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~ 七ノ刻   闇蛍 ~

 鼻先に落ちる水の冷たさに、嶋本亜衣はゆっくりと目を覚ました。


 暗い。いったい、ここはどこなのだろう。自分はなぜ、こんなところにいるのか。いや、それ以前に、今まで何をやっていたのか。


 暗がりの中で目を凝らしてゆく内に、だんだんと記憶が戻ってきた。確か、自分は雪乃や浩二と共に、地図に書いてあったと思しき廃村へと辿り着いた。そして、御鶴木魁が廃屋の中を探索し始めた辺りで、急に記憶がなくなった。


「うぅ……。私、何やってたんだろ……。ってか、それ以前に、ここは……」


 重たい頭をなんとか起こし、亜衣はそっと立ち上がる。どうやら自分のいる場所は、洞窟のような場所らしい。辺りはゴツゴツとした岩肌に覆われ、その正面には奥に続く道がある。


 洞窟の奥からは、何の気配もしなかった。普通、こういった場所では洞内の冷気が風となって吹き上げてくるのだが、それもない。もしかすると、ここは洞窟というよりは洞穴に近い場所で、奥は行き止まりになっているのかもしれない。


 このままここに留まって、誰かが来るのを待っていようか。ふと、そんな考えも頭に浮かんだが、亜衣は直ぐにそれを打ち消した。


 こんな場所で待っていても、誰かが助けに来てくれる保証などない。危険は承知していたが、幸い、懐中電灯の電池は残っている。慎重に、足下に注意して探索すれば、出口くらいはみつかるかもしれない。


 右と左、どちらに進むか。自分の直感を信じ、亜衣はまず右の道へと進んでみた。


 頼りになるのは、懐中電灯の光のみ。自分に何が起きたのかはわからないが、電灯が壊れていなかったのは幸いだ。ただ、リュックサックはどこかに落としてしまったようで、背中が妙に軽かった。あの中には道具も色々と入っていたが、今はまったく当てにできない。


 微かな光のみを頼りに前に進むと、道は直ぐに行き止まりになった。無骨な岩肌が手前を遮り、これ以上は進めそうにない。


「こっちは駄目か……。一度、引き返した方が良さそうかな?」


 誰に言うともなく、亜衣はそう呟いて今来た道を振り返った。


 ここが洞穴のような場所である以上、右に行っても左に行っても出口がないとは考えにくい。右が駄目なら、今度は左に行けばよい。そうすれば、出口は必ず見つかるはずだ。


 気を取り直し、亜衣は何気なく懐中電灯の光を下に向けた。すると、何やらそこに古びた手帳のような物が転がっているのに気がついた。


 こんな場所に、なぜ手帳などが落ちているのだろう。見たところ、かなり古い物のようだ。表紙はボロボロに痛んでおり、しかも泥にまみれている。果たして中身が無事なのか、それさえも怪しいところだ。


 ほとんど反射的に、亜衣はその手帳に手を伸ばした。しかし、手帳を拾おうとした次の瞬間、自分の目の前に突き出ている二本の足を見て、軽い悲鳴を上げたまま尻もちをついた。


「ひっ……! い、いったい、何なのさ……」


 そこにあったのは、紛れもないミイラであった。身体は骨と皮ばかりになり、着ている服もところどころが破れている。頭髪は抜け落ち、顔は既に骸骨そのもの。どうやら男のミイラのようだが、果たして本当に生前は男だったのか、それさえも今は定かではない。


 こんなところに、なぜミイラなど転がっているのだろう。まさか、自分と同じように迷いこんで、出口を見つけられずに亡くなった人間の慣れの果てなのだろうか。


 込み上げる恐怖をなんとか抑えながら、亜衣は目の前のミイラを懐中電灯で照らしてみた。改めて見ると、何やらミイラの首に巻きついている物がある。怪訝に思い、さらに目を凝らしてよく見ると、それは金属で作られた輪のような物だった。


「これ……もしかして、首輪?」


 首に嵌められた輪を見て、亜衣は怪訝そうな顔をした。金属製の輪は、既に赤錆びにまみれて見る影もない。が、それがただの飾りなどではないことだけは、輪から伸びている頑丈そうな鎖がしっかりと証明している。


 生前、このミイラだった人間を、首輪と鎖が拘束していたこと。これは疑う余地のない、紛れもない事実だろう。この人物が、なぜ、どうしてこんな場所に閉じ込められたのかは知らないが、少なくとも何者かによって人為的に拘束されたことだけは確かだ。すると、ここは単なる洞穴などではなく、実は牢獄のような場所ということだろうか。


 先ほどの手帳は、恐らくこのミイラになった人物が残したものに違いない。首輪によって自由を制限されていたとはいえ、両手両足は満足に使えたのだ。もしかすると、何かが書き残されている可能性もある。


 再びミイラから手帳へと目を向けて、亜衣はそれを拾おうとした。だが、手帳に手を伸ばしたその瞬間、今度はミイラとは別の二本の足が、亜衣の目の前に現れた。


「えっ……?」


 驚きのあまり、完全に言葉を失う亜衣。今度の足は、ミイラではなく生きた人間のものだ。靴と、それから脚の細さからして、女性のものであることは間違いない。


 そっと顔を上げてみると、そこには確かに女が立っていた。その足から胸、そして顔へと視線を移したところで、亜衣はますます困惑した表情で固まった。


「め、芽衣子……さん?」


 そこにいたのは、芽衣子だった。あの、鳴澤皐月が東京からわざわざ呼び出したという、彼女の助手をしているという人物だ。皐月曰く、芽衣子は真性のレズビアンとのことで、皐月相手に信頼以上の感情を寄せていたのは記憶に新しい。


