面に突き出す。強い悪意を持っている相手ほど、その動きは逆に読みやすい。


「ったく……。いいかげん、しつこいっすよ!!」


 正拳が、吸い込まれるようにして悪鬼の顔にめり込んだ。特大の霊気を乗せた拳が感じたのは、人を殴ったときのそれではない。粘性の高く、それでいて氷のように冷たく刺す様な感触が、拳を通して伝わった。


 特大の金属板を叩いた音にも似た、激しい響きを乗せて悪鬼が吹き飛ぶ。陥没した顔面の表面に、既に顔らしきものは存在しない。ただ、ぽっかりと空いた黒い穴だけが、不気味にその姿を覗かせている。


 今度こそ、本当に決まったか。思わず肩のちからを抜いた総司郎だったが、直ぐにぎょっとした顔になって拳を構え直す。


 顔を失った悪鬼が、ゆっくりと立ち上がっていた。その顔には、もはや僅かばかりの表情さえない。暗黒の空間によって占められた顔を真っ直ぐに向け、流し込まれた陽の気に抗いながら体をよじる。


 風を吸い込むような咆哮と共に、どこからか、あの赤い蛍たちが現れた。それは瞬く間に悪鬼の顔の部分に集まると、やがて一つにまとまり瘤のような物を形作る。ザクロの実を割ったような醜い塊は、そのまま悪鬼の一部となって、新たに顔を再生させる。


 このままでは駄目だ。拳に念を込め、総司郎は静かに呼吸を整えた。


 普通の怨霊であれば、陽の気を込めた総司郎の拳を受ければ、たちどころに消滅してしまうことだろう。それは、強大な力を持った大悪霊でも同じこと。一撃では倒れずとも、何度も攻撃を叩き込めば、やがては無に帰すことも可能ではある。


 しかし、目の前の悪鬼には、それらの常識が通用しない。敵は、どこからか赤い蛍を召喚することで、それを使って瞬く間に損傷を修復してしまう。そればかりか、蛍を弾丸のようにして放ち、攻撃にまで転用してくるから厄介だ。


 集合霊。なんらかの意思によって一カ所に集まった霊体は、時にそのような動きを見せることもある。もっとも、その結合力は脆く、少しでも強烈な一撃を叩き込めば直ぐにバラけて散ってしまう。


 今、目の前にいる悪鬼は、強大な力を持った怨霊と集合霊の双方の特徴を併せ持った相手だといえた。こんな奇妙で、しかし手強い相手とは、総司郎も今までに戦ったことなどない。叩いても、叩いても、直ぐに再生して起き上がって来る様は、否応なしに絶望の二文字を脳裏に焼きつける。


 悪鬼が吠え、その口から蛍が放たれた。既にお馴染の攻撃であり、軌道を見切るのは容易い。右へ、左へと避けながら、総司郎は慎重に悪鬼との間合いを測る。


(まだだ……。まだ、あいつを殴るのは早い……)


 先ほどとは違い、総司郎は蛍を叩き落とすことさえしなかった。敵の攻撃を捌くのに余計な力を使っては、今までと同じ結果となる。こちらの力が無尽蔵でない以上、あの再生能力を前に無策で戦えば、いずれはこちらが限界を迎えて倒れることになってしまう。


 一撃必殺。あれを倒すには、その名の通り一撃で相手を消滅させられるだけの、強力な攻撃を繰り出さねばならない。しかも、相手が集合霊の特徴を持つ以上、敵の一点に攻撃を集中させる方法は使えない。威力、範囲、共に優れた一撃でなければ、どちらが欠けても結果は同じだ。


 迫り来る赤い蛍の攻撃を慎重にかわしながら、総司郎は自分の右腕に全ての意識を集中させた。


 腕に刻まれた梵字の刺青が、今までになく赤く発光する。躍動する筋肉が血管を盛り上げ、その腕が徐々に肥大化してゆく。


 極限まで集中して練られた強大な霊気は、それそのものが物理的な力を持つこともある。今の総司郎の腕が、正にその一例だった。腕から放たれた霊気は、それ自体が巨大な腕の形となり、彼の右腕を瞬時に肥大化させたように見せたのだ。


 敵は自分の真正面。既に弾切れなのか、蛍を吐き出す素振りは見せない。爪で攻撃しようにも、この一撃を前にしては相殺することさえ不可能だ。霊毒の存在など関係なく、爪ごと全てを消滅させられる。