 だが、同時に芽衣子は、皐月さえも認める強力なサイコメトリー能力の持ち主でもある。実際には、漫画やテレビの世界で超能力者が使うそれとは異なるもののようだったが、類似した能力を持っていることだけは間違いない。今回、皐月が芽衣子を呼び出したのも、照瑠が見つけた写真から紅の居場所を逆に探知させるという目的からだった。


 そんな芽衣子が、いったい、なぜここにいるのだろうか。見たところ、彼女の他には誰もいない。照瑠や皐月の姿はなく、芽衣子だけが、唐突に亜衣の前に現れたのだ。


 彼女はいつの間に、自分の前に現れたのか。いや、それ以前に、なぜ彼女だけが、こんな場所にいるのだろうか。彼女は照瑠や皐月と一緒に、紅を探していたのではなかったのか。


 あまりに急なことが多過ぎて、亜衣は今の状況に、まったく頭が追いついていかなかった。そんな亜衣を見て、芽衣子はその目をうっすらと細め、口元を三日月のように曲げて微笑した。


「あら……。ようやく目が覚めたのね」


 冷たく、感情のこもっていない口調だった。その顔と声色は、以前に亜衣が火乃澤町の甘味屋で見たそれとは大きく違っている。天真爛漫でミーハーな部分は影を潜め、まるで獲物を追い詰めた獣のように、冷徹な眼差しを亜衣に向けている。


「でも、残念ね。あなたには、まだ少しだけ役に立ってもらいたいの。だから……しばらく、ここで大人しくしていてもらうわよ」


 そう言いながら、芽衣子はゆっくりと亜衣の方へにじり寄るようにして近づいてきた。ずるずると、その足を引きずるようにして、亜衣を徐々に洞穴の奥へと追い詰めるように向かってくる。


 まずい。なんだかわからないが、今の芽衣子は危険だ。そう、亜衣が気づいたときには遅かった。


 突然、芽衣子が口をすぼめ、ふぅっと息を吐きだした。吐息と共に二つの赤い光が口から吐き出され、それはふわふわと宙を漂い、亜衣の方へと飛んでくる。


「えっ……? ほ、蛍?」


 芽衣子の口から現れたもの。それは紛れもない、二匹の蛍に他ならなかった。だが、蛍の放つ光は亜衣の知る淡い黄色ではなく、闇夜にゆらめく火の玉のような、人の血よりも深く赤い色をしている。


 赤い蛍。人魂と見紛うような奇怪な光は、それぞれが亜衣の両手に音もなく降り立った。なにやら不気味なものを感じ、思わず払い落とそうとするものの、不思議なことに蛍に触れられているという感触がまるでない。


 次の瞬間、何か見えない力によって、亜衣の両腕が強引に開かれた。思わず呻く亜衣だったが、そんな彼女の声など聞こえていないのだろうか。力は更に強さを増し、亜衣の背中を勢いよく岸壁に叩きつけた。


「ちょっ……! な、なんなのさ、これ!?」


 自分の身に、いったい何が起こったのか。状況もわからないままに、亜衣は身体をよじって声を上げた。その間にも、芽衣子は再び蛍を吐き出し、今度はそれが亜衣の両脚にまとわりついた。


 全身を、締め付けるような痛みが襲う。蛍に止まられた瞬間、今度は両脚も棒のように固まって動かなくなった。岸壁にTの字に叩きつけられたまま、手も足も動かすことができない。ほとんど磔に近い状態で、亜衣は完全に四肢の自由を奪われてしまった。


「め、芽衣子さん……。これ、いったいどういうことですかぁ!? なんで芽衣子さんが、私にこんなこと……」


 痛みと痺れから、気がつくと亜衣の言葉には涙が混ざっていた。しかし、それでも芽衣子は顔色一つ変えずに鼻で笑うと、なにやら指揮を摂るようにして、空中に不思議な曲線を描いた。


 芽衣子の指が、不可思議な模様を宙に描く。その動きに合わせるようにして、亜衣の両手と両足に止まっていた赤い光が一際大きく輝きだした。


 初め、球体の姿をとっていたそれは、ぐにゃりと溶けるようにして歪み、鋭い杭のような形に変形する。一瞬、その瞬間だけ亜衣の四肢を拘束する力が緩んだが、直ぐに先ほどよりも激しく熱い痛みが手足を襲い、亜衣は今度こそ悲鳴を上げた。


「ぎゃぁぁぁぁっ! い、痛い! 痛い! 痛ぃぃぃぃっ!!」


 右と左、両方の掌と、それから両足の甲の部分。それぞれの場所に、赤い杭となった蛍が、しっかりと打ち込まれてしまったのだ。今度こそ完全に岸壁に磔にされ、亜衣は形振り構わずに叫んで暴れた。


 杭が打ち込まれた場所からは、不思議と出血はしていなかった。だが、代わりに焼けるような痛みと熱が、骨と神経を通して伝わってくる。見えない力がそのまま形となって、亜衣自身の身体を貫いているのだ。


 肉体ではなく、魂そのものを貫き拘束する。それは即ち、肉体を通り越えて魂自体を痛めつけるに等しい行為。あの、ビデオを介して亜衣や詩織を襲った祟りのように、霊的な力で魂を蝕むということだ。


 身体の中身を直接抉られ、更には焼かれるような苦痛。それは、何の力も持たず、また訓練をも受けていない女子高生が、到底耐えることのできるものではなかった。


「た、助け……! 芽衣子さん! 助けてぇぇぇぇっ! 私……まだ……死にたくぅ……」


 自分でも何を言っているのかわからないまま、亜衣は芽衣子に懇願した。自分をこんな目に遭わせたのは、他でもない芽衣子だ。それなのに、彼女に助けを求めてしまうということが、既に冷静な判断などできなくなっている証拠だった。


 頼むから、これは夢だと言って欲しい。もしくは、単なる悪戯だったと言って欲しい。そんな一縷の望みにかけて叫ぶ亜衣だったが、芽衣子は鬱陶しそうに手を振って、非情にも亜衣の声に背を向けた。


「うるさいわねぇ……。ちょっとの間、大人しくしていてくれればいいものを……。そんなに大声上げられたんじゃ、耳に障って仕方がないわ」


 後ろで叫ぶ亜衣のことなど、まったく気にしていないようだった。最後に、やはり口から吐き出した複数の蛍を目の前にばら撒き、芽衣子は先ほどのように指先を動かして指示を出す。すると、今度は蛍たちが一繋ぎに繋がって、なにやら数珠つなぎの蛇のような形となった。


「しばらく、そこで黙ってなさい。心配しなくても、まだ殺したりなんかしないから……」


 そう言いながら、芽衣子は繋がった蛍の群れを亜衣に放った。芽衣子の指示に従って、蛍たちは滑るようにして宙を舞う。そして、未だ叫び声を上げている亜衣の口元にまとわりつくと、その口を縛り上げるようにして、完全に自由を奪ってしまった。


「あぐっ……。あ、熱……!!」


 口元を覆われた瞬間、亜衣は自分の喉が焼けるような感覚に襲われ、そのまま出かかった言葉を飲み込んだ。


 口で息をしようとすると、喉を焼くような空気が流れ込んでくる。蛍の触れている唇は熱さを感じないのに、その光を通して吸い込んだ空気は、毒の霧のように彼女の喉を侵蝕する。


 鼻で呼吸すれば、息が吸えないということはない。だが、これでは喋ることはおろか、口で息をすることさえ叶わない。


「運がよかったら、誰かがあなたを見つけて助けてくれるでしょうね。まあ、それまでに、あなたの心が壊れていなかったらの話だけど……。うふ……うふふふっ……あはははははっ!!」


 洞窟に響く靴音に混ざって、芽衣子の狂ったような笑い声が響き渡る。遠ざかる声と狂笑を聞きながら、亜衣はその場で力なく項垂れることしかできなかった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 高台から村へ降りると、そこは霧の漂う場所だった。


「霧、か……。どうやら、あくまでこの村は、俺達のことを拒んでくれるみたいだね」


 口元に指を当てたまま、魁は首を捻りながら辺りを見回す。ここは敵地。それも、単なる魔物の住まう場所ではなく、村そのものが魔物と言って等しいくらいに、陰湿で暗く湿った気の漂う忌まわしい場所だ。


 こちらの感覚が役に立たないことは、既に魁も知っている。あの、赤い蛍のような物体は、魁と総司郎の霊感にさえ感知されず、嶋本亜衣を連れ去った。およそ、普通の霊魂では考えられない。気配を隠す特殊な力を持っているということか。どちらにせよ、気が緩んだところを襲われれば、いかに魁とて反応できない。


 それに、この場所を覆う陰鬱な気は、同時に様々な霊魂の存在さえも隠してしまっているようだった。これほどの廃村、ましてや強大な邪神のような存在が救う場所となれば、悪鬼と成り果てた御霊の一つや二つ、漂っていてもおかしくない。が、それにも関わらず、いかに目を凝らそうとも気を張ろうとも、辺りからはそれらの霊の気配さえ感じ取れない。


 ここは、魔物の胎内だ。この村に足を踏み入れたときから、魁はそう感じていた。帰り道が消えてしまったことといい、この場所は、現世の一部というよりは常世や異界に近い場所である。ここまで酷く淀んだ気の流れる場所を、未だかつて、魁は訪れたことがない。


「大丈夫かい、君達? ちゃんと、離れずについてこいよ」


 時折、後ろを気にするような仕草を見せながら、魁はそう言って雪乃や浩二のことを確認した。本当ならば、あの高台に置いてくるという選択もあったが、ここは敵地である。高台の安全が確保できていない以上、下手に別行動を取るよりは、固まって動いたほうが安全だ。


 だが、霊感が完全に頼りにならない以上、彼らを守ることもまた難しい。こちらが相手の存在を視認できるほどにまで近づけば問題ないが、物影に潜んでいる気配までは、残念ながら探れない。


 もし、何者かが自分達を襲ってくるというのなら、それと対峙できるのは奇襲を受けた直後ということになる。どうしても後手に回らざるを得ないため、いつものように、先の先を読んで行動できないのが歯がゆくて仕方がない。


 それに、目の見えない総司郎にとっては、この場所での戦いは魁以上に不利だ。失った視力の代わりを霊的な感性で補っている彼にとって、霊感が役に立たないことは、即ち彼が何の力も持たない身障者になることを意味している。


 もっとも、実際に霊的な何かが目の前に現れれば、さすがに総司郎とて感知できるだろう。元より、彼の得意としている間合いは接近戦。日本でも数少ない≪幽霊を殴れる人間≫であるということを考慮すれば、いざ戦いの場になれば、そこまで困るほどのことでもない。


 問題なのは、やはり総司郎の霊感が、敵の気配を探るのに役に立ちそうにないということだった。常人と同じ方法では光を捕えることはできず、近づかれなければ相手の気配さえ察知できない。そんな総司郎にとって、奇襲という形での襲撃は、魁がそれを受ける以上に状況を不利にする可能性がある。