 これで決まりだ。そう確信して、総司郎は巨大な腕の一撃を振り降ろした。人の胴ほどの太さを持つ、明らかに不釣り合いな大きさの巨大な腕と拳。それが悪鬼目掛け、唸りを上げて襲いかかる。が、次の瞬間、消滅させられるはずである悪鬼は、その口元に不敵な笑みを浮かべて総司郎を迎え撃った。


「……っ! こいつは!?」


 一瞬、何が起こったのかわからなかった。放たれた剛腕の一撃が、悪鬼の顔を目の前にして、完全に動きを止めていた。


 否、腕ばかりではない。気がつくと、総司郎の両手と両足に、悪鬼の髪が触手のように伸びて絡みついていた。髪の絡みついた箇所は、まるで何時間も真冬の雪の中に閉じ込められたときのように、完全に感覚を失っている。


 幽霊の身体の一部である以上、こちらの肉体に物理的な干渉が行えるとは考えにくい。だが、肉体というフィルターを通り越し、魂に直接作用するような攻撃ならば、動きを封じることもまた可能となる。悪鬼の髪は一種の金縛りのような効果を与え、総司郎の四肢を完全に拘束していた。


「ヤバいっすね、これは……。まさか、この期に及んでまだ他に、攻撃の手段があったなんて……」


 両腕と両足の感覚が無くなってゆくのを感じながら、総司郎は奥歯を噛み締めながら呟いた。肥大化した右腕は、既に元の大きさに戻っている。金縛りを受けたことで全身の霊気の流れを乱され、溜めた力は完全に拡散させられてしまっていた。


 一瞬の隙をついて、一撃で相手を葬ること。それを考えて行動していたが、まさか相手もまた奥の手を隠していようとは。それも、こちらを誘うようにして蛍の弾を無駄撃ちし、油断をさせたところで嵌めて来た。普通の悪霊や、ましてや集合霊には考えられない、恐ろしいほどの狡猾さだ。


 恨みや怒り、それに悲しみに囚われた霊は、その感情だけが大きく膨れ上がった怪物である。それ故に、知能の面では人間よりも劣り、己の感情に忠実に従って暴れるのが常である。


 ところが、目の前の悪鬼はそんな常識さえも凌駕して、見事に総司郎の裏をかいた。存在、思考、あらゆるものが企画外。全身の力が抜けて行くのを感じながら、総司郎は改めて敵の恐ろしさに驚愕する。


 暗闇の中、悪鬼の赤い瞳が不気味に輝いた。前髪が音を立てて伸び、鞭のようにしなって総司郎の首に絡みつく。その瞬間、総司郎の身体から全ての力が抜け、彼の意識は徐々に暗黒の淵へと旅立とうとしていた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 古びた扉が、軋んだ音を立ててゆっくりと開く。不安そうに見つめる雪乃を後ろに、浩二は神水を握ったまま、じっと扉を見据えて構える。


 扉の向こう側から、白く細い手が姿を現した。あれはいったい何者か。生きているのか、それとも既に亡くなった者なのか。否応なしに、二人の間にも緊張が走る。


「だ、誰だ! さっさと姿を現しやがれ!!」


 警戒を崩さず、浩二はあえて強い口調で言い放った。しかし、その次に扉の向こうから現れた者の姿を見て、思わず両目を丸く見開いたまま固まった。


「えっ……。あ、照瑠ちゃん!?」


 辛うじて、雪乃がそれだけ口にした。そこにいたのは、紛れもない彼らの仲間の一人。先行して犬崎紅を追い、この夜魅原村へとやってきていたはずの、九条照瑠に他ならなかった。


「長瀬君? それに……どうして、雪乃がここにいるのよ!!」


 驚いたのは浩二と雪乃だけでなく、照瑠も同じようだった。彼女にしてみれば、二人が目の前にいるという現実が、はなはだ信じられない物なのだろう。


 互いに口を開けたまま、時間だけが過ぎて行く。目の前の光景が、いったい何を意味しているのか。それを考えてはいるものの、頭の方が現実を整理するのに追いついてゆかない。


「あら。誰かと思えば、照瑠ちゃんのお友達じゃない。まさか、こんな場所で会うことになるとはね……」


 呆然と立ち尽くすばかりの照瑠の後ろから、聞き覚えのある声がした。黒いスーツに包まれた、スラリと伸びた脚。どことなくミステリアスな雰囲気を漂わせる女性が、小型のジュラルミンケースを片手に現れた。