 結局、最終的に頼りになるのは自分だけか。周囲に張り巡らせた緊張の糸を切らさないようにしつつ、魁はそんなことを考えた。


「それにしても、少し妙だね。あの赤い蛍みたいなやつ……俺達が村に降りて来てから、まったく姿を現さない……」


 村の中央と思しき広場まで来たところで、魁は一度足を止めて辺りの様子を窺った。


 おかしい。この村に入ってから、あの怪しい蛍の姿をまったく目にしていない。高台の上から見下ろしたときは、確かに何かが光って舞っているようだったが、あれは見間違いだったのか。


 いや、違う。あれは見間違いなどではない。確かにあの赤い蛍――――嶋本亜衣を連れ去った物体を、果たしてそう呼ぶのが正しいのかは別にしてだが――――は、この村のあちこちで舞っていた。ただ、魁達が村に降りて来たところで、煙のように姿を消してしまったのだ。


 連中は、きっとこの村のどこかから、間違いなくこちらの様子を窺っている。気配を感じ取ることができず、姿さえ見えずとも、魁にはそれがわかっている。


 あの赤い蛍は、こちらの警戒をくぐり抜け、実に巧みに嶋本亜衣を連れ去った。そのようなことができる者達が、こちらの侵入をみすみす見逃すほど甘いはずがない。


 こうなったら、先にこちらから仕掛けるか。幸い、式神として使役できる紙人形は、十分な量を持ってきている。ここは一つ、これを使って村の様子を探らせて、それから動くという手もないわけではない。

 自分の使役する紙人形達を取り出すべく、魁は懐に手を伸ばす。外から見ただけではわからないが、彼の着ている白いスーツの中には、所狭しと彼の使役する式神が、これでもかと言わんばかりに仕込まれているのだ。


 ところが、魁が式神を取り出そうとしたその途端、静寂を破り甲高い鈴の音が響き渡った。



――――チリン、チリン……。



 その場にいた全員が、音のした方へ顔を向ける。廃屋の影に黒い何かが飛び込んだところで、また先ほどの音がした。


「えっ……!? ね、猫……?」


 雪乃が、自分の見た物が信じられないという顔をして言った。彼女だけでなく、そこに居合わせた誰しもが、あまりに場違いな物を見たことで言葉を失っていた。


 そこにいたのは、紛れもない一匹の猫だった。全身は黒く、闇の中、二つの瞳だけが煌々と輝いている。その毛並みは、まるでタールを塗りたくったような艶を持ち、夜の闇よりも更に深い黒さを持つ。首には赤い首輪を巻いており、その中央には髑髏の形をした鈴がついていた。


「ニャオ……」


 猫が、にやりと笑って鳴いた。動物が笑うとは奇妙な話だと思われるかもしれないが、確かに笑ったように見えたのだ。それも、ねっとりと絡みついてくるような、なんともいやらしく不快な声で。


 闇の中、再び鈴の音が鳴り響く。黒猫はさっと身を翻し、そのまま広場を抜けて、村の中央を通っている大きな道を走って行く。


「追うよ、総ちゃん……」


 それだけ言って、魁は急に走り出した。あまりに突然のことで、残りの三人は魁の言葉の意味を理解するのに数秒の時間を要したが、すぐにその後を追って走り出した。


 こんな場所に、なぜ猫などいるのだろう。それに、なぜ魁は、その猫を追って走り出したのか。それらの答えは、総司郎は元より雪乃や浩二も知らない。ただ、魁だけは、あの猫がこの世の住人でないということを、直感的に理解していた。


 逃げる猫を追い、魁は村の中を走り抜ける。あの猫の正体が何なのか、それは魁にもわからない。ただ、ここで見逃して良い相手ではないことだけは確かだ。こんな村に、まともな猫がいるはずがない。あの猫も、例の赤い蛍と同様に、魔性の者である可能性が高い。


 やがて、大通りを抜けたところで、巨大な門が姿を現した。とうとう追い詰めたか。そう思った魁だったが、次の瞬間、さすがの魁も自分の目を丸くして、目の前の光景に呆気に取られるだけだった。


「なっ……! あの高さを!?」


 ほんの一飛びで、猫は人の背丈の二倍はあろうかという塀を飛び越えたのである。いくら猫の跳躍力が高いとはいえ、これはあまりに不自然だ。やはり、あの猫はただの猫などではなく、向こう側の世界・・・・・・・の住人だったということか。


「まったく……。あの猫といい、赤い蛍といい、随分とこちらを馬鹿にしてくれるじゃないか。気に入らないんだよね、そういうの……」


 誰に言うともなく、魁は門の前でそう呟いた。顔には出していなかったが、明らかに怒っている。他人に利用されることを毛嫌いする魁にとって、こう何度も後手に回らされることは、それだけで不愉快極まりない状況なのだ。


 両腕を胸の前で組んだまま、魁は目の前の門を改めて見つめた。ちょうど、後ろから来た三人が追いついたところで、彼らもまた魁と同じようにして門を見上げる。


 他の廃屋とは異なる、明らかに格式の高い造り。廃村となり、管理をする者がいなくなってもなお、確かにかつての面影を残している。こんな山奥に、これだけの造りの屋敷を構えるとは、さぞかし力のある者が住んでいたに違いない。


「先生……。あの猫は……」


 無言のまま門を見上げる魁の後ろから、恐る恐る総司郎が訊ねた。普段であれば軽いノリで流すように答える魁だったが、今回ばかりは後ろを振り返ることさえもせずに、淡々とした口調で総司郎に答えた。


「あの猫だったら、この門の向こう側に消えちゃったよ。たぶん、今から追いかけても見つからないだろうね」


「門の向こう側にって……。それ、どのくらいの高さなんっすか?」


「そっか。総ちゃんには、門の高さまではわからないからね。一応、総ちゃんの背丈より高いってことだけは確かだよ」


「俺の背丈より!? マ、マジっすか、それ……」


 既に光を失った目で、総司郎は改めて門を見上げて言葉を切った。


 彼の目では、当然のことながら視覚的に門の高さを知ることはできない。が、自分の身長がどれくらいの高さなのかは把握していたし、辺りを流れる風の様子や空気の感じから、物凄く高い壁が目の前に立ちはだかっていることだけは、なんとなく感じ取ることができる。


 それにしても、いったい何が起きているのだろう。赤い蛍に亜衣が連れ去られ、それを追って村へと来たら、今度は帰るための道が消えてしまう。そして、村の中で猫を見つけて追いかけてみたところ、なんとも物々しい屋敷の前まで案内された。


 ここまで不可解なことが立て続けに起これば、これはもう、魁でなくとも何者かの意思が介在していると考えざるを得ない。このまま、成り行きに任せて進むことが、果たして本当に正しいのか。巨大な門を前にして、思わず躊躇したくなる。


 あの猫は、明らかにこちらを誘っていた。だとすれば、このまま相手の誘いに乗って、この門をくぐってよいものか。さすがの魁も迂闊に動けなくなっていたが、後ろで浩二が叫んだのを聞いて、思わず足下に目を移した。


「おい! これ……嶋本のやつの携帯じゃねえか!?」


 浩二が指差したその先に、何やら四角い物が転がっている。近寄って拾い上げて見ると、確かにそれは亜衣が使っていた携帯電話に間違いなかった。


 訝しげに思いつつも、魁は携帯電話を拾ってまじまじと見つめた。画面はまだ生きているが、案の定、電波を受信できる状態にはない。ここが得意な空間であることを考えれば、携帯が圏外であることなど不思議でもなんでもない。


 他に、何か仕掛けがないか探ってみたが、特に何かを仕込まれているというわけでもなさそうだった。携帯をポケットにねじ込み、魁は鼻で苦笑しつつ、目の前の巨大な扉に手をかける。


 これは罠だ。魁の直感が、そう告げていた。犬崎紅の家でも感じたことだが、あまりにも不自然に事が運び過ぎている。赤い蛍に連れ去られた亜衣を追って村に入り、謎の猫に案内されるままに屋敷の前に辿り着き、そこに亜衣の携帯電話が、まるで目印のように転がっている。こうも示し合わせたように話が進むのが、返って不気味に思えて仕方がない。


 だが、それでも、ここで立ち止まるという選択肢が、今の自分達にはないことくらいは承知していた。このまま亜衣を放っておくわけにもいかないが、なによりも、こうまで自分を馬鹿にしてくれた相手に対し、怒りの念を禁じ得ない。


「どうやら、あのチビちゃんも、この屋敷の中にいるようだね。これから突入するけど、準備はいいかい、君たち?」


「ああ、いつでも大丈夫だぜ。さっさと嶋本の野郎を見つけて、それから犬崎のやつも探さないといけないからな」


「そういうことだ。それじゃ、とにかく先を急ごう。昔から、善は急げと言うからね」


 自嘲気味な笑みをこぼしつつ、魁は重たい木製の扉に手をかけた。自分で自分のことを善と呼ぶなど、歯の奥がうずいて仕方がない。自分がどのような人間かは、なによりも自分自身が知っている。


 力任せに扉を押すと、予想とは反対に、扉は木の軋む音を立ててゆっくりと開いた。閂などはかかっていないらしく、案外とすんなり屋敷の入口は開け放たれた。


 巨大な門の向こう側に、殺風景な庭のような場所が姿を現す。打ち捨てられてからかなりの年月が経つはずだったが、石燈籠などは昔のままだ。雑草も生えてはおらず、ただ少しばかりの苔だけが、申し訳ない程度に石にこびりついている。


 一瞬、むっとする邪気のようなものを感じ、魁は屋敷の敷地内へ一歩を踏み出すのを躊躇った。


 ここから先は、空気が明らかに違っている。この村に来たときも相当な負の念が渦巻いているのを感じたが、この屋敷の中はそれ以上だ。まるで、この村に巣食う強大な怨念の首領とも言うべき存在が、奥で待ちかまえているとでも言わんばかりである。


「さて……。ここから先は、君達にもこれを渡しておこう。俺と総ちゃんがいるとはいえ、万が一のこともあるからね。最悪の場合、自分の身は自分で守ってもらうよ」


 そう言いながら、魁は小瓶のような物を取り出して、それを雪乃と浩二にそれぞれ手渡した。瓶の中には、何やら水のような物が入って揺れている。


「先生……。なんですか、これ?」


 小瓶の中の液体を見つめながら、雪乃が怪訝そうな顔をして訊ねた。


「そいつは神水というやつだ。俺が作った、キリスト教でいう聖水みたいなもんだね。邪悪な霊体に対して浴びせれば、相手を硫酸のように溶かすことも可能だ」


「溶かすって……。それ、成仏とは違うんですか?」


「成仏、か……。残念だけど、そいつはそこまで霊に優しいものじゃない。まあ、だからこそ、武器として使うには好都合なんだけどさ」


 魁がにやりと笑う。雪乃も納得したようで、それ以上は何も訊かず、もらった小瓶をポーチにしまった。


 神水を受け取り、浩二と雪乃は改めて、門の向こう側にある屋敷の入口に目を向ける。瞬間、どろりとした生温かい風がながれてきて、思わず背筋に嫌なものが走る。


 この先に待つ者が、果たしてどんな相手なのか。何の力も持たない雪乃や浩二でさえ、屋敷の放つ禍々しい気だけは十分に感じ取ることができる。


 いよいよ、敵の懐に入る時が来たようだ。服の裏に仕込んだ式神にいつでも動けるよう指示を出すと、魁は意を決して屋敷への第一歩を踏み出した。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 屋敷の中に入ると、そこは意外にもそこまで朽ち果てた様子が見られなかった。確かに、床板は痛み、壁には染みが目立ち、埃さえも積もっている。が、それだけだ。崩壊寸前の廃墟という印象は薄く、単なる古びた無人の日本家屋と言った方が正しい気がする。