「あっ、あんた……! 確か、鳴澤さんとか言ったよな。あんたも無事だったのか……」


「皐月でいいわよ。それよりも、あなた達こそ、どうしてこんな場所にいるのかしら? 偶然にしては、少しばかり出来過ぎた話だと思うけど」


「そ、それは……」


 突然の問いかけに、浩二は言葉を失った。自分達がここに来た理由と、それまでの過程。一言で説明するにしては、少々複雑な事情となるのは否めない。話したいことは山ほどあるが、何から話せばいいのかがわからない。


「あの……。実は、亜衣ちゃんから話を聞いて、私達も犬崎君を探すことにしたんです……。それで、私の知り合いの子に陰陽師の先生を紹介してもらって、ここまで来たんですけど……」


 何も説明できずにいる浩二に代わり、今度は雪乃が答えた。


「陰陽師の先生? なんだか、ちょっとばかり興味深い話ね。その話、詳しく教えてくれるかしら?」


「は、はい」


 未だ緊張の解けない状態だったが、雪乃はなんとか首を縦に振って返事をした。浩二は以前に皐月と会ったことがあるが、雪乃にとっては初対面。


 まずは、何から説明しようか。そんなことを考えつつ、雪乃がおずおずと前に出る。しかし、彼女が何かを言おうとしたそのとき、当の皐月が雪乃の言葉を片手で遮った。


「ごめんなさい。こちらから訊いていて悪いんだけど……ちょっと、ゆっくり話をしている状況じゃなくなったようね」


 皐月の視線が、雪乃から浩二の方へと――――正確には、浩二の後ろに現れた者へと――――向けられる。自分の背後に不穏な何かを感じ、浩二もまたゆっくりと後ろを振り向く。


「なっ……! こいつら、こんなところにまで!!」


 そこにいたのは、あの赤い蛍の群れだった。いったい、何時の間に現れたのか。音も立てず、気配さえも感じさせずに現れたそれは、倉の床を、何かの合図を送るようにして叩く。


 固く冷たい土の床が、ゆっくりと盛り上がった。現れた影は、やがて半透明の人型へと姿を変えて、ゆらゆらと揺れながら浩二に迫る。


「伏せて!!」


 そう、皐月が叫ぶのと、浩二が頭を下げるのが一緒だった。皐月の手から放たれた一枚の護符が、蛍によって呼び出された亡者の額に命中する。護符は青白い炎を立てて燃え上がり、それは瞬く間に亡者の身体を包み込んで焼いてゆく。


「続きは、こいつらを蹴散らしてからにしましょう。九条さんは、後ろから援護をお願いね」


 照瑠に目配せしつつ、皐月はジュラルミンケースを置いて前に出た。そして、雪乃を庇うようにして下がった浩二と入れ替わると、その腰についている棒状の物体を手に取った。


 金属の擦れるような音がして、皐月の手にした棒が一瞬で伸びる。柄のスイッチを押すことで伸縮する、一種の特殊警棒のような構造なのだろうか。もっとも、その長さは警棒というにはあまりにも長く、伸縮式の竹刀か木刀といった方が正しかった。


 襲い来る亡者を前に、皐月は静かに呼吸を整えて身構える。黒い金属性の棒に刻まれた梵字が、彼女の力に呼応して輝き出す。


 霊撃棍れいげきこん。それは、退魔具師である皐月が作りだした、自分用の新たな武器だった。伸縮自在の特殊な棍に、従来の退魔具である霊木刀れいぼくとうと同じ細工を施したもの。伸縮式になったことで、その取り回しは従来の霊木刀よりも更に増している。


 そして、それ以上に重要なのが、この棍の柄に込められた水晶の力だった。


 純粋な輝きを持つ水晶は、そこに陽の力を持つ霊気を込めることで、退魔具の動力とすることも可能となる。皐月のように、戦うための霊力が弱い人間にとって、これらの石の力は強力な助けとなる。


 使い手の霊力次第で威力が左右される霊木刀とは違い、水晶を動力とした退魔具は、その威力を常に安定的に発揮できるという利点があった。逆に、威力の調整ができないことが問題だが、それは自分の力を上乗せして補えばよいことだ。


 自分は元より退魔具師。戦いに不向きなのは、何よりも皐月自身が知っている。だからこそ、彼女は自らの弱点を補いつつも、自分の最も得意とする間合いで戦える武器を作りだしたのだ。


「さて……。とりあえず、まずは雑魚散らしと行かせてもらおうかしら?」


 右手に霊撃棍、左手に護符を握り締め、皐月の身体が宙を舞った。赤く発光する梵字を刻まれた棍の一撃が、地の底より蘇りし亡者の首を、一撃の下に叩き伏せた。

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