 これならば、ここに来る前に立ち寄った、過疎で廃村となった村の方が、まだ古めかしい感じがした。通常、人の手が入らなくなれば、家というものは急速に痛んでゆく。ましてや、それが山奥の忘れられた廃村ともなれば、その荒廃ぶりも激しいはずだ。


 この村が、最初に訪れた廃村よりも更に以前に滅んでいたこと。それは、紛れもない事実だろう。村が過疎で消え去る場合、当然のことながら、僻地である方から廃れてゆく。麓が先に廃村となって、山奥の村だけが残るなど、普通に考えれば起り得ない。


 だが、それでは、こちらの村の家々が、こうも痛んでいない説明がつかない。見たところ、この村は明治初期の貧しい農村のような印象を受ける。少なくとも、村が第二次大戦以降の近代になってから滅んだのでないことは、家の造りや村の様子から、どことなく察することができる。


 いったい、これはどういうことか。普通に考えていては、どうしても真っ当な答えが出せそうにない。まさかとは思うが、ここは空間だけでなく、時間さえも歪んでいるというのだろうか。


 荒唐無稽なことだが、在り得ない話ではない。ここは異界に近い場所。それだけに、常識では考えられないことが、普通に起きてもおかしくない。


「しっかし……それにしても、広い屋敷だよな。嶋本のやつ、どこに隠れてやがるんだよ」


 中庭の見渡せる廊下にさしかかったところで、浩二がぼやいた。


「でも、仕方ないですよ。亜衣ちゃんだって、自分から消えたくて消えたわけじゃないんだろうし……」


「そりゃ、そうだろうけどさ……。そもそも俺達は、犬崎のやつを探してここまで来たんだぜ? それが自分から探される側にまわっちまったら、ミイラ取りがミイラになるようなもんじゃねえか」


 雪乃に向けられる浩二の言葉が、苛立ちを交えた物に変わった。雪乃はそれ以上何も言わず、やや俯いた表情になって口を閉じた。


 浩二が苛立つ理由。それがわかるからこそ、雪乃もまた彼に意見することを止めた。浩二は、火乃澤町に残してきた詩織のことが心配なのだ。一刻も早く紅を見つけ、詩織に祟りを振り撒いた元凶を叩き、彼女を救いだしたい。その気持ちがあるからこそ、焦ってしまうのもまた事実。


「おいおい、喧嘩は勘弁してくれよ。苛々するのは自由だけど、あまり好き勝手動かれて、俺の邪魔になられても困るんだよね」


「……っ! 悪かったな!!」


 魁の言葉に、それだけ言って浩二もまた口を閉じた。頼りになるのかならないのか。こんな得体の知れない男に全てを委ねないといけないという、今の状況が許せない。


 自分にもっと、力があれば。そんな悔しさに浩二が歯噛みしたところで、目の前に古びた階段が姿を現した。


「二階へ続く階段か……。まだ、下の探索は終わってないけど……どうする?」


 後ろを振り向いた魁が、同意を求めるようにして訊ねてきた。雪乃は迷っているようだったが、浩二は悩むことなく強い口調で答えを返した。


「行ってみようぜ。どっちにしろ、嶋本がどこにいるかなんて、今の俺達じゃわかりっこないんだ。どうせ全部探すなら、思いつく場所を片っ端から探した方がいいんじゃないか?」


「なるほど。だったら、今回は君の意見を採用しよう。それに……確かに俺も、この上には、何かあるんじゃないかとは思ってるんだよね」


 階段の奥に続く闇を見据え、魁が意味深な言葉を吐いた。列のしんがりを務める総司郎もまた、無言で軽く頷いている。


 二階からは、一階よりも更に強く、禍々しい気が感じられた。この村に来てから霊感による探知は当てにならなくなっていたが、それを差し引いても、ここまで強い陰の気を感じられるのだ。少しばかり力のある者であれば、この先に何もないと思うのがむしろ不自然なことだった。


 ぎし、ぎし、という木の軋む音を立てながら、四人は二階へ続く階段を上がっていった。まさかとは思うが、板を踏み抜くようなことはないだろうか。慎重に足下を確認しながら、暗い闇の支配する空間へと抜ける。


 二階は思ったより狭い造りで、突き当たりになっている廊下の先が直ぐに見えた。廊下の両側には古びた襖の姿がある。襖の向こう側がどのような部屋なのか、残念ながら、こちらからではわからない。


 とりあえず、まずは手前の部屋から探してみるか。遠慮なく廊下を進んで襖の前に立つと、魁は少々乱暴に、それを大きく両側へ開く。古びた襖は思いの外に、簡単に広がって道を開けた。


 古びた畳とカビ臭い匂い。それらが一気に放たれて、雪乃が思わず顔をしかめる。長年、封印されてきたからだろうか。陰の気云々を関係無しに、湿った空気が部屋に充満しているようだった。


「おい……。なんだ、ありゃ!?」


 部屋に入るなり、浩二が中央に鎮座している物を指差した。


 そこにあったのは、なにやら奇妙な掛け軸のようなものだった。いや、掛け軸というよりは、肖像画といった方が正しいだろうか。随分と昔に描かれたものらしく、ところどころが黄ばんでいる。絵は墨だけで描かれており、基本的には白と黒の二色しか用いられていない。普通の人間ならば黒く描かれる、とある一点を覗いては。


「へぇ……。なにやら、曰くありげな絵だね、こいつは……」


 部屋の中に籠った空気を片手で払いのけながら、魁はその絵に近づいて行った。絵の中の人物は、随分と若く線の細い男のようだ。が、その瞳は墨ではなく朱によって描かれ、燃えるような赤さを今もなお保ち続けていた。


 これは同じだ。あの、犬崎紅と同じような、赤い瞳を持った人間だ。


 紅が生まれながらのアルビノであること。それは紛れもない事実である。では、この肖像画の中の人物も、彼と同じくアルビノということだろうか。


 この村が滅びたのが何時の頃のことなのか、それは魁にもわからない。だが、昔は今とは異なり、下らない迷信が本気で信じられていた。そういった社会において、通常とは異なる容姿の者は、それだけで排斥される傾向にあったはずだ。 


 異形で異端。昔の人間からすれば、紅のような存在は、その霊的な力に関係なく好機と偏見の目を向けられたはず。ところが、そんな人物の肖像画を、さも偉人のように祭り上げて部屋に飾る。いったい、どういう考えの成せる業なのか、これは魁にも不思議でならない。


「先生……。いったい、何を見つけたんっすか?」


 目の前の絵に見入っていた魁の後ろから、総司郎が声をかけた。光を失った彼の目では、肖像画の様子まではわからない。


「別に。ただ、ちょっと面白い絵を見つけただけさ」


「でも……。この絵、どことなく、犬崎君に似ているような気がします……」


 総司郎に代わり、今度は雪乃も首を傾げて言った。自分の探している想い人と、共通する特徴を持った人物の絵。それが、なぜこんな場所に飾られているのか。彼女にとっても疑問であることは確かだ。


 この絵はいったい何なのか。もう少し調べれば、何か詳しいことがわかるかもしれない。


 壁から肖像画を剥がそうと、魁は躊躇いなく手を伸ばした。元より、こういったことに対して、彼はそこまで罪悪感を抱く人間ではない。が、彼が絵に指をかけようとしたその瞬間、彼の動きは雪乃の上げた軽い悲鳴によって止められた。


「きゃっ……! あ、あれ……」


 雪乃の指差す方向に目を向けて、魁もまた全身に力を入れ身構える。そこに漂っていたのは紛れもない、あの亜衣を連れ去った赤い蛍だった。


「こいつら……!? いつの間に、俺達の後ろに現れやがったんだ!?」


 雪乃を庇うようにして、浩二も後ろに下がった。唯一、総司郎だけが、両腕の袖をまくりあげて拳を握る。腕に彫られた梵字の刺青が赤々と輝き、戦うときの色になる。


 この蛍たちは、いったい何が目的で現れたのか。油断なく様子を探る魁と総司郎だったが、その答えは直ぐに与えられた。


 蛍たちが、なにやら戸を叩くようにして、壁や畳の上で跳ねる。すると、まるで別の世界から呼びだされたかのようにして、青白い顔をした常世の者達が姿を現した。


 生気を失い、どんよりと白濁した二つの瞳。半透明の身体を持ち、ゆらゆらと揺れるように迫る無数の村人達。


 それは、かつてはこの村で暮らしていた、ごく普通の人間だったのだろう。が、今や完全に村の一部に同化され、赤い蛍によって操られる亡霊と化していた。肉体が朽ち果て、魂だけの存在になったことで、彼らはより強く村の中に漂う陰の気の影響を受けているようだった。


「行くよ、総ちゃん! 残念だけど、話してわかる相手じゃなさそうだ!!」


 魁が両手を大きく広げて叫ぶ。服の裾から無数の折鶴が飛び出して、それらは宙を舞い亡霊たちを翻弄する。


 式神。魁が、自分の毛を織り込んで作りだした、霊的な力を付与した紙人形。一体だけでは力も弱いが、数を集めれば霊の動きを封じることさえ可能となる。相手は未知の亡霊だったが、幸いにも効果はあるようだった。


 折鶴の羽に身を切られ、亡霊たちが不快な声を上げて呻いた。その隙を見逃さず、今度は総司郎が、己の腕で彼らを次々に殴り飛ばして行く。梵字の書かれた腕が霊を捕えるたびに、なにかが弾けるような音がして、亡霊たちは次々に霧になってゆく。


「こっちだ!」


 数体の亡霊を倒したところで、魁は先頭を切って駆けだした。このまま部屋に留まっていても、いずれは追い詰められ息切れしてしまう。それに、何の力も持たない人間が二人もいる以上、あまり同じ場所に留まって戦うのは得策ではない。


 部屋から飛び出し廊下に抜けたところで、魁は苦々しい顔をして舌打ちした。廊下の向こう側から、早くも新手の亡霊が迫ってきている。それだけでなく、赤い蛍の数も増してきているようで、次々に家の壁や床から亡霊を呼び出して来る。


「ったく……。次から次へと節操もなく……。こういう乱戦、俺は好きじゃないんだよね」


 この期に及んでも、皮肉を口にすることだけは忘れない。新たに獣の形に折られた式神を放って牽制すると、魁は後ろにいる浩二と雪乃の二人に顔を向けた。


「ここは俺が片付ける。二人とも、その間に早く逃げた方がいい」


「で、でも……。それじゃあ、先生達が……」


「心配ないよ、それは。こんな雑魚どもにやられる俺じゃない。ただ、それはあくまで、俺が本気で戦ったらの話。君達を守りながらだと、どうしても動きに無駄が出て仕方ないんだ」


 経文の書かれた鉄扇で、魁は邪魔者を追い払う様な仕草を見せた。あまりに尊大な態度に、雪乃も浩二も一瞬だけ腹立たしく思ってしまう。


 だが、それでも、ここは魁の言う通りにするより他になかった。神水をもらっているとはいえ、自分たちは所詮素人。下手に留まって魁の戦いの邪魔になれば、それは逆に危険を増すことに繋がってしまう。


「とにかく、まずはこの家を出ろ! 総ちゃんは、悪いけど二人のお守りをよろしく!!」


 迫り来る怨霊を鉄扇でさばき、魁はそのまま敵の真っ只中に飛び込んで行く。周りにいる怨霊達が一斉に襲いかかろうとするが、その動きを紙一重でかわしつつ、更なる式神を放って蹴散らして行く。


「行くぞ、長谷川。確かにここは、あの人の言う通りだ……」


 目の前の光景に呆気に取られながらも、浩二は雪乃にそう促した。そのまま全員で階段を駆け下り、今来た道を引き返す。


 中庭を抜け、古びた着物や行燈が置かれた部屋を抜け、三人はひたすらに出口を目指して走った。途中、目の見えない総司郎のことが気になったが、彼は実に器用にこちらの後をついてくる。この村では霊を察知することはできなくとも、雪乃と浩二の気を感じ取って後を追うことくらいならば問題ないようだった。


 やがて、屋敷の玄関に辿り着いたところで、三人はようやく肩を落として息を吐いた。ほとんど呼吸さえしないで走り続けていたため、完全に息が上がっていた。


 ここを抜ければ、とりあえずは安全と言えるのだろうか。屋敷の出口へと通じる扉に、雪乃がそっと手をかける。が、扉は何か強い力で封じられ、まったく動いてはくれなかった。


「ど、どうして!? なんで、扉が開かないの!?」


 雪乃が叫び、そのか細い腕で懸命に戸を叩く。浩二と総司郎の二人も加わったが、男の力で叩いても、結果は変わらず同じだった。


「くそっ!? どうなってやがんだよ、これは!!」


 扉を叩くだけでなく、浩二は力任せに蹴り飛ばした。もっとも、それでも扉は開くことはなく、鈍い痛みが浩二の爪先に走っただけだった。


「やられたっすね、こいつは……。何か、念力みたいな力で、扉を封じられたっす……」


「念力って……。それ、解くことはできないのか!?」


「俺の力でも、それは無理っす。自分、基本は殴ること専門なんで、それ以外は……。ただ、この扉を封じたやつを倒せば、話は別かもしれないっすけど……」


「扉を封じたやつ? 誰なんだよ、それは!?」


 駄目押しに、浩二が拳を乱暴に扉に叩きつける。相変わらず、扉はビクともしなかったが、代わりになにやら強い風が、玄関の中に吹き込んできた。


 生温かく、それでいて冷たさを感じさせる奇怪な風。相反する属性を持ったそれに乗り、赤い蛍たちが次々に姿を現す。先ほどは床や壁を叩いて怨霊を呼び出していたが、今度はそのような動きを見せることはない。


 再び風が吹き、蛍たちが一斉に一つの場所に集まった。最初は赤い不定形な塊でしかなかったそれは、徐々に人の形となり、だんだんと色が抜けて行く。


「えっ……? あ、あれ……」


 人型になった蛍の群れ。それを見た雪乃が、困惑した表情のまま固まった。


 蛍の群れは、今や完全に人の姿に変化している。が、その容姿は一般的な人間のそれではなく、しかし雪乃や浩二がよく知る者の姿に酷似していた。


 全身を覆う白い肌と、風にたなびく白金色の髪。着ているものは、これは古びた着物だろうか。こちらも白く、死装束を連想させる。


 眼球のある部分には、あるべき二つの目玉がない。いや、本当はあるのだろうが、白目が完全にどす黒く染まっている。ただ、その中央に位置する赤い瞳だけは、禍々しい光をふりまきながらも健在だった。


「け、犬崎、君……?」


 見覚えのあるその容姿に、雪乃が思わず口にした。そう言われてみると、目の前の者は、あの犬崎紅に似ていなくもない。


 だが、そんな雪乃の声も聞こえなかったのか、目の前に現れたそれは、方向と共にこちらへと向かって来た。振り上げた手の先に生える爪は、人間の物とは思えないほどに鋭い。人というよりは、ほとんど獣。血に飢えた野獣と形容した方が相応しい。


「危ない!!」


 爪が浩二と雪乃の首を捕えるよりも早く、総司郎が二人を抱えて床に飛んだ。前触れもなく床に叩きつけられて、雪乃が軽い悲鳴を上げた。


「こいつ……。さてはこいつが、あの赤い蛍の親玉っすね……」


 いち早く体制を立て直し、起き上がった総司郎が両手の指の関節を鳴らす。両目は光を失っていたが、彼の脳裏には目の前にいる存在の姿が、強大な悪意としてはっきりと映っていた。


 衝突は避けられない。勝てるか否かの保証はないが、それでも自分がやるしかない。


 白金色の髪を振り乱し、それは方向と共に総司郎に飛び掛かってきた。対する総司郎も、拳を握り締めて床を蹴る。


 金属板を叩いたような、いつになく激しい音が玄関に鳴り響いた。総司郎の一撃が相手の腹を捕え、そのまま反対側へと吹き飛ばしたのだ。殴られた場所から赤い蛍が飛び散って消え、悪鬼は悶絶しつつ床に倒れる。


「や、やったのか……?」


 ようやく起き上がった浩二が、倒れた悪鬼の姿を見て言った。だが、そんな彼の言葉とは反対に、総司郎は未だ警戒を解こうとはしない。


 倒されたはずの悪鬼の身体が、音もなく起き上がりこちらを向く。先ほどよりも激しい憎悪をその瞳に宿し、それは再び雄叫びを上げて、総司郎に飛び掛かった。

